走れTモス
千織@山羊座文学
前編 勢いだけで書いた
Tモスは激怒した。必ず、Sがまたブラックな働き方に戻るよう呪いをかけると決意した。Tモスにはホワイトな働き方がわからぬ。Tモスは、零細企業の平社員社畜である。昼休みもなく、サビ残が当たり前、ボーナスは都市伝説という世界で生きて来た。だから同じブラック会社の哀れな
昨日の晩、Tモスはいつものようにサビ残を終え、
血檻との対面は久々である。Tモスにとって血檻は先輩であった。今はガストに入り浸って、執筆狂いをしている。その先輩と、これからバーミヤンに行くつもりなのだ。久しく逢わなかったのだから、話してみるのが楽しみである。
落ち合った二人は料理を食べながら話をした。Tモスは自分の近況を話し、友人Sは元気かと尋ねた。Tモスは、血檻の様子を怪しく思った。表情が暗い。もう既に日も落ちて、まちの暗いのは当りまえだが、けれども、なんだか、夜のせいばかりでは無く、血檻から放たれる空気が、やけに寂しい。のんきなTモスも、だんだん不安になって来た。どうしたのか、一年まえに会ったときは、もっと賑やかに話せた筈だが、と質問した。血檻は、首を振って答えなかったが、こんどはもっと、語勢を強くして質問した。血檻は、あたりをはばかる低声で、わずか答えた。
「Tモスの会社には、いいところが一つもない……」
「うっ! わかってはいたが、改めて言われると……」
「仲間だと思っているSは、ブラックを脱した……」
「社長を殺したのか?!」
「落ち着け。人事の異動があり、働きやすくなったのだよ」
「おどろいた。天変地異か」
「いいえ、ただの人事異動です。Sは今心穏やかに労働し、趣味を楽しみ、新たなことに挑戦しようとしています」
聞いて、Tモスは激怒した。「呆あきれたSだ! 子羊は沈黙すべき! 生かして置けぬ!」
Tモスは、単純であった。その勢いでSのLINEに恨み言を送ろうとした。たちまちTモスは、血檻に止められた。
「怒りに我を忘れている。注意一秒怪我一生。貴重な友を失うぞ」血檻は静かに、けれども威厳をもって諭した。
「ブラックをSの手に取り戻すのだ」とTモスは悪びれずに答えた。
「おまえがか?」血檻は、憫笑した。
「おまえには、私の孤独がわからぬ!」Tモスは、いきり立って反駁した。
「
Tモスは嘆いて言ったが、ほっと溜息をついた。「私だって、ホワイトな働き方を望んでいるのだが」
「なんの為の労働だ。自分の生活を守る為か」こんどは血檻が嘲笑した。「自分を押し殺して、何が現代人だ」
「だまれ、脱サラの者」Tモスは、さっと顔を挙げて報いた。「口では、どんな清らかな事でも言える。私には、人の腹綿の奥底が見え透いてならぬ。おまえだって、いまに、厚生年金のありがたみがわかってから、泣いて悔いたって遅いぞ」
「ああ、Tモスは悧巧だ。悲劇の子羊でいるがよい。私は、ちゃんと死ぬる覚悟で居るのに。命乞いなど決してしない。ただ、――」と言いかけて、血檻は足もとに視線を落し瞬時ためらい、「ただ、私と友情が幾分でもあるのなら、今だけ時間をください。身も心もブラックに染まったあなたに伝えたいことがあるのです。私は必ず、あなたに人生の中の労働の意義を伝えられるでしょう」
「ばかな」とTモスは、しわがれた声で低く笑った。「とんでもない嘘を言うわい。自分勝手に生きている小鳥が社畜労働の何がわかるのか」
「そうです。わかるのです」血檻は必死で言い張った。「そんなに私を信じられないならば、よろしい、あなたが転職の決意に至らず、退職に失敗したら、私を絞め殺して下さい。たのむ、そうして下さい」
それを聞いてTモスは、残虐な気持で、そっとほくそえんだ。生意気なことを言うわい。どうせこの長きに渡り磨かれてきた社畜魂を打ち砕くことはできないにきまっている。この嘘つきに騙された振りをして、話を聞くのも面白い。そうしてその鼻っ柱を折ってやるのも気味がいい。人は、これだから信じられぬ、労働は害悪と、私は悲しい顔して、こいつを磔刑に処してやるのだ。世の中の、ホワイトな働き方をしている奴輩にうんと見せつけてやりたいものさ。
「願いを、聞いた。私をその気にさせられなかったら、きっと殺すぞ。ちょっと手を抜くがいい。まだ本気を出していなかったと言い訳できるように」
「何をおっしゃる」
「はは。プライドが大事だったら、手を抜け。おまえの心は、わかっているぞ」
血檻は口惜しく、地団駄を踏んだ。ものも言いたくなくなった。
先輩後輩の関係を超えて、二人は竹馬の友であった。佳き友と佳き友は、まどマギのDVDを二日で全部見て、一緒に旅行に行き、Paranoiaをやれる程の仲であった。Tモスは、ドリンクバーのグラスを乱暴に置いた。血檻は、すぐに語りかけ始めた。秋も深まり、風が寒々しくなった頃である。
♢
Tモスは日常、十分に睡眠を取ることができていない。朝は出社が憂鬱で通勤ラッシュの最中の運転は心身をくたくたにさせた。午前、社畜たちは無言で仕事をする。20年前にTモスに仕事を教えてくれた上司は昨年社長と喧嘩をして突然退職し、辛い時に慰めてくれた先輩は精神を壊して在宅勤務になった。この部署によろめいて歩かないものはいない。疲労困憊の姿がデフォだ。
そんなことが思い出されると、血檻がうるさくほかの社員についての質問を浴びせた。メンタルヘルスについて語り出す。
「何も問題は無い」Tモスは無理に笑おうと努めた。だが、つい「週末、またあの無意味な全体会議がある」と漏らした。
血檻は頬をあからめた。
「可哀想に。あの無意味極まりない全体会議。何一つ理解できず、何一つ次につながらず、他部署の揚げ足取りをする一日。翌日には更なる憎悪と断絶を生み出す悪魔的集会」
Tモスは、また、よろよろと歩き出す入社半年の若者のことを思い出した。社長に退職を申し出る前はゾンビのようだったが、面談後、部屋から出てきた時のあの晴れやかな顔! 羨ましさと悔しさが入り混じる。その日Tモスはサビ残をせず、家へ帰って神々の祭壇を飾り、念入りに祈祷して間もなく床に倒れ伏し、止まらぬ涙を拭っているうちに呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。
眼が覚めたのは夜だった。そこからTモスは寝付けず、漫画を読むことにした。しかし内容が頭に入ってこない。今度は動画を見ることにした。しかし一向に面白くない。ふいに、友人と約束していた翌日のイベントのことを思い出した。猛烈に面倒に感じた。夜中にも関わらずLINEを送り、少し事情があるから、他の日にしてくれ、と頼んだ。
翌日の休日は、真昼まで寝ていた。黒雲が空を覆い、ぽつりぽつり雨が降り出し、やがて滝のような大雨となった。家族は、何か不吉なものを感じて万が一に備えて点検を始めた。父も母も祖母もTモスの元気のなさを心配し、声をかけることもあったが、それ以上仕事のことは深く聞くことはなかった。Tモスも家の中ではしばしでも安らぎ、会社内での鬱々から逃れられるところではあった。しばらくは、納期のことを忘れることができた。
外の豪雨はいよいよ酷くなり、避難勧告が出るほどだったが、そうなれば出社もしなくてよいことになる。Tモスは、明日も明後日も一生豪雨であればよいと思った。この佳い家族たちとこの家の中で暮せるだけでよいと願ったが、いまは、自分のからだで、自分のものでは無い。ままならぬ事である。Tモスは、わが身に毎日鞭打ち、出社しなくてはならない。
あすの出社時間までには、まだ十分の時が在る。ちょっと一眠りして、それからゲームをしよう、と考えた。少しでも永くこの休日に愚図愚図とどまっていたかった。そんな折、血檻からバーミヤンに行かないか、と誘いがきたのだ。作活に酔っているらしい血檻からは異常に明るい文面とちいかわのスタンプがLINEで届いたのだ。
♢
「私は今、疲れてもいないししっかり眠れて、眼が覚めたら、すぐに働きにいくこともいとわず、大切な作活が第一優先の生活をしている。何がなくても、もう私には作活があるのだから、決して寂しい事は無い。私の一ばんきらいなものは、我慢をする事と、それから、楽しくない事だ。おまえも、それは、知っているね。自分との間に、どんな偽りも作ってはならぬ。おまえに言いたいのは、それだけだ。私は、たぶんおまえの先を行くものだから、おまえは安心して転職をしていい」
バーミヤン血檻は、夢見心地の表情でうなずきながら言った。血檻は、それからTモスの肩をたたいて、
「すべてのものはあの世へ持ってはいけない。私の宝といっては、思い出と人から受けた優しさだけだ。もちろん君とのこれまでも。他には、何も無い。全部あげてしまおう。もう一つ、これまで歯を食いしばって頑張ってきた自分自身を褒めてあげてくれ」と言った。
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