火と蛇

枕川 冬手

1 泥と死体

 血が滲むほど握りしめた両の拳には、なんにも無かった。

 机に置かれた通知書に刻み込まれた「落選」の文字。

 俺が黙りこくっていると、


「大丈夫、次がありますよ。逆木先生。」


と、目の前に座る担当の編集者が言った。細い顔と哀れみの目が気に障る。

先生なんて心にも無いこと言いやがって。本当は「凡人」とでも付けたいのだろう?

次、また次、その次。何時になれば、「次」と言うのは途切れてくれるのだろうか。聞き飽きたその一言は、乾いた薄い木の板を割ったみたいな、空っぽの響きをしていた。


「はは、そうですね。。」


 殆ど無意識に出た返答だった。この5年間、散々口にしてきた定型文。自分の口から出たとは思えないくらい、酷く他人事のように思えた。

 誰も期待していないのは分かっているのに、どうしても、ちっぽけなプライドが口を動かす。次へ、次へと無明の希望を求めてしまう。


「それじゃ、この賞はまた来年、頑張りましょうか」


 また、空虚な音が鼓膜を舐めた。ああ、きっとコイツも、成功するなんて思ってない。言いようもないむず痒さを感じて、思わず足下へ目を逸らす。


「……はい、ありがとうございます」


 じっとしていられなくなって、大袈裟な動作で珈琲を啜った。


 今回で5回目の一次選考落選。

 やっぱり。結果を聞いて、先ず納得してしまった。

 最初の頃にあった溢れんばかりの期待は何処かへと消え、替わりに惰性と諦めに似た退廃が、虫食いの跡のように残っていた。


(ちょっとくらいコッチ見ろよ)


 目の前でサンドイッチを貪る担当の編集者は、一度たりとて俺と目を合わせない。名前はタドコロ、と言ったはずだ。上辺だけの励ましをしてきた時だって、一度も目が合わなかった。つまらなそうに、さも忙しそうに、爪を噛むような収まらなさでスマホの画面ばかりいじっている。表情には期待も、落胆さえも浮かんでいない。無関心。無興味。そりゃそうだ。良かったのは最初だけで、もう金にならない作家なんて、編集者から見たら時間を取るだけの障害物だ。次も頑張りましょう、なんてのは真っ赤な嘘。腹の中ではさっさと辞めてくれ、もう時間を奪わないでくれ、と思っているのだろう。

 失望させたのは自分の才能の無さ。分かっているからこそ、その一挙一動は首を締めるように俺を追い詰めていった。

 テーブルを挟んで座った喫茶店の一席。すぐ近くで向かい合っている筈であるのに、空気と喋っているように感じる。俺だけが、その余りに重い空気に押し潰されそうになっているのだ。


「あのっ、次の作品って……」


 次。言いたくも見たくもない無いその一文字だが、俺に縋れるのは残念ながら「次」だけ。心では諦めていても、縋り付く他ない。


「ああ、予定が控えているので、もう行きます。何かあったら連絡してくださいね」


 面倒事の気配を察したのか、残りの一欠片をひょい、と口に入れて、タドコロが立ち上がる。お前とは違う、まだ期待できる方の「次」が待っているのだ、と言われている気がした。奥底で、「お前は見捨てられたんだ」と、何重にも重なった、エコーの掛かった声が響く。他でもなく、俺の声で。


(「何か」?もっと上手く隠せよ、編集者なら)


「何かあったら連絡してください」。2、3年前から、別れ際にこのフレーズが付くようになった。俺はその本当の意味を知っている。早く引退の連絡を寄越せ、と小回りを効かせて言っているのだ。こいつはいつ死んでくれるのだろうか、いつになったら諦めて現実を見るのだろうか、そんな意図が見え隠れして、耳にする度に鈍器で殴られたかのような痛みが襲ってくる。


「……また、よろしくお願いします」


 一矢報いようと口を開く。タドコロは苦笑いして、「はい」とだけ返した。

 できることなら、今すぐコイツを殴って、汚い罵声を浴びせながら蹴っ飛ばしてやりたい。お前のせいだ、お前のせいで俺はこうなったんだ、なんて根拠のない鬱憤をぶちまけてやりたい。

 喉から溢れ出そうな濁流を何とか飲み込み、軽く頭を下げた後、「自分はもう少し残ります」と伝えた。

 タドコロは「そうですか、お代は置いときますので。会計はよろしく」と抑揚の無い声で言うと、財布から千円札を一枚取り出し、机に置いて、一層つまらなそうな顔で喫茶店を出ていった。


 あの鼻につく編集者が去っていくのを見届けてから、俺は大きな溜息を吐く。


「もう、やめようかな」ーーーーー何でもなく、勝手に言葉が溢れ出た。詰まった下水管が、いきなり栓を除かれて吹き出すみたいに。幸い、店に掛かるジャズで、独り言は自分にも聞こえないくらい、あっけなく溶けて流されて行った。惨めな独り言が誰にも聞こえていない、卑屈なほど安堵する自分が大嫌いだった。


 どうせ次もダメだろう。何を変えても、流行りのものを無理矢理書いてみても、からっきし駄目だった。

 書きたいものなんて無い。最初に自分の小説を曲げたその時から、書こうとするとたちまち濃い霧が脳みそを覆う。

 とっくの昔に、俺は死んでいる。俺が書く文字は死んでいて、死んだ文字で描かれる世界は歪に、無駄に曲がりくねって、その割に色が無い。

 もう書きたくないのに、俺には書くしか能がない。唯一の特技もこのザマだから、30にもなって、俺は安いアルバイトで生計を立てている。

 軽かった万年筆は、いつのまにか重力を帯びて、俺が書くのを拒むようになった。


(あぁ、クソが)


 ある新人賞で、偶然大賞を取ってしまったのは、もう5年も前のこと。

 その時は「自分は天才なんだ」「俺は作家になるために生まれてきたのだ」なんて考えていたけれど、今になって思い返すとただただイタい。芥川やら川端やらの真似事で煙草を蒸していたのも、今や黒歴史になった。


 順風満帆に思えた滑り出しだったが、ただの偶然だったということを、すぐに知る事となった。どんどん俺を追い抜いていった新人も、いつぞや「コイツには才能が無い」なんて嘲った中堅でさえ、もう見えないところまで行ってしまった。

 残ったのはイタい過去とちっぽけなプライド、そしていつのまにか心に巣喰った嫉妬だけ。俺の一つ下の段で表彰を受けていた青年は、今やベストセラー作家として電車に広告をぶら下げている。「俺だってすぐに」「俺も何か賞を取らなければ」なんて燃えていた内は良かったが、嫉妬の烙印を押された情熱は段々と腐っていって、燻る黒煙が残ったように、「あんなの運が良かっただけ」「俺にだってできる」なんていう苦しい言い訳に変わっていった。

 他でもなく俺の死体が、俺の中で激しい死臭を放っている。若い才能をみると、その耐え難い腐臭とともに息が詰まる。


 ふと気付くと、コーヒーカップは冷め、茶色の跡がこびりついた白い底が見えていた。綺麗な白い陶器を汚す茶色が、どうにも自分と重なって不快だった。


「あの、ごめんなさい。コーヒーのおかわり頼めますか?」


 席の横を通りかかった店員に、声を掛ける。


「はい。注文は以上ですか?」


「ええ、お願いします」


 緑のエプロンを着た若いアルバイトは、空になったコーヒーカップを下げて、厨房に戻っていった。


 きっと、結果はまた同じだろう。

 今日も俺は「次」を呪い、縋り、そして諦めている。


 二杯目のコーヒーは嫌に苦くて、いつまでも舌に絡まったままだった。

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