第8話 向日葵 討伐戦 2

薄暗い体育倉庫の中、一人待つ俺の静かな時間が流れていた。先程まで賑わっていた体育館から人々が去り、その余韻だけが漂う空間。遠くで聞こえる笑い声と古い木造の床が奏でる微かな軋み音が、現実と非現実の境界を曖昧にしていた。


古びた体操マットに腰を下ろした瞬間、その湿り気が服地を通して肌に伝わる。動くたびに、細かな埃が光の筋の中で踊るように浮かび上がる様子は、時間が緩やかに流れている証のようだった。汗と埃とカビの混ざった独特の匂いが鼻腔をくすぐるが、その感覚も次第に薄れていく。


そのとき—重たい扉が「ギィィ…」と鳴り、わずかに開いた隙間から覗いたのは、まるで倉庫の薄暗さを一瞬で払拭するような、眩しいばかりの笑顔だった。 向日葵の顔が扉の隙間からひょこりと現れる。向日葵の名前そのままに、まるで陽だまりのような温かさを放つ笑顔が、この笑顔は、人騙す笑顔だと俺は、知っている。


向日葵の明るい表情と対照的な、薄暗く静寂に包まれた体育倉庫。美月姫に指定されたこの密会の場所で、俺達の共同作戦が今始まろうとしていた。


「来ちゃったよー!えへっ」


 なんとも無防備な笑顔に、俺は思わず視線を逸らした。な…何視線逸らしてんだ俺!これから騙すんだろうがちゃんと向日葵見ろ!俺!


「おっ、おう……」


 向日葵はスタスタと軽い足取りで俺の方へ歩み寄ると、当たり前のように俺の隣に腰を下ろす。狭くて暗い密室、そこに女の子と二人きりという状況。正直、かなり、いや、めちゃくちゃ緊張する。


 さっきまで倉庫の中に漂っていたカビっぽい匂いが、今ではまるで消え去ったかのようだった。代わりにふんわりと香る甘い匂いが鼻先をくすぐる。これが…女の子の匂いってやつか……くぅ、やべぇ。


「こんなに…暗くて…狭くて…人気の無い所に…呼び出して…何するのかな?…かな?」


「まさか…イケナイこと、しちゃうんじゃないよね?…ね?」


「ねぇなんか言ってよ…こんな状況、普通じゃ済まないって…思っちゃうよ?…どうするの?」


「ドキドキして…声、震えちゃいそう…責任、とってくれる?」


「こんなに近くて…こんなに二人きりで…我慢、できるのかな?…ふふっ。」



 耳元で囁くように、向日葵が甘ったるい声を落とす。その距離、ほぼゼロ。


「ちっ、近いって向日葵!」


 反射的に声を上げると、彼女はくすっと笑いながら、無邪気に言った。


「やっと名前呼んでくれた〜嬉しいっ。これから…向日葵…お・し・お・き…されちゃうのかな?」


 ちょ、ちょっと待て!何言ってやがる!

 こっちはもう、距離が近すぎて心臓が限界突破してんだよ!それにその唇!ぷるぷるすぎるだろ!あ゛ーー!しかも…胸元が…うっすら見える……未成熟なちっぱいが……。


(ちっぱいで……ちっぱい……いっぱい……ちっぱい……う゛わーー!)


「いいよ…純くん…なら……」


 ……ん?これ……俺のちっぱいだったっけか?いいんだよね?……いいんですよねっ!?


「………………ゴクリンコッ………………」


 そのとき、脳内にビシッと響く、どこか冷ややかな声が飛び込んできた。


「あらっ意外だったわね。てっきり巨乳好きのエロ犬だと思ったのだけれど」


 次の瞬間、バタンッと体育倉庫のドアが勢いよく閉まる。俺と向日葵は、同時にドアに目を向けた。


「おいっ、どういう事だよ!これじゃ出れねぇじゃねぇか!あっ」


 これが、二時間前に北条が言っていたアクシデントってやつか…北条の上から目線の声が聞こえてくる。


「吊り橋効果よ。ルダスの特性は遊びの恋愛。ゲームや映画の様に非現実な危機的状況を二人で打破することで一時的に心拍数を上げるのよ。あとは、貴方次第よ!」


「あとは、貴方次第よって……恋愛経験皆無の俺に丸投げされたんですけど!」


「さっきも言ったでしょう?喜怒哀楽、どれかの感情を引き出しなさい!真剣に騙すと言っていざとなったら怖気付くとか貴方…本当に男性器付いているのかしら?」


はぁ?ちゃんと立派なのがデーンと付いてるわ!


「黙っていればいいものを……わざわざ醜態を晒すなんて。自己主張程醜い事は、ないわね」


「テ…テメェ…」


「ピコンッ♪ラヴポイントが上昇しているよっ! ピコンッ♪ラヴポイントが上昇しているよっ!」


 聞き慣れた、でもどこかムカつくあの機械音がラヴウォッチから鳴り響いた。


「………ハメたんだ………」


「向日葵…さん…」


 思わずそう呼ぶと、向日葵はピクリと眉をひそめた。

 その瞳に、じわりと光がにじむ。

 長いまつげに小さな雫が溜まり、今にもこぼれ落ちそうに震えている。

 声を出すたびに、その涙が今にも零れそうで、俺は息を呑んだ。

 それでも向日葵は、必死に唇を噛みしめ、涙を堪えていた。


「向日葵をハメたんだ!どうせあんたの仲間がドア閉めたんでしょ!もう!あんためんどくさいっ!またポイント奪えると思ったのにっ!」


「こんなん知らねぇって!たぶん先生か誰かが閉めちまったんだって!」


 まぁ……本当は知ってるけど。


「そんなの信じられる訳ねぇだろ!さっきから目がエロいんだよ!」


「だっ、誰がお前なんかエロい目で見るかよ!」


「はぁ?向日葵の胸見てたの気が付かないとでも思ってんの?」


 ……バレてた。


「ポイントの為だったらキスぐらい、いいかと思ったのによ…まっまさか!キス以上をしようと……」


キスは、良かったんだ……


 そのとき、怯える向日葵を見て、俺は思わず手を伸ばした。「ほい…」

震える小さな手を、そっと、包み込むように両手でふわりと掴む。

向日葵の指先は冷たくて、かすかに震えていた。

強く握れば壊れてしまいそうで、俺はできるだけ優しく、ぬくもりだけを伝えるように手を重ねた。

向日葵は驚いたように目を見開いたが、すぐに、ふるふるとまつげを震わせ、

不安と戸惑いの入り混じった表情で俺を見つめ返してきた。

その視線が胸に刺さる。


「ギィャー!何気安く触ってんのよ!離せ!マジで叫ぶぞ!」


「………誰かー!童貞が御乱心よー!〇〇されて!〇〇されちゃうー!」


向日葵の手を包み込んだ瞬間、かすかな震えが、じかに伝わってきた。

それは冷たい風に吹かれた小枝のように、か細く、頼りなかった。

ふるふると震える指先。

その震えは、言葉よりも雄弁に、向日葵の不安と怯えを訴えていた。


「お前……怖いんだろ?」


「へっ……?」


  一瞬だけ、向日葵の表情が止まった。

 驚きと動揺が、隠しきれずに顔に浮かぶ。

 まるで時が止まったかのように、目を見開いたまま固まった向日葵。

 図星を突かれたことが、顔にありありと出ている。

 わずかに開いた唇、震える睫毛。

 どう取り繕おうかと迷った末に、向日葵はふいに目を逸らし、ヒューヒューと下手くそな口笛を吹き始めた。

 音程もリズムもめちゃくちゃで、余計に誤魔化そうとしているのが丸わかりだった。


「この歳になって暗闇が怖いとか……ありえないから……」


「こんな暗闇であんま見えなくてもよ。こうしとけば、誰かが居るって実感できるだろ?まぁ……だからなんだ、俺が近くに居るから安心しろって話だ」


「……ふふっ。何それ、男気見せちゃってんの?ダサッ」


「うっ、うるせぇな……俺だってちったぁ気を遣ってんだぜ?」


「わかってるよ……ありがとね。少し、気が紛れたよ」


「おっ、おう……なら良かったけどよ」


「てかさ…最初から……ごめんね」


「なんだよいきなり、らしくねぇだろ」


「ふふっ。向日葵だって反省する時はあるよ。怖い時に助けてくれた人を嫌うほど腐ってないよ…」


「そっ、そう?」


「そうだよっ。今まで助けてくれる人、いなかったし……」


 その言葉に、俺は昼間の事を思い出す。


「そうだっ!ネグレクト!大丈夫なのかよ!」


「あーあれね。もう産まれて十六年同じ生活してるからね、両親のあしらい方も知ってんのよ。だから大丈夫。純くんに言ったのは……ただ単に同情を引く為だよ」


「……本当に、大丈夫なんだな?」


「ふふっ、本当にお人好しだね……でも、ありがとね」


「そうか? 普通だと思うけどな」


「……もしさ……もう一度……向日葵と……」


 その時だった。

ガチャッと、鍵が外れる音が倉庫内に響き渡った。

静寂を破るその音に、俺たちは同時に顔を上げた。


「あれっ、ドア開いたんじゃね?」


 俺は急いで立ち上がり、取っ手に手を掛ける。

 金属の冷たさが、緊張で火照った掌にひやりと染みた。

 ドアを押し開けようとした――その瞬間、ふと胸に引っかかるものを感じ、俺は振り返った。


 向日葵は、マットの上にちょこんと座っていた。

 小さく身体を丸め、心細そうにこちらを見上げている。小さく呟いた。


「も…もう一回…友達になってって言ったら……」


 俺は、満面の笑みを浮かべて、言い放つ。


「お前なんかと友達になるかブゥワーカ!」


 声が倉庫に響き渡る。

 向日葵が、ぽかんと目を丸くするのが見えた。

 でも、そんなの知ったことか。

 やっと、やっと言ってやったんだ。

 心の中では、勝利のガッツポーズを決める俺。

 でも、顔はあくまでニヤニヤとしたままだった。


「……へっ⁈」


「俺が何度も同じ手に引っかかるかっての!童貞の純情弄んだ罪は重てぇんだよ!俺とお前は敵同士!悔しかったらポイント奪ってみやがれ!」


 そう言って、俺は走り出す。後ろから聞こえるのは、罵詈雑言の嵐だった。


「……ろす……」


「殺す!」


「待てコラァァァァァ!!」


 向日葵は、顔を真っ赤にしながら俺を追いかけてきた。後ろからは、向日葵の怒声と、ドタドタと必死な足音。

 その迫力に、思わず笑いが込み上げる。

 だけど油断はできない。

 あいつ、本気で怒ってる。


「クソ純!あんたは絶対、向日葵が殺す!」


「やれるもんならやってみな!へへーん!」


「待て!この粗チン野郎!」


「おい!俺のビッグマグナムに向かってなんてことを!」


「何がビッグマグナムじゃ!あんたのは輪ゴム銃で十分じゃ!」


「はぁ?見たことねぇだろが!」


「見なくても分かるわボケッ!」


「ピコンッ♪ラヴポイントが上昇しているよっ! ピコンッ♪ラヴポイントが上昇しているよっ!」


「ラヴポイントが100ポイントに上がったよ!Fランクに上がったよ!トゥルルルルン♪」


「……まぁ、今回は及第点ってとこね。まずは、一つ……」


お嬢様と俺の作戦は、成功した。このあと数時間の間、向日葵に追い回されたのだった。


 俺とお嬢様の戦いは、まだまだ続く——。

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恋愛学園の舞踏王様(プロムキング) ikki @Adgjkl33

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