第3話 女っていう生物はねぇ、甘いものが好きなんだ。
子供ってのは割を食っている。って言葉を誰かの本で読んだ気がする。若い人間の言葉なら、印象に残らなかったのだろうが、大人がそう書いていたので、真剣に子供のことについて考えてくれる大人が世間には存在するんだと感動した。仕事をしていて、友達がいて、趣味があって、笑顔を浮かべられる瞬間がある、いわゆる普通の人たちに、道端で突然、「あなたは子供たちのことをどうお考えですか」と尋ねれば、誰だって、「子供は大切です。純真無垢で、か弱くて、可愛いものです。我々、大人が守るべき宝ですよ」的なことを語るだろう。だがそれは本意からそう口にしたわけではなく、目の前のインタビュアーに対して、自分はこんなにも子供のことを大切に考えているのだ、人間として立派だろうと、威張っているだけなのだ。大人の思考は常に他の大人の目に晒されている。目の前の問題に目を向けず、いつも他の大人の意見に集中している。いつか私も大人になってしまう。目の前の草に、青虫がいて、食べるべきかどうか仲間に意見を求めている間に、草は青虫に食べられて、それどころか別の草に卵を産み付けられてしまっているのだ。そんな大人に私はなってしまう。食べてしまえよ、青虫ごと。じゃないと餓死で、どうせ死ぬぞ。
男の荒い鼻息が耳元を刺激し、不快感で目を覚ました。
「んんっ、んんー」
本能的な反射で叫ぼうとしたが、疲労感が喉に詰まって、声帯が震えただけだった。手足は固く拘束されているようで、身動きがまるで取れない。
「ははー、怖がっているんだね。分かるよ、良く分かる。女の子は怖がりだから。僕、女のことはよく分かっているよ。女っていう生物はねぇ、甘いものが好きなんだ。それでね、それでね、汚くて醜いものが嫌い、だから、みんな俺を避けるんだろ、なぁあ」
男はいきなり私の背中に体重を乗せて蹴りつぶした。背骨の軋む音が聞こえ、筋肉の異常な収縮で、身体が硬直したまま力が抜けない。男は私の背中から足を下ろすと、髪を鷲掴みして、暗闇から私を引き摺り出した。夜のキンと冷えた空気が頬に冷たい。外に出て初めて、私は車に乗せられていたことを知った。男は私の顔を掴んだ髪でぐいと持ち上げた。痛みはもう良く分からない。そこには、あるはずの男の顔は無く、奇妙な白の仮面が月明りに照らし出され浮かんでいた。
「僕はね、自分の顔に劣等感を抱いているんだ。だから隠すことにした。顔の皮をはぎ取ってしまおうと考えたこともあったけど、痛いのは嫌だからね。これ、綺麗だろ。俺の一番好きな能面。孫太郎面。魔力を秘めた女の仮面さ」
男はそう言うと、身に着けているその能面の下あごを、空いている片方の手で揉むように撫でた。
「な、な、」
私が口を開こうとすると、すぐさま男が手で制した。
「駄目だよ、喋っちゃ。君の立場を弁えなきゃ。混乱して自分の状況が呑み込めないのかもしれないけど、なあに、単純さ。君は誘拐されていて、そして僕が誘拐犯だってこと。僕は君を焼いても良いし、煮ても良いし、凌辱したって良いし、頭を切り取って、プランターにでも埋めて水を遣っても良いんだ。つまり、君の人間的な権利は、一切が僕の手に握られているんだよ」
男の言葉を聞き終えると、急に身体が弛緩した。恐怖は許容できる範囲を超えると、あとは受け入れるように脳が命令を下すのかもしれない。死んでおくんだったなぁ、こんな最期になるんだったら。母親や妹を苦しめた罰なのか。思考も目の前の現実を受け入れる方向に引っ張られる。
「おいっ失禁するんじゃねえよ。車が汚れるだろ」
男の大声に、初めて自分が失禁していることに気が付いた。股の間が生暖かく、尿の伝った足が風に吹かれて寒い。私はガタガタと震えだした。
「はぁ、分ったよ。もう出発するよ。お前は壊れるなよな。前のは一か月も遊べなかった。なんで女ってのはこんなに弱いんだ。嫌になるよ」
男は私の髪から手を離し、車の奥へと押し込んだ。車の扉が大きな音を立てて閉められる。運転席に乗り込んだ男はルームミラーで私を確認すると、エンジンを付けた。
「どうやって遊んでやろうかな」
男の口元に卑猥な笑みが浮かんでいるのが、能面越しにでもわかった。男から目を逸らすと、助手席に誰かもう一人乗っているのが目に入った。顔は分からないが、長髪で華奢な肩から、女性だろうと思った。女性は静かに、何をするでもなくただ助手席に座っていた。ラジオから高速道路の渋滞情報が流れた。車は、夜の静寂をかき乱さぬようゆっくりと走り出したのだった。
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