第3話 際国の王
千年と言われる歴史の間、存在している際国。その起源は際国の西にある断崖の先にある深海の杜から来たと伝えられている。その断崖は天を刺すように急峻で、かつて何人もの者が登ろうとしたが、登りきれた者は無く、途中で力尽きて動けなくなり、そのまま息絶えて落ちてくるばかりだった。断崖の先には森があると伝わっているがそれを見た者は誰もいない。
歴史の古い際国も、現在の際王の龍州が王に立ち、治世するようになってからも、地方豪族同士が血で血を洗うような戦を繰り広げており、その乱世を機知と人望と武力を武器に、何年もかけて粛々と平定していき、現在の戦の無い世に納めたのが、龍神の加護を持った、当代の際王、際 龍州であった。
戦には先陣を切って馬を駆り、味方の兵を奮い立たせた。勇猛にして果敢。将としての信頼も厚く、冷徹であっても情に厚い、部下を大切にする王であった。
大柄で筋骨逞しく、黒味の強い茶色の髪をいつも無造作に結わえて背に垂らしている。肌は象牙色で、日に焼けた部分は赤銅色に艶めいて、筋肉の盛り上がりを見事に際立たせていた。深い緑の双眸は翡翠色と例えられ、端正な顔立ちを更に上品に見せている。
際王龍州が30歳の年、まだ戦の余韻が残る復興のさ中で、北部地方の豪族の賀国の動きがきな臭いとの報告を受けて、一個中隊を連れて視察に向かった。しかし、天候が荒れ模様となり、山中で豪雨にあって動けなくなった。
3日過ぎても雨が止まず、帰京予定を過ぎてしまい、兵糧が無くなる事態となって、仕方なく、腕に自信のある者が弓を片手に、食料を狩りに出る事になった。
雨に押し込められて、うつうつとしていた龍州は、宰相の環 湛雄と一緒に狩りに出る事にした。環 湛雄は、龍州の乳母の息子で、幼馴染である。幾多の戦場を共に戦ってきた戦友でもある。軍師の才も有り、星読みが趣味という偏屈者である。
雨の中、ぬかるむ足元を注意しながら山中に分けいって行く。獣に気付かれるのを避ける為、少人数での狩りとした。龍州も湛雄も腕には覚えがあり、襲われても返り討ちにする自信があった。
この雨の中では大きな獣は望めないので、ウサギか野鳥狙いで、装備を整えた。豪雨続きの山中は荒れており、強風で倒れた朽ちた老木やちぎれた枝が散乱し、注意していないと転びそうになる。ただでさえジメジメ湿っぽい服に濡れた泥が着くのは勘弁だと思いながら、無言で男2人、辺りを伺いながら進んで行った。
随分奥まで来たと思うのに、野鳥1羽も出て来ない。こんなに歩いたのに、手ぶらで帰る様が浮かんで、憂鬱になった。
「魚、捕りに行く?」
後ろから、龍州の気持ちを察知したかのように、湛雄が声をかけた。
幼馴染の湛雄は、二人の時は旧知の仲の友になる。
「腹減ったなあ。 魚捕りにしよう。」
二人は少し戻って、沢へ続くと思われる脇道へ分け入って行った。
すると、それ程歩かないうちに、馬が倒れているのを見つけた。小ぶりな馬で、仔馬位の大きさだ。丁寧な造りの鞍が着いたままになっている。雨にさらされた為か、全身ずぶ濡れで、長い鬣も尾も泥にまみれている。 そして、首筋と胴体と耳の近くに矢が深々と刺さっていた。矢羽根の模様から、賀の国の物と思われた。
「ここは、際国の領域か?」
馬を検めていた龍州が湛雄に低く声をかけた。
「先の沢を超えれば卒です。ここは、際の領域です。」
龍州は馬から矢を丁寧に3本引き抜いた。腰の革袋から羊皮のキレを取り出し、それを丁寧に巻いてから、湛雄に渡した。
「折るなよ。」
「努力します。」
その刹那、倒れた馬の向こう側の濡れた落ち葉がぬぬっと持ち上がり、突然娘が飛び出して来て、龍州に飛びついた。
度肝を抜かれた龍州は下がろうとして足を滑らせて尻もちをついた。その上から、若い娘が馬乗りになって抱き着く。龍州は背中で倒れて娘を抱きとめる形になった。
娘がずぶ濡れで震えていることと、殺気が感じられないことで、 湛雄はただその様を腹を抱えて、声を殺して笑って見ている。
娘が、震えながら、小さく言った。
「私の契りのお方。やっと出逢えました。」
その言葉に龍州も湛雄も目を丸くした。湛雄の笑いは引っ込んだ。
「追われています。賀の国の者です。」
湛雄は周囲を警戒する体制になった。龍州もさっと身を起こして、娘を抱き上げた。
娘はまだ若く、あどけなさの残るような容姿をしている。北国の者と一目で分かる。抜けるように白い肌、金の細い髪。黒目がちな青灰色の瞳。濡れそぼった着衣は汚れているものの、上質な手触りがした。
とにかく、隊に戻らなければならない。警戒しながら、足早に進む。殺気を含んだ視線を数度受けたが、森の枝が幸いしてか、矢を射かけられる事もなく、どうにか陣屋に到着した。
龍州の為の布屋の中で、ずぶ濡れの娘を着替えさせた。龍州の服で唯一残っていた
今日の着替えの為の一揃いだ。
娘が着替えている間、布屋の外で湛雄と2人待っていた。
「俺が契りの相手と言ったぞ。本当か…?」
龍州は湛雄に言うでもなく呟いた。
「女がそう言うんだから、そうだろう。」
背中が泥水でぐっしょり濡れたままの龍州の姿に笑いをこらえながら、
「口吸ってみたらいいよ。分かるかも知れない。」
湛雄はそう言った。
「はあっ?」
「俺も一度だけ、契りの女と契ったことがある。初めは半信半疑だった。でも、口づけたら、全然違った。」
「ええっ?お前、その女は?!」
「多分、死んだ。契った翌日に戦に出て、終わったら迎えに行くって約束した。
戦がひと段落して迎えに行ったら、その女の村は戦場になっていて、焼け野原だった。それ以来、ずっと探している。もう10年になる。まだ見つけられない。」
龍州は思いもかけない湛雄の告白に絶句した。
「俺なら、離さない。誰が何と言おうと、契りの女は離さない。」
湛雄の言葉を受けて、龍州は黙考した。
布屋の中からか細い声がしたので、着替えが終わったかと、龍州は中に入った。衝立を回り込んで目にした娘の姿に、ドキリとした。
大柄の龍州の服を着て、足元はぞろ引いているし、首元は一生懸命搔き合わせていても動く度にずれて胸元が見えそうになる。
「着方が分らなくて。これで合ってますか?」
娘は、おずおずと龍州を見上げている。その可憐な仕草にまた、ドキリとした。
「そなたは、俺を契りの者と言ったが、本当か?」
「はい。」
「俺は今年30になった。そなたは幾つだ?」
「16になりました。女神の恵みのものも迎えていますので、もう子も産めます。」
「……そうか。」
女は毎月必ず女神の恵みの期間があり、その間は体を休めて過ごす必要がある、と男は習う。その期間が過ぎたら、子を孕みやすいのでしっかり励むようにと教わる。
契りの者としか子が出来ないので、男にとって、いかに子を多く成すかは、最重要事案なのだ。
龍州は、一歩娘に近付いた。娘はじっと自分を見ている。意を決して娘を抱き寄せ、唇を合わせた。
『…これは…』
龍州の全身に悦びの衝撃が走った。男は14歳の立志の儀式の後の夜に、夜伽の女をあてがわれる。それは身分ある男子の経験を積む場であり、夜伽の女も夫を亡くした若い寡婦であったり、婚期を過ぎても契りの者に出会えなかったうら若い女が選ばれる。その後も、龍州程の身分であれば、定期的に情力を開放する為の夜伽の女をあてがわれる。男30ともなれば、それなりに経験を積んでいると思っていたが。
口づけだけなのに、まるで違った。多分、もう、この娘を手放せない。
これが、契りの女との逢瀬なのかと。
突然抱きしめられて、唇を奪われた娘も驚いて目を見開いていたが、熱い吐息を漏らすと、力が抜けたように足元からくずおれそうになった。
慌てて抱き留めて抱き上げると、そのまま抱いて布屋から出て、外に居た湛雄に
「すぐ帰る。今すぐ。撤収は班長に任せる。お前、着いて来い。」
そう言って、馬の居るほうにさっさと歩いて行く。
「了解。後は、万事任せろ。」
と笑顔で言って、湛雄は班長に大声で今後の段取りを伝えていった。
雨が上がった。空はすっきりと晴れ渡って、空気が澄んでいる。
馬に乗った龍州と娘、湛雄、護衛3名が駆け足で王都に向けて進んで行く。護衛3名は何故急に急いで戻るのか不思議そうにしている。湛雄は、
「王は背中の泥の湿り気が不快で我慢ならないらしい。」
などど、笑いをこらえて言っている。突然降って沸いた若い娘にも面食らったが、その娘を移動の間も片時も離さず大事にしている、その姿にもびっくりしていた。
その日の日暮れ頃に、一行は王都に到着した。王宮に戻ってから、龍州は湯あみもそこそこに、湛雄を呼んで
「彼女は卒王家の末の姫とのことだ。名前は卒 雪花。卒王の妹だ。卒王に親書を頼む。賀国のことも、任せた。」
そう言いおいて、寝所に籠った。なんとそのまま3日も出て来なかった。
その間、宰相湛雄は婚儀に向けての怒涛の政務をこなしていった。賀国の領地越境の詮議書も詮議員と協議し、作成して送り付けた。しかも、賀国は際王龍州の契りの者をかどわかそうとしたのだ。それは看過できない。
龍州は、四日目にやっと政務の間に顔を出した。何と傍らに、妻の雪花を伴って現れた。たまった政務をこなしながら、まめに休憩を取り、雪花と共にお茶を飲んだ。必ず目の届く範囲に妻を置き、政務を行った。
龍州は、ある時湛雄に
「お前はよく一晩で離れることが出来たな。」
と言った。
「私だって離れがたかったさ。でも戦では仕方ないじゃないか。一夜だけでも契りの妻と契れたのは、幸せだったと思うよ。
戦の世では、自分が知らぬ間に契りの者と死に別れていることも多いだろうさ。」
湛雄は、そう寂しそうに言った。
「…だから、戦の無い世を作ろう。」
龍州は、友湛雄に言った。
暫くして、卒王から親書の返事が届き、際と卒の間で婚儀の日程調整が進められた。次の月に、卒国から使者が訪れて、その一行の中に雪花の乳母の梅名もやって来ていた。梅名は婚儀の後も際国に留まる事になった。梅名は卒王の姪であった。
梅名がやって来て、雪花の身辺が整うと、やっと龍州は政務の間に雪花を伴うのをやめた。夫婦の仲はことのほか睦まじく、程なくして雪花は懐妊した。
婚儀の日は晴天で、優麗な雪花の姿は、皆の注目の的だった。整った顔立ち。透けるような白い肌に金糸のように細い髪を結い上げた様子は、黄金を被っているかのようだった。まだあどけなさか残る面差しだが、真っ白い生地にに銀糸で吉祥の花の刺繍の施された花嫁衣裳は、とても似合っていた。光の加減できらきらと輝き、ふっくらしてきたお腹を目立せない。その姿を見つめる龍州も、婚礼用の朱色の生地に金糸で龍の刺繍が入った礼服をまとっている。二人は、誰の目にも幸せそうだった。
雪花の臨月が近付いて来たある日、雪花の乳母の梅名から、龍州に接見を求められた。卒王の姉の娘である梅名は、早くに夫に先立たれていると聞く。
「際国の王、際 龍州様にご挨拶申し上げます。」
梅名は、龍州と雪花の前で優雅に最上級の礼を取る。さすがは卒王家の才媛である。
所作が見事で美しい。
「内々のお話ゆえ、人払いをお願いします。」
そう言って微笑んだ。卒王家の特徴の抜けるような白い肌に、金の髪。灰青色の瞳。龍州よりも少し年長であるが、まだ若い。その彼女は、宰相の湛雄の退出も求めた。
「卒王家の秘密をお伝えいたします。」
室内に、龍州、雪花、梅名だけになってから、そう切り出した。
龍州は何事かと緊張した。雪花はにっこりと微笑んで、彼の手に自分の手を乗せた。
「卒王家は、上神に最も近い血筋と言われております。卒王家の血が他国に出る事はありませんでした。雪花様が初めてとなります。これも上神の采配という事でしょう。こうなったからには、夫の龍州様にもお伝えしておいた方がいいと、雪花様とも相談いたしました。」
梅名は更に続けた。
「驚かれることも多いと思われますが、どうか、真剣にお聞きください。」
そう、前置きして、話を続けた。
「卒王家の赤子は、全て姫で生まれます。そして、成人前に、契りの者が女であった時には、男に変わります。なので、現卒王も、初めは女でした。」
龍州は驚いて固まった。
「男であっても、心は女が宿っております。なので、雪花様のお子は姫でお生まれになりますがいずれ男子に変っても、心までは完全に男になれません。できることなら、姫のままでの生涯を送って頂きたいと願っております。
身体が男になっても、女としての器官は残りますので、女神の恵みのものも訪れる時があります。
成人する頃になると、未来読みの力が発現したり、千里の先まで見通せたりもします。個々の能力に違いはありますが、何かしらの力が現れるようになります。
雪花様には千里の先を見通す力があります。それで龍州様を見付けられました。」
龍州はその話の全てに驚いた。
「では、梅名殿にも、何か特別な力があるのですか?」
「はい。私は、未来読みが出来ます。…私たち未来読みの者が見た未来は、それぞれの立場から、それぞれの未来を見ますので、結果が一致することはありません。
ですが、恐ろしい一致の未来を見ました。
…卒国は賀国の侵略にあい、滅びます。王家は賀国からの凌辱を良しとせず、自決します。」
「何と!そこまで解っていながら、どうする事も出来ないのですか!」
思わず、龍州は立ち上がった。
「だから、雪花様の契りの者が龍州様だったのです。だから、未来読みの私がこちらに遣わされたのです。雪花様の赤子の乳母は、雪花様の長姉の娘が参る予定です。彼女も未来読みです。卒王は、これ以上滅びる未来を知りたくないと仰せです。
卒王家の血筋は、雪花様しか残せないのです。
私は、雪花様とこの際国に命ある限り尽くさせて頂くつもりです。」
梅名は淡々と語っていく。表情も変えずに。
龍州は立ちつくした。
「…未来を知るという事は、これほどまでに絶望するという事なのですね。未来を見ずに居られることは出来るのですか?」
「いいえ。眠っている間に夢の中に写ってしまうので、見るしかありません。例え見たくない未来であっても。」
「何とむごい…」
龍州には想像できない世界だった。戦のさ中、先が見通せたなら、どんなにか楽なのにと思うことはあった。それは、自分が勝つ前提であり、どうあがいても負けると分かっていたら、戦う意味も気力も無いではないか。
「……賀国との領界に監視の兵団を派遣します。」
龍州は言った。
「いけません。そうすると、南の沖国が領界を超えて攻めて来ます。そして、再び激しい戦乱の世になります。際国が、自国の安寧を守る為には、賀国に気を取られてはいけません。賀国が際国に攻め入る事はありませんので。」
梅名は冷めた目でそう言った。
「際国と沖国の間には、大河が流れています。その河を沖国に渡らせてはなりません。沖国は広大な砂漠を有する国。豊かな国土は那国に接する北側の一部にしかありません。沖国は、那国も、そして際国も手中に収めようとするでしょう。那国の海運力を手中にして、各地に侵攻して行く未来を、見ました。」
龍州はゾッとした。
「ですが、…その後の未来が様々に変化して、読めないのです。未来は変わります。きっと雪花様のお子が持ってくる運で上神の采配で変わっていくのです。」
「例え赤子が生まれても、卒王家は滅びるのですか。」
「はい。卒の国、卒の民が滅びるから、雪花様が生まれたのです。上の兄姉とは年の離れた妹です。雪花様が生まれたことで、恐らく龍州様の運命も変わったと思われます。確か、兄君がおられましたね。」
龍州は目を見開いた。契りの者と出逢うということは、これ程までに人生を翻弄するものなのか。
確かに、龍州には、二つ年上の兄がいた。早くから王太子に決まり、当然周囲も彼が王位を継ぐものと思っていた。頭がよく、優秀で学問の才もあり博学だった。立志の後に契りの妻と出逢い、結婚した。しかし、戦続きの日々に疲弊し、やがて塞ぎこむ事が多くなった。それでも、支障なく政務もこなしたいたので、父も母も見落としていたのだ。
14歳の立志を終えたばかりの龍州は将軍として地方の戦場に寝起きして、めったに王都には帰還していなかったので、不穏な変化に気付かなかった。
ある日、龍州は山岳地帯で敵に急襲され、孤立し、援軍を乞うのろしを上げたが、待っても待っても援軍は来ない。
その場所は、銀を豊富に産出する地方豪族の領地で、自治権を認めて併合していた豪族だった。後から分かった事だが、その領地を、龍州が平定して接収し、我が物とする為に派兵して来たと、偽の情報を流した味方がいたのだ。そんな事とは知らない龍州は、生きる為に、必死に戦った。
いよいよ追い詰められ、矢も尽き、味方の兵は疲弊し、後は命尽きるまで切り結ぶ手段しか残っていないとあきらめかけた時、突如、敵の背後から戦の角笛が鳴り渡り、馬蹄の音を響かせて、援軍が駆け付けた。そこには、父の印の黒龍の旗がはためいていた。背後からの援軍に、敵は総崩れとなった。
ぎりぎりで間に合った父は、息子の姿を認めると、駆け寄って来て抱きしめた。矢傷も切り傷も受けた息子の、血の滲んだボロボロの姿を見て、男泣きに泣いた。つられて、つい、龍州も泣いてしまったが。
まだ、初陣からいくらもたっていない頃であった。
あの時。雪花が生まれて来たのだ。自分と出逢う為に。
その後、結果として領地を平定し、接収した領主の館で、龍州は耳を疑う話を父から伝えられた。兄王太子の妻の太子妃が、義弟を殺す為に画策したと。
兄の所には、昨年息子が誕生したが、元々身体が弱く、残念なことに亡くなってしまっていた。その後、まだ子供が授かっていない事を、太子妃が酷く気にして、呪術に傾倒したり、太子宮の入口の方角を変えさせたりと、何かと騒々しかったそうだ。やがて常軌を逸した行いをするようになり、皇后から注意を受けるに至った。兄は妻の行いに悩み、ただでさえ政務や戦況で疲弊していた事も重なって、とうとう寝台から起き上がれなくなり、食も細くなり、遂には太子の座を降りる覚悟を決めて、妻にその事を打ち明けた。
すると、妻は、自分の実家に密使を送り、裕福な商家の財力で宮殿の官吏を買収して、情報をでっち上げ、あろうことか、国王の筆跡に偽造した密書を、ちょうど龍州が駐留している地の豪族に送り付けた。
事が露見したのは、王太子が降王太子の伺いの為に際王に謁見を願い出て、その日、病を押して身支度し、妻を迎えに行った時だった。妻から
「もう少しの辛抱でございます。もうすぐ吉報が届きますので。」
と、訳の分からない理由で、太子の脚に取りすがって、際王の前に行かせまいと引き留めたからだった。その、尋常ではない有様に、彼は妻を厳しく問い詰めた。
そこでやっと、義弟が亡きものになれば、太子の心も安らかになり、心置きなく、次の子供の誕生を迎えられると、泣きながら訴えられたのだ。
太子は、激高し、妻を打ち据えた。そのまま腕を掴んで、引きずるようにして父の際王と母の皇后の前に連れて行った。両親の前で事の次第を説明し、今回の事態は、不甲斐ない自分に全ての責があると言って、床にひれ伏して、弟を助ける兵を動かして欲しいと懇願した。
派兵など、一朝一夕には不可能である。
しかし、皇后が動いた。宮城を警備する兵は動かせないが、皇后宮の兵なら、直ぐに出立出来る。兵糧は無い。しかし、少数精鋭で馬を走らせれば、もしかしたら、間に合うかも知れない。
そこで、父の際王が、自ら兵を率く事を提案した。際王の旗印があれば、通り過ぎる各所から後に続く兵が合流するはずである。
混乱の中、可能な限り迅速に、際王は兵を率いて馬上の人になった。
皇后は、そのまま王太子妃を幽閉し、その日のうちに太子妃の実家を接収した。太子妃の実家から押収した数々の証拠を目にした皇后の怒りはすさまじく、王太子妃の一族全員を投獄し、法の詮議も受けさせず、策謀を企てた父親を残して、他全員を処刑したのだ。証拠の数々から、買収された官吏を洗い出し、逃げた者も速やかに捕縛し、官吏当人は処刑、その家族は王都から追放した。これらの措置は有能な皇后と宰相の手により、2日間で断行された。
そうしながらも、皇后は、城壁の最も高い場所から、夫と息子の居る方角を見つめて、一心に上神に祈り続けた。
その様子を見ていた王太子は、更に塞ぎこんでしまった。
王太子妃が幽閉されて3日目に、王太子は幽閉された妻の元に忍んで会いに行った。牢番の兵2人に断って、地下の天井の低い牢の門をくぐった。雨水の染みた暗い廊下の最奥に王太子妃は一人、幽閉されていた。
王太子は、鉄格子の前に立つ牢番に鍵を開けさせて、狭い入口から背を屈めて、ひときわ薄暗い房に一人で入った。妻は、初めて見るネズミにひどく怯えていた。壁際に置かれた汚い寝台に乗って、足を抱えて丸くなって座っていた。夫を見ることもしない。ネズミの方ばかりを気にしている。
「夕風。私だ。ケガはないか?」
王太子は優しく妻に声をかけた。夫の声にはっとして、
「龍丹様。」
と夫の名を呼び、寝台から降りようとしたが、重い鎖の音がして、太子妃は降りられなかった。両足首に鉄の足枷を嵌められており、そこから鉄鎖が壁の楔に止付けられている。重い鎖を着けたままでは、細い妃の足では動けなかったのだ。
王太子は妻に近付いて抱きしめた。愛しくてたまらなかった。例え王家にとって許されない策謀を行っても、契りの妻なのだ。男にとって、生涯ただ一人の女なのだ。
『もっと親身になって話し合うべきだった』
その事を、どんなに後悔しても、もう全ては遅い。
「もうすぐ、吉報が来ます。そうすれば、こんな所から出られますから。」
妻は、そんな事を、まだ言っている。
「夕風。我が弟がそんなに憎かったのか?」
「いいえ。憎くはありません。ただ、龍丹様が心安くいられるように、弟君にはお隠れしてもらうのが一番と、私の父が申しました。私もそう思ったのです。」
裕福な商家で何不自由なく育った妻。商家では父親の意見は絶対で、自分で思考する経験を積んでこなかったきらいがある。素直で、人を疑う事を知らず、言葉と腹の中が違うなどとは考えた事も無いのであろう。それは分かっていたことだ。
「そうか。龍州が憎かった訳ではないのだね。良かった。」
「はい。」
王太子妃は、にっこり笑った。王太子も優しく笑った。しかし、その笑顔は悲しみをこらえた寂しい笑顔だった。暗がりでは、王太子妃にその事は分からない。
「寒いだろう。こちらにおいで。」
夫はそう言って妻を引き寄せた。そして、再び抱きしめた。妃の身体はここ数日でかなり痩せたように感じられた。妃の香りを嗅ぎながら、最後の決心をした。
夫は妻を胸に抱きながら、袖に隠していた短剣を妻の背中から心臓めがげて一息に刺し込んだ。妻はのけぞって少しうなったが、すぐにこと切れた。
その異変を牢の鉄格子の前で見ていた牢番が、泡を食って鍵を開けようとした。しかし、手が震えて鍵が刺さらない。
「そのまま聞け!」
王太子は一喝すると、懐から1つ手紙を取り出すと、座っている寝台に置いた。
「この手紙を、後から皇后陛下に届ける事を命じる。必ず皇后陛下に直に渡すように。皇后陛下は今、城壁の最も高い所におられる。……頼んだぞ。」
そう言うと、懐から小瓶を取り出して、一気に飲んだ。暫く苦悶の表情をしたが、長い時間ではなかった。最後に大きく息を吐いて、ぐったりとなった。
あまりの事態に、牢番は腰を抜かしていた。大きな悲鳴を上げて助けを呼んだ。その声に驚いた表の牢屋番が、飛んで来た。
「皇后陛下にご挨拶申し上げます。」
宰相が、皇后陛下に声をかけた。静かな声だった。
夜空に満点の星がきらめいている。城の中で最も高い場所。ここは、宰相が星読みの為にしつらえた場所でもあった。城内のどこよりも早く、外の異変をいち早く察知する事が出来る場所。
今は皇后の為に小さい天幕が張られて、椅子が置かれている。皇后は、息子と夫の無事の帰還を早く知る為に、この場所に留まっている。いや、離れたら、大切な者を失いそうで、怖くて離れられないのかも知れない。
「……環宰相、星の読みはどうですか。」
皇后は何と声を掛けたものかと逡巡して、無難に声を掛けた。
「先ごろは、読み間違えてばかりです。」
宰相は悲しげに笑った。そして、皇后の前に膝を折って頭を垂れた。
「先ほど、王太子と王太子妃が、王太子妃の幽閉された房にて、息をひきとられました。」
「なんと?!」
皇后は椅子から立ち上がった。勢いで椅子が後ろに倒れた。
「王太子龍丹様におかれましては、妃の夕風様を短刀で殺められた後、ご自身は毒をお召しになりました。私が知らせを受けて駆け付けた時には、既に王太子様は息絶えておりました。
ここに、皇后陛下に宛てたお手紙をお持ちしました。殿下が最後に、皇后陛下の手に渡すようにと、言付けたそうです。」
環宰相は、手に持っていた文箱から、手紙を大切に取り出すと、皇后に差し出した。その手は震えていた。頭は垂れたまま、膝を折ったままで、皇后の前に居る。
皇后は、その手紙の表の文字を凝視している。まぎれもなく、息子の手による文字。震えながら、手紙を受け取った。真っ白い紙に龍の白い透かしの入った、王太子の為の紙。幾重にも畳まれた紙を広げて、文字を目で追った。
そこには、不甲斐ない自分が妻をこのようにしてしまった詫びと、弟に対しての詫びと、父と母への詫びが、簡潔な言葉で記されてあった。そして、最後に、
『お母様に、私の契りの妻を殺める罪を負わせるわけにはいきません。契りの妻を愛してしまうのは、どうしても仕方のないことなので、自分が妻を連れて逝きます。誰の事も恨まなくて済むことが幸せです。お父様とお母様の子供として生を受けられた事を、上神に感謝します。』
と結ばれていた。皇后は
「龍丹は、どこにいるのです?」
がくがくと震えながら手紙を胸に握りしめ、目を見開いて、環宰相に問うた。
「お連れします。」
宰相は、先を歩き始めた。
王太子の為の宮の、北側の一室に、真っ白い白地に白い龍の柄が織り込まれた布をかけられて、王太子龍丹は安置されていた。
皇后は、王太子の印の白龍の布を震える手でそっとはぐった。そこには、眠るように安らかな息子の顔があった。
息子の台のすぐ隣に、ただの白布がかかった台が、王太子に添う。
「なぜ、この者が太子の隣に置かれているのですか。」
「殿下のお手が離れない為、無理をすると傷をお付けしてしまう恐れがありましたので。」
それを聞くなり、皇后は二人に被せられた布を勢いよくはぐった。
そこには、固く妻の手を握りしめた息子の姿があった。
その姿を見て、皇后はその場にくずおれた。
悲鳴のような泣き声を上げて、1人の母親が、泣き崩れた。
次の日、伝令の鳥が城に到着した。際王と龍州の無事と、王城への帰還の日程を知らせる内容だった。
その知らせを、皇后は城の高台で聞いた。泣きはらした目をして、呆然と椅子に腰かけて遠くを見ていた。お付の侍女達が、沈痛な面持ちで立ち尽くしている。
夫と息子への安堵の想いと、子を亡くした悲しみとで、言葉が上手く選べない。宰相が際王帰還の行事の報告と、王太子の葬儀の今後の段取りについて、述べている。その口上を黙って聞いていた。
「お耳汚しを失礼します。」
と宰相は断って、彼にしては珍しく少しの間があった。
「王太子龍丹様の補佐をしておりました、我が愚息が、今朝方、龍丹様の御元に参りました。愚息の力及ばず、このような事態になった事の責を身をもって償わせて頂きました。」
皇后は、まじまじと、環宰相を見た。その大きな瞳から、もう枯れたはずの涙がぽろぽろと零れ落ちる。
「環宰相。いいえ。環 雄喜!もう、これ以上、私を悲しませる事は許しません。
お前の命は、夫の際王 龍喜のものです。ゆめゆめ、その事を肝に銘じなさい!」
肩を震わせながら、皇后は、そう言い切った。そしてまた、さめざめと泣き始めた。
際王は、王太子の訃報を帰還途中の馬上で、伝令の鳥で届いた文で知った。しかし、動じることなく、龍州に伝える事もしなかった。
気楽な凱旋帰還の旅のような雰囲気で、龍州を、兵を労い、道々楽しませた。急ぎ足の帰還であったが、際王自らの出陣で、王の姿を一目見ようと街道には沢山の人が見送っている。その中を、威風堂々と馬を進める王は、やはり威厳に満ちていた。
王都に入る街の石壁の尖塔に、黒い半旗が掲げられていた。凱旋した一行は、それの意味する旗に不穏な気持ちを抱いた。戦勝の浮足立った気配は消えて、黙々と城門をくぐった。
宮殿の鉄門をくぐると、喪服を着た官吏達が迎えた。迎えの角笛も吹かず、祝いの音楽も無く、ただ、淡々と無事の凱旋を寿ぐ宰相の言葉が一行に贈られた。皇后は姿を見せなかった。
その後、軍の側に居た際王が、王宮の階段を上がり、宰相の正面に立つと、帰還した兵に向かって言葉を述べ始めた。
「苦しい戦いの中、最後まで奮戦してくれた事に、健闘を称えたい。よくぞ耐えて戦ってくれた。そして、不眠不休で馬を駆けて、戦場までついてきてくれた皇后宮の勇敢な兵士達にも、健闘を称えたい。
余が、今ここに立っていられるのも、皆のおかげだ。そして、王ではなく、一人の子を持つ父として、我が息子を守ってくれた事、心から感謝している。これは、皇后も同じ気持ちだ。
今回の戦のさ中に、宮城内で、王太子が不幸な死を遂げた。城壁に掲げられた半旗は、王太子を悼む旗だ。追って、事の詳細は明らかにする。
今宵は、ささやかだが、食事を用意してある。余と皇后、龍州将軍、環 湛雄将軍補佐は、喪に服す為、席を温められないが、心ゆくまで、料理を楽しんで欲しい。」
そう言い終わると、王は踵を返して、宮殿の中に消えて行った。環宰相と龍州将軍、環 湛雄補佐が足早にその後を追った。
龍州は頭の中でぐるぐると答えの出ない問いを思い続けていた。
『王太子殿下が亡くなった??兄様が。なぜ?どうして?何で?
不幸な死?なぜ?それに湛雄も喪に服すって、何で???』
宰相は、まず、王太子宮に一行を案内した。北側の部屋の一角が区切られて、氷室から取り出した大量の氷の部屋になっていた。部屋には、際王と龍州の二人が入った。その冷えた部屋の真ん中に、白い寝台が二つ並べられていて、白い布がかけられていた。
際王は、その布を一気にはぐった。
そこには、固く妻の手を握った王太子と、王太子妃が横たわっていた。顔色は恐ろしく黒くなっていたが、間違いなく、龍丹と王太子妃だ。
際王は、無言だった。寝台に近付くと、まじまじと龍丹の面を見て、妻を離さない手を見て、龍丹の指を力技で開き、二人の手を離した。そして、
「環宰相!」
と、外の宰相を呼んだ。宰相は直ぐに入って来た。
「この女の王太子妃の身分を剥奪する。この者は、妃の器ではなかった。もしこれが皇后になっていたら、国が滅ぶ。外に出して、無縁の骸として扱うように。
……皇后の元へ行く。後は任せた。」
そう言いおいて、皇后宮に向かった。宰相は人を呼んで、早々にかつて王太子妃であった女を運び出して行った。
その様子を、ただ見つめながら、寒い部屋に一人残された龍州は、やっと静かに兄と対面した。
王太子妃が、自分を殺す為に画策した事は、父王から聞いた。自分が殺される対象に成り得る事態は想像が出来る。なのに、なぜ、兄が死ななければならないのか。
どうしても、そのことが、理解できなかった。
王太子の兄との無言の対面の後、自分の乳兄弟で補佐役の、環 湛雄の兄でもあり、王太子龍丹の補佐役であった、環 雄成が、補佐役の責務を果たせなかった咎で自害したと知った。 環 雄成が責任を取った事で、宰相の一家は罷免の措置から逃れた。環兄弟はそれぞれ際王の後継者の乳兄弟で、部下であり友であり、相談者であり。王位を継いだ者の補佐役として後々宰相となるように育てられていた。
今回の事態は、際国にとって、重い禍根を残した。王太子龍丹を推す派閥は、既に龍丹の即位後の体制を根回し終わっていた為、次男の龍州に着いていた派閥と軋轢が生じたのだ。元々龍州は兄龍丹の補佐で、軍事を司る将として外交面の職務に重きをおく立ち位置だった。それが、頭が変わったからと内政的役職と直ぐには入れ替われるわけではない。しかし、龍丹側の担当官を全て受け入れるのも龍州側としては受け入れられない話である。現宰相は、長息の責のこともあり、強い態度に出られない。
次期際王の取り巻きとして宮廷に君臨するために、熾烈な策謀が繰り広げられようとしていた。
しかし、あっさりと、龍州と環 湛雄は事態を収束させていった。龍州は少しの不正も不条理も許さなかったのだ。それは、官吏本人だけでなく、その家族全てにおいても当てはめられたのだ。官吏の妻君の浪費具合から、家人や召し人への待遇についても。龍州は篩いにかけていった。既に龍州付の派閥では、龍州のその辺への潔癖具合は有名であったので、部下の家族一同は、日々清廉潔白に過ごしていた。龍州曰く
「戦に出るのに、不正や詐欺をしていたら、上神の加護を受けられなくなる。」
というもので、部下の妻君達にも
「お釣りのちょろまかしのせいで、戦場にいる夫が死んだら嫌だろう。」
とまで言って、商店で揉めていた部下の妻君を諫めた話は有名であった。
龍丹の妻は裕福な商家の出であった為、その浪費具合は有名であった。その為、王太子妃の意に添う品々が献上され、王太子宮の調度類は絢爛豪華で皇后宮にも勝ると噂されていた程だった。王太子も妻への献上品を検める事はしなかった為、龍丹側の取り巻きの金銭感覚は、龍州側とは正反対であった。
龍州の補佐の湛雄は、戦の兵糧、兵の日当、馬の餌の金額、武具馬具の代金及び修理費等々を細かく計算して予算を組み、管理して、龍州に逐一報告していたので、この二人はとにかく倹約家だった。食事も一般兵と同じ物を摂ったし、平素は衣服も平民のようだった。育ちが良いので平民の服を着ていても平民には見られなかったが。なので、龍州の篩に掛けられて残った龍丹側の官吏は、ある意味気骨のある頼りに出来る者となった。
龍丹の喪が明ける頃には、宮城内の派閥も落ち着いて来ていた。
そして、吉日を選んで、龍州は王太子として立った。16歳であった。
際王と皇后は、長子を失った喪失感を、周りには悟らせなかった。際王は、夫婦で過ごす時間を多く取るように心がけ、皇后に寄り添った。そして、なんと、皇后は懐妊した。際王はことのほか喜び、上神の采配に感謝の祭祀を行った程だ。
月満ちて、皇后は輝くように美しい姫を産んだ。初めての姫の誕生に、際王は国庫を開いて備蓄を民に配った。実は、長引く戦の影響で食料事情が悪化し、民の疲弊が切実であったからだが、国庫を開く口実にちょうど良かったというのもある。
龍州はそんな中、粛々と戦場で戦果を挙げ、粛々と近隣の豪族達を懐柔し、併合し、際国の基盤を盤石な物にするべく、奮闘した。
龍州が20歳の歳に、際王が病に倒れ、崩御した。父の喪の開けるのを待つ余裕はなく、龍州は早々に即位して際王となった。龍州の母は上神の祭祀の宮に隠居を申し出たが、龍州に契りの者が現れない為、皇太后となって、政務を手助けした。
雪花が、龍州の手に再び手を重ね、
「際国が盤石に有ることこそ、重要です。戦の無い世を、血を吐く思いで築き上げてきたのではありませんか。卒は滅びます。それが、上神の思し召しです。
私は、自分の娘が生まれる国が平和である事を望んでいます。」
そう切々と、龍州に訴えた。
龍州は椅子に深く座り直して、背もたれに背を預けて目を閉じて黙考した。
「……分かった。」
そして、妻の膨らんだ腹に手を当てて、さすった。
「姫で生まれるのか。そうか。」
暫くお腹をさすっていたら、中の赤子が動いた。
「あ、動いた。」
夫婦で同時に言って、見つめ合って笑った。
ある朝、雪花に産みの痛みが訪れた。梅名が付き添い、上神の祭祀の宮の中に設えた産室に雪花は移った。産婆が呼ばれ、お産が始まった。
初産は重いとよく言われるが、なかなか産まれなかった。上神への祭祀も並行して行われているが、苦しむ雪花の呻きが聞こえるばかりで、丸1日過ぎても産声は聞こえない。産室の前で、龍州はウロウロするばかり。
産室に籠って丸3日が過ぎても、まだ産まれぬ様子に、心配した皇太后と妹が忍んで現れた。そして、祭祀の巫女と一緒に、皇太后と妹も上神に祈りを捧げ始めた。
その日も暮れようとする頃、梅名が産室から産婆を連れ出して、別の産婆を連れてくるように指示した。ふらふらの産婆は、自身の師匠にその任を譲った。
老齢の産婆はまだかくしゃくとして、現れた。実は龍州も妹もその産婆に取り上げてもらっていた。産室に入った老産婆は、いきなり入口扉をあけ放ち、窓の扉も開け放った。寝台は御簾に囲まれているので、中の様子ははっきりとは分からないが、姿はうっすら見える。
「際王陛下、こちらに。」
老産婆は、龍州を招き入れた。これには、龍州本人も、皇太后も、梅名もびっくりした。龍州は、雪花の様子がとても気になっていたので、雪花の傍らにすぐに近寄った。寝台に横向きに寝ていた雪花の顔は涙でぐしょぐしょで、目の下の隈は黒々として、ゲッソリとやつれきっていた。
たまらず、龍州は雪花を抱きしめた。
「際王陛下、赤子に出てくるように言って聞かせてください。」
「は?赤子に?」
「はい。もう出る時期だと。皇后陛下の体力がもう持ちません。」
龍州は言われた通り、お腹に手を当てて、赤子に優しく語りかけた。
「もう、出ておいで。待っているから。父は、お前に早く会いたいぞ。」
雪花がぽろぽろ涙をこぼした。
不思議なことに、そこから再び産みの痛みが強くなり、龍州は傍で妻を励まし続けた。老産婆は雪花の背中をさすったり、時々体の向きを変えたりしながら辛抱強く手助けし、とうとう、星の瞬く夜に、赤子は無事に大きな産声を上げた。
まだ臍の緒が繋がったままの赤子を、老産婆は龍州に手渡した。赤子の肌はふにゃふにゃして柔らかく、初めての手触りに壊してしまいそうな気がしてびっくりした。赤子は母親の雪花と同じ金色の髪をしていた。顔を覗き込むと、瞳は自分と同じ翡翠色だった。
産室の扉を全て閉め、老産婆は赤子を清めた。祭祀の巫女が赤子を寿ぎ、産室全てに清めの水を振りまき、巫女は結界を結んで退出していった。
老産婆は雪花の身辺を清めた後、薬湯を飲ませて、明日の朝に出直して来ると、退出していった。
龍州が雪花を労い、寿ぐと、疲れきっていた為か、直ぐに寝息をたて始めた。
梅名は、産後はまだ予断を許さないと、寝ずの看護をするそうなので、龍州は梅名に任せて退出した。
自室に戻りながら、龍州は、手の中に納まった赤子の感触を思い出して、安堵のため息をついた。
難産の末に待ち望んだ赤子を産んだ雪花だったが、まだ年若い初産の日立ちは悪く、発熱が続き、なかなか床上げができなかった。龍州は、毎日雪花を見舞い、赤子を抱いた。他愛のない話をして、夫婦で笑い合った。政務の合間に寸暇を惜しむように皇后のもとに通う国王を、宰相となった湛雄が後押しした。
元宰相の湛雄の父は、前国王崩御の後、息子の湛雄に政務を引き継いだ後、上神の斎場に移り、隠居していた。
王家の医師団が手をつくしたが、雪花の熱は下がらず、段々弱っていく。
龍州は、滋養のある物を取り寄せて食べさせ、雪花の回復を願ったが、3日目には寝台から起き上がる事も出来なくなった。
赤子は龍州によって、百合と名付けられた。幼名は、白。
母親譲りの白い肌に、輝くような金の髪。瞳は父親譲りの翡翠色をしていた。可愛い娘だ。愛しかった。
卒国から、百合の乳母として、雪花の長姉の娘の喜玖が到着した。喜玖は、自分の幼い乳飲み子を伴っていた。名を真雪と言った。夫は卒国の兵士で、喜玖と真雪を際国に送り届けると、黙って国に戻って行った。
雪花は、自分の命の灯が尽きようとしている事を感じていた。
卒国の王族の女には、女にだけ伝わる口伝がある。本来であれば、その口伝は雪花から百合に伝えるはずであったが、雪花はその役目を果たせない事を知っていた。その口伝の継承を雪花の子にする為に喜玖はやって来ていた。
雪花の回復を一心に願っている龍州は、雪花や、梅名、喜玖の様子から、察するものがあり、とうとう梅名を別室に呼び出した。
「あなたの読む未来に、百合の成長を見守る雪花の姿はありますか。」
その場には、宰相環 湛雄も同席していた。龍州のその発言に、湛雄は一瞬身を固くした。梅名は、非難を込めた視線を際王龍州に向けたが
「……ありません。」
と簡潔に答えた。
「赤子を産むと、こうなると分かっていたのですか。」
「いいえ。赤子が授かった事は僥倖でした。例え赤子を産まなかったとしても、雪花は次の新年を迎える事は無かったでしょう。」
余りの言葉に、宰相は我が耳を疑った。隣の椅子に座っている際王は、身じろぎしたが、言葉を発しなかった。そっと様子を伺うと、椅子の手元を握り締め、痛みに耐えるように奥歯を噛みしめて、ものすごい形相で梅名をにらみつけている。
「雪花は、それを知っていたのですか。」
際王は、絞り出すように言葉を繋いだ。
「はい。際王に輿入れする前から知っておりました。腹に赤子が授かったことを、ことのほか喜んでおりました。」
際王の目から涙があふれてきた。
「たいへん申し上げにくいのですが。百合様が無事にお生まれになったことで、喜玖とその子の命が繋がりました。皇后陛下は、その事をとても喜んでおられました。」
「もういい!!」
龍州は立ち上がった。
「我は、未来について、今後一切、そなたに聞く事は無いであろう。」
激しい口調でそう断言した。その上で、宰相に向かって
「湛雄。友よ。上神に最も近い卒王家には、未来を見る力を持つ方がおられる。ここに居る、梅名殿もその一人。宰相として、国の行く末を導く時、その力が必要になることもあるやも知れん。その時は、梅名殿に相談する事を許す。
ただ、この事に関しては、極秘として、墓場まで持って行け。」
龍州は涙に濡れた翡翠色の瞳に深い悲しみをたたえて、湛雄に言った。
「必ず、約束します。墓場まで。」
そう言って深く頷いて誓った。しかし。
『はて。星を読む意味とは。』
と、内心自問自答した事は黙っておく。星読みで未来を占うのが趣味の湛雄には複雑な想いがした。
卒国から来た喜玖と雪花は歳も近く、旧知の仲であった。久しく逢えなかった溝を埋めるかのように語らい、塞ぎがちな雪花を穏やかな気持ちにさせる役目を担った。
そして、赤子を産んで10日目に、百合にたっぷりと乳を飲ませた後、龍州の腕に抱かれながら、穏やかに雪花は来世に旅立って行った。
臨終の床で、龍州は雪花と百合を胸に抱き、人目をはばからず男泣きに泣いた。
龍州は、妻の亡骸を誰にも触らせなかった。葬儀の装束ではなく、純白の花嫁衣裳に自ら着替えさせ、淡く化粧を施し、来世でも契りの妻として出逢えるように願いを込めて、棺を色とりどりの様々な野花で飾った。
雪花は、王女であったが深層の姫ではなく、自由闊達で野山を馬に乗って駆け回るような、娘であったのだ。野に咲く可憐な花が好きだった。
そうして、雪花は、自分を見つけ出してくれたのだ。
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