2 水と肉腫

ああ、駄目だ。

書きかけの原稿用紙を、万年筆の先端で突き破り、手のひらでくしゃくしゃにして背後うしろに放る。紙屑が立てたカサっという音は、余りに詰まらなくて、乾いた嘲笑に聞こえた。

ここ数日、全くと言っていいほど文章が書けない。小説でもなく、ただの文章さえ、書けない。

書こうとすると、思考の部品の一つ、何やら歯車のようなものがピタリ、と止まって動かなくなる。無理に動かそうとしても、錆びついているのか、或いはそもそも抜け落ちているのか、兎に角どうにも動かないのである。


ハタから見ても空き家にしか思えないであろう、寂れ切ったアパートの一室に俺は根を下ろしている。ところどころ千切れた畳の上にあるのは、低い木の机と万年床くらいで、あとは数本の安酒の缶やら小瓶が、薄汚れた紙とともに打ち捨てられていた。


元から荒んだ光景だったが、近頃になって最後のトドメを刺された。

一月ほど前、取れた机の足をガムテープで補強したのだ。小さな変化ではあるが、1つだけ抜いたジェンガの山が崩れ落ちるみたいに、それからというもの俺でさえ空き家にしか思えなくなった。以前までは、一応にも棲家として堂々とできていた。けれども最近は、自分が勝手に住み着いた野良犬に思えてきて、肩身が狭い。


「……分かってるよ、うるせぇな」


一文字書くごとにぎぃぎぃと音を立てる机が、早く書け、書けないならさっさと辞めてしまえ、と俺を急かし立ててくる。


「ああ、違う違う違う!」


また紙を投げ捨てる。


汗と湿ったイグサの匂いが充満する部屋は、とても良い気持ちのする空間ではない。ずっと居ると吐き気がする。5年前から停滞して動かない俺の、陰鬱とした悪意がそのまま染み込んでいるようで、この部屋が大嫌いだった。

「作家はこういう部屋に住むものだ」なんて理由で住み始めた「作家の部屋」が、立ち込める腐敗した過去の空気が、全部全部大嫌いだった。


「……公園行くか」


遊びに行く訳ではない。さも一介の作家のように、人間観察と洒落込むでもない。暫く前から水道が止まったから、タダ水を飲みに行くのだ。こうなればもう、作家も芸術もあったものではない。ただ生き物として、きっと恥をかいてでも生きていかねば、何もできやしない。

何より、この部屋から出て行きたかった。敗北だとか無才だとか、そういう言葉ではとても言い表せない。この部屋にいると、全く生きた心地がしなかった。


取っ手が外れかけた扉を、そっと開けて外に出る。天気は苛立たしいほどの快晴であった。刺し貫く強い光に、思わず顔を手で覆う。足元には夏の葉の死体が降り積もり、日の光に灼かれていた。遊歩道に立ち並ぶ木々は紅葉を付けて、鼓動する肉腫のようにその葉を揺らめかせている。何本かは枝を切られ、ちょうど達磨みたいに血を流し、地面を赤く染めていた。

四肢を失った数本の木は、紅葉も何も出来ないまま厳しい冬を迎えるのだろう。何かに縋ろうにも縋れず、無言のまま冷風に打ちひしがれるのだろう。想像すると、いやおうにも哀れに思えた。

ただ不快な、そんな秋の日だった。


俺はなるべく人目のない通りを行き、なるべく人目のない公園へと行き着いた。

人がいないとは言っても、やはり子供の2、3人は遊んでいる。ただ、遊んでいるのは5つもいかない幼児だけで、監視役に母親らしき人影もいくつか見えた。隅にブランコが一つ、フェンス際にシーソーが一つだけある小さな公園。子供はみんなブランコで遊んでいる。雨の日の頭痛に似た、きゃあきゃあ笑う甲高い声。母親もブランコの端の方で集まって、何やら話をしているらしかった。


幸い、水飲み場はブランコから離れた位置にあった。痩せこけた髭面の男なんてのが近付いたら、きっと憐れむような、それでいて蔑むような、タドコロが俺を見る時と同じ目で睨まれる。

どうせならベンチにでも座って、あの不快な部屋に帰るまでを引き伸ばしたかったけれど、やめた。人様に見せたくもない自分を、また一層嫌いになった。


飲んだ水の味は、まぁ無味だった。


※※※


その踏切を見つけたのは、公園から出て10分ほど歩いた後だった。


公園の帰り際に、ふと振り返ると母親の一人と目が合った。母親は少し驚いた様を見せて、直ぐに目を逸らした。見てはいけないものを見るような、心底恐怖した様子だった。あれならまだタドコロの方がマシであろうな、唇に付いた味のしない水を腕で拭き取りながら、一言「呪われてしまえ」と小さく吐き捨てた。これと言って意味はない。


どうしても帰りたくなかった俺は、追い出されるように公園を出た後、ふらふら住宅街を歩き回っていた。

何処に向かうでもなく歩いていると、不意にを見つけた。家々を区切る道はそこかしこにあったが、そこだけは確かに異質なだった。

隣り合った家の裏と裏、その小さな隙間に、踏切はあった。踏切自体が一本の路地裏になっていて、来る者を拒む独特な不気味さを放っていた。

昼もまだ浅いというのに、人っこ一人いない。周囲の家にも道にも、人の気配は無かった。真っ白な明るい部屋に、一本の蝋燭が灯っているみたいな、どことない違和感を覚えた。


そんな奇妙で不気味な場所に、俺は何故だか惹かれてしまった。

「妙な場所だな」と眺めていると、不意に、ある欲求が灯る。本当に不意で、余りに脈絡がない灯りだった。


『この場所で終わりたい』


失笑が溢れた。

ああ、きっと俺は疲れている。きっと、疲れでおかしくなってしまったのだ。

気色の悪い哀れみと当然の軽蔑に囲まれ、腹に溜まった嫉妬を日毎吐き散らしているうちに、どうかしてしまったのだ。訳のわからない巨大な黒煙が、ついに俺を飲み込んでしまったのだろう。

じゃあなければ、こんな安直な自殺願望なんて湧いてこない。とっくの昔に生きる為の恥など捨てたのに、今更何だというのだろう。


「はは、ちくしょう。」


ああ、いっそのこと本当に終わってしまおうか。

いつか見返そう、「貴方は私より才能があります、どうぞ許してください」なんて崇めさせてやろう、いつまで経っても「いつか」のままな今を、膨れ上がるばかりの妄想を、もう断ち切ってしまおうか。

嫉妬と恐怖だけを喰らって生き続けるなんて、あまりに哀れで無意味だ。

それこそ、あの達磨の木と同じではないか。


ぐるぐると巡る思考。黒ずんだ落ち葉を踏み潰して、俺はこっそり隠れるように踏切の中央へと進んだ。一度線路を跨ぐと、少し空気が冷たくなった。黄色と黒の遮断棒が、餌を待ち構える蜘蛛の脚に見えた。


「見えないな、先」


どこかへと続く線路を覗く。雑草を生やしたままの線路は、途中で曲がって見切れていた。見切れた先がどこへ繋がっているのか、見当もつかなかった。


「……何処にいるんだろう」


見知らぬ風景の中、呟く。


しばらく突っ立っていたけれど、一向に電車は来なかった。

その日、自分の肉が弾け飛び、そのまま冬の雪に埋もれていく様を想像しながら、帰路についた。重い足取りで歩いていると、背中で遠い警報音が響いて、「臆病者」と嗤っていた。





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火と蛇 枕川 冬手 @fuyute-shinkawa

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