第4話 忘れ形見
あやすとよく笑う。翡翠色の瞳はキラキラして、抜けるように白い肌と金糸のように美しい髪。可憐な唇は紅を引いたかのように美しい。妻の面影をそっくり写した容姿。丸い爪の形と手の平の形も妻とよく似ている。
際国王龍州は、愛しい娘を今日も朝から膝に抱いて、今日一日の活力を充電している。龍州にとって、何より大切な時間である。出来るなら、政務など放ったらかして娘と遊んでいたい、と毎朝思う。
「はい。もう時間切れです。お仕事に行きましょう。また昼食の時に会えるでしょう。はい、立ってください。」
宰相で、乳兄弟の友、環 湛雄が
「ほらほら早く。」
と椅子から立つように急かして来る。
「このところ、昼には寝ているじゃないか。」
「寝顔を堪能しているでしょう。」
「連れて行きたい。」
「無理です。乳母の喜玖様が困っておりますよ。さあさあ。」
しぶしぶ、龍州は娘を乳母に渡した。
「喜玖殿。よろしく頼む。」
毎朝のこのやり取りが微笑ましくて、乳母の喜玖が笑顔で赤ん坊を受け取った。
この赤ん坊こそ、際国王龍州と卒国王女雪花との間に誕生した、際国の唯一の後継者の百合姫である。しかし、卒国に習って4歳の裳着を終えるまでは上神からの預かりものということで、幼名で呼ばれる。
卒王家の血筋は、初めは娘で産まれるが、成人前に男児に性別が変わる場合があり、現状はどちらの性別でも無いという意味の幼名を付けて、子供を悪鬼から守る風習がある為、それに倣って、幼名は白と名付けられた。
この所、際国は軍事面での大改革のさ中で、際国王も、宰相も、とにかく多忙を極めていた。これまでも、自国の平和の為に、並々ならぬ努力をして来た国王龍州と宰相環 湛雄であったが、周辺国へのより綿密な情報収集体制と、有事の際に速やかに防衛する軍事力強化の為に、兵士の確保、人員の育成、情報伝達系統の見直し、武器・武具の最新化を推し進めていた。
新たに兵学校を新設し、優秀な人材を多数育てる取り組みも動き始めた。これまでは、既存の軍に新兵を丸投げして実地で鍛えあげる手法であったが、戦にならない外交手腕を確立して来た甲斐があり、最近は戦にまでは発展しない。生死を分ける戦に新兵がいきなり放り込まれるリスクを減らす為に、今後は兵学校である程度学ばせてからの現地赴任として育成していく。
軍の将への待遇改善も検討され、階級制度が厳格に審査される手筈が整い、軍部から大いに感謝された。
そして、もう一つ。女子に教育を受けさせる学校も作られた。
これは、皇太后のたっての希望であった。
女子教育は全て国費で賄われる。なので、貧富の差を学校内で感じさせぬように服装も統一された。身分や血筋による侮蔑発言が発覚した場合、皇太后権限で当事者の保護者の実家を接収し、いかなる身分であろうとも、全財産は国庫に徴収。地位剥奪の上、国外追放処分とする、と発布された。大変に厳しい処置である。これには皇太后の並々ならぬ思い入れがある為だ。
娘を学校に通わせている間は、貧しい家庭で借金があった場合は、貸元は借金の返済の催促をしてはならない。反した場合は、その借金は棒引きとなる。生計の為に借金が必要な場合は、国の機関に相談し、国から借金をすること。その借金の返済については、臨機応変に対応するので、卒業前に相談すること。等々、が決められた。
この女子教育に関しては、先の王太子が亡くなるきっかけが、その王太子の妃の無学からであった痛い後悔から、皇太后が発案した。また、皇太后自身も平民の出身で、田舎の甘味屋の娘であったが、日々の生活が苦しく、学びたくても学べない環境であった事も大きい。王族の一員になってからの皇太后の生活は、真に血の滲むような努力の日々であったようで、平民出身ということで、辛酸を舐めた事も、一度や二度ではなかった。
皇太后は元々賢く、視野の広い、器の大きい人であったが、夫の際王がたまたま契りの相手であったから、現在の地位にいるが、そうでなかったら、身売りされてもおかしくなかった、と思っていた。
契りの者と出逢えた自分は、幸せなのだ。契りの者は、自分の半身。前世の、そのまた前の世でも、契っていた者同士の魂が再び呼び合って出逢うという。戦で、自分の半身を失ってしまった者達がどれ程いたことか。
産みの性の女が、その契りの者を呼ぶという。女が男を呼ぶのだ。男の方からは、その女が契りの者かどうかは、分からないのだそうだ。
契りの者同士でなければ、子供は授からない。
貧しい家の女の子は、客の子を孕む心配が無いから簡単に売られてしまう。使い潰されて、野辺に打ち捨てられる。その女にも、契りの者は居るだろうに。
万一、野辺に打ち捨てられた子が、本来ならば国の王の血筋の契りの者であったなら、どうするのだ。
全ての女は、国を背負う『子』という宝を産む希望の種ではないか。
せめて、この国に生まれた女の子が、守られるように、考えなくてはならない。
皇太后は、自分の娘を見つめながら、強くそう願っている。
大国際は、地方豪族を従え、その地方独自の特産、産業を流通に乗せ、物資を動かし、税の徴収の厳格な基準を設け、官吏を教育して情報網を整備し、民が豊かに平和に暮らせるよう、急速に法の整備と人民の教育を推し進めて行った。
際国の宰相、環 湛雄は、今夜も城の高見台に向かっていた。嫌になる程の階段を、せっせと登る。仕事用のたっぷりとした服は脱いで、着慣れた兵服を身軽に着ている。夜風が冷たかったら羽織るつもりの外套を脇に抱えて、急な階段を鍛錬も兼ねて駆けあがって行った。
今夜の空はよく晴れていて、星がとても美しい。星読みには持って来いの夜である。わくわくしながら、残り数十段を駆けあがった。
そこには、先客がいた。亡くなった皇后の乳母。卒国の王の姉の娘。つまり、卒王の姪にあたる、梅名である。現在の年齢は35歳だったか。
その彼女が、急に走って現れた男に仰天して、こちらを見て目を見開いている。その目には光るものがあった。
「あ、驚かせてしまい、申し訳ありません。環 湛雄です。こんな格好なのでびっくりされたでしょう。」
「あ、いいえ。誰だか分らなくて。失礼しました。」
梅名は慌てて顔を背け、そっと袖で涙を拭いた。人知れず隠れて泣いていたのだろう。袖に涙のシミを作った。
「こういうよく晴れた夜の空は、星がよく見えるので。いつもここに来るのですよ。
あ、私は星読みが趣味で。こんな夜は、ついつい、夜中でも来てしまうのです。」
湛雄は、言い訳のように言葉を重ねた。
「私の父から習っただけなので、星読みといっても、師に習った訳ではなくて。父の自己流を受け継いだだけなんですが。」
「立派だと思います。星を見て、未来を占うのでしたね。」
「ええ。主に王の身辺に危険が迫っていないか程度の、予測しかないのですが。
王の生死は国の生死に関わってきますので。大雑把な予想程度ですけれど。」
湛雄はそう言って笑いながら、暗い足元に、持ってきたランプの明かりを置いた。
「際王を示す星があるのですね。」
「はい。どの星かはお教えできませんが、産まれた時に現れる星が、その星となります。王族がお生まれになった時に、宰相が、その星を見付けるのです。
実は、それが、けっこう難しいんですよね。特に、龍州様の星を見つけるのは大変だったそうです。」
「え。そうなのですか。」
「はい。星は、天空を動いていますから、今見えている星も、季節が移れば一緒に動くのです。龍州様は、星が隠れている陰の期の時にお生まれになったので、生まれた時は、星が隠れていて。星が現れてから探し出すのが、とにかく難しかったそうです。過去の星の天空図と毎晩にらめっこして、やっと見つけたそうです。」
「へええ。陰の期の生まれの方は、何か違うのですか?」
梅名は、素直に素朴な疑問を聞いてきた。
「んーーー。苦労人が多いです。そして、婚期が遅い。」
梅名は思わず吹き出した。
「婚期が遅いんですか。確かに、際王様の婚期は遅かったですね。」
一般的に、婚姻は立志の義を経てから、20歳位までにする事が多い。遅くとも23歳になれば、もうだいたい結婚している。
「はい。余りにも契りの者と出逢わないので、これは、相手は同性かも知れないなんて、疑われ始めた位で。」
「ああ。なるほど。」
契りの相手が、異性とは限らない。たまたま同性である場合は、上神のいたずらと言われる。女同士の契りの者であれば、お互い早くから気付くので、適齢期のうちに婚姻するが、男同士の場合は、気付くのが遅い傾向にあり、いつも近くにいたのに、40歳になって、ふとしたきっかけで気付いた、などということもよく聞く。
同性同士の婚姻の場合は、親が育てられない子供を、もらい子をして育てる事が慣例になっている。戦で親を失った子供や、捨てられた子供。子供が多すぎて育てられない親から、養子にもらったり。娼館に売られた子供を、買い取る場合もあった。
同性の親が引き取った子供は、実子として扱われる。概ね豊かな養育環境で育てられる事が多く、皆、とても大切に育てられていた。
「まさか、国外の王女が妻になるなんて、考えてもいなかったですね。」
湛雄は、そう言うと、愉快そうに笑った。龍州と雪花の出逢いのシーンを思い出したからだ。いつも落ち着いている龍州が、慌てて尻もちをついたあの姿は、何度思い出しても、つい、笑いが込み上げてしまうのだ。
「際王が、雪花様の契りの相手だと分かったのは、いつ頃ですか?」
湛雄は、梅名に、これまで聞いてみたかった事を聞いてみた。
「……雪花様の乳母になって、初めて乳を与えた日の夜に、雪花様の契りの相手を夢の中で見ました。その時は、際国の王だとは、夢にも思っていませんでした。身分のある兵士であると思っていました。」
「ああ。12歳から戦場に居ましたからね。次期総大将として、際国の全軍を率いて行く為に養育されていましたから。……と言うと聞こえはいいですが、軍側からすると、使い物にもならない厄介者です。生きて成長されようものなら、総大将の地位を取られる訳ですから。なるべく分からないうちに、戦のどさくさで帰って来ない方が有難い御仁も居ましたから。だいぶ、ヤバい前線に送られましたよ。」
サラッと湛雄は言ってのける。
「あ、もれなく、私も一緒に行かされました。エグい現場に。
でも、私は、当時の際王と皇后の命令で、逐一父の宰相に報告するよう言いつかっていたので。状況は逐一報告していました。王子の身辺警護の忍びの民は常に着いてましたから、そこからの報告も上がって行ったはずです。
腹黒く王子を亡きものにしようとした上司の方が、戦場のつゆと消えました。」
さらっと怖い事を言う。何と言っていいのか分らず梅名は微妙な顔をしている。
「実際、小さな負け戦も経験しました。命からがら生き延びたことも、片手の数では足りません。たたき上げの平民には及びませんが、そこそこ苦労して、隊長になりましたよ。それ以降は、王様になってしまったので、隊から離れましたが。」
そこまで言って、湛雄は、しっかりと梅名を見つめて言った。
「際王龍州様は、頼れる男です。戦も強い。卒国が賀に滅ぼされる未来を、際国が救えるかも知れません。賀国に間諜を忍ばせています。有事の時は、卒の民と王家の為に、軍隊を動かす手筈は整えています。南の沖国の動向も探らせています。
なので、梅名様の涙を止められるといいのですが。」
際国宰相湛雄は、そう言って優しく笑った。
この国特有の象牙色の肌に、黒に近い茶色の髪。濃い茶色の瞳は、夜の闇の中では黒く見える。目鼻立ちの整った、ほっそりと背の高い好青年である。梅名と年齢は変わらない。際国の宰相を務めあげているだけあって、知的で、思慮深い。
「慰めてくださっているのですね。お心遣い感謝します。」
梅名は続ける。
「賀国に干渉する理由が際国側にありません。卒の王女であった王妃は亡くなりましたから。随分前から、賀国は、卒の女を寄越せと、王女を、雪花様を寄越せと干渉して来ました。
私は、未来を見る事が出来ます。雪花様の契りの相手は国外の者と分かっていましたが、どこの国の者かまで分からなかったのです。
そんな中、とうとう、賀国の彼らは、領界を頻繁に超えて侵入し、領民に危害まで加えるようになりました。攫われて無体な目に合わされた乙女が出てしまった。
もちろん、軍の兵士が防衛していましたが、彼らも全てに目を配るのは不可能ですから。辺境の、貧しい家の娘でした。よほどひどい目にあったのでしょう。その事が元で、体調を崩して。元通りの体には戻れないと絶望して、谷から飛び降りました。
雪花様は、心を痛められて。ある嵐の日に、愛用の馬に乗って
『すぐ近くに居るはずの夫を探しに行きます。』と、制止も聞かずに飛び出して行きました。遠くを見る目を持った雪花様でしたから。龍州様を見付けたのでしょう。
実際、見つけたので、知らせを受けた時は、心底ホッとしました。」
梅名は微笑んだ。しかし、
「そこで、また、未来が少し変わりました。ですが、賀国の侵攻の時期が延びただけでした。賀国は、上神に最も近い血筋の者達を凌辱したいだけなのです。虫でも虐めて殺すように。残忍なやり方で殺したいだけなのです。その性分は変えられません。
際国が、賀国に攻め込んでも、平定に数年かかるでしょう。その間に、捕虜となった際国の兵士達は、想像を絶する過酷な死を迎える事となります。口にするのもおぞましい方法で、殺されていくのです。
際国にとって、今後沖国との戦で欠かしてはならない、大切な将も、賀国との戦で失います。なので、決して、決して、卒を守ろうとしてはいけません。
これは、卒王の強い願いです。唯一、卒王家の血筋が残れる希望なのです。」
梅名は懇願するように、湛雄に訴えた。
「大丈夫です。賀国は、卒の領土を蹂躙した後、上神の怒りを買って自ら滅んでいきます。卒の地は、卒の者しか受け入れないのです。」
「もしや、賀国の兵の拷問の様子まで、見てしまうのですか?」
梅名は頷いた。
「夢で見えるものは、拒めませんから。」
湛雄は、言葉を失った。こんな、たおやかな女性が、そんなむごたらしい光景を見なくてはならないとは。
「私は、未来が知りたいと思うことが多かったのですが、今夜、考えを改めました。……今後は、粛々と日々の事に取り組んでいきます。」
緊張からか、悲しみからか、震えている梅名に、湛雄は、持ってきていた外套を彼女の肩からすっぽりと掛けた。
「今後も、辛いときは、私で良ければ、話してください。あなたが上神から受け取るものは、身一つで受け取るには、少々重すぎるように思いますから。
きっと、今夜も、怖い夢を見たのでしょうね。
私は、口は堅いですよ。誰にも言いません。」
そう言って、湛雄は人差し指を自分の唇に当てて、おどけて見せた。
「ありがとうございます。……私よりも、喜玖がお世話になるやも知れません。」
「喜玖様も、未来が見えるのですか!」
「はい。未来を見る者を、卒王はこちらに寄越しました。
せめて、お役にたてるように。ただ、際王はお強い方なので、先を見ずとも、ご自分で進んで行かれるお方のようですね。」
「……んー。多分、それは買いかぶりかと思います。際王は、かなり慎重な性分で。失敗するかも知れない未来は、初めから知りたくないのでしょう。
未来を知ってから動くのではなく、動いた先に未来がある。だから、先へ先へと進めるのです。」
梅名は、とても驚いている様子で
「動いた先に未来がある……。そうですね。未来は、変わる事もありますから。
卒では、未来を見てから政は行われていきました。数人の未来読み達の夢を統合して、判断して、最善の道で政は決定されていきましたから。
概念が根本から違うのですね。」
そう言うと、
「とても、気が楽になりました。」
ホッとしたように梅名は笑った。湛雄は
「人様の夢について責任を取らせる概念は、この国には無いです。
そうはいいつつ、今後の沖国の動向に目を向ける必要について、現段階で教えて頂けて良かったです。全く交流が無い国でしたし、大河の先にチラッと見える程度の認識でしたから。大河を渡ろうなんて、考えてもいませんでした。」
そう言って、湛雄は星を見た。
「恐らく、ここ数年は攻めて来ることは無いと、星の読みでは出ています。百合様の星に影を落とす星雲が気になりますが、それもまだだいぶ先の事のようですから。
私達には、十分に準備する時間がある。」
湛雄は自分に言い聞かせるように言った。
「卒国との領界の警備隊には、逃げて来た難民を無条件で受け入れるよう、通達しています。物資も確保済みです。せめて、これくらいは、させてください。」
宰相湛雄のその言葉に、梅名は感謝を込めて頷いた。
「卒王に、手紙で伝えておきます。感謝します。」
だが、その手紙が卒王の手元に届く事は無かった。そして、卒の民が際国に逃れて来る事も無かった。卒の民は、卒王家の盾と剣となり、奮戦し、卒王家と運命を共にしたのだ。
卒国は、大陸の最北にある小さな国で、争いを好まない上神の教えを大切にして、穏やかに暮らしていた。しかし、隣国の賀国の侵略に合い、この世から、消えてしまったのだ。
卒国の有事を察知した際国の兵士達は、援軍に向かおうと動き出したが、領界付近で突然起こった季節外れの根雪の崩落により、街道が不通となり、持領を超える事が出来なかった。
卒王家の滅亡の様子を、先んじて夢で見てしまった百合姫の乳母の喜玖の嘆きは深かった。特に、兵士であった夫の最期を何度も繰り返し夢で見る事になって、あまりの絶望と恐怖に、眠る事が出来なくなった。3日間も眠らず、4日目には正気を失ってしまい、医師から眠り薬を盛られた。しかし、眠っては直ぐに凄まじい悲鳴を上げて飛び起きてを繰り返し、百合姫に乳を飲ませるどころではなくなった。喜玖の娘の真雪の面倒を見ることも適わなくなり、それら全てを梅名が世話をした。
「喜玖。真雪の為にも、気をしっかり持って。」
梅名は喜玖の世話もしながら、喜玖と真雪に寄り添い、励まし続けた。
宰相の湛雄は早々に百合姫と真雪の乳母をそれぞれ雇って乳を飲ませてもらい、喜玖の回復を待った。しかし、喜玖の正気は7日たっても戻らず、身体は食事を拒否し、衰弱するばかりとなった。
「私は、こんな未来は見てないわ。お願いだから、しっかりして。」
梅名の切なる献身も、願いも虚しく、喜玖は生きる事を放棄してしまっていた。
喜玖の容体が日に日に悪くなっていると知らせを受けていたが、これ程と思ってもみなかった際王龍州が、宰相湛雄を伴って、見舞いに訪れた。
喜玖の衰弱ぶりに、際王は着けていた壮年の医師を激しく叱責した。
「この喜玖殿は、卒の王族。卒王から預かった大切な身。万一、身まかりでもさせては、亡くなった卒王に私は何と詫びればよいのか!」
病床にただ着いていて、見守るばかりの医師に、龍州は雷の如く大音声で、怒鳴りつけた。その声は、隣の宮にまで届く程であった。元々、戦場で鍛えた声量である。この声に、医師は震え上がった。
「宰相。お神酒をこれへ。」
龍州は、宰相に指示して、準備させておいた強い蒸留酒のお神酒を、細長い小さな陶器の管に詰めさせて、自ら喜玖の寝台に上がると、喜玖の上体を起こし、背中側に回って抱えるようにして座らせた。青ざめてぐったりした喜玖の顎を背後から無理やり持ち上げて、口を開けさせると、宰相から手渡されたお神酒の入った管を口に入れ、中の酒を口に流し込んだ。
「失礼。」
と断って、すかさず、宰相が喜玖の鼻をつまんだ。
喜玖は酒を飲みこんで、一気にむせて咳き込んだ。その背中を龍州はさすりながら、
「水!」
と宰相に指示した。宰相はまたすかさず、先程の管に水を入れると、すぐ龍州に手渡した。咳き込みが治まったのを見て、また顎を上向かせ、管を口に入れると、その水を流し込んだ。
「失礼。」
とまた宰相は断って、すぐにまた鼻をつまんだ。
今度は、喜玖はむせることなく、水を飲みこんだ。もう一度、同じように水を飲ませた後、今度は管に重湯を詰めて、ゆっくりと、口の中に流し込んだ。もう、鼻をつままなくても、喜玖は飲み込んだ。龍州は
「梅名殿、そこに持参した重湯を、このまま匙で少しずつ、口に入れて欲しい。」
そう梅名に頼んだ。事の一部始終を固唾を飲んで見守っていた梅名だったが、弾かれたように喜玖の傍に寄ると、すぐ重湯を食べさせ始めた。
ゆっくりと、確実に、喜玖は重湯を飲み込んだ。目は半開きのまま焦点の合わない瞳で虚空を見つめている。しかし、数日ぶりで食べ物を受け入れた。食べられたのは、ほんの少しであったが。それでも、幾分喜玖の顔色は良くなった。
「お神酒が五臓六腑に染み込んで、眠っていた胃のふも起こしてくれるだろう。」
際王はそう言って、梅名に微笑んだ。梅名は、心底から感謝した。
重湯を飲ませ終わってからも、際王は、喜玖の背中をしばしの間、支えておいた。そうしないと、逆流する事もあるとの事だった。
喜玖への荒療治が終わってから、際王は医師に
「なぜ宮城内で戦場での瀕死の者に施す荒療治を、客人にせねばならないのか。もっと早くであれば、打つ手もあったであろう。お前は、もう一度、師匠の元に戻って、勉強し直す必要があるようだな。」
医師は恐縮して、顔を上げることも出来ないでいる。宰相が、退室するように、医師に指示を出すと、黙って深く一礼して、去って行った。
「喜玖殿の場合は、心の病からと思う。契りの夫を失ってすぐでは、誰の慰めも心には届かないかも知れないが。せめて、朝日の当たる東側の部屋を用意したので、喜玖殿が目覚めたら、そちらに移って頂こうと思うが、如何か?」
龍州は、梅名にそう尋ねた。これまでは、百合姫の寝所の隣の間が居室となっていたが、夜中に悲鳴を上げるようになってからは、悲鳴が外に聞こえないようにと、小さな窓が一つあるだけの北側の狭い部屋に移されていたのだ。
「もったいないお申し出に感謝いたします。ですが、夜中に騒ぐ恐れがありますので、ご迷惑にならない部屋をお願いいたします。」
梅名が恐縮して言うと、龍州は闊達に笑って、
「東の端の間で、隣は使われていない部屋ばかりなのでどんなに騒いでも大丈夫です。あの部屋は、雪花が気に入りで、庭には野の花々が沢山咲いていますよ。樹木も四季折々に美しいし、何よりも、部屋が明るい。朝焼けの空の景色は、一服の絵のようですよ。ぜひ、行ってみられるといい。喜玖殿が嫌だと言われたら、また別の部屋を考えましょう。宮城に部屋は沢山ありますので。」
そう言って梅名を労わるように言葉を続けた。
「梅名殿も見たくもない夢で心塞ぐ事もあるでしょう。随分お疲れの様子ですよ。ご自身も御身を大切にされてください。百合と真雪殿の為にも。」
「暖かいお言葉、痛み入ります。心します。」
そう言うと、梅名は目を伏せた。
実際、梅名も卒の蹂躙される様子を、幾晩も夢に見た。見る夢ごとに少しずつ情景が変わる。しかし、結局は誰も助からないのだ。もう、何年も前から見ている未来の夢だ。見ずに済むものならば、見たくはなかった。そして、もう、祖国は滅んでしまった。どうしようもない無力感に、息が苦しくなる。
自分の契りの夫が亡くなる前も、夫の臨終を何度も見た。夢を見る度に飛び起きて、隣で寝息を立てている夫に、安堵し、胸が潰れる思いを繰り返した。そして、夫が実際に亡くなった時、もうあの夢を見なくてもいいのだと安堵した自分が許せなくて、涙が止まらなかった。
今回も、卒の滅ぶ凄惨な情景を何度も見て、恐怖に震えた。そして、とうとう、祖国は滅んでしまった。もう、あの情景を夢で見る事は無いのだと分かって、心底ほっとしている自分がいる。自分は、もう、心が壊れてしまったのだと感じる。
喜玖が元気を取り戻したら、この心境について、話してみたいと思う。
次の日も、朝の政務の後の休憩の時間に、際王龍州と宰相湛雄は、喜玖の見舞いに訪れた。昨日までの医師は罷免されて、今日からは、30代位の医師が早朝から派遣されている。今度の医師は、細やかに喜玖の様子を観察し、様子を日誌に書きつけている。昨日の際王の雷が効いた為か、個人の資質か、とにかく、明らかに以前の医師とは診察の質が違った。
「喜玖様の容体は?」
宰相が医師に尋ねた。
「今朝一番に体温を診ましたが、現在と変わりなく、少し低いようです。
食事は、重湯と、果実水を半分量摂られました。1回の量が少ないので、頻回に摂って頂くように手配しました。脈が弱いので、胃のふの動きが良くなるように薬湯を煎じています。それが飲めたら、少しは回復も早くなるかと思われます。
昨日までは、水も十分に飲まれていなかったようですので、本日は、そちらを改善します。」
医師は、するすると、容体と今後の対応について説明した。
「分かった。王が喜玖様に少し話があるようなので、話せるようになったら、政務の時間は気にせず、いつでも使いを寄越してくれ。」
「わかりました。」
医師は頷いた。そして、宰相は梅名に
「この者は、環 天雄という。実は、私の弟です。」
と紹介した。
「えっ!」
梅名は驚いた。言われてみれば、似ている。濃い茶色の瞳と、面差しが。しかし、肌の色がとても白い。同じように、髪が真っ白である。よくよく見ると、帽子の下の眉も、まつ毛も真っ白い毛であった。
「上神のいたずらで、弟は生まれた時から、真っ白くて。母のお気に入りでした。」
「いらぬ事は、言わなくていい。」
医師の天雄は、ぼそっと言った。
宰相は笑って、
「なので、私の代わりに、何なりと言いつけてください。」
そう言いながら、際王と宰相は、笑いながら部屋から出て行った。
喜玖は、天雄医師によってきめ細やかな診察を受けた。心が落ち着くようにと柔らかな衣服に交換され、寝具も優しい淡い桃色のふっくらとした物に変えられた。かわいい声で鳴く小鳥が持ち込まれ、調度品も卒風の物に変えられた。
愛娘の真雪がしょっちゅう訪れるようになり、母の喜玖を見る度に満面の笑みを振りまくので、自然と喜玖が笑むようになった。それに伴って食事が進むようになった。食材も卒でよく食べていた、鹿の乾燥肉をふやかしてから野菜と煮込んだ煮物や、山ヤギの乳から取ったチーズや、そのチーズをお湯で溶いて蜂蜜を入れた甘い飲み物などの懐かしい料理が出されるようになった。
喜玖が起き上がれるようになって、部屋を移った。
部屋移りの日、天雄医師は、ヒョイと喜玖を自身で抱き抱え、軽々と抱いたままで歩いて東側の部屋に連れて行ってくれた。
これには、梅名も驚いた。ほっそりと背が高い天雄医師は、全体的に白くて柔らかい印象があったからだ。失礼ながら、男性よりも女性のような心安さがあり、こちらの望む事を、自然に察知して、何も伝えていないのに動いてくれる。全てにおいて痒い所に手が届くという表現がぴったりの御仁。寡黙で必要最小限の言葉しか発しないが、その言葉は常に適格なタイミングで、最適な答えを返してくれる。
『母のお気に入り』の表現に、妙に納得してしまう。
東の端の間は、本当に、宮の建物から廊下で繋がっただけの、離れのような造りで、部屋と言うよりは、別邸と表現した方がしっくりくる建物だった。寝台が置かれた部屋は、東に向けて大きな掃き出し窓が造られていて、窓を全開にするとすぐ先に、緑豊かな庭が広がり、きれいに草が刈りこまれて少し先の生垣まで伸びている。季節の野の花が風に揺れて、咲き誇っている。生垣の先は、広葉樹の林に繋がっていて、今の季節は青々とした葉が揺れている。
部屋全体の風通しも良く、清々しい風が吹き抜けていくのが、本当に心地良かった。部屋の調度類も落ち着いた色合いの、細やかな彫りの細工の卒の物で統一されていて、なつかしさが込み上げて来た。
天雄医師は、喜玖を寝台に優しく降ろすと、背もたれを整えて、座れるようにした。その手つきは、大切なものを扱うように丁寧で、一つの不安も与えないようにとの気遣いにあふれている。
「以前、亡き皇后陛下が心安らかに過ごせるようにと、際王陛下が卒に倣って整えた部屋です。……卒の国を思い出してお辛くはありませんか?」
天雄医師は、静かな口調で優しく、喜玖に語り掛けた。
喜玖は、窓の外の景色に魅入りながら、首を横に振った。喜玖は、小さなかすれるような声で、囁いた。
「お心遣いに、感謝します。この景色は、卒の宮城の中庭にとてもよく似ています。なつかしい。」
「そうなのですね。それは何よりでした。」
聞き逃しそうな程のつぶやきを聞き逃さず、天雄医師は喜玖に寄り添う。彼ほど、優しい人には会ったことが無いと、梅名はその時、つくづく思った。
天雄医師は、自分の感情を誰かに悟らせる事をしない。押し付けたり、言い訳ももちろんしない。事実を淡々と受け止めて、静かにそれに対処する。
梅名は王宮の宮廷育ちで、人の感情を、表情や瞳の動きで察知する術を子供の頃から鍛えられたが、彼の表情、瞳の動きは、一切内面を映し出さない。ともすれば、そういう人物は敬遠されがちであるが、彼の滲み出る優しさが周りを包みこむようで、嫌悪感が無い。すごい性質だと思う。梅名も、ついつい、そんな天雄医師に心の鎧が緩んでしまい、弱音を吐くことがあった。
未来読みが数人存在した卒国では、それぞれが見た未来の状況を吐き出して、その中から重要な点を話し合い、最善の判断を共有できた。最悪の状況が起こっても、最善の対応が取れるように準備ができたのだ。しかし、喜玖はまだ若く、未来の出来事に、今の自分が引きずられてしまっている。未来読みは、未来の出来事に、現在の自分が影響されてはいけないのだ。確かにそれは、身近な者に関する未来については特に辛い。しかし、自分は年嵩の先達から沢山たしなめられながら、成長した。でも、喜玖に対して自分は十分に教えを伝える事が出来ないでいる。祖国の滅亡という、先達さえ経験した事のない試練に自分自身が翻弄されているからに他ならない。
早めの夕餉を喜玖に摂らせて、煎じ薬を飲ませたら、薬が効いて喜玖は眠り始めた。もう少ししたら、湯に浸かって眠くなった真雪があくびをしながら部屋に戻ってくるはずだ。近頃は、喜玖は夢に起こされることもなく、眠れているようで、身体も順調に回復している。梅名は喜玖の寝顔を見ながら、安心した。
梅名はそっと外に出て、夕焼けに染まる西の空を眺めた。無性に消えてしまいたくなった。寄る辺ない身の上である自分に思い至って、涙が出そうになる。このまま、生垣を抜けて、林を抜けたら、どこかで獣にでも遭遇しないだろうか。そうしたら、自分は苦も無く獣の生きる糧となって、この辛さから解放される。喉笛を一気に嚙み砕いてもらえたら、苦痛も耐えられそうだ。
そんな風に考えて、無意識に一歩踏み出した。
「梅名様。」
不意に、後ろから呼びかけられた。振り返ろうかと一瞬思ったが、どうでもよくなって、振り返らず、歩みを進めた。頬に当たる風がことの外、気持ちがいい。
「梅名様。」
今度は、後ろから手を引かれた。踏み出した心地良さを邪魔された不快感が全身を覆ったが、我慢して振り向いた。そこには、穏やかに微笑む天雄医師が居た。
「山ヤギの乳の蜂蜜茶を入れました。暖かいうちに、一緒に飲みませんか?」
再び、不快感が押し寄せた。茶を飲むよりも、獣の牙に喉を嚙み砕かれる事の方が、どんなにか心地良いことだろう。
「ありがとうございます。せっかく入れていただいたのに、申し訳ありません。今は欲しくありません。少し、歩きたいのです。」
「そうですか。では、私もご一緒させてください。」
梅名は、一人で歩きたいと何故言わなかったのかと、自分を叱責した。林を抜けて行く事は、今日は出来そうにない。
林の先に一人で行けない事に、深く絶望している自分がいる。この気持ちを立て直すのは、一苦労だと、ため息が出た。
仕方なく、生垣の手前を日が暮れるまでそぞろ歩いた。天雄医師が飽きて一人で戻ってくれないかと願いながら、歩いた。しかし、今日に限って、天雄医師は、どうでもいいことを話しかけてくる。草の名前だったり。虫の名前だったり。一番星が出たとか。その度に梅名は曖昧に相づちをうった。
とうとう、真雪が部屋に戻って来たのを合図に、室内に戻った。そこには、冷めてしまった山ヤギの乳の蜂蜜茶が置いてあった。申し訳ない気持ちが押し寄せてきた。戻って飲んでいたなら、その後、一人で外に行けたはずなのに。
「お茶が冷めてしまいましたね。せっかく入れていただいたのに。」
梅名は、心から残念で謝罪した。天雄医師は、ゆったりと微笑んで、
「大丈夫です。また入れ直しますね。このまま、夕餉もご一緒させていただいてもいいですか?」
そう申し出て来た。いつもは、別室で摂るのだが、どうしたことか、今日に限って一緒に摂るという。
「いいえ。私はこのお茶を頂きます。冷めても美味しいのですよ。夕餉は、この所食が進まないので、お茶だけで十分です。天雄先生は、どうぞ召し上がってください。
ご一緒させていただきます。」
梅名は、今日は諦めようと決めて、精一杯微笑んだ。
天雄医師は、冷めたお茶をそのまま頂くからと遠慮する梅名をなだめて、暖かいお茶に入れ直した。そして、そのお茶にこっそり眠り薬を盛った。
今、目の前の寝台には、眉間にしわを刻んで苦しそうに眠る梅名がいる。急ぎ呼び寄せた助手に梅名を見張らせて、天雄は宰相である兄の元に走った。
息を切らして走り込んできた白い髪の、見目好い弟に、宰相湛雄は驚いた。いつも冷静で、そつが無く、淡々としている、2歳違いのすぐ下の弟。
生まれた時から体毛全てが真っ白で、一族の中でただ一人、真っ白い肌をしていた。白い見た目はどうしても人目を惹き、整った顔立ちも相まって、人攫いに攫われそうになった事もあって、母はことの外気を使って彼を育てた。湛雄は8人兄弟であるが、この白い弟が一人きりにならないように、母は必ず誰かしらを一緒に居させた。それが、まだ幼い兄弟でも。
なので、この弟は、常に兄弟の後ろに隠れる癖がついてしまい、極度の人見知りで、立志の義のときは一波乱あった。女性との初めての夜伽を拒否して逃げ出したのだ。だが、驚くことに、その義の際に逃げ出した弟を探しあてた青年が、契りの夫であったのだ。上神のいたずらも念が入っていると、同性の契りの夫を立志の義で見つけた偶然に、父母は感心しきりだった。
人見知りで、臆病で、何に対しても反応の薄い弟を天雄の夫は、全て受け止め、心から愛した。そして、天雄は少しづつ変わっていった。やがて医者になりたいと希望を抱いて、勉学に励み、厳しい師匠の指導を乗り越えて、現在がある。
昔から、見るべき所は恐ろしく冷静に見抜いてしまう才能には一目置いていた。穏やかで、慌てず、物静かで動じない。
それが、今は、ずれた帽子もそのままに、湛雄の部屋に走り込んできたのだ。
「どうした?」
「まずい。梅名様はかなり危ない。目を離せないのは、喜玖様よりも梅名様だった。誰か、心根のしっかりした、信用のおける侍女を大至急見つけて遣わせて欲しい。」
「はあ??詳しく話せ。」
湛雄は弟に座るように勧めた。そして、弟に向き合った。
梅名は、薄暗い闇の中で目を開けた。いつの間に眠ってしまったのか、寝台に夜着に着替えることもなく横になっていた。きっと最近の疲れが出て、眠ってしまったのだろう。天雄医師が寝台に寝かしてくれたのだろうか。申し訳なかった。
寝台から出て、歩き始めたら、足元がふらついて、上手く歩けなかった。
『もしかしたら、眠り薬を盛られた?』ずっとよく眠れなかったのを察した天雄医師がそうしたであろうと、思い至った。
しかし、自分が知らぬ間に薬を盛られた事が不快で、無性に腹立たしかった。
周りを見回すと、侍女も下がったようで、人の気配が無い。寝台の端を伝いながら、窓辺に寄って、外を眺めた。
夜の風が外の木々を揺らす音が聞こえて来る。空が曇っているのか、星は見えない。月明りも射さず、薄暗い。
『湛雄宰相の星読みは今夜はお休みね。』
しばし、風の音を聞いていた。無性に虚しさが込み上げてきて、涙が溢れてきた。
祖国から離れて、その祖国も失って。夫を失って、夫から託された愛し子も亡くして。愛しんで育てた乳母子も失って。この際国にお情けで置いてもらっているように感じてしまうのが、王族として、耐えがたかった。
喜玖には、育てなければならない赤子が居る。百合姫の乳兄弟となる子供。ゆくゆくは、百合姫の大切な友となる真雪。でも、自分には、何もない。
何よりも、もう、どんな未来も見たくはないのだ。
賀国の野蛮な襲撃を受けた卒の王宮内の最奥で、男も女も、車座になって毒をあおった。最後の一人が息絶えるのを確認してから、死して身体を汚されることが無いように、卒王自らが全員に香油をかけて、火を放った。そして、自身は、その炎の中に身を沈めた。その、一瞬、卒王と梅名の視線が合うのだ。
この光景を見ている自分を、卒王は知っている。何度も見るこの光景の最期で、卒王と梅名の視線が合う。
その灰青色の瞳は、何を私に語っているのだろうか。両性具有の上神に最も近い尊いあの方は、私に何を語りたいのだろうか。
梅名は、自分の夫から贈られた唯一の守り袋を懐から出してそっと撫でた。もう、何度もそうして来たために、袋を彩った刺繍は擦り切れてしまっているが。そして、不注意から亡くしてしまった我が子を想った。可愛い盛りで、あやすとよく笑う子だった。夫から譲られた片えくぼが、ふくよかなほっぺをより愛らしく見せた。
夫は、余り裕福ではない商家の長子だった。梅名は15歳。王族の娘で、家事などあまり経験が無かったが、下嫁して平民となった。婚家は梅名が嫁になる事を快くは思っていなかった。契りの相手であるから仕方なく、跡取り欲しさに受け入れたのだ。しかし、婚姻後程なくして、夫は荷車を牽く馬に腹を蹴られて血を吐いて倒れ、そのまま回復することなく亡くなってしまった。その後に腹に子がいる事が分かった。子がいるならと、婚家に置いてもらえる事になった。無事に産まれた女の子は、皆からとても大切にされた。梅名は嬉しかった。
その日は、雪の積もった寒い日で、朝から荷車が凍って動かなくなっていて、家中の皆がとても忙しい一日だった。梅名も手伝いに駆り出されて赤子を背中におぶって、届いた荷物の仕分けに立ちっぱなしで働いた。
夜になって、遅い夕餉の片づけを終えて、寝台に入り、赤子を凍えさせてはいけないと、普段よりも厚めに着込ませて、抱えて眠った。疲れてぐっすりと寝入ってしまい、自分が我が子を押しつぶす夢を見て飛び起きた。
はっとして、我が子を見た。息をしていなかった。
抱き上げて、揺すぶってみたが、ぐったりとして、動かない。未来読みの夢の中なのか、現実なのかが分からなくなって混乱し、悲鳴を上げていた。
その後の事は、よく覚えていない。気付けば、娘は小さな棺に寝かされて、土の中に降ろされていった。思わず、梅名は泣き叫びながら穴に飛び込んで、棺を開けようとして、幾人もの男衆に止められて、半狂乱で叫んでいた。何と叫んでいたのかも、覚えていない。
その様子を陰から見ていた未来読みの先達に引き渡され、実家に身を寄せた。
あの頃の記憶は曖昧で、何をして過ごしていたのかも、覚えていない。ただ、乳が張って痛くて。もう乳を吸ってくれる子は居ないのだと、張る乳が恨めしくて。
ある日、母に連れられて久しぶりに王宮の中に入った。もう自分には縁の無い場所と思っていたが、思いがけず、皇后陛下に目通りさせられた。そして、皇后陛下から、赤子を見せられた。
「3日前に生まれた私の子です。この子の乳母になって、乳を飲ませて欲しい。」
そう言われて、手渡された。小さくて、真っ白い赤ちゃん。
金の髪がふわふわしていて、灰青色の瞳が王家の血筋を示している。私の娘と同じ瞳。お腹がすいているのか、ふにゃふにゃ泣きはじめたら、私の乳房がグッと固くなり、乳が湧き始めた。張った乳房から、乳が染み出し始めたので、
「失礼いたします。」
と断ってから、梅名は皇后に背中を向けて、その場で胸をはだけて、赤子に乳を銜えさせた。むせながらも、赤子は乳を勢いよく飲んだ。乳房の張りが消えて行くように軽くなり、梅名はほっとした。
満足に乳を飲んだ赤子は、すぐに眠り始めた。その真っ白で小さな姿に、涙があふれた。
「よく出る乳のようですね。これから乳母として、この子に仕えなさい。」
皇后はそう言って微笑んだ。
「名前は雪花です。」
梅名は、泣きながら、深く叩頭した。
その夜、雪花様の契りの相手が遠い所にいると、夢で見たのだ。
梅名は、雪花様の赤ん坊の頃を思い出していた。真っ白い肌に、絹糸のように細くて艶やかな金の髪。灰青色の瞳。あやすとよく笑う。自分の子を失って、記憶も曖昧な程に打ちひしがれた自分を、命の輝きで救い上げてくれた子。毎日抱きしめ、幾度となく乳を飲ませ、満腹して、ふにゃっと笑って眠り始める可愛さ。
『あの時、私は幸せだった。亡くした宝を再び腕に抱いたようで。』
よく歌って聞かせていた子守歌を、つい、口づさんでいた。
天雄は、梅名の寝室の扉の前で、見張りを兼ねて、うつらうつらしながら、座って寝ていた。宰相の兄に、至急侍女をと頼みはしたが、今日の今夜では、難しいのは分かっていたので、万一梅名に異変があれば対応できるように帰らずにいたのだ。
梅名が起き出したのは、気配で分かった。部屋の様子を耳をそばだてて聞いていたら、ずいぶんしてから、細切れに歌が聞こえてきた。最初は、何の歌か分からなかったが、静かな繰り返しのフレーズで、子守歌だと分かった。
『この子守歌は、誰に聞かせていたのか。雪花皇后の乳母だった人だから、雪花様にだったかも知れない。』
そう考えると、『百合姫は、雪花皇后にとてもよく似ているそうなので、もしかしたら、梅名の気持ちが百合姫で癒せないだろうか』
天雄は、際王にその考えをどう伝えたら良いかを考えながら、夜を明かした。
幸い、梅名はそのまま、寝室から出る事は無かった。
梅名は、朝になっても、寝台から起き上がる事が出来なかった。食事をする気にもならず、うつらうつらしていた。見慣れない侍女が居たが、気にも留めずにいたら
「梅名様。食事はどうされますか?せめて、お茶はいかがですか。」
と、天雄医師に起こされた。
急に昨晩、眠り薬を盛られたかも知れない事を思い出して、ムッとしたが、確証はないので、無視するのも失礼かと思い
「食事を、少しだけ、頂きます。あまり食べる気がしないので、少し。」
そう言って、身体を起こした。やはりふらふらする。
笑顔で優しくこちらを見ている天雄医師に何故だか無性に腹を立てている自分に、戸惑った。笑顔を作る事が出来ない。目を見る事が出来ない。
侍女が、さっと履物を揃えて、手を差し伸べてくれたので、その手にすがって寝台から出た。
卒風の朝粥が出ていた。麦と豆とを柔らかく煮た、塩味の粥。席には、喜玖が居た。彼女もこの粥が食べたくて、起き上がって来たようだ。
「おはよう。喜玖。とても顔色がいいわ。」
梅名は、喜玖には素直に微笑む事が出来た。喜玖は、嬉しそうに梅名を見て
「はい。ありがとうございます。」
と微笑んだ。二人は、粥を美味しく食べた。喜玖の隣には、真雪が座っている。梅名には、この二人が、とても眩しく見えた。
食事を終えて、お茶を飲んでいると、宰相の環 湛雄が訪れた。そして
「際王の先触れに来ました。喜玖様と真雪様のお顔を見て、安心したいそうです。」
そう言って、気持ちよく笑った。
梅名は、上手く笑えない自分にびっくりした。
少しして、際王が訪問して来た。何と腕に百合姫を抱いて現れた。その後ろに、急遽雇われた乳母が付いてきていた。際王は、立ち上がろうとする梅名と喜玖を制して
「そのままで。正式な謁見では無いので、礼儀は抜きに願いたい。
梅名殿。少し食が進まないようだと報告を受けています。食べたい物でも、何かあれば、なんなりと、天雄医師に伝えて欲しい。」
際王は、梅名の顔を真っすぐに見て、言った。
「喜玖殿。あなたも、同じです。なんなりと、天雄医師に伝えて欲しい。」
今度は、喜玖を真っすぐに見て、言った。
「我が妻の親族なのです。邪険にしては、妻に顔向け出来ません。特に、雪花の乳母殿。あなたには、特にお願いしたい事もあるので。」
そう言って、際王はいたずらっぽく笑った。
「百合の教育係りをお願いしたい。恥ずかしながら、百合に世間の事を教える女性の適任者がいません。宰相に妻は居ませんし、元宰相の妻は、夫が隠居したので、宮城には出仕しないそうです。実は、腹に子供がいるらしくて。無理は言えなくなりました。なので、是非、お願いしたい。」
「私の両親は、仲睦まじくて。私の兄弟は増えるばかりです。」
湛雄宰相は、苦笑いしている。
「それは、おめでたいことですね。」
梅名も、喜玖も、微笑んだ。
際王は、さっと梅名の近くに寄り、百合姫を梅名に差し出した。
「雪花によく似ているでしょう。瞳は、私譲りですが。
娘を誰にでも任せる気にならなくて。梅名殿に育ててもらえるなら、私も安心なのです。どうか、お願いしたい。」
重ねて、際王龍州は願った。百合姫は、翡翠色の瞳で真っすぐに梅名を見ている。
思わず、梅名は抱き取った。
白い肌。金色の絹のようにふわふわの髪。その面差しは、母親の雪花姫の赤子の頃に生き写しだった。大切に大切に育てた雪花姫。我が子のように乳を飲ませて慈しんだ雪花姫。
梅名は、百合姫を抱きしめた。その小さな命の輝きに、涙が出た。
自分は、雪花を失って、自分の悲しみも分からない程に辛かったのだ。そのことに、やっと向き合えた。
『辛い事を受け入れなければ、未来読みは心を潰される。』
老齢の先達から教えられた言葉が、今になって、じんわりと梅名の身体に沁み込んで来た。この言葉を、喜玖にも伝えなくてはいけない。
身体に沁み込むように。
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