鉄の味
山口夏人(やまぐちなつひと)
第1話 私が嫌いな私の味は、私の嫌いな鉄の味。
痛みは、人を酔わす。私は手に持った果物ナイフを自分の太ももに振りかざした。何回も、何回も、何回も、刺した。それは私が私に下す罰で、そして、私を超えた私じゃない何者かによって下される、私への罰だった。刺し傷から、赤黒い血液が溢れ零れる。太ももは、あの猫とはまた違った感触がした。一度刺した場所にもう一度刺す。新しい場所を刺す。刃先が骨に当たって硬い感触が手から腕に上る。骨は、鉄よりも硬いんだってね。許せない事実です。人間が、鉄より強いわけないです。でも、私は鉄より強いんだって。骨を断ち切ろうとしたけど、鉄ごときで私を殺せない。残念。呼吸は不思議と静かだった。震える手で穴だらけの太ももを伝う血液に触れて、指に付いた血を舌に近づける。血液は、鉄の味がした。私のキライな鉄の味。私がキライな私の味は、私がキライな、鉄の味。神様にあったことないけど、神様の性格なら私、良く理解してます。学校のテストより、良く分かるよ。神様はイジワルな性格です。私の体が証拠。望んで女の子として生まれたわけじゃないのに、勝手に女の子としての責任を取らされる。こんなに苦しいなら私、男の子に生まれたかった。そう言ったら、お母さんは泣いて悲しんでくれるかしら。きっと、鼻でふんって笑うだけ。誰も私に本気じゃない。でも知ってる。みんなだって本当は苦しいはずなのに、平気です僕等はみたいな顔をしてるだけ。私も、他人から見たら、平気です、て顔をしてるんだろうか。人間らしく振舞っているんだろうか。そんな私、私は嫌い。
皆の顔の皮膚を一枚、ぺらって剥がしてみたい。ベッドの上に置いてある携帯の、中か外かに広がるもう一つの世界は、みんな何だか息が荒くて、楽しくて、悲しい。現実は現実で辛くて、だからもう一つの世界に逃げ込むのに、もう一つの世界は、私以外の不幸で溢れていて肩身が狭い。不幸は伝染病に似てる。誰かが不幸だと、近くの人も不幸になる。私は私で不幸を背負ってるのに、誰かに不幸を移されちゃあ、困る。潰れて死んでしまいます。死にたいとは思いますけど、死にたくないです。でもこれは、生物的に正しい反応、だって言えば、言い訳になるでしょうか。人間はどれくらいの血液を失ったら死んじゃうんだろうか。死ぬつもりはなかったけど、頭の奥から鐘を打ち鳴らす音が聞こえる。家の中は私以外、だれもいない。お母さんは働きに出てるし、お父さんは先に死んじゃったし、妹はいまごろ友達と楽しくしてるんじゃないかな。姉の私としては、それは喜ばしい事です。家族が笑えるんだったら、私は死んでもいいです。これは本音。戦争もずっと昔の話だけど、いまだに家族のために命を捨てられる覚悟を持った人間がいることを知ったら、戦争を操ってた偉い人は、喜んでくれるかしら。君は素晴らしい。君は素晴らしい。誰かに褒められた記憶はぼんやりなのに、誰かに貶された記憶が鮮明なのは人体の、これ不思議。死にたいと言ったり、死にたくないと言ったり、私は二つで一つ。いまなら、救急車を呼べば助かるだろうか。助けてほしいのかな。それとも、私の死体を、家族以外の人間に攫ってもらいたいのかもしれない。私は血液が抜けて青く透けるような手を携帯に伸ばし、救急へと電話を繋げた。
「はい、救急です。火事ですか、救急ですか」
久しぶりに聞いた他人の声に戸惑った。だが、私の気持ちなど、私の体は気にも留めない。そんなところも食えない。私の喉は、私が声を発しようと思うよりも先に、震えていた。
「助けてください。死にたくて、死にたくて、それでナイフで刺したんですけど、死にたくないです。やっぱり、私、死にたくないです。死んだら、お母さんが悲しむ。妹が悲しむ。もうお母さんが泣くところを見たくなかったのに、私」
「落ち着いて。住所を教えてくれるかな」
私が住所を伝えると、電話の向こうの人間は、傷の状況を聞いてきた。私が答えると、もう救急車が向かっているからと言い、死んじゃいけない、死んじゃいけないと声を掛け続けていた。電話の向こうの人間は、どういう心の形をしているのだろう。三角だろうか、四角かな、いや、菱形かもしれない。いいや、違う。この人は優しいから、きっと、丸い形をしてる。そう思いながら、私の意識は、私を離れだした。手から滑り落ちた携帯から、私を呼ぶ声がする。
「ゆうちゃん。ゆうちゃん。死んじゃだめよ」
おかしいな、私、電話の向こうの人間に名前を教えてないのに。どうして私の名前を知ってるんだろう。意識を失う前の最後の感想は、それ。
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