最終話 鉄の味

 車の中の隅から隅が、前の車のブレーキランプで赤く染まっていた。男の悪態を吐く声が永遠と聞こえる。その音はあまりに小さく内容は理解できない。外の景色は一向に変わらないし、変わる気配も無かった。誘拐されているという状況は依然変わっていないが、不思議と頭と心が冷静を取り戻しつつあったので、男を観察することにした。さっきは男の身に着けている能面の印象が強烈で意識に上らなかったが、男はスーツを着ており細身で、袖から伸びた手首の関節も小ぶりであったから、全体に女性的な印象を受けた。髪型は整髪料で整えられ、顔面を除けば、仕事帰りのサラリーマン風だった。後部座席はすべて倒されて、車の後部の空間が広くとられていた。助手席に座っている女性は一言も喋らない。もしかすると、私と同じように誘拐されて、男に喋ることを禁止されているのかもしれない。

 「クソッ、全然動かねぇなぁ。おい、お前、名前はなんて言うんだ。嘘は吐くなよ。名前ってのは貴いからな。嘘で汚していいもんじゃねえ」

 数舜のあと、男が自分に語り掛けているのだと理解した。

 「わ、私の名前は、ゆう、です」

 「漢字は、なんだ」

 「漢字は、有羽。有限の有に、羽で有羽です」

 「羽が有る、で有羽か。良い名前だな」

 男の意図は理解できないが、名前を褒められると、心に不思議な綻びが生まれるのが分かった。浮遊感みたいなもの。それが身体を包む。自身の日常とあまりにかけ離れた時間を過ごした緊張が、男との日常的な会話で出てきたんだ。いきなり、男が隣の女性に手を伸ばした。衣服のこすれる音や、毛の軋む音が聞こえる。男が何をやっているのか見えないが、女性に反応は無い。ピクリとも動かない。死んでいるのかもしれないな。ふと、そんな考えが浮かんだ。

 「その人、死んでますよね」

 言葉を口にしてハッとした。男に勝手に喋ることを禁止されていたのだった。疲れていて、理性がうまく働かない。冷汗が流れた。

 「んん、ああ、そうだ、こいつは死んでる。やっぱり分かるものなんだな。生きているものと、死んでいるものって。雰囲気というか、気配というか、まったく異質だもんな。俺にもわかるさ」

 男が落ち着いた口調で質問に答えたことに、有羽は胸を撫で下ろした。助かったぁ。有羽は大きなため息を一つ漏らした。すると男は、話す、という行為に時間の潰せる可能性を見出したのか、自身の過去を語りだした。

 「いやあね、僕は、僕の心根というのかね、人間としての芯というのかね、それはここまで捻じれていないと考えているんだ。元はとっても善良な人間なんだよ。だけどね、育ってきた環境が僕をここまで普通から乖離させたんだ。

 僕は学校が嫌いなんだよ。学校。この言葉を口に出すだけでも鳥肌が立つ。学校はね、勉強をするところじゃないことは君も知っているだろう。友達を作る、だとかの、人間関係を学ぶ場所なんだ。小学校に上がって、みんな同級生の誰かしらと仲良くなる。けどね、やっぱりどうしても友達を作るのに苦労する子が出てくる。それが僕だった。 

 最初は良かったんだ。教室の端で凝としていても、誰かが遊びに誘ってくれる。だが、人間ってのは歳を重ねるごとに余計な知識を溜めこんでいく。学年が上がると、もう誰も僕を相手にしなくなった。いつも黙っていて気持ちの悪い奴とね。僕もその偏見に対抗するように孤独に走ったさ。僕がお前らと話さないのは、話す必要を感じないから、なんて。

 家でも呼吸の苦しい時間が増えた。親同士の喧嘩が絶えなくなったんだ。離婚だなんだと頻繁に怒鳴り合う声を聞きながら、毎晩自室の布団で耳を抑えるようにして眠ったさ。       

母親に命令されるがまま、「行かないでくれっ」と父親の片足に縋りついたのを、今でも鮮明に覚えているよ」

 男は顔をゆっくり上に向けた。目は閉ざされていた。

 「小学校を卒業して、中学校に上がった。すると、僕は不登校になってしまった。生き方と身体が合わなかったんだね。そして不登校になって初めて、僕は自分がある病気だと知った。君は知ってるかな。知らないだろうな。場面緘黙症。だれとも口が訊けなくなる、人間としては致命的な病気さ。親に相談をしたが、なんだそれ、と一蹴された。世間とも、親とも、病気によって遠く引き離された僕は、毎日死ぬことを考えた。でも、死ねない。怖いんだ。天国も、地獄も、僕は信じていないけれど、信じていないからこそ、怖いんだ。死んでしまえば、もう考えることもできない。自分が存在している、していない、とも認識できない。何にもすることができない。そう想像するだけで、足がすくんでしまって、動けなくなってしまう」

 男の声音は泣いているようで、かと思えばいきなり調子が強くなった。情緒の読めない、君の悪い話し方だ。

 「僕はそのころから、視線を極端に下げて歩くようになった。ビルの屋上や、高い木を見ると、飛び降りる自分、首を吊っている自分が目に浮かぶから。だけど、不幸ってのは、不幸な人間に集まる習性があるのかな。また新たな不幸が僕を襲った。それはね、肌荒れだよ。ニキビ。思春期なんだから仕方が無いと口にする人間がいるけど、僕のは程度が酷かった。              

 顔を覆うようにニキビができて、顔だけじゃなく、背中や胸や頭なんかにもできた。それはそれは、酷かった。もう自分で自分の顔が見れなくなった。

 思春期になると、自慰行為を覚えるだろう。僕だってそうで、異性の身体に悶々とした思いを抱くようになった。だけどね、僕は自慰行為が出来なかったんだ。自慰行為をすると肌荒れが悪化してしまう。世の中の人間は性欲を甘く見るけれど、人間の三大欲求の一つなんだぞ。それを、まだ理性の完璧に発達していない思春期の青年が、自身の体質によって抑制されてしまう。 

 僕の猫背は、顔を隠すために、さらに角度を下げた。その頃になると、僕はもう家族とも話さなくなっていた」

 男は改めて思い出を体験しているように鼻息を荒くし始めた。

 「死ぬことしか考えていなかった僕だけれど、唯一、心の慰めになる趣味を持っていた。小説を読むことさ。小説を読むときの僕は自我を忘れることができた。自分の姿を忘れることができた。僕と関係の無い場所で、僕とは関係のない空間で、僕とは関係のない時間で、僕とは関係の無い話が紡がれている。その感覚に僕は興奮し熱狂した。そして僕は、この能面を被るきっかけになった小説に出会った。赤江瀑の阿修羅花伝という作品だ。その作品に出てきた能面が、今僕の着けている孫太郎面さ。ある一人の青年を狂わしたこの能面は、ある一人の狂った青年を救ったんだ。僕はこの能面を付けている間だけ、正気を保てる気がした。僕は深夜に家を飛び出し、孫太郎面を身に着けて、街を徘徊するようになった。最初の犯罪は、それまで抑制され続けてきた性欲を発散するように女を襲った。最初の女は、通りがかりに俺のことを気持ち悪いと言った。だから殴った。殴って殴って、そして犯して、そして殴って殴って殴って殴って………」

 男が語調をひときわ強めたかと思うと、いきなりハンドルを殴り始めた。拳を振り下ろす度に車が上下左右に揺れた。何発かがクラクションに触れ、甲高い破裂音が渋滞している車群の間を走り抜けていく。男がクラクションに触れた三回目。前の車が一つクラクションを鳴らした。すると次に右側の車がクラクションを鳴らし、そして左側の車もクラクションを鳴らした。クラクションは連鎖的に広がり、鳴らした隣の車の隣の隣の、といった具合に収集がつかないほど規模が拡大した。人間が作り出す輪唱は、カエルのそれとは比べ物にならないぐらいに纏まりがなく不規則だった。 私は窓の外にどんな景色が広がっているのか気になって、痛む身体を無理やり起こし外を見た。右隣の人間も、左隣の人間も、ヒステリックに顔が歪んでいる。前の車のブレーキランプに赤く染まった顔は、殺人者のそれを思わせた。

 「チッ、原始人がよ」

 男の舌打ちに視線を前へ転じると、前の車から体格の良い二人の黒人が降りてきているところだった。二人の黒人は男の車へと近づいてくる。クラクションの波の中を掻き進んでくる二人の異人は、私の目には地獄の使いのように映った。

 黒人の一人が運転席側の窓をノックした。男はまるで二人の存在が目に映らないとでも言いたげに、わざとらしく無視をしていた。黒人のノックは徐々に強さを増す。ノックをしていた黒人が、一度手を止め、後ろの黒人に手を伸ばした。男はなおも平然としている。

 次の瞬間、窓ガラスが雨粒ほどに砕け散った。そこで初めて男が動きを見せた。傍らに手を伸ばすと、隠していたナイフを取り出し、黒人のバーベルを握っている手の甲に刃先を突き立てたのだ。だが、黒い肌はナイフ程度で切れやしない。黒人は男の首根っこに右手を伸ばすと、片手で男を窓枠から外に引きずり出してしまった。そのあとは、事実、黒人の二人は地獄の使いとしての役割を全うした。 

 殴り、蹴り、男の眼球に親指を突き立て、鼻を引き剥がし、腕をもぎ取り、足を逆方向に捻じ曲げた。孫太郎面を取った男の顔は、確認する前に潰されてしまった。まるで子供が、折り紙の鶴の形を、無邪気な想像力そのままに変形させているかのようだった。

 私はそれ以上、その光景を脳で処理することができないと判断し、見るのを止めた。地獄は覗いてはいけない。ふと、私は助手席に乗っている女性の死体がどんな顔をしているのか気になった。運転席と助手席の間から身体を乗り出すようにして死体の顔を確認した。それは私の良く見知った顔だった。なんとなく、そんな気はしていたんだけどね。私は男が黒人に引きずり出されるときに落としたナイフを手に取った。女性の死体は、お母さんだった。お母さんだったもの。優しかった母の死顔は、苦痛に歪んで、醜かった。死んじゃってからどれぐらい経ってるのか。皮膚は緑に変色しており、口元から一筋の血の跡が伸びていた。殺されるときに、舌を噛んだのだろうか。細い首には絞殺痕がくっきりと一周していた。

 不幸な人間には、不幸が重なるもの。男はそう言っていた。だけど、男の不幸に対する考察は、説明としては足らない。不幸にはもう一つの特徴がある。それは、不幸とは伝播していく、というものだ。母親を殺した男のことを許そうとは思わない。けど、男の話した過去については多少、同情を覚えた。男も被害者だった。被害の怒りを、自分よりも弱い存在に向けて発散し、新しい被害者が生まれる。男も連鎖の鎖の中の一つだったのだ。そして私も、私のお母さんもだ。私が死んだら、次は誰に不幸が連鎖するのかな。滲んだ視界は、車の天井を見るともなく映していた。

 私は刺し損なわぬように、しっかり狙いを定め、自身の胸に刃先を突き刺した。皮膚を裂き、肋骨を避けて、刃は私の体内へと出た。体内へ入ったのではなく、内へ出たのだ。そんな感覚だった。

 そうだ、妹。私が死んだら、きっと妹に不幸が連鎖してしまうな。刺してから、私はそう後悔した。

 「ゆうちゃん。ゆうちゃん。死んじゃだめよ」

 またこの声だ。脚を切り刻んで、死にそうになった時にも聞こえた、謎の声。うるさいよ。お前はなんにも知らないくせに。こっちは死にたいんだ。最期ぐらい、静かに死なせてくれ。強く念じると、声はいまだ鳴り続けているクラクションの波に飲まれた。鉄の味が、舌に広がった。

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鉄の味 山口夏人(やまぐちなつひと) @Abovousqueadmala

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