第2話 歩く。歩く。一歩。一歩。
水底から、浮力を持った物が水圧で押し上げられるように、私の意識は暗闇から浮き上がった。目を開けると、部屋全体の無機質な色彩から、自分が横たわっている場所がすぐに病室だと理解した。強烈な消毒液の匂いに私は思わず噎せ返る。
「よかった、ゆうちゃん」
声の聞こえた方を見やると、パイプ椅子に座った母親が、私の顔を覗き込むようにしていた。母親の傍らの机には、一冊の本が数十ページのところに栞が挟まれた状態で置かれている。
「お母さん、おはようになるの、かな。その本、面白い?」
母親は、突然の私の問いに戸惑いながらも微笑みを浮かべて答えた。
「ええ、面白いわ。とっても。ゆうちゃんにも読んでほしい。そうだわ。ゆうちゃんも読んで、私とこの本についてお話ししましょう。ねっ」
お母さんはカウンセラーだ。こころの専門家の娘がこころを壊しているのは、洒落の一つになるのだろうか。なんて。
私が学校にまだ行っていたときに相談していたカウンセラーと同じような雰囲気をお母さんから感じ取った私は、自身の胸が軋む音を立てるのを聞いた。
「お母さんね、」
母親は急に思いつめたような顔つきになった。悲しみをかみ殺した、何かしらの覚悟を決めた顔だった。
「お母さん、今までゆうと真剣に向き合っていると思ってた。でもね、今回の出来事でお母さん気づいたの。私、カウンセラーで担当してる子供たちにゆうを重ねて、ゆうと向き合っていると錯覚していただけだったんだって。ゆうの身体が治ったら、水族館や動物園や、どこだっていい、家族の時間、ゆうとの時間を、私、過ごしたい」
母親の両目は、私を見つめていながら、私の身体を通り越して、私の心を直視しているかのような力強さを纏っていた。母親の素直な思いに私は嬉しさを感じたが、まっすぐな感情に慣れていないからか、私は胸が詰まり、息が上手く吸えない感覚に襲われた。
「わたし、お手洗いに行ってくる。すこし、気分が悪くて」
立ち上がろうとすると、母親は私の腕を握って、動いてはいけないと言った。吐瀉物を受け止めるものがあるとのことだったが、母親の前で吐きたくなかった。
「大丈夫だから、お母さんはここに居てっ」
私は母親の手を強く振りほどいて、病室の扉を出た。
廊下は薄暗く、廊下の端の非常口の明かりが目に痛かった。歩くたびに胃が跳ね上がるようで苦しい。手すりに掴まっていないと、今にも意識を失ってしまいそうだった。歩く。歩く。一歩。一歩。身体が息を吸う度に悲鳴をあげた。ナイフの刺し傷が脈動に呼応して痛む。けれど、自分は一歩を踏み出すごとに、心が軽くなっていくのが分かった。自分は、生まれて初めて自分の歩幅で歩いている。自分の歩き方で、自分の時間を生きているんだ。
背後で人の足音にも満たない気配のようなものを感じた。母親が心配で付いてきているのだろう。吐き気に急かされて少し強い口調で部屋を出てきたから、姿を現すのをためらっているのだ。娘の敵意を上回る母性が母親をその行動に駆り立てているのだと考えると、素直に嬉しかった。
そういえば、妹はどこで何をしているんだろう。病室にいなかったとなれば、家で一人ぼっち。私は、前の私のように妹に接することができるだろうか。意識を失ったあとの私は、どんな処置を受けたのかな。輸血をしたのだったら、それこそ、私は以前の私とは異質のものに生まれ変わったのだ。世界には、身体は真実の姿じゃない、精神こそ人間の本当の姿なのだ。なんて声高々に叫んでいる人たちがいるけど、そんな都合の良い話、きっとフィクションの中でしかあり得ない。心の自分を否定するわけじゃないけど、身体の自分も、正真正銘の自分。そうじゃないと、事故か何かで腕を失くした人が、コーヒーを飲もうと腕を伸ばし、それがあるはずの空間に空虚が伸びていると再認識させられたとき、身の沈み込むような重さの悲しみを感じる理由が、説明できないじゃない。
壁に沿ってトイレにつくと、トイレの扉へ手を掛けた。背後の足音も止まる。きっとあの角の向こうからこちらを窺っているのだろう。お母さんは、私が案外に動けていることに驚いているかもしれない。私が驚いているのだから。いや、人間は自身の症状を重く見るものなのかも、そんなことを考えながら、私はトイレの中へと小鳥のスキップにも負ける弱弱しい歩みで入っていった。
広い空間の、隅に設置されたトイレの縁へ手を付き、私は胃の中の物を絞りだそうとした。だが、いくら腹に力を入れようと口から流れるのは涎ばかりで、胃は空っぽだった。
仕方なく私は洗面台へと近づいた。掛けられている小さな鏡に、毛先は散り散りに乱れ、口元や鼻から糸を引いている女の顔があった。不思議と、そんな姿の自分を汚いとは感じなかった。十代の肉体から発せられる瑞々しさが、一種の艶色を演出していた。普段から自身の姿を美しいだとか、誰かに誇れるだとか、そういった視点から見る癖を持ち合わせてはいない自分だったが、この瞬間、自分の存在が美しいと純に思えた。
トイレの扉が外側からコツンコツンと叩かれた。母親が我慢ならなくなったのかもしれない。
「お母さん、私は大丈夫。今出るから、ちょっと待ってて」
お椀の形にした手の平を蛇口にかざし、受け止めた水で顔を洗った。自身の体温が低いからか、水温はちょっぴり温かいように感じた。
背筋をしゃんと伸ばすと、頭の芯が痺れる感覚。弱り過ぎた身体の反応になんだか愉快になって、口角が自然と上がった。その笑みを口角に保ったまま、自分はトイレから出た。
「お母さん、」
病院の廊下は、トイレに向かっていた時と同じく、静寂と暗闇が息の苦しくなるほど詰まっていた。母親の姿はどこにも見たらない。病室に戻ったはずはない、きっと。声を聞いたぐらいで安心して後は放ってしまう親はいないだろう。左右を見やっても、闇が広がるばかりで人の気配はない。呼吸する音も私一人のものだけだ。
うすら寒いものが首筋を撫ぜていったが、私はすぐに思い直した。そうだ、ここは病院で、ほかにも入院している人はたくさんいる。偶然、自分とトイレにいくタイミングが重なっただけなのだ。きっとそうだ。なら、ノックした人はどこで待っているんだろう。ノックされてから、私はすぐにトイレを出た。幽霊?まさか。けれど私は脳内に暗い想像の広がる兆しを感じ取って、急いで帰ろうと自分の病室へと足を向けた、その瞬間、
「ウッ」
突然、後頭部に鈍痛が走る。勢いのまま私は前へくずおれた。眼球が沸騰するように熱い。手足の指先の感覚が無かった。薄れていく意識の底で、自分の背後にスーツを着た男が、膨れた麻袋を両手で持ち肩で息をしているのを見たのだった。
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