モラトリアム

イグチユウ

モラトリアム

 2014年4月、僕は地元の大学に進学した。遠くへ行きたいという願望とも無縁で、優れた学力を持っているわけでもなかったので、それは時計の針が進むように当然の選択だった。その大学の難易度は、受験を考え始めた時点での自分の学力でも目指すには十分すぎた。周りにはレベルの高い大学を目指して猛勉強している同級生たちが何人もいたが、僕は特に熱心に勉強する必要がなかった。受験勉強にどれだけ時間をかけたかを調べれば、おそらく僕は平均よりかなり低い数値になることだろう。なので、合格発表の時も、感動などあるはずもなく、大した喜びも感じなかった。 合格して胴上げされている受験生や、不合格になって、泣いている受験生たちを少し白けた目で眺めて、二分後には既に帰路についた。 地元の大学なので、同じ高校から進学してきた人も多い。元々交友関係が広い方ではなく、両手で数えれば指が余ってしまうほどしか仲良くしていた同級生はいなかったが、それでも二人の友人が同じ大学に合格していた。大学では三月の終わりの方に新入生歓迎イベントが幾つか開催されていたが、必ず参加しなくてはならないという類のものではなく、面倒そうなので行かなかった。 四月になって最初に大学を訪れたのは、入学式の二日前にあった身体測定の日だった。大学のメインストリートでは様々な部活やサークルの勧誘が行われ、門から延びるその道は人で埋め尽くされて活気づいていた。 一応、何らかのサークルには入るつもりではいるが、今の時点では具体的に考えてはいない。人が多いのは苦手なので大きなサークルに入るつもりはなく、メインストリートの活気もどこか他人事であり、ボクの耳ではその喧騒がただの騒音として処理されていた。 高校の時は文芸部に所属していた。本を読むのは比較的好きな方ではあるが、自分を表現してみたいとか文学作品を書きたいだとかそういう欲求があったわけではない。単純に学校にある部活の中で一番楽そうだと思ったからである。 野球部やサッカー部に入って全国大会を目指すぞといった熱の中にいれば精神が擦り切れてしまいそうだし、吹奏楽部に入ってみんなで一つになってみたいなことも嫌だった。 正直自分はどこにでもいるただの青年だ。十代の普通の青年を書いてくれと言われれば、大抵それが僕の似顔絵になってしまう。そんな自分であるのに、なぜか周りと混じり合ってしまうのが嫌だった。同じ水であっても、壁にひっついていれば水滴だが、水溜りに入ってしまえばそれは水溜りという塊になってしまう。きっとそうなってしまうのを僕はどこかで恐れている。 そういう感情からなのか高校で部活を選ぶ際に僕の中にはなんとなくではあるが、条件があった 第一に熱量が少ないこと、第二に団体で何かをするものではないこと、第三にあまり多くの人がいないこと。この条件にぴったりと合っていたのが文芸部だったのだ。 部室に来るも来ないも自由で、特に誰かと協力して作品作りをするなどということがなく、そして人数も僕が入ってくるまではたったの三人だけ。絶対にやらなければいけない活動は、年に一回文化祭で販売する部誌作り、そして年に二回ある文芸の大会への作品の提出だ。 ――この大学にも文芸部はあるみたいだし、一応覗いてみるか。 なんとなくそんな考えが頭の中に浮かんだ。 三年間もやってきたが、作品を作ることに対してそんなに思い入れはない。僕は活動として義務付けられている最低限度にしか作品を書かなかったし、一年生と二年生の時にどんな作品を書いたのかも思い出せない。僕にとって小説を書くというのは宿題のようなものでしかなかった。小説の書き方の本を読んでその通りに従って書いていたので、読めないような作品ではないが、読んでも何も感じない無機質な作品だった。自分でも何を書いたのか思い出すことができない。 ――何かを熱心にやったことなんて、振り返ってみると一つもないな。 高校時代を思い出しながら、ふとそう思った。スポーツをやったり、勉強をしたり、小説を書いたり、色んなことをやってきた。しかし、自分の中に才能があるような気が全くせず何もかも本気でやってこなかったのだ。 今ではこんな自分が当たり前になってしまってはいるのだが、昔からこうだった訳ではない。小学校の頃、僕は少年野球チームに入っていた。人数が少なかったのでベンチには入っているもののいつも補欠で、練習試合にしか出たことはなかった。 しかし、それでも当時子供だった僕は頑張ればどうにかなると思っていたのである。毎日練習して、誰よりも努力すれば必ず報われると信じていた。世の中にある希望というものが自分にも必ずあるのだという幻想を信じていたのである。 六年生になった時も僕は補欠で、最後の大会の最後の試合、僕は初めて試合に出た。状況はツーアウトでランナーはいない。何点差だったのかまでは覚えていないが、到底逆転できないだろうとチームメイト全員が諦めてしまうほどには離れていた。 もう勝ちはないと分かっていても、自分にとっては何よりも大事な瞬間だった。僕はバットを握り打席に立ち、そこに今までの成果を出し切るつもりでいた。 余裕の表情を浮かべる相手ピッチャーを睨むように前を向き、バットのグリップを強く握る。 しかし、現実はそう都合良くは運ばなかった。僕はボールをバットに当てることさえできずに、その打席を終え、試合は終了した。 その時初めて無気力というものを味わった。いくらやってもダメだということがこの世にはあり、報われることなどそうそうないということに気づいたのである。ドラマの感動のエンディングは、それがまれにしか起こらないからストーリーとして成立しているのだ。その時から僕の心の中にそれが住み着いた。最初は心臓の中に異物が入っているかのような感覚だったのだが、徐々に徐々にそれは僕の体へと溶け出していきいつの間にか骨の中にまで染み込む。今では無気力によって動く人間の形をした奇妙な生物になってしまっていた。 ――まぁ、仕方がない事でしかないが。 どんなに過去を振り返ってみたところで、過去の自分は過去の自分であり、今の僕は今の僕でしかないのだ。遠くの光を眺めてみても、虚しさが残るだけだ。まだ希望を抱いていたころの僕は年を重ねるごとに遠ざかっていく。輪郭を失った思い出は段々と美化されて輝きを増し、ボクの中にある虚無感はその光を浴びて肥大していく。 自然と口からため息がこぼれる。 自分の過去を振り返りながら人ごみの中を歩いていたその時、いきなり、誰かが僕の腕を掴んだ。思考の世界から現実の世界へと引き戻される。驚いて振り返ると、そこに立っていたのは見知った顔の女性だった。ほっと胸をなでおろしてその人に声をかけた。「お久しぶりです、部長」「もう部長じゃないけどね。今は、会長だよ」 彼女はそう言いながら笑った。 僕の手を掴んだのは高校の文芸部で部長をしていた先輩だった。


 僕が文芸部に入部した時、当時二年生の彼女は既に部長だった。三人のうち一人は三年生だったが、ほとんど部活には顔を出さなかったし(僕はおそらく二回ほど顔を合わせていない)、かなりの気まぐれ者で責任感というものが一切なかった。そしてもう一人の二年生の部員は幽霊部員で、彼女が当然の流れとして部長になったらしい。 彼女はほぼ毎日のように部室に来ていて、文才もあった。しかし部長に向いている人だったどうかは今でも首をかしげざるを得ない。部室にこそ顔を出していたものの、彼女自身もかなりの自由人だったし、特に責任感が強かったわけではない。結果、部活の業務のほとんどを僕が行っていた。それに自分に興味のないものにはまるで関心を示さない人だった。その性格のせいか、友達は片手で数えられるほどしかいなかったようだ。 皮肉を込めてこう言ったことがある。「協調性って知っています?」「ちょっと待ってくれ。今、広辞苑を持ってこよう」「別にそういうつもりで言ったわけではありませんよ」「分かっている。私だって馬鹿じゃないさ」 部長に対して皮肉を何度も言ってきたが、全てかわされてきたのだ。柳に風というのは彼女のような人のためにある言葉に違いない。僕程度では彼女にどんな言葉を使っても通用しない。全て受け流されてしまう。「協調性――周りに流されるままそのグループに迎合し自分の力をすたらせていく性質――のことだろう?」「随分とひどい解釈の仕方ですね」「悪いことだとは思わないけど、私は大嫌いな言葉だね。何故私が周りに合わせなくちゃいけないんだろうか。私がクラスの頭が悪そうな女たちと、つまらない恋愛話をしていたら君はどう思うかい?」「それは……驚きますね。でもこの学校はそんなに頭の悪い生徒はいないでしょ。しかも先輩は特進クラスじゃないですか」 その言葉に、部長は呆れ気味に息を吐きだした。「勉強ができないやつら、とは言っていないだろう。頭が悪い奴らだ。勉強なんて所詮は要領だよ。頭の良さとは必ずしも関係がない。私にはクラスメートなんて全員同じにしか見えないよよ。全員同じような顔をしている。アイデンティティというものが感じられないんだ」 部長はそう言いながらもう一度小さく溜息を吐いた。


 僕は部長に大学の図書館のロビーに連れて行かれた。そこには幾つかの机が並べられており、生徒の姿もちらほらとある。僕と部長はできるだけ人が近くにいない場所、一番隅のテーブルを選んで腰を下ろした。周りの声は届くが、断片しか聞こえてこないので何を話しているのかまでは分からない。僕と部長は向い合せで座った。高校の部室とは雰囲気は違うものの、当時の風景が懐かしさと共に頭に浮かんでくる。「久しぶりだね。会うの自体は私が卒業して以来か」「メールでのやりとりはありましたけど、確かにこうやって面と向かって会うのは久しぶりですね、部長」 こうやって向かい合ってみると部長は何も変わっていない。髪を染めたり化粧をしていたりするわけでもなく、髪型も高校の頃に見ていた腰まである長さの黒髪のままだ。違うところといえば、高校の制服ではなくて、私服を着ていることぐらいだろう。服装もジーンズにTシャツという全く飾り気のないもので、なんとなく抱いていた私服のイメージから大きく外れてもいない。美人で痩せ型なので、そういったラフな格好でも十分にオシャレに見えた。「部長はやめてくれよ。私はもう部長はやっていないんだから」「何かサークルには入っていないんですか?」「入っている――ともいい難いが、入っていないというわけではないよ。一応、自分が作った非公認のサークルには属している。まぁ、私だけしかいないささやかなものだから、サークルというより、私がひとりで勝手に名乗っていると言った方が実態を示しているかもしれないね」「なんていうサークルですか?」 僕が尋ねると、先輩は悪戯を思いついた子供のように歯を見せて笑った。先輩は自分が興味のあることについて聞かれると大抵この表情を見せる。高校時代に幾度となく見てきたその表情は変わっていない。二年間、先輩と関わり理解してきたことは、今でも問題なく当てはまるようだと少し安心させられた。「未確認生物及び未確認飛行物体研究会。略称はUMAとUFOの頭文字を取って、WUといったところかな」「先輩はそういうオカルト系のことが好きだって前から言っていましたもんね」 部長はUMAやUFOなど、非科学的なものを好み、それに関する本を読み漁り、それに関する作品も文芸部にいる際には何作か書いていた。オカルトについて話し出すと止まらず、僕が制止させなければその熱弁はなかなか止まらない。「君も入らないかい? あまり他人が入ると邪魔になるが、君だったら大歓迎だよ」 先輩が僕に右手を差し出した。 考えてみた。 高校の時に考えた入る部活を選ぶ際の条件を今回も当てはめるとすると、その三つの条件は確実にクリアしている。熱量がありすぎるわけでもないし、団体で何かをするわけでも、人が多いわけでもない。それに特に大学に入って何かの決まったサークルに入ろうという願望もなかった。何かに入るにしても、入学してから考えればいいと思っていた。それに先輩しかいないのならば、人間関係で苦労することもまずないだろう。あらゆる角度から考えてみて、先輩の誘いを断る必要はなさそうだった。「お願いします、会長」


 講義が始まると本格的な大学生活に入った。何人かの友人ができ、授業についていけないなどということもなく、順調な滑り出しだ。 大学に入れば何か変化が起こるのではないかと期待したわけではないが、想像はしていた。しかし実際は交友関係が少し変わり、生活のサイクルが変わっただけのことでしかない。僕の性格や振る舞いにはなんの変化もなく、僕は僕でしかなかった。19歳という年齢を聞いて、まだいくらでも変われるという人もいるかもしれないが到底そうは思えない。僕という人格はもう既に完成しまっていて、変わる余地というのはもうほとんど残ってはいない。何となくそのことが自分でも分かってきていた。きっとこれから先、今作られてしまっている僕というものはほとんど揺るがないだろう。 会長に誘われて入ったサークルだが、活動らしい活動はほとんどしていない。両方が暇なときに二人でどこか適当な場所で待ち合わせをして、適当な会話をしているだけだ。こうしていると高校時代の部室を思い出さずにはいられない。 高校時代、放課後の文芸部の部室にはほとんど僕と部長の二人しかいなかった。何か用があると、顧問の先生が訪ねてきたりもするが、その先生の仕事は事務的な仕事だけで、特に指導などを行っていたわけではなく、その頻度は少ない。 二人だけしかいない部屋で、僕と彼女はいつも下らないことを話し合っていた。文芸部らしく、本について語ることもあったが、お互いの趣味や関心事、時には最近のニュースなどについても話した。振り返ってみると、その放課後の時間に何らかの意味があったかと問われれば、それに対する明確な答えを返すことはできない。しかしそれでも十分に僕は満ち足りていた。なので、彼女が卒業してからの一年は空っぽの日々だった。一応少しは勧誘を行ったのだが、結局は一人も新しい部員が入らず、文芸部は僕一人になってしまった。 しばらくの間は彼女がいた時のくせで、部室に足を運んでいたが、部室には沈黙が住み着いてしまっていて、そこにあるのは僕が本をめくる音と、パソコンのキーボードを叩く音だけだった。そして僕は当然のように、部室に行くのは大会前や文化祭前だけになり、部室からは完全に音がなくなったのである。卒業式の日、クラスでの先生の話や写真撮影が終わると、僕は文芸部の部室に足を運んだ。するとそこには僕と会長がいた頃の息吹はなく、部室は死に絶えてしまっていた。僕はしばらくの間、部室の中で呆然と立ち尽くしていたが、何もせずにその場を立ち去った。 結局、俺の卒業とともに文芸部は消滅してしまった。今ではただの空き教室になってしまっているらしい。


「先輩は他のサークルに入ってはいないんですか? 例えば、文芸部とか」「入っていないが、それがどうかしたか?」「いえ、先輩もう小説は書いていないのかなって。僕は正直、大した実力はなかったですけど、先輩は全国大会にまで行ったじゃないですか」 先輩は一年のころからいくつも賞をとっていて、かなりの成績を残している。高校生とは思えない、プロ顔負けの文章力と構成力を持っていた。その実力はどちらかというと長編小説において最も発揮されているが、短編もかなり面白く、高校の文芸コンクールでは三年間ずっと一席を受賞していたのだ。その非凡さに比べて、僕はとても凡庸であり、いつも感心させられていた。「書かないわけじゃないが、サークルに入って活動しようという気持ちにはどうしてもなれなかったんだよ。私は高校のころずっと部長としてやってきたからね。しかも顧問の先生などから指導を受けたわけでもないから、作品について上から何かを言われるようなことには全く耐性がないんだ。今更、人の下について作品作りをするなんてことをしていたら、胃に穴が開いてしまうよ」「未だに書いてはいるんですね」「そうだね。特に何かの賞を狙っているというわけではないけれど、なんとなく書いてしまうんだよ。一度小説の執筆というものに手を出してしまったからには、自分の頭からあふれ出してくるアイディアを形にせずに放置しておくなんてことはできないんだ。もはや中毒症状だといってもいいね。私は部活などで書かなくてはいけない状況にいなくても、書かずにおくことは自分が許さない。――君は、もう書いていないのか?」「そういえば、秋の大会に出品して以来一度も書いていませんね。それに、僕には会長のように文才というものがありませんから」「そんなことはないと思うぞ。確かに君の作品は賞を取るという形の結果は残さなかった。しかし、賞を取るということが必ずしも才能ではないんだ。君が入部してから初めて書いた作品は、文章こそ稚拙ではあったものの、実に興味深い作品だったし、書けば書くほど目に見えて文章力も高くなっていた。君に才能がないなんてことはない。私が保証しよう」 ついこの間、二人でしたのがそういう会話だった。 他にも色々と長い話はしたのだが、この会話が一番印象に残っている。自分ではやはり才能があるだなんて思えないが、それでも会長から言われた言葉は素直に嬉しかった。 オカルトについても話した。小さいおっさんの目撃談について、大学にあるという七不思議について。こういう時、僕はあまり詳しくないので、会長の熱弁に相槌を打って耳を傾ける。そして、そこから別の活動につながるということは全くなかった。 


 その日、僕たち二人はいつものように図書館のロビーの隅の方の机(先客がいない限り、ここが僕と会長の特等席である)で、会話をしていた。その日の話題はオカルトで、内容は宇宙人と一体どのようにしてコミュニケーションをとるかといたことだ。会長の熱弁も一段落し、久しぶりに呼吸するかのように深呼吸した後、会長はふと思い出すようにして言った。「そういえば君の歓迎会をしていなかったね。すっかりと忘れていたよ」「歓迎会って言っても、二人だけしかいないじゃないですか」「ほとんど名ばかりとはいえ、一応サークルだということにしているんだ。たまにはサークルっぽいこともしたいじゃないか。君もバイトをやっているわけでもないし、今から特に用事もないだろう? それとも君の家は門限が厳しいほうかい」 僕と会長は二人で大学近くの居酒屋に行った。空は少し暗くなり始めたぐらいの時間だが、まだ昼の名残は夜に負けることなく存在している。居酒屋に入ると、他のサークルも来ているらしく、大学生の姿も多く見られた。二、三十人の大学生が結構な大声で騒いでいる。会長の表情に目を向けると、来る場所を間違えたというように顔をしかめていた。会長も僕と同じで騒がしいのがあまり好きではない。おそらく僕も会長と似たような表情を浮かべているのだろう。その大学生たち以外にも何人か別の客の姿があり、その人たちは随分と居心地が悪そうだった。「どうします? 場所を変えますか?」「わざわざ私たちが場所を代えるのも負けたような気がするし、しばらくはここにいよう。どうしても耐えられなくなったら、コンビニで食べ物と飲み物を買って私の家にでも行こう。この近くにあるんだ」 僕たち二人はその騒がしい集まりから一番離れた隅の方にある席に通された。何となくそこがいつも会長と話をしている図書館のロビーの隅にある席と重なって、悪い気はしない。いつもと同じ様に僕と会長は向かい合って座る。 とりあえずぼくたち二人はそれぞれ飲み物と、お好み焼きやから揚げ、サラダなどを頼んだ。食事をしながらいつものように話しを始める。「先輩はどうしてこの大学に入ったんですか? 先輩ぐらいの頭があったら、もっといい大学にでもいけたでしょう」 先輩の第一志望はこの大学で、滑り止めも受けていない。先輩は文芸部最後である秋の大会が終わってからも、ほぼ毎日文芸部の部室へ来ていた。先輩の学力だったらこの大学を受けるのに準備はいらなかったのだ。そのおかげで、僕と会長の放課後は会長が卒業してしまうまではほとんど変化がなく続いた。いつものように下らない会話をして、たまに先輩は小説を書いた。「特にどこかに行きたいというのも別になかったからね。変化に憧れて東京に行って一人暮らし、そしてバイトに追われる毎日。そういうのはあまり好みじゃない」「電車で通えばもう少しいい大学もあるじゃないですか」「別にいいんだよ。まだ働きたくはないからとりあえず大学に入ったというだけで、いい学歴が欲しいっていう訳ではないんだから。どこに行ったとしても大して意味があるとも思えないしね」 そう言うと、会長は自分の注文したオレンジジュースを一気にグラスにの半分まで飲んだ。「会長はお酒は飲まないんですか?」「一応私は未成年だよ。二十歳になっていないからね」「会長の誕生日っていつでしたっけ?」「1994年7月13日。振り返ってみると早いものだ。あと少しで私も二十歳になるんだ」 会長は溜息をついて、残っていたオレンジジュースを飲み干した。その様子はどこか寂しげで、会長がまるで霧の中にでもいるかのように揺らいで見えた。そんなに笑顔が多い人というわけでもないが、こういった表情を見るのも初めてのことだ。「会長は二十歳になりたくないんですか?」「そうだね。二十歳になってしまうと、否応なしに可能性が奪われていってしまうような気がするんだ。もうすでに私の中に可能性なんてほとんど残ってはいないけれども、二十歳になることが私にとっては最もそのことを象徴している。別に子供のままでいたいとか、責任を負いたくないというわけではないよ。でも、何も可能性を感じられないというのは……絶望ではないが、憂鬱だね。できれば十九歳のままでいたいよ」 そう言われ、僕は野球をやっていた小さい頃を思い出した。その当時の自分は野球にのめり込んでいて、将来はプロ野球選手になるんだと信じて疑っていなかった。しかし結局はレギュラーにもなれず、ずっとベンチで、小学校を卒業してからは中学校で野球部に入ることもなく、すっぱりと野球をやめてしまった。野球をやっていた頃の僕は希望を持っていたが、最後に一度だけ打席に立ち試合が終わった瞬間に心の中が空洞になってしまったのだ。思えばあの時に僕の中から一つの可能性がなくなってしまったのだろう。それと同時に僕の心の空洞は温度を奪われて冷たくなり、そこにコンクリートが流し込まれた。そこにはもはや何も入ることができない。そこにあるのは冷たいコンクリートの塊だ。無機質で冷たく、何の意味も持たない。そんな塊。 そして僕の心は希望というものを受け入れられなくなってしまったのだろう。あのころから今の僕が姿を見せ始めていた。「あと数カ月で私は二十歳になる。君もあと一年ぐらいだ。もう既に私たちは完成されてしまっている。少し位の変化はあるかもしれないが、根本はもうすでにほとんど出来上がっていて、その少しばかりの変化は本当に少しだ。きっと、私たちが想像している以上に少しだよ」「……そうですね」 あと数カ月で会長は二十歳になり、あと一年ほどで僕も二十歳になる。その時、僕らの可能性は奪われる。抗うこともできずにそれはやってきて、冷たいシャベルで僕たちに残された僅かなかけらをすくい取っていく。


 それからしばらくはその店で食事を摂りながら話をしていたのだが、だんだんと先ほどのサークルの声が大きくなり始めていた。そろそろお酒が回り始めたのだろう。流石にこのままここに居るのは苦痛だったので、ボクと会長がその店を出た。いつの間にか外は暗くなっていた。肌に触れる空気も少しばかり冷たいが、むしろその冷たさが心地良い。「会長って、一人暮らしなんですか?」「いや、一応母親と二人暮らしをしている。だが、母はほとんど家にはいないから、ほとんど一人暮らしみたいなものだな」「何をしている人なんですか?」「小説家だよ。夢乃静という名前で書いている」 その名前には聞き覚えがあった。世間的な知名度はそこまで高くはないが、本好きの間では知られた名前だ。友人の一人にファンだという人がいて中学生の頃に、薦められるままに一冊だけ読んでみたことがある。独特の世界観で不思議な文章だという印象があり、面白かったのだが、一体どんな内容だったのかも、そのタイトルがなんだったのかも思い出すことができない。「あの作家、会長の母親だったんですか。一冊だけ読んだことがありますけど」「正直、私には一体何が面白いのかはさっぱり分からないよ。きっと、自分の母親が書いたものだと思うと、あまり頭に入ってこないんだろう。どうしてもあの人の顔がよぎって、純粋に物語を見ることができないんだ」「でも、小説家だったら普段は家にいるものじゃないんですか?」「あの人は自由人でこだわりの強い人だからね。取材も徹底的にやるし、執筆する場所にもこだわって、日本全国どころか、時には海外にまで行ってしまう。他の小説家に会ったことがないから何とも言えないけど、少し異常な感じはするよ」 家は立派な一戸建てで、綺麗な白色の外壁をしていた。家の中も外観と同じように真っ白で物が少ない。 玄関から入ってすぐの階段を上り会長の部屋へ移動する。 会長の部屋は随分とあっさりしていた。女性の部屋にそんなに入ったことがあるわけではないが、おそらく平均的な同年代の女性に比べて、装飾が少ないのは確かだろう。白い壁には時計以外には何もなく、部屋の色はほぼ白と黒しかない。物が随分と少なかった。本棚があったが、並んでいる本がニ十冊もなかった。。 なんとなく、その少ない本の中で、村上春樹の”海辺のカフカ”が目に付いた。「先輩って、本をよく読む割には本棚においている本は少ないんですね」「母が私に代わって本を買ってくれるんだ。部屋に置くには多すぎるから、別のところ日本を置く専用の部屋がある。小さな図書館ぐらいの量はあるかな。だからここに置いてあるのは本当に気にいっているものだけだね」 会長はベッドに腰掛け、僕にクッションを差し出した。僕はいつものように会長の前に座る。 ――本当に物がない部屋だ。 十九歳の女の子の部屋とは思えない。まるで眠るときにしか使っていないかのようだ。何となく部屋を見回していると、ベッドに未開封の蛍光灯の箱が立てかけられているのが目に入った。何もない部屋だけに、それはとても異様なものに見えてしまう。しかも上を見上げてみると、電気が消えかけているというような様子はない。蛍光灯はまだ十分な輝きを放っている。「なんで蛍光灯なんて置いているんですか?」「あー。忘れていたよ。こないだ代えようと思って持ってきていたんだけど、やっていなかったな」「でも、まだ切れかかってないですよ?」「私は定期的に蛍光灯は代えるようにしているんだよ。もうすぐ完全に消える、点滅している蛍光灯がとてもみじめに見えるからね。擦り減っていく様子とか、終わりに向かっていく様子が嫌いなんだよ、私は」 そういう会長は少し自嘲気味だった。蛍光灯の光がだんだん弱まっていく様を想像してみると、そこになんとなく僕自身が重なる。「じゃぁ、僕が代えましょうか」 僕はそう言うと、ベッドの上に載って蛍光灯を入れ替えた。今まで光を放っていた蛍光灯はまだ使える状態ではあるものの、新しいものに比べると明らかに薄汚れてしまっている。それは本当に些細なものかもしれないが、確かに色褪せてしまっているのだ。そして二度と元の輝きを取り戻すことは出来ない。 蛍光灯を入れ替えると、部屋は今までより少しだけ明るくなった。


 それからの大学生活でも大した変化はなかった。他のサークルに入ることもなく、週に何回か会長と会っている以外に大学でやっているのは講義を受けることだけだ。それでも何人かの友人はいるので、話し相手には困らない。同じ学部の人間は大体同じ時間に暇なので、講義と講義の間は同じ学部の人間と無駄話をしている。それだけでも、僕にとっては十分だった。わざわざ、人のたくさんいるサークルに入らなくても、人間関係に飢えることはない。 早くも大学生活に新鮮さなど全くない。毎日同じようなことを繰り返すだけだ。どんなに環境が変わろうと、最終的にはそこでの日常のサイクルが遅かれ早かれ形成される。 新鮮さなど求めても仕方ないのだろう。環境が変わっても僕が変わることなどない。自分を偽り変わったふりはできるかもしれないが、それは結局ふりでしかないのだ。僕は僕という揺ぎ無い形をしている。自分を無理矢理にでも変えようとすればそれはきっと歪な姿になる。どんなに僕が戻りたくても、幼いころの真っ新な自分には戻ることができない。 きっとこれからの僕は、何かに対して関心を抱くこともなく、必要なことだけをこなしていくだけの無気力な日々を過ごしていくのだろう。この大学を選んだように、自分の身の丈ほどの会社を探してそこに就職し、それなりの給料をもらいそれなりの生活を送っていくに違いない。姿は年老いてmp、きっと僕の核に住み着いている今の僕は、ずっとそこにいるのだろう。どれだけたっても姿を変えずに居座り続けるのだ。「先輩は将来について何か考えていますか?」「特に何も考えていないし、考えたくもないね。私は擦り減っていく一方なんだ。それに、きっと私には先なんていうものはない」 先なんていうものはない――その言葉を聞いたとき、何かが僕の中に生まれた。それは胃の中に大きな石が入っているような異物感だ。その正体がなんなのかは分からない。ただそれが良くないものだということだけは分かった。「やっぱり、そうなんですかね」 そういう会話をしたのは六月の終わり頃だった。いつものように会長と僕は図書館のロビーの隅にいて、外では静かに雨が降っていた。


 その日、僕はいつものように十時ぐらいにベッドに入って本を読んでいた。本は村上春樹の“海辺のカフカ”だ。以前一度読んだことがあるのだが、こうやって読み返してみるとずいぶん印象が違う。一度目よりも物語の奥深くに進むことができる。 上巻の半分ぐらいまで読んだところで、急に眠気が襲ってきた。時計に目をやると、まだ十時半ぐらいだ。僕はいつも十二時過ぎまで本を読んでいる。眠りに抗おうとしてみたが、その眠りに逆らうことはできないようだった。本に栞を挟んで枕元に置き、電気を消すとすぐにまどろみが僕を包んでいく。急にやってきたそれは、随分と優しかった。 眠りと目覚めの境目で、僕は何となく海辺のカフカが会長の本棚にも並べてあったのを思い出した。


 僕は気づくと、知らない場所にいた。その世界は霧で覆われていて、そこに僕は立っている。霧という表現が正確なのかは分からない。その揺らいだ白いものに包まれて、心が落ち着いていくのを感じる。ここはきっと、世界のどこでもない空間なのだろう。世界と世界の間にひっそりとこの空間はあるのだ。 辺りを見回すと、白い霧の中に一つだけ人影が見えた。かろうじて人だということは認識出来るが、顔も性別も判断できない。ただ霧の中に黒い影がポツンとあることだけを視覚情報として手に入れることができた。僕は気付くと、誰なのかも分からないその人影のほうへと走り出していた。 足元や先の方に何があるのかも見えないというのに、走ることになんの恐れもない。僕にあったのはとにかく走らなくてはならないという思いだけだった。 ――会長! 距離がニ、三メートルほどになってやっとその人影の正体が会長だということが分かった。当然のように僕は声をかけようとしたが、声は口から発されない。声をかけようとするが、口が動くだけだ。この世界には音という概念が存在しなかった。 会長も僕のことに気づいたらしく、しばらく僕の目をじっと見ていた。そして、不意に会長がほほ笑んだ。今まで見たどんな笑顔よりそれは優しかった。しかしその笑顔の意図が僕には理解できない。僕はただ混乱させられ、得も知れぬ不安に胸を締め付けられた。 会長は僕に背を向けて歩いていく。 追いかけなければならないという衝動に駆られたが、足が動かない。白い霧のようなものが僕の足に絡まり、僕の動きを封じている。やはりこれはただの霧なんかではなかったのだ。何らかの意志を持って僕の邪魔をしている。会長はやがて再びただの人影になり、人影はだんだんと小さくなっていき、最後には消えた。


 僕が目を覚ました時、携帯電話が鳴っていた。手にとると画面には会長の名前が表示されている。会長から電話がかかってくるのは初めてのことだった。普段連絡はメールで行われているので、電話をかける必要なんてない。何か悪い予感が僕の心の中にあった。僕は急いで電話に出る。「もしもし」 電話の向こうから聞こえてきた声は、会長と酷似していたが、少し違っている。会長も大人びた声はしているが、さらに大人びた印象の声だ。まるで未来の会長から電話がかかってきているような不思議な気分だった。「どちら様ですか? 会長ではないですよね」「私はあの子の母親。君のことはあの子からよく聞いているわ」「一体何の用ですか?」「あの子が死んだの」 その言葉に頭は一瞬真っ白になったが、数秒後にはそれも収まり、僕の頭はほとんど混乱していなかった。その事実はショックだが、意外な話には感じられなかった。なんとなくではあるが、そういうことがあってもおかしくない。先程まで感じていたのはそういう予感だったのだろう。「何時ぐらいなのかは分からないけど、昨日の夜から今日の午前3時の間に事故にあったらしいわ」 彼女も随分と冷静だった。もしかしたら、彼女にも僕と同じような予感があったのかもしれない。「おそらく12時よりは前だと思います」「どうしてそう思うの?」「そういう予感がするんです」


 今日は2014年7月13日、会長が二十歳になるはずの日だった。


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