空跳ぶ白い靴

月音うみ

『空跳ぶ白い靴』


父と母は私が寝静まった時間に、眩しく光るキッチンの光の中でテレビを消してお話をしていた。

ドアにはめ込まれたすりガラスに耳をあてて澄ましたが、幼かった当時の私は二人が何を話しているのか分からなかった。

ただ、わかるのはいつもの雰囲気じゃないこと。

ゆっくりとドアを開ける。

廊下の空気はひやっとしていたが、ドアノブを握る手には汗がじんわりと滲んでいた。

ムワッとする暖房の空気を体の正面で受ける。

「パパ、ママ。何お話ししているの?」

「あらら、起きてきたのね。なんでもないわよ。寝なさい」

「私、パパとママと一緒がいいよ」

なぜかその言葉が出ていた。きっと母とお昼に見たドラマのせいなのだろう。

「心配しないでいいから。もう寝なさい」

母は幼い私が言わんとしていることを瞬時に察したのか、一瞬驚いた顔をしたがいつもの笑顔を見せてくれた。

それはお気に入りのクマさんのパジャマにココアをこぼしてしまった日のことだった。



母さんにおねだりして買ってもらったピッカピカのランニングシューズ。

白地に水色のラインが入って、それを履いたら今にも空を飛べそうな気がしていた。

「堀内監督! アップ終わりました」

「そうか、今日のメニューはそれぞれメニュー表にしてマネージャーに渡してある。みんな期待しているぞ」

的確に指示を出し、両腕を組んで仁王立ちしている角刈りの男性は私のお父さんだ。

「ヤッホ! 紫乃ちゃん! 今日もお父さんについてきたの?」

「うん!」

「あら、そのランシュー可愛いね! 紫乃ちゃんのおめめとおんなじ色で似合ってる!」

「ママに買ってもらったの〜」

「よかったね。今日もまた私のとこ見にくる?」

私に目線を合わせるように屈んで話してくれる少女は、父の監督する高校陸上部のエースのまいちゃんだ。黒髪を後ろに束ねて、400mハードルを跳ぶ。

「お姉ちゃん、羽が生えてるみたい」

幼いながらに私はまいちゃんに憧れていた。

私もまいちゃんみたいになれたらなぁ……

買ってもらったばかりのランシューの水色のラインを手でなぞった。



高校生になった今、私は陸上をしている。

小学校の陸上クラブに入りたいと言った日から、父は私を見てくれるようになった。

陸上を始めてからは父はよく私を競技場の練習場に連れて行った。

「走れ!! もっと速く! 足を上げろ!」

父は私をアスリート選手にしたいらしく、週6日みっちりコーチするようになった。

父は弱小校だったうちの高校の陸上部から、就任したその年にインターハイまで勝ち上がる選手を育て上げた。高い指導力の持ち主で、堀内監督といえば皆知ってると言えるほどの有名監督だった。そして同時に、練習内容も厳しく、怖い監督としても知られていた。

「はい!」

走るペースをあげる。

「いいぞ! その調子だ」

ハードルが目の前に迫ってくる。

残り100mの一台めで私は盛大にハードルに体を打ちつけた。

ガコン!!

今日、これで400mハードル通して跳ぶの5本目だ……もう、足が上がらない。

「紫乃! 転けても最後まで走りきれ!」

反対側のカーブで叫んでいる監督(父)が見える。

引きずるように足を手で無理やり持ち上げて立ち上がる。

やっとの思いで、最後のハードルを跳びゴールした。

肘を太陽に焼かれフライパンの上のように熱くなったタータンの上に押しつけ、倒れこんでいると、聞き覚えのあるリズムを刻む足音が近づいてくる。

「このくらいの練習量でへばってちゃ、インターハイになんて行けないぞ。今のお前は県大会で2位を取って満足している自己満の奴らと同じだ。10分後また同じメニューだからな」

「……」

その様子を見ていた1年の新人マネージャーがごくりと息を呑んで言葉を父に向かって投げかけた。

「あまりにもキツくないですか? このままじゃ紫乃さん倒れちゃいますよ」

顔を伏せたまま横目でマネさんの顔を見上げると、彼女は下唇をぎゅっと噛んでいた。

私のために……いいのに。どうせこの人に言ったって……

「だから10分休憩だって言ってるじゃないか。お前は紫乃をインターハイに連れて行けるのか?」

鼻でフッと笑った後、「できないもんな」とニヤニヤしながら言った。

「でも……!」

マネさんがボソッと言う。

「なら紫乃にもう走れないか聞いてみるか? なぁ、紫乃」

私はマネさんを見上げていた視線をタータンに戻し、顔を伏せた。

「はい、走れます」

「ほらな。じゃあ、10分後」



「よーい、はい!」

400mハードル2セット目の四本目を走り終えた時のことだった。

ズキン!

右足の膝に嫌な痛みを感じた。

「マネさん、ごめん氷をお願い」

彼女は慌ててクーラーボックスから氷を氷嚢に移し替えて、持ってきてくれた。

「紫乃さん、大丈夫ですか? 残り1本走れないって監督に言った方がいいですよ」

「いいの、言ったって聞いてくれる人じゃないから」

「私、もう一回言ってきますよ!」

子犬のようなアーモンド色の瞳で純粋に見つめてくる。

「いいのいいの。私が走ればいいだけの話だから……。いつものことだし、すぐ治るだろうし」

「先輩……」

そう。いつものこと。

父に言われるがまま、メニューをこなして。父のいる高校にも入った。

こんな痛みだって、慣れたらきっと痛くなくなる。

その時はそう思っていた。



「お疲れ様でした〜!」

練習を終えると、父は先に車で帰宅する。

「紫乃先輩、一緒に帰りましょう!」

尻尾を全力に振っているのが私には見えた。

「みほちゃん、今日は私の代わりに言い返してくれてありがとう」

「今日のメニューは横暴すぎましたよ! 先輩のお父上だとはいえ言いますが、特に紫乃さんには厳しすぎです!」

みほちゃんは1年生でありながらも、このパキッと明るい性格で周りを元気づけてしまう。そして周りをよく見ている。私よりも凄い子だと思っていた。

「紫乃先輩も言いたいこと、言わないとダメですよ!」

「そうだね」

「あっ、今先輩私にも気を使いましたね。先輩の悪い癖ですよ! それ」

「わかったって。気を付ける」

「あのう、先輩ってなんで陸上始めたんですか?」

「急にどうしたの?」

「いや、前から聞いてみたくてですね。やっぱり、お父上から陸上しろって言われたのかなって」

「それはぁ、違うかなぁ。私がやりたいって言ったの」

その答えに驚いたのか、みほちゃんはバッっと顔ごとこちらを向いた。

「そんなに驚くことかな。お父さんはあんな感じでしょ? それで私が小さい時から夫婦仲が良くなくて。私がお父さんとお母さんの橋渡しにならないとって思ったの」

「じゃぁ陸上はやりたく無いのに……?」

「それも違うかな」

「きっかけとかあったんですか?」

昔の記憶が思い出せなかった。

「あれ、なんでやりたいって思ったんだっけ」

「……」

「思い出したら教えてくださいねっ!」

察したみほちゃんは手を振って行ってしまった。


なんでだ……?

さっきのことを考えながら競技場から歩いて15分のバス停に向かっていた時だった。

右足の膝に痛みが走った。

いたっ。無理しすぎたかな……

右足の膝から下が鉛のように重く、足を曲げられなかった。

やっとの思いで足を引き摺りながらバス停に着く。



「半月板が削れていますね」

整骨院の先生に言われた一言だった。

 半月板とは膝関節の大腿骨(太ももの骨)と脛骨(すねの骨)の間にある軟骨に似た組織のこと。膝の滑らかな動きを助ける、クッション材のような役割を果たしている。

その半月板がハードルの跳びすぎによって削れていた。

「お父さんに、言える?」

帰りの車の中で母に聞かれる。

「うん。多分」

口ではそう答えたが、陸上が全ての父にしばらく走れないことを伝えるのがものすごく怖かった。

また、私をみてくれなくなるんじゃ……その疑念が頭をグルグルと回っていた。


家に帰って、すぐに自分の部屋に入った。

みほちゃんと話したことを思い出す。

なんで陸上をやりたいって思ったってことをみほちゃんに言えたんだろう。

ぼーっと、使わなくなった勉強机の下の段にひょろっとした白い何かが見えた。

「へ、へび? にしては細いよね」

恐る恐るキャスター式の椅子を動かす。

「あっ」

出てきたのは白地に水色のラインの入ったランシューだった。

買ってもらって嬉しくて捨てられなかったんだ。

思い出した、父に連れて行ってもらった競技場で仲良くしてくれた人がいたような。

名前が、思い出せない。

「そうだ」

バタバタと階段を駆け下り、キッチンのドアを開けた。



ビールを開け、飲み始めようとする父の姿がそこにあった。

「お父さん、話があるの」

「なんだ」

「私、思い出したの。これ……」

父にあのランシューを見せた。

「なんだ、靴じゃないか」

「靴だけど、ただの靴じゃないの。これは私が初めて走りたいと思えた理由。お父さんが競技場に昔よく連れて行ってくれた時に仲良くなった女の人がいたじゃない、覚えてる?」

「ああ〜、朝日奈のことか」

「そう。私、彼女のハードル姿を見てお姉ちゃんみたいに空が跳べたらなって。だからこのランシューを履いたの。それがいつしか、お父さんに言われるがままハードルを跳ぶようになって。今日まで、走りたいって気持ちを忘れてた」

「……」

「ねぇ、お父さんは私のこと見てるようで、見てないよね。お父さんが見てるのは選手としての私だけ。私はあなたのための道具じゃない!! 私のことをちゃんと見てよ!」

整骨院でぐるっと巻かれたテーピングを見せた。

「お父さん、これから私どうしたらいいの……?」

声がだんだんと鼻声になっていく。

白いランシューに涙が滴り落ちる。

「紫乃、すまんな。俺はいつの間にかお前に無理をさせてたんだな。怪我が治るまで時間もあることだし、今度お前の好きな寿司でも食べに行くか。インターハイのことは気にするな、お前には来年もある」

その時、父の目を久々にまともに見れた気がした。


私、堀内紫乃はそれから翌年インターハイで優勝した。


(了)


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