第5話 百合姫の結婚
百合姫の肌は実母に似て、透けるように白く、輝く髪は流れる滝のごとく金色。瞳は際王譲りの知性を感じさせる深い緑。その色は翡翠色と称される。佇まいもその声も、どれもが人を惹きつける。
際家の宝石と称えられ、蝶よ花よとかしずかれて大切に扱われて育った姫ではあったが、奢ることなく、賢く心優しい、思慮深い娘に育っていた。
それは、百合姫の教育係りの卒家の梅名と、同じく乳母の卒家の喜玖の厳しくも優しい導きの賜物であった。
百合姫は、際王家を継承する唯一の血筋であり、契りの妻に瓜二つの容姿も相まって、際王は娘を溺愛していた。その溺愛ぶりは、際国の重臣のみならず、領民、隣国にまで知れ渡っていた。
百合姫の成長に伴って、契りの相手の選定に重臣達が候補を挙げていくが、百合姫自身が乗り気でなく、際王家の傍系親族、重臣の子息などが挙がったが、その誰にも百合は頷かなかった。仕方なく、縁戚関係にある国の王族、もしくはその重臣など、これはという候補者と合わせてみたが、百合は首を横に振るばかり。
王族との面談では、御簾越しという訳にもいかず、直接合う形を取ったが、百合を一目見た男達は、百合に選ばれようと、選ばれたいと乞い願うが、契りの者を選ぶのは女。上神の思し召しがなければ、男は選ばれない。百合の美しさについての評判だけが、近隣諸国に伝わっていった。
そして、契りの相手に出逢わぬまま、月日は流れ、百合は匂い立つような美しい女性へと成長した。
年頃になると、女は、子を産める印があった翌月に、成人の儀が行われる慣習になっており、際国もそのように抜かりなく準備を整えていた。通常は、成人の儀までに契りの相手は見つかっており、成人の儀のその席で婚姻の相手と婚儀が行われるのであった。しかし、百合にはまだ夫となる相手が居ない為、成人の儀式だけを行う事となった。
百合が成人の儀を執り行うめでたき日、この日を祝う為に、近隣諸国の王族や豪族たちが訪れ、祝いの品を献上し、一目、噂の美姫を見たいと列をなした。
あわよくば上神の思し召しに適うのではと淡い期待を抱いて、熱い視線を百合姫に向けるが、高身の席の御簾の中から声がかかる事は無かった。
儀式は、早朝の日の出と共に始まった。初夏の淡い緑の木々の葉のさざめきの中、小鳥たちの朝のさえずりを聞きながら、儀式の場に百合と父親の際王龍州はそれぞれの輿に揺られて、聖域の寺院に着いた。
場所は、上神を祀った廟の湧き水の泉で執り行われる。泉といっても広さはかなりある。その泉の対岸に、儀式を見守る貴賓の席が設けられており、儀式の様子をつぶさに見せる趣旨の席である。本来であれば、その泉に婚姻の相手と共に身体を浸して婚儀を行うが、今回は百合姫が一人で身を清める運びとなった。
朝日を浴びながら、百合姫は現れた。まばゆい金糸の髪を高く結い上げ、白地の衣装をゆったりと優雅に着こなして、百合姫が歩きはじめると、遠い貴賓席の参列者からどよめきが広がった。際王の娘は、その高い身分ゆえに、近しい者達以外に姿を見せた事が無く、顔を晒して人前に出たのは今日が初めてであった。遠目からでもその佇まいの美しさと気高さは十分に周囲に知らしめる事ができた。白地の衣装にはふんだんに吉兆の花の刺繍が縫い込まれていて、一歩踏み出すごとにその施された銀糸が揺れてきらめき、優雅な裾さばきが更にその姿を美しく見せている。
寺院の最高位の官からの祝福を受けたのち、ゆっくりと泉の清水に足を踏み入れて身を沈め、頭の先まで浸かって姿は見えなくなった。数秒後、再びゆっくりと頭が見え、肩が見え、身体が現れた時には、周囲はその美しさに息を呑んだ。ゆったりとしていた衣装は、今は百合姫の身体にぴたりと沿って流れるようなきらめきを発しており、清水を滴らせながら水から上がったその姿は、さながら女神のようであった。本来であれば、婚姻の相手が抱き上げてそのまま寝屋に連れ込むのがしきたりであるが、今回は父の際王が白布に包んで抱き上げて連れ帰った。儀式はしめやかに終わりを告げ、場所を移して夜を徹しての宴へとなった。
儀式で百合姫の姿を目に焼き付けた貴賓席の者達から、臨席出来なかった者達へ、百合姫の余韻が語られた。未だ契りの者が決まらぬ事に希望を見出す者も少なからず居た。
そして、その晩、宴が終盤を迎え、酒に酔った者達が、そろそろと宿泊房や寝屋に引き上げて行った後に、事件は起こった。
百合姫の寝間に押し入り、強引に想いを遂げようとした者が現れたのだ。それは、百合の母方の遠い縁戚の北の小国の由国の王子で、百合姫の泉での姿が忘れられず、更には、夫選びに声がかからなかった事に業を煮やし、酒の力を借りて、あろうことか、押し入ったのだ。
どうやって忍び込んだか、突然現れて、百合付きの侍女に当身をし、気絶させた後、怯えて声も出ない百合姫の夜着に手をかけ、引き寄せ、組み敷き、夜着の裾を乱暴にたくしあげるといきなり百合にのしかかろうとした。
正にその時、突然男が走り込んで来て、狼藉者を後ろから羽交い絞めにし、引き倒して百合から引き離すと、百合の身体を起こして背にかばって間に割って入った。その男の逞しい広い背中を見て、百合は守護の衛持が来たのかと思った。だが、着衣の様子が違う。
その屈強な背中の男は、狼藉者に向かって静かに言った。
「思いとどまられよ。」
その声に、百合は身体の中から何かが飛び出して来るのかと思う程の衝撃を受けた。広い背中をまじまじと見つめて、恐る恐る触れてみた。大きな体躯のしっかりとした固い感触の背中から、緊張感が伝わって来た。男は丸腰であった。
せっかくの機会を邪魔されて、後がない狼藉者は、一途に決めた決心を遂げられなかった事に激高している様で、怯まない。腕に覚えはあるようで、無言で腰に帯びた太刀に手をかけた。
その様を目にした百合は、やっとの事で、喉も張り裂けんばかりの悲鳴をあげた。
百合姫の悲鳴を聞きつけて、屋敷内がざわつき始めた。由の王子は舌打ちし、引き下がろうとしたが、百合の悲鳴で急に正気付いた侍女が王子の脚にしがみ付いたので、不意を突かれて後ろに倒れそうになり、咄嗟に掴んだ几帳ごと、大きな音を立てて床に転がった。侍女は溺れた者が縋りつくかのように王子の脚に取り付いて離れない。想いを遂げられないばかりか、逃げる事も邪魔された王子は怒りを込めて侍女に拳を振り下ろそうとした。
「ええい、離せ!」
「やめられよ。」
すかさず、屈強な広い背中の男は、王子の拳を掴んで押さえた。王子は怒りに顔を歪めて、腰の太刀に手をかけた。しかし、鞘から抜く前に男に拳ごと強い力で握り込まれて、その手を動かす事さえ出来ない。二人の男は、至近距離で睨み合った。
だが、それは短い時間だった。
悲鳴が聞こえはしたが、その声の出所が分からなかった不寝番の衛持達が、その後に続く大きな物音を聞きつけ、足音も荒く駆け付けて来たのだ。
事もあろうに、際王の愛娘の寝室からの異変に、衛持達は顔色を変えて駆け付けた。そこには、百合姫の寝間で、睨み合う男が二人。百合姫の前で躯体の大きな質素な服装の男が、貴族の服装の男を押さえ込んでいる。どう見ても、侵入したのは、質素な服装の男と見えた。
しかし、貴族の男の脚には、侍女が取り付いており、大きな男に床に押さえ込まれたような格好が、不可解だった。衛持は予想外の光景に、一瞬動きを止めたが、そこは警備を担う武人達。油断なく二人の男に剣の先を向けて囲むと、睨みをきかせた。
一人の女性衛持が百合姫をさっと助け起こすと、抱き上げて、部屋から連れ出して行った。衛持の登場に安心して手を離した侍女だったが、腰が抜けており、当て身を受けたせいもあってか、その場にくず折れてしまった。衛持の一人が侍女を助け上げ、抱き起こして部屋の隅に連れて行った。そのまま、侍女に事の経緯を尋ねていく。侍女はつっかえつっかえ話していった。
諦めた由の王子は
「もうよい。離せ。」
と、自分を押さえ込んでいる男に、忌々しそうに言った。屈強な男は手を離して数歩後ろに下がったが、警戒を解いてはいない。この質素な服装の男は、いかにも武人という大きな体躯で、浅黒い肌に黒い巻き毛の髪を宮廷風に結い上げている。腰に小太刀さえ帯びず、丸腰で、その油断のない佇まいから、かなりの使い手であると見受けられた。服装は質素ながら、織りのしっかりした上質な布のようで、それなりの身分ではあるようであった。
「我は、由国の第2王子の尚恒という。百合姫に夜這いをかけたが、この者に邪魔をされた。」
そうあっさりと言う言葉に、衛持達は絶句した。確かに、身分のある無しに関わらず、年頃の娘に婚姻前に夜這いをかけることは、常ならよくあることである。契りの者でないなら子が出来る事は無いし、娘の側も受け入れるのであれば許されている。ただし、その際は親に同意を得る事が暗黙の了解で、夜這いをかけられる娘の側も、前もって知らされている。
際王が百合姫に夜這いをかける事を許すはずは無い。下手をすれば討ち取られていたかも知れない。余りの愚行に、言葉も出ない。
更に尚恒は開き直って胡坐をかいてその場に座り直した。
「我の邪魔をしたお前は、誰だ。名を名乗れ。」
と、真っすぐに男を見据えて問うた。衛持達もこの謎の武人が誰なのか、知りたい所だったので、黙って返答を待った。
男は、やれやれといった様子で、仕方なく尚恒の正面に同じように座ってから、答えた。
「私は、東の那国の、更に東の果てにある、壇家の城主、壇 篤盛と申す。」
それだけを言った。
東の那国?城主?壇家?衛持達は困惑した。
何故、東の果ての国の、王族でもない者が、この際国の宮殿の最奥の、際王の愛娘の寝間に深夜にいるのか??
「由の尚恒王子の行いは、決して容認出来ないものですが、壇 篤盛殿もまた、行いの怪しさでは、王子以上かと思われます。」
衛持頭は、思わずそう言った。それを聞いた篤盛は
「確かに。」
そう認めて、肩を震わせてくっくと笑い始めた。夜の静けさの中では、その抑えた笑いでも、よく響いた。
「お控えください。ここは奥の間。尊い方々がおられる屋敷ですので。」
「いや。すまん。つい。事の経緯を、ここで説明させてもらってもよいかな?」
衛持頭の苦言に、篤盛は笑いを収めるように何度か咳払いをして、何とか笑うのを収めた。その時、その返答は衛持からではなく、別の方角から発せられた。
「ここは百合の寝間。尋問は余の政務の間に移して行うのが良かろう。余も同席する。」
思いがけず、際王自ら出向いて様子を見に来ていた。
隣の室の扉が静かに開かれた。そこには、際王付きの太刀持ちの青年二人を従えた際王が夜着よりも更に軽装な薄い短着で立っていた。
慌てた衛持達は、際王に礼を取り、跪いた。由の王子も、壇の篤盛も礼を取り頭を垂れた。衛持頭が時間をおもんばかって
「では。明朝、時間を改めましてから。」
そう切り出したが
「よい。このまま室を移して行う。どうせもう眠れぬ。じきに夜も明ける。」
際王はそう言い置くと、退出して行った。夜明けまでにはまだ間があるが、際王自らがそう決めたなら仕方がない。急に屋敷中の明かりが次々と灯され、いつになく騒々しく屋敷内が目覚めていった。
由の王子尚恒と那国の壇 篤盛の二人は、衛持達に囲まれて際王の政務の間に通され、拘束される事は無かったものの、冷たい床に直に座らされた。
政務の間の正面、玉座には、既に際王が座っていた。服装は、先程の短着の上から金糸の縫い取りのある朱色の衣を肩から掛けただけで、腕を通す事もなく、鞘に納めた剣を正面に両手で持ち、その剣の柄に上体を乗せるようにして、こちらをじっと見つめていた。
その様子は、騒動を起こした者達への怒りを抑えているようでもあり、二人を値踏みするようでもあった。
明るい部屋で見る際王は、座していても余人を威圧する雰囲気のある男であった。深い緑の双眸は思慮深さを感じさせ、白髪の混じった黒味の強い茶の髪をゆっくりと後ろに束ねて流してある。剣から伸びる腕には無駄がなく、下の短着から覗く脚はよく締まっており、かつての歴戦の王らしく、いつでも抜刀できる緊張感があった。
千年と言われる歴史の間、存在している際国。
その起源は際国の西にある断崖の先にある深海の森から来たと伝えられている。その断崖は天を刺すように急峻で、登りきれた者は無く、断崖の先には森があると伝わっているが、それを見た者は誰もいない。
古い際国も現在の際王の龍州が王に立ち、治世するようになってからも、地方豪族同士が血で血を洗う戦を繰り広げ、その乱世を機知と武力を武器に粛々と平定していき、現在の戦の無い世に納めたのが、龍神の加護を持った、際 龍州であった。
戦では先陣を切って馬を駆り、勇猛にして果敢。将としての信頼も厚く、冷徹であっても部下への情には厚く、身分を問わず部下を大切にする王であった。
百合の寝間に夜這いの狼藉をかけた、不届者を静かに睥睨する際王龍州は、何を考えているのか、尋問の言葉を発する事もなく、動かない。
百合の寝間から引き立てられてきた由の王子尚恒と、那国の壇 篤盛は、際王の玉座の正面の下段で並んで際王に礼を取って頭を垂れている。その二人に、面を上げさせる言葉も発さずに、無言でただ見つめている。深い沈黙が痛い程部屋に充満していた。むざむざと百合姫の寝間に賊の侵入を許した衛持達も視線を下げたまま、動けずにいた。衛持頭は堅く握った拳がかすかに震えている。
どれ程の時間が過ぎたのか。空が白々と明るくなり始めた。
際王龍州は、怒っていた。怒りに任せて眼前の二人と衛持達に厳罰を与えようかと逡巡していた。
『どのように罰すれば溜飲が下るだろうか。』
しかし、今回の事態も、由の王子への対応の仕方によっては国家間に軋轢を産む。得体の知れない壇という男の情報も無い。現在、宰相に東の那国の誰が際国に来ているのかを調べさせている。献上品の銘柄とその産地。手持ちの忍びの長に、由と那国の情報を至急報告するよう、鳥を飛ばした。
要するに、情報待ちの状態である。
二人の男の首を怒りに任せて切り落とすのは、たやすい。警備の衛持を叱責して衛持頭を殺すのもたやすい。だが、百合が無事であった。その事に安堵している。
畏まって小さくなっている衛持頭には、年老いた母がいる。体の弱い末の娘はまだ幼かった。などと、つらつら考えて、
『人材を育てるのは、殺すことより難しい。』
宰相湛雄の言葉を思い出し、小さくため息をついた。今後の対応は、宰相に丸投げする事にした。
その、寒い程の沈黙の中、遠くから廊下を足早に進んで来る衣擦れの音がした。政務の間の貴人用の入口の前で、侍女が膝を付いて、頭を床に擦らんばかりに下げた。急いで来た為か、息があがり、肩が微かに揺れている。
「何事か。」
際王は侍女に声を掛けた。だが、目は眼前の男達に向けている。
「際王様に申し上げます。百合姫様付きの佐佐にございます。百合姫様より、父王様に急ぎお話する義があると言付かりました。願わくば姫様の室までお越しいただきたいとの事でございます。」
際王は佐佐を見た。佐佐は微かに震えている。顔は伏せているが見覚えのある娘である。確か、政務の官吏の娘であった。百合より一つ年上であったか。などど思い出しながら、
「この、今、か?」
と問うてみた。佐佐は更に震えながらも
「はい。お急ぎのご様子です。」
と、はっきりと言った。
際王龍州は、不意に、衛持頭に面目躍如の機会を与えてやる事にした。
「衛持頭、この二人の尋問を百合の様子伺いの後から行う。もう夜も明ける、この室では政務に障りが起こる為、室を移せ。査問の間がよかろう。では、後ほど。」
そう言って、際王はその場から離れた。
『百合も、どんなにか恐ろしかったことだろう。』
そう思うと、すぐに様子を見に行ってやりたくなった。
百合は、自室で父が来るのをじっと待っていた。
今までに感じた事のない興奮に、動揺していた。自分を背にかばった彼の大きな背中。一瞬触れた肌の感触が指先に残っている。そして、彼のあの声。
百合は己の全身に上神の思し召しが下った事を感じた。もう一度、彼に逢わなければならない。もう一度あの声を聞いて確かめなければ。
万が一にでも、怒りに任せた父が、彼を許さず殺めてしまうかもしれないと思うだけで胸が締め付けられた。
父は勇猛果敢で誇り高く、冷徹であると噂されている。恐れられ、視線一つで人の生死が決められると聞いている。そこに余人の意見の入る余地は無いとも。百合だけにはとにかく優しい父であるが、優しい中にも厳しくある父が好きである。しかし、先程の事件は余りにも突然で、父がどう出るのか予想がつかない。
必死の想いで、侍女の佐佐に使いを頼んだ。百合の剣幕に事情も分からないまま佐佐は父の元へ走ってくれた。時間が経つのが、とても遅く感じる。もう待ちきれなくて、腰を上げかけた。
「百合。大丈夫か。」
言葉と一緒に、父が現れた。その心配そうな顔を見て、着衣に血のシミが無いのを見て、安堵の涙がこぼれた。そこで、気付いた。自分は恐ろしかったのだ。
生まれて初めて、父以外の男に触れられた。しかも、突然に。有無を言わせず組み敷かれた。押し退けようとしたが、ビクともしなかった。自分は恐ろしかった。とても、恐ろしかったのだ。上神の思し召しに出逢えた事を喜ぶ余裕もなく、自分でも自分の中の感情が表現できない程に。
震えながら泣く娘に、父は駆け寄って、抱きしめた。そして、幼子にするように優しく背中をさすった。
『父の懐の中は何と安心する場所だろうか。』
「もう大丈夫だ。父が付いている。お前を泣かせた奴は、後から罰してやろう。」
『後から罰してやろう』の一言に、百合はハッと顔をあげた。涙をいっぱいに貯めた瞳で、父を見つめて、嗚咽で上手く言葉が出ない事がもどかしいように、それでもはっきりと、言葉を父に伝えた。
「お父様、私に上神の思し召しが下りました。」
百合は、震えながらも父に告げた。際王は目を見開いてまじまじと娘を見た。
際王は、百合の室を出ると、お付の小姓の一人に
「至急宰相を呼べ。急ぎだ。余はこのまま自室に戻る。」
そう言付けて、足早に自室へと取って返した。室に入るなり忙しく動き回り、侍女を急かして衣服を改め、急いで持って来させた朝食の膳の食事を、座るのももどかしく下品な程早々と平らげた。この際、下品もくそもない。戦場にいた頃は、食事は最大限早く残さず食える時に食い、作戦を練らねばならなかった。
今は、百合の契りの相手が現れた、際国にとっての一大事といってもいい状況である。食う物は食って、頭をすっきりさせねばならない。昨晩の睡眠不足を補う為にも。しかし、食後のお茶は、作法に則ってゆったりと、香りを堪能しながら飲み干した。そうしながら、今後の対策を頭の中で巡らせた。
侍女が龍州の髪を整え、髭を整えている間に、忍びの長自らが室の中に忍びやかに現れた。龍州と宰相と忍びの長しか知らぬ隠し扉から現れたのだ。忍びの長の出現に全く気付かないままの侍女を下がらせて人払いをすると、忍びの長は王の前に進み出て膝を折り、懐から小さな紙片を差し出した。長は終始無言である。龍州は、紙片の中に細かく隙間なく書かれた文字に目を通した。
「闇より暗い暗の民の長、夜一殿。ご苦労であった。」
龍州は、忍びの長に対して、礼を言った。龍州は、彼ら諜報に長けた一族に対して、常に敬意を払っている。龍州自身も戦場では彼らに幾度となく命を救われている。身を呈しての龍州への忠誠に対して、常に真摯であろうとしている。
暗の民は、決して表に出て来る事は無い。いつの間にか、馴染んで、何処かに住んでいる。誰にも怪しまれることなく、いつの間にかそこに居るのだ。彼らの身体能力は素晴らしいが、その突出させない見事な引き際といい、誰からも注目されない程度に見せる技術といい、自然と人目を引いてしまう龍州からすると、その能力は計り知れなかった。長の夜一は、近年になって、前の長からその役を引き継いだようだが、彼らに血縁関係があったかも、龍州は知らない。前の長の空夜が、ある夜にひっそりと忍んで現れ、その後ろに今の長の夜一を伴っていたのだ。空夜はまだまだ引退には早い年齢に見られたが、
「次の暗の民の長の『夜一』と申します。」
それだけを伝えに来たようだった。紹介された夜一の方も、黙って頭を垂れただけで、一言も発しなかった。夜の暗がりの中では、夜一の顔もよくは見えなかったが、その佇まいは風が吹いたら消えるのではないかと思わせるには十分な様子で、妙に納得したのだ。深い墨色の衣装に、黒い髪。年齢は、若くも見えれば、壮年にも見える。
今、目の前の夜一は、明るい室内では違和感の無い程度の、普通の高級官吏の服装をしており、顔もこれといって特徴のない、どこにでも居そうな顔である。今は青年に見える。その彼は、龍州からの謝意を受けて、深く叩頭すると、現れた時と同じように忍びやかに室を出て行った。
夜一が去ったすぐ後に、宰相に使いをさせた小姓が戻って来た。宰相を後ろに伴っている。
際国の宰相の名は環 湛雄。際王龍州の乳兄弟で幼馴染。幾多の戦場を共に戦った戦友でもある。戦時下では軍師として采配を振るい、自ら兵糧の計算もし、趣味は星読みという偏屈者である。
際王の居室に入るなり、宰相は
「人払いを。」
と際王に告げた。際王は小姓に目配せで退出を命じた。心得たように小姓は下がっていった。人気が消えるのを待って
「湛雄、茶はどうだ?」
際王龍州は友に声をかけた。二人だけの時は旧知の仲の友に戻る。龍州は手ずから急須の茶を入れて、湛雄に差し出した。
湛雄は、宰相特有の長めに下がった袖をバサッと両腕にからげて、にょっと腕を出すと、差し出されている湯吞みを片手で掴んで、立ったままで茶を一気に飲み干した。湯吞みも龍州が使ったのと同じ物である。
飲み干して、ふーーっと大息をついた。
「あー、忙しい!まったく。由の王子のせいで、いらぬ仕事が山の様に増えたわ。朝餉も食い損ねた。何か食える物は無いか?」
龍州が卓の引き出しから干菓子を引っ張り出した。更に干し飯の入った袋を出して、茶器の載った盆にパラパラと広げた。
湛雄は、書棚用の踏み台を引き寄せて、龍州の正面に座ると、盆の中の干し飯をつまんでせっせと口に放り込みながら、自分で茶を汲んで飲んでは、調べた成果を報告してゆく。
北方の由国は小国ながら政情は安定しており、北の隣国の卒国が賀国に滅ぼされて、国境を接するようになってからは、南西に接する強国際との縁を強固なものにしたいと、頻繁に高官の使者を伴って王太子が際国の王宮を訪れていた。百合の母の卒王家の傍系の遠縁に当たる縁もあるその由王家であるが、その次男が、今回騒動を起こした尚恒であった。長兄が既に立太子して王位を継ぐ事が決まっており、その王太子には契りの妻もおり、現在身重である。すぐ下に弟がいて、努力家のその弟は、文武において兄の尚恒よりも優れていて、由国の武官の頂点で既に才能を発揮していた。尚恒は優秀な兄弟に挟まれて肩身が狭く、婿養子先を探している状況であった。
今回の慶事には、本来ならば長兄の王太子が訪れる予定であったが、妻のお産が近い為、次男の尚恒が、多くの国の身分高き方々と縁を繋いで、身の振り先を探る思慮でもあったようだった。末の弟は軍部で賀国に睨みを利かせている為に、自国を離れられない。尚恒は酒が入ると気が大きくなる質で、残念なことに酒がらみでの失敗談が多数あった。
「尚恒王子の酒での失敗談の報告を見たら、余りに多くて、すべてに目を通すのは止めた。持って来てるが、読むかい?」
湛雄は、数枚の報告書を手元の文書箱から出して見せた。その文字の多さをチラと見て、龍州は呆れて首を振った。
東の那国については、国交は直接は行われていない事を、まずは報告した。那国自体が、地方豪族がそれぞれで城を構え、際国の州を州候が治めるように、その城持ちの豪族が持領の境界を主張して、そこを統治している形をとっており、その幾つかの城持ちの豪族が集まって、『那国』として機能している。領地の境界は曖昧で、常に小競り合いをしているが、不思議な事に持ちつ持たれつで大きな戦にはなっていない。那国からの来客は壇家一行の数名だけであった。
檀家の領地は、那国の東の端に位置しており、東側は東海という海に面しており、東海には数々の小さい島が点在し、その有人の島の統治を壇一族が代々担っている。海の幸が豊富で、真珠や珊瑚、色とりどりの貝の装飾品が特産物である。檀家は船団を所有しており、交易は陸路よりも海路で行われている。
今回の献上品も、見事な真珠の首飾りや胸飾り、珊瑚の腕輪、珍しい紫赤の珊瑚の房飾り、美しい螺鈿の貝細工の化粧箱。品質も細工もどれも一級品の品が贈られていた。
湛雄は、それらを、つらつらと諳んじて報告した。
「なお、今回の成人の儀に那国に対しての招待の使者は送っていない。そもそも那国に王に当たる者が居ないので、招待のしようがない。統治の豪族の数も、城が幾つあるのかも、把握していない。把握は今後早急に行う。
賓客を迎えた収納係の者も、余りに見事な献上品を見て、招待国と判断したそうだ。遺憾だが、招待状を見せぬ王族も時々いるから、身分高い方に一介の収納係が書状を見せろとは、言えないそうだ。」
「どの国の者が書状を見せていないか、把握しているか?」
「把握している。今後の為にも、調べ上げたさ。幸いな事に、紛れ込んだのは、壇家の者だけだった。ついでに、王宮の門をくぐった貴賓から従卒から侍女まで、調べあげた。我が城の優秀な侍女達と共に、全ての人数を把握した。」
湛雄は、そこまで一気に報告すると、最後の干し飯を口に入れてがりごり噛んでごくんと飲み込むと、続いて干菓子を口に放りこんで平らげ、残りの茶と一緒に飲み下した。
「百合姫付きの侍女の容態も安定している。話も聞けた。由の王子の単独犯だ。」
「ご苦労だったな。那国の事については、暗の民の長からの報告を見せよう。」
龍州は、宰相湛雄を労った。
「先程、百合の様子を見に行ってきた。由の王子の首を切り落としてやりたくなったよ。百合には当分、不寝番の女の武官衛持を付けるように。衛持頭と衛持の処分は、宰相に任せる。」
龍州は、そこまで言って、言葉を言い淀んだ。いつもと違う様子に、湛雄はいぶかしみつつ、次の言葉を待った。
沈黙が流れる。龍州は、何とも言えない表情で(そんな顔を見せるのは、湛雄にだけなのだが)帯に吊るした房飾りを触っている。その房飾りは、最愛の契りの妻の雪花が手ずから彫った山鹿の角の飾りだった。龍州は、その飾りを常に持ち歩いている。龍州が余りに触るものだから、房の部分はすぐに擦り切れてしまう。自分でいつも房を編んで付け替えている。飾りの彫も、当初は龍と判別出来たが、今は何を模しているのか分からなくなってしまっていた。
龍州が契りの妻と一緒に居られた期間は、1年足らず。その妻の雪花が亡くなって数年して、政治の上で必要であった為に婚姻によって側室を二人迎えたが、その側室も契りの夫に出会えなかった他国の姫で、子は授からなかった。側室と龍州の母の皇太后との仲も良く、奥向きの采配を3人に任せている。
今でも、龍州が深く愛しているのは、雪花だと、その房飾りを見る度に湛雄は想うのだ。百合姫に生き写しの、美しい人であった。
「百合に、上神の思し召しが下った。」
ぽつりと、龍州は言った。
湛雄は、すんでの所で、驚きの声を上げるのを堪えた。
「どうやら、壇の篤盛の方らしい。」
「……おめでとうございます。」
湛雄も、それだけを伝えた。今か今かと上神の思し召しを待っていたが、今、この時とは。今後の最善の策を、頭をフル稼働させて密かに構築していった。
宰相湛雄は、対応出来ることから、際王龍州に伺いを立てていった。
すっかり夜が明けて、朝議の時間を告げる早朝の鐘が鳴ったと同時に、際王龍州は優雅に立ちあがった。湛雄の綿密な計画の案のおかげで、龍州はいつもの落ち着きを取り戻した。
「査問の間に向かう。宰相は朝議の間にて、今後の道筋を調整するよう。」
「承りました。」
宰相環 湛雄は、胸に手を添えて目を伏せ、際王龍州に対して礼を取った。
際王龍州は、ゆったりと威厳に満ち、金糸で龍の刺繡が施された王の衣装の中でも、婚姻等の慶事にしか着用しない紫地の着衣を身にまとって、その衣装を滑らすように足早に歩を進めていった。例え今、背後から切りかかられても返り討ちできるであろう程の気迫に満ちていた。その後ろを、太刀持ちの小姓二人と、護衛の近衛二人が付き従っている。
査問の間では、大柄な衛持に左右を挟まれる形で、二人の男が椅子に座らされていた。由の王子の尚恒は、王族であるという身分を慮って手足の拘束はされていないものの、太刀は取り上げられ、乱れた髪もそのままで、座っていた。顔色は青ざめ、ぎょろぎょろと周囲の様子を伺う様は、完全に酔いが醒めて今の状況に怯んでしまっているのが丸解りだった。
一方、那国の城主の壇 篤盛は、同じように大柄な衛持二人に挟まれていながら、腰かけた椅子の上に器用に胡坐をかいて、すうすうと寝息を立てて眠っていた。
「際王のおなりです。」
査問の間の入口で、この室付きの武官が声を張って告げた。
室の空気が一気に張りつめた。壇 篤盛の寝息が消え、胡坐を解いた。
室内の全ての者が頭を垂れて、際王に礼を取った。
まず、太刀持ちの小刀を携えた小姓が室内に入ってきて、一段高い高身の席の中央の椅子の奥側に立った。次いで大刀を携えた小姓が先導して、際王龍州が現れた。際王が中央の椅子に腰かけると、太刀持ちの二人の小姓は椅子の背の後ろに並んで立ち、その脇に護衛の近衛が油断なく立って周囲をさっと見回した。
衛持達は、際王の足元を見ていたが、いつもの衣装の朱色の赤と違う色に青ざめた。この色が意味する事に思い至ったのだ。
「皆、面を上げよ。」
際王が低く告げた。身分高い貴人に視線を合わせる事は不敬とされていたが、壇 篤盛はまっすぐな目で際王を見た。際王龍州も、その視線を受け止めた。
浅黒いよく日に焼けた肌。黒に近い茶色の髪を際国風に高い位置で結っているが、後れ毛がくるくると巻いて首筋に残っている。黒目がちの茶色の瞳は、こちらに興味深々とでも語っているかのように素直で、まっすぐだった。筋骨隆々の大きな躯体は衛持が細く見える程で、顔は美男とは言い難いが、好青年という風だった。屈強な肢体の割に悪辣さが無く、彼の人柄を表しているのであろうと思われた。服装は簡素だが丁寧な織り込み模様が施されている落ち着いた深い海色で、彼によく似合っている。丸腰であるが、体の力の抜き方といい、恐らくは武術の腕前もかなりの物と推察できる。
由の王子の尚恒はというと、結った髪が乱れて髷が曲がっており、北方の民特有の白い肌は青白く、手入れ出来てない髭が黒ずんで影のように顔に張り付いているかのようだ。濃い灰色の瞳は伏せられているが、充血した目が余計に瞳の動きを強調してしまい、揺れる彼の心情を表してしまっていた。服装は襟元は合わせがずれたままだし、袖は一部破れている。体はそれ程大きくはなく、手首も足首も細くて頼りなく見えてしまう。王族としてかしずかれて成長したであろう事が伺えた。
「余が、際国王龍州である。さて。由国第二王子尚恒殿。もう酔いは醒めたか?」
まずは、由国王家の面子を立てて、身分の高い尚恒に声を掛けた。際王龍州の発する威圧に、尚恒は言葉を返す事も出来ずに唾をごくりと飲み込んだ。膝に置いた拳が小刻みに震え始めた。
「余が、この場で、直に貴殿の我が娘への蛮行の理由を問いはせぬ。いかなる理由も聞く耳を持たぬからだ。由国においては、貴殿の行いもほとんど不問にされてきた経緯があるようだが、ここは際国。しかも、際国の後継者への狼藉に対して、余は宣戦布告と見た。由国に兵を差し向ける手筈は整った。貴殿は敵国の王子として虜囚となり、牢に幽閉する。今後の身柄については由国の出方次第。」
そして衛持に
「投獄せよ。連れていけ。」
と厳しく命じた。ここで初めて尚恒は
「お待ちください。由の者と対面させて頂きたい。伴に来た者達です。その者達はどうなりますか。」
両脇から衛持に引っ立てられながら、叫んだ。しかし、その問いに答える者はいなかった。更に抵抗するように暴れはじめたので、査問の間から出た所で待ち構えていた牢番屋の担当官4人から猿ぐつわを噛まされて手足を縛りあげられ、荷物のように抱えあげられて連れ出されて行った。
尚恒が騒々しく去った後、室内は異様な静けさとなった。
「東の那国から来られた、壇 篤盛殿。」
静かに、際王龍州は語りかけた。
「遠路はるばる、我が国の後継者である娘の成人の儀に起こし頂き、見事な献上品の数々にも感謝する。確かに娘に手渡そう。」
「ありがたき幸せです。」
篤盛は、胸に手を添えて目を伏せ、際王龍州に対して際国風の礼を取った。
「壇殿。貴国の那と我が国際との交易が成されていない為、失礼ながら那国について詳しい者が我が国に居りません。貴国の事について、また、今回の経緯について質問してもよいか。」
際王龍州は、穏やかに話を進めていく。篤盛は真っすぐに際王を見つめて
「寝静まった深夜に、大切な王太女の寝間に入る形となり、大変申し訳なく思っておりました。よもや、王太女の寝間であったとは、思いもよらないことでした。」
まずは、そう切り出した。
「言い訳に聞こえるのを承知で、経緯を話させて頂きます。」
そう言って、背を伸ばし、まずは一礼して、謝意を示した。その上で、昨晩の事情を話し始めた。
成人の儀の後の宴が引けた後、あてがわれた部屋に入り、一族の者と眠り始めたが、すぐそばの廊下を忍びやかに歩く足音の気配が気になって目覚めて、後を追った。警備の衛持達には不思議な事に、合うことなく、思いの外奥の間に入り込んで来てしまったので
『これは、既に逢引の話でも整っていて、要らぬ心配だったかも知れない。』
と思い至って、男が誰かの寝間に忍んで入って行ったのを見届けてから、元来た廊下を戻ろうとしたが、女の小さな悲鳴が聞こえ、不穏な気配がしたので、慌てて止めに入った。と語った。
「同意なく手籠めにしようなどと。壇の男として、許せないことです。」
篤盛は、尚恒の行いに憤慨しているようだ。
龍州は、篤盛の様子を見て、娘の夫として、有難いと思った。
『上神の采配にかかっては、衛持達も気の毒な事だな。』
と、賊を見咎める事無く侵入させた衛持達に少し同情した。
他に、那国を名乗っている領地の名前、檀家の領地の事などを、かいつまんで説明した。檀家として宮城に入ったのは篤盛とその重臣2名。他は町の宿屋に泊め置いている。(人数は明かさなかった。)
「では、今回は、船で我が国まで来られたということか。」
「はい。正確には、船で東海を北回りして、途中の満国の港に大型船は停泊させて、小船で川を南下して、天溶山脈を山越して、入りました。」
「行程は何日か?」
「風の具合が良かったので、全行程3日で着きました。天溶山脈でも天候が荒れる事が無かったので、山越えも思いの外順調で。普段であれば、10日はかかる行程ですが。今回は運が良かった。」
そう言って、篤盛は笑った。
「我らは貴賓の席には着けませんでしたが、遠くからですが、朝の道行の輿を見る機会に恵まれました。」
篤盛はにこやかに笑って
「この度は、王太女様の成人の儀、誠におめでとうございます。」
そう言って胸に手を添えて目を伏せ、際王龍州に対して叩頭して礼を取った。
『上神の采配でこの男は招かれたのだな。』
際王を前にしても、臆する事無く思うままを言葉に乗せる男を見て、龍州は、雪花を想った。
「壇 篤盛殿。我が娘、百合の窮地を救ってくれた事に礼を言う。」
際王は礼を言い、
「食事と風呂を準備してあるので、室を移して、ゆるりとされるよう。」
そう言うと、席を立って退出して行った。
際王が退出すると、侍女が現れ、
「壇様。どうぞ、こちらへ。」
そう言って頭を下げてから、先導して別室に連れて行かれた。
通された部屋は広く、窓も大きく設けられていて、とても爽やかな風が吹き抜ける明るい部屋だった。壁一面に色彩の鮮やかな花々の絵が描かれていて、とても美しい。中央の食卓には、沢山の皿に様々な食材で調理された美味しそうな料理が準備されていた。皿の数は20枚もあり、果物まで添えてある。
急に空腹を覚えた篤盛は、侍女に勧められるままに席に着き、有難く、一品残さずきれいに食べた。食器の音を立てることなく、静かにとても上品に食べ終えた。
食後の熱いお茶は香りも良く美味しかった。際国風の礼儀は知らないので、普段自分の母がするように、香りを嗅いで、ゆっくりと口のなかで溶かすようにして飲んだ。家で飲む少し塩気のあるお茶ではなく、ほんのり甘味を感じるお茶だった。
食事を終えて、茶器を置くと、室の扉が開き、別の侍女が叩頭した。
「お湯の準備が整いました。どうぞこちらへ。」
そして、湯殿に案内された。背中を流してくれるという侍女の申し出を、強く断って、しっかりと自分で服を脱いで、しっかりと自分で洗った。
湯から上がると、真新しい衣装が用意されたいた。今まで自分が着ていた服を求めたが、既に洗濯に出されたとかで、準備してある衣装を着るしか無かった。肌着は柔らかな絹地の生なりの短着で、その上にまた絹の長着を重ね、その上に飾り織の鳳凰があしらわれた純白の長着を重ね、更にその上に純白の厚地に銀糸で鳳凰が織り込まれた煌びやかな上着を羽織らされた。
髪は上質の綿の布を何枚も使って丁寧に拭き上げられ、良い香りの香油を塗られ、丁寧に櫛をとおされた後、際国の宮廷風に高い位置で結い上げられて、銀の冠まで被せられた。
さすがに、ここまでされると、雲行きが怪しいと気付いた篤盛は、仕上げの帯を拒んだ。
「申し訳ないが。普通の平民の服をお借りしたい。これ以上の歓待は無用なので、家臣と共に、今日のうちに城から出るようにする。頼む!」
そう言って、着付けの侍女達の手を逃れて、部屋の中をするりするりと逃げながらせっかく着た上着を脱ぎ始めた。
そうして逃げ始めたところで、室の外から声がかけられた。
「際国宰相の環 湛雄と申します。入らせていただきます。」
そこには、際王龍州と並んでも遜色ない程の武人の様に隙のない、背の高い男が立っていた。宰相特有の衣装を纏っていなければ、宰相とは誰も思わない程の威圧感がある。柔和に微笑みをたたえているが、その瞳はは少しも笑ってはいない。
「那国の壇 篤盛殿。詳しい説明が遅れました事を、お詫びします。王太女の百合様が、是非、直接に合ってお礼を申し上げたいとのたっての希望でございます。ですので、御前でも失礼のないように、衣装を整えさせていただきました。」
篤盛は、立ち止まった。大国際の王太女に合える機会は、今後もう無いであろうと考えて、しばし逡巡したが、
『たいそう美しいと噂に聞くだけの姫に一目合えるなら、窮屈なこの場所も、衣装も、何日も着ているわけではないし。まあ、辛抱するか。御簾越しであったとしても、声位はかけてくれるだろう。里の皆にいい土産話が出来るぞ。』
そう思い直して
「王太女に直接の礼を賜るのは恐縮でございます。せっかくのお申し出ですので、夜に寝間に乱入したご無礼をお詫びする機会と思い、御前に参らせて頂く事をお受けします。」
そう言って、宰相に頭を下げた。
宰相は、ニヤリと意味深に笑って
「では、支度の間、待たせていただこう。」
と、壁際に置かれていた椅子の一つに腰かけてしまった。
すぐ傍で宰相が待っているので、侍女達は必死の形相で篤盛に衣装を着付けていった。篤盛も、なすがままにされていた。産まれて初めて見る、姿見鏡と云うものに写った自分の顔を見て、顔が親父にそっくりな事に驚いたり。初めて袖を通す際国の正装の煌びやかな織の緻密さに、機織り人の腕の確かさに感心したりと、緊張し始めた自分を落ち着かせていた。
それ程時間がかからないうちに、着付けが終わった。それを見計らって
「では。参りましょう。」
と宰相が立ち上がり、自ら先に立って篤盛を案内しはじめた。共の者は誰も着いて来なかった。
歩きながら、王族の御前での作法をかいつまんで説明していく。
開放的な大きな窓の列に沿っている明るい廊下を、宰相の後ろを歩きながら、ふと周りに意識を向けると、石作りの建物の内装は、質素で、装飾の一つも見当たらない。高価な巨石をふんだんに組み上げた建物はそれだけで価値あるものではあるが、大国であり軍事面でも最強と称される際国の王宮の内部が、ここまで質素とは考えられず、篤盛は歩く足を止めた。
少し先を行く、宰相が、いぶかしんで振り返った。
「どうかしましたか?」
「ここは、どこですか。」
その質問が来ると思っていなかった宰相は、質問の意図が読めずに
「際国の王宮ですが。」
と、短く答えた。
「いや。ここは、本当に謁見の間に向かう道ですか。」
「……ああ。」
合点がいった宰相は、にっこり笑った。
「これは、私と際王しか使わない通路です。最短距離で際王の所に行ける、いわば隠れ路。地味でしょう。表の通路は、ちゃんと体裁よく飾ってます。」
「そんな大事な隠れ路を、私などに教えていいのですか?」
「際王の許可はもらっています。表の路をあなたを連れて歩くと、後々面倒な事になりますから。」
その答えに、篤盛は納得した。恐らく今後、自分が際国の王宮の奥を歩く事は無いであろうし、田舎者の自分が、王太女に謁見した事が公にならば、その理由を探って邪推する輩がいるであろうから。
「分かりました。足を止めてすみません。」
「では、急ぎましょう。」
二人は、足早に隠れ路を進んでいった。
謁見の間の入口に着くと、入室の誰何もせず、宰相湛雄は
「湛雄です。檀 篤盛様をお連れしました。」
『様』を付けて、呼ばれた事に篤盛はビクリと足を止めた。宰相環 湛雄は笑顔で振り向いて、入室を即す仕草をした。
篤盛の後ろから爽やかな風が吹き込んで来た。際国の衣装の裾がふわりと揺れる。その室内は、献上品を届けた時の謁見の間とは違っていた。とても落ち着きのある柔らかい色調で統一された広間で、一段高い高身の席には際王が玉座に座り、その隣には、若い娘が白い服を着て座っていた。御簾はどこにも置かれていなかった。
予想外の光景に、篤盛は一瞬動けなかった。しかし、驚きは一瞬で、すぐに気持ちを立て直し、心して背筋を伸ばすと、宰相の前を通り過ぎて、高身の席に向かって足を進めていった。
際国の謁見の作法に則って、右手を胸に当て、目を伏せ、頭を垂れた。
「際王、王太女にご挨拶申し上げます。東の那国、壇……」
篤盛は口上を皆まで言うことが出来なかった。衣擦れの音にハッとして目を向けると、王太女が飛び上がるように席を立って、篤盛に駆け寄り、その勢いで飛びついたのだ。咄嗟に抱き留めはしたが、数歩よろめいて転びそうになった。
「ぶっっ…」
誰かが後ろで噴き出した。恐らく宰相だろう。
そんな事より、篤盛は、抱き留めた腕の中の乙女をまじまじと見た。見てしまった。緑色の美しい瞳が、自分を見ている。その瞳には、切迫した何かを宿している。ほのかに上気した赤い頬。形の良い唇から、心地よい声で
「見つけました。契りの君を。やっと逢えました。」
そう言った。篤盛は、足元から全身に、何かが身体を貫いていく感覚を味わった。何の言葉も出ない。身体中が喜びに震えている。緑の双眸から、目が離せない。
「百合。間違いないのだな。」
抱き合った二人を見つめながら、際王龍州は、声をかけた。
「はい。お父様。この方です。」
王太女百合姫がそう答えた。際王は、部屋の入口付近で声を殺して腹を抱えて笑っている宰相を見て、
「宰相。そういう事だ。以後の事は、万事予定通りに。」
そう言って、笑う宰相を冷ややかに見た。宰相はニヤニヤしながらも、
「仰せの通りに。」
と際王に礼を取った。そして、急に真面目に顔を引き締めて、篤盛と百合姫に近付くと、二人に対して、臣下の礼を取った。
「内密の話になります。一度、室を移って頂きます。際王の後に続いて移動願います。時間との勝負になりますから、粛々とお願いします。」
と、抱き合って離れない二人を急かした。
そこからは、怒涛の一日となった。
篤盛の衣装は既に際国の王室の男性用婚礼衣装であった。百合姫の白い衣装も婚礼用の物で、後から髪を結い上げ、壇家からの献上品の真珠の胸当てや首飾りを身に着け、赤紫珊瑚の房飾りを帯に垂らして、頭からすっぽりと白い絹の薄い布を掛けたら身支度は整った。
上神を祀る廟へと2台の輿が宮城の大門を出て大通りを進み始めると、昨日見逃した民衆もこぞって見物に集まったので、どこも黒山の人だかりとなった。
しかし、婚儀の列と知った民衆は、口々に祝いの言葉を寿いで、二人の門出を喜んだ。おかげで大きな支障が出る事も無く、無事に廟への参詣を終えて、帰路も滞りなく宮に戻り、二人は寝屋へと入って行った。
成人の儀に参列していた貴賓達はそのまま留め置かれ、婚儀の宴に招待される運びとなった。昨日散々飲み食いした後だったからか、百合姫に契りの者が現れた衝撃か、皆大人しく、静かに宴を楽しんだ。
「おい、湛雄。もっと飲め。」
龍州は、湛雄と二人で祝いの酒を酌み交わしている。
「こんなに飲んだのは久しぶりなので、もう止めておきます。」
湛雄は酒杯を脇に寄せて伏せた。もう呑まないという意思表示だ。龍州は、ふんっと鼻を鳴らして、手に持った酒器を置いた。
「子がすぐにできるといいなぁ。」
龍州は、ぼそりと言った。
「何人も、出来るといいな。」
湛雄がその呟きに追従した。早くに契りの者を失った二人の夫の、心からの願いだった。何人もの子を儲け、年老いるまで夫婦でいられるようにと、口には出さなかったが、心から若い二人の幸せを願った。
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女神のひとしずく 於とも @tom-5
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