火と蛇

枕川 冬手

1 泥と死体

血が滲むほど握りしめた両の拳には、なんにも無かった。


ビル街の中心にある喫茶店、俺はその一席に座っている。

ガラス張りの壁を一瞥すると、やつれた自分の顔が映っていた。深い隈と落ち窪んだ頰に、薄暗く滲んだ唇、生気の無い目には青白い悪意が浮かんでいる。俺ではない、何処かの刑務所から脱走してきた囚人に見えた。


外の大通りからいくつかの笑い声が聞こえる。その全てが、場違いに見窄らしく、惨めな自分へと向けられているように感じた。


「今回も残念でしたね」


沈黙を裂いたのは、さほど残念そうでもない声だった。どことなく粘り気を帯びていて気色が悪い。

ああ、そうさ。今回もだ。見りゃわかる。わざわざ言わなくても良い。嫌味なら黙っていてくれ。「はい、そうですね」なんて答える気にもなれず、黙って頷いた。

丸机に置かれた通知書には、いつも通りの書体で「落選」と刻まれている。お祈り文が長々と続く中、見慣れた位置にある2文字が俺を睨みつけていた。


そのまま長いこと黙りこくっていると、


「大丈夫、次がありますよ。逆木先生。」


編集者の男が見兼ねて付け足す。わざとらしい抑揚で繕われた言葉は、薄い木の板を踏んづけて割ったみたいな、空っぽの響きをしていた。耳を塞ぎたいくらい耳障りだった。


「今回のことは忘れましょう?次です、次。いつまでも引きずっていては、埒が明きませんよ」


次、また次、次の次の次。何時になれば、「次」と言うのは途切れてくれるのだろう。果たして生きている内に訪れてくれるのだろうか。


「だから元気出してくださいよ、ね?」


ああ、煩い。元気なんて出てたまるものか。頼むから黙っていてくれ。

土左衛門に似た青白い顔と、薄っぺらい哀れみの目が気に障る。


「ねぇ先生、大丈夫ですか?」


「先生」なんて心にも無いこと言いやがって。本当は「勘違い野郎」か「凡人」とでも付けたいのだろう?

悪いことは言わない。どうか、どうか俺に構わないでくれ。残念でした、この凡人野郎、とでも吐き捨てて、さっさとどっかに行ってしまってくれ。

その後も何やら言っていたが、耳には何も入ってこない。どうもしつこいので、取り敢えず何か言う事を探す。

すると、言うべき言葉は存外すぐに見つかった。


「はは、そうですね。。」


 丁度おあつらえ向きなのがあった。この5年間、散々口にしてきた定型文。自分の口から出たとは思えないくらい、酷く他人事のように思える。


「その意気ですよ、次こそ」


 「次こそ」?我ながら笑えてくる。誰も期待なんてしていないのに、何が「次こそ」だ。一体全体、何処がどうやって「次こそ」なのだろう。馬鹿らしい。舐めたくない、舐められたくもない傷を無理に舐めないで欲しい。まるで俺が慰められるのを望んだみたいじゃないか。


「ええ、はい」


暴れる腹の中を必死に抑えて、曖昧な返事をする。


「じゃ、この賞は来年頑張りましょうか」


木偶の坊が喋ってほっでもしたのか、空っぽは少し温かさを帯びた。鼓膜を舌で舐められるみたいな、鳥肌の立つ温かさだった。


「きっと、次はいけますよ」


コイツも成功するなんて思ってない。言いようもないむず痒さを感じて、思わず足下へ目を逸らす。


「……はい、ありがとうございます」


じっとしていられなくなり、大袈裟な動作で珈琲を啜った。


 今回で五回目の一次選考落選。

 やっぱり。結果を聞いて、落胆より先に納得してしまった。

 最初にあった溢れんばかりの期待は何処かへ消え、替わりに惰性と諦めに似た退廃が、虫食いの跡のように残っている。


「うんうん、頑張ってくださいね」


満足気に、漸く面倒事が終わったみたいに、男が言う。

その視線は俺には向いていない。


 (ちょっとくらいコッチ見ろよ)


 目の前でサンドイッチを貪る編集者は、一度たりとて俺と目を合わせない。名前はタドコロ、と言ったはずだ。或いはタナベだったかも知れないし、タザキとかだったかも知れない。まぁ、どうでもいい。

上辺の励ましをしてきた時だって、ずっと目が合わなかった。つまらなそうに、さも忙しそうに、爪を噛むような収まらなさでスマホの画面ばかりいじっている。

表情には期待も、落胆さえも浮かんでいない。無関心。無興味。そりゃそうだ。良かったのは最初だけで、もう金にならない作家なんてのは、編集者から見たら時間を取るだけの障害物だ。

「次も頑張りましょう」?丸見えの嘘である。腹の中ではさっさと辞めてくれ、もう時間を奪わないでくれ、と思っているのだろう。


 とはいえ、失望させたのは自分の無才に他ならない。分かっているからこそ、その一挙一動は首を締めるように俺を追い詰めていった。


 テーブルを挟んで座った一席。すぐ近くで向かい合っているのに、空気と喋っているように感じる。俺だけが、その重く刺々しい空気に押し潰されそうになっているのだ。


「あのっ、次の作品って……」


 次。言いたくも見たくもない無いその一文字だが、俺に縋れるのは「次」だけ。心では諦めていても、しがみつく他ない。


「ああ、予定が控えているので、もう行きます。何かあったら連絡してくださいね」


 面倒事の気配を察したのか、残りの一欠片をひょい、と口に入れて、タドコロが立ち上がる。お前とは違う、まだ期待できる方の「次」が待っているのだ、と言われている気がした。頭の奥底で「お前はとっくに見捨てられたんだ」と、エコーの掛かった声が響く。他でもなく俺の声だった。


(「何か」だ?もっと上手く隠せよ、編集者なら)


「何かあったら連絡してください」。2、3年前から、別れ際にこのフレーズが付くようになった。俺はこの何気ない一言の、本当の意味を知っている。早く引退の連絡を寄越せ、と小回りを効かせて言っているのだ。

こいつはいつ死んでくれるのだろうか、いつになったら諦めて現実を見るのだろうか、そんな意図が見え隠れして、耳にする度に鈍器で殴られたかのような痛みが襲ってくる。


「……また、よろしくお願いします」


 一矢報いようと口を開く。タドコロは苦笑いして、「はい」とだけ返した。

 できることなら、今すぐコイツを殴って、汚い罵声を浴びせながら蹴っ飛ばしてやりたい。お前のせいだ、お前のせいで俺はこうなったんだ、なんて根拠のない鬱憤をぶちまけてやりたい。

 喉から溢れ出そうな濁流を何とか飲み込み、軽く頭を下げた後、「自分はもう少し残ります」と伝えた。

 タドコロは「そうですか、お代は置いときますので。会計はよろしく」と抑揚の無い口調で言うと、財布から千円札を一枚取り出し、机に置いて、一層つまらなそうな顔で喫茶店を出ていった。


 タドコロが去っていくのを見届けて、俺は大きな溜息を吐く。


「ーーーーーやめたい」


何でもなく、勝手に言葉が溢れ出た。詰まった下水管がいきなり吹き出すみたいに、いきなり。

幸い独り言は店のジャズに溶け、呆気なく流されて行った。自分でも聞き取れないくらい小さく、しょぼくれた一言だった。

辺りを見渡しても、誰も此方を見ていない。誰にも惨めな独り言を聞かれていない。卑屈なほど安堵する自分が大嫌いだった。


 どうせ次もダメだろう。何を変えても、流行りのものを無理矢理書いてみても、からっきし駄目だった。

 書きたいものなんて無い。最初に自分の小説を曲げたその時から、書こうとするとたちまち濃い霧が脳みそを覆う。

 とっくの昔に、俺は死んでいる。俺が書く文字は死んでいて、死んだ文字で描かれる世界は歪に、無駄に曲がりくねって、その割に色が無い。

 もう書きたくもないのに、俺には書くしか能が無かった。唯一の特技もこのザマだから、30にもなって、俺は安いアルバイトで生計を立てている。

 軽かった万年筆は何時のまにか重力を帯びて、俺が書くのを拒むようになった。


(あぁ、クソが)


 ある新人賞で偶然大賞を取ってしまったのは、もう5年も前のこと。順風満帆な滑り出しだった。ただの偶然だとも知らずに、一人で舞い上がったのを覚えている。

 その時は「自分は天才なんだ」「俺は作家になるために生まれてきたのだ」なんて考えていたけれど、今になって思い返すとただただイタい。出来ることなら忘れてしまいたい程だ。芥川やら川端やらの真似事で煙草を蒸していたのも、今や黒歴史になった。


今や、俺は「売れない作家」なのだ。最初は良かっただけの、「売れない作家」である。どんどん俺を追い抜いていった新人も、いつぞや「コイツには才能が無い」なんて嘲った中堅でさえ、もう見えないところまで行ってしまっていた。


自らの無才。

余りにも残酷で、何処までも純粋な事実だった。


 残ったのはイタい過去とちっぽけなプライド、そしていつのまにか心に巣喰った嫉妬だけ。

俺の一つ下の段で表彰を受けていた青年は、今やベストセラー作家としてもてはやされ、電車に広告をぶら下げている。「俺だってすぐに」「俺も何か賞を取らなければ」なんて燃えていた内は良かった。嫉妬の烙印を押された情熱は段々と腐っていって、燻る黒煙が残ったように、「あんなの運が良かっただけ」「俺にだってできる」なんていう苦しい言い訳に変わっていった。

 他でもなく俺の死体が、俺の中で激しい死臭を放っている。若い才能を見る度に、その耐え難い腐臭とともに息が詰まるのだ。


 ふと気付くと、コーヒーカップは冷め、茶色の跡がこびりついた白い底が見えていた。陶器を汚す茶色が、どうにも自分と重なって不快だった。


「あの、ごめんなさい。コーヒーのおかわり頼めますか?」


 席の横を通りかかった店員に、声を掛ける。


「はい。注文は以上ですか?」


「ええ、お願いします」


 緑のエプロンを着た若いアルバイトは、空になったコーヒーカップを下げて、厨房に戻っていった。


 きっと、また同じ結果が待っているのだろう。

 今日も俺は「次」を呪い、縋り、そして諦めている。


 二杯目のコーヒーは嫌に苦くて、いつまでも舌に絡まったままだった。

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