第2話 目覚め

 琴は夢を見ていた。父様がいて母様がいて。疾風がいて。

海がきれいで。船に乗せてもらって、魚を捕ったり泳いだり。

疾風の兄に稽古をつけてもらって、その後から甘いお菓子をもらって。

みんな優しくて。笑っている。

あの怖い夜はやっぱり悪い夢だったんだと、ほっとする。良かった~と胸をなでおろした。

しかし、母が微笑みながら、

「卒王家の血筋は、初め姫で生まれるの。成人前に男の子になる子もいるのよ。」

「琴姫、男の子になってしまったのね。あなたは姫だと思っていたのに。」

そう言った。そこで、琴はハッとして、目を開けた。


 目の前に、見知った顔があった。黒い瞳の優しい面。黒い巻き毛。

疾風の姉の珊瑚だ。賢そうな広い額には、痛々しい傷があった。頬にも、手当の跡が残っている。

「珊瑚姉さん。」

かすれた声が出た。喉がカラカラだ。

珊瑚の黒い瞳に涙が盛り上がった。

「良かった。目が覚めたのね。」

珊瑚は琴の頬に手を添えると、優しくなでた。

「お水飲める?今、汲んだばかりなのよ。」

と泣き笑いで声をかける。琴は頷いた。

身体を起こそうとしたが、痛みで思うように動かない。思わず呻き声が出た。

その様子を察知したのか、布が払われる音がして、男が素早く入って来た。

周りをよく見れば、薄暗い中に幾つものランプが灯り、野営用の布屋の中の寝台に寝かされているようだった。

簡易の寝台とは思えないようなたっぷりとした厚みの掛け布団が掛けられている。敷布団もふかふかだ。

 入って来た男は、琴の寝る寝台の数歩手前で立ち止まると、胸に手を当てて、略式の礼をとって顔を伏せた。

「際王のご孫殿下の琴様に拝謁します。際国の東方軍の軍師、瑠 間耳と申します。」

恭しくそう述べた。

「瑠 間耳? 瑠?」

琴が寝たまま、見つめてそう呟くと、

「はい。元は那国の瑠の民です。間目は、私の兄です。今回の壇家襲撃の片棒を担いでしまい、兄は領民の命と引き換えに投降し、過日処刑されました。現在は、間目の甥が領主となり、際国に忠誠を誓い、併合されました。」

そう言って、土間床に膝をついて深々と額を床につけた。

「この度の不始末、東方軍の指揮官として、襲撃を察知出来なかったこと、際王に死して詫びる所存です。

ですが、間目が急使にて、占部に琴様が捕らえられ、命が危ういと知らせて来ました。急ぎ、密兵を連れて馳せ参じ、お救いできたのですが、琴様にこのように苦しい思いをさせてしまい、詫びる言葉も浮かびません。」

そう言うと、じっとそのまま、伏している。

 琴は、最後に会った時の間目を想った。彼は、あの時、自分の死を覚悟したのか。

無謀な戦をしかけるのは、それなりの理由が瑠側にもあったのだろう。


「起こしてもらうのに、手を貸してもらえますか。」

琴は、瑠 間耳に声をかけた。

「もったいないお言葉です。何なりとお命じください。」

そう言って立ちあがると、

「お体に手を触れる無礼をお許しください。」

と謝ってから、そっと優しく、琴の背に手を入れて起こし、背中に厚い枕を差し込んで体を安定させてくれた。

 そのやりとりを傍で見ていた珊瑚は、驚きに目を丸くしながら、

「お水、飲ましてあげようか?」

とおずおずと言った。琴は、吹き出した。

「いいよ。自分で飲めるよ。」

そう言って、水の器を受け取った。腕を動かすと、肩がものすごく痛い。

珊瑚の手首にも、琴と同じような縄で縛られた黒い跡が残っていた。近くでよく見ると、首にも痛々しい跡が残っている。



 喉を潤す水は、甘くて、とてもおいしかった。

一気に飲み干して、

「おかわり!」

と珊瑚に器を差し出した。笑顔で珊瑚は受け取って、また涙をこぼしながら

「すぐに汲んで来るから。」

そう言って笑った。珊瑚が布屋から出たのを確認してから、

「珊瑚姉さんも捕まっていたの?」

と間耳に聞いた。

「はい。我々が移動中にたまたま出合った商人が、荷台に人を乗せておりまして。検めたところ、女子供ばかりを乗せており、挙動が怪しかった為、問い詰めましたら、壇の領民を攫っておりました。彼女は妙齢だったため、捕まった際に辛い目にあったようです。

運よく、奴隷商人に買われる前に取り戻すことができました。」

そう言って、目を伏せた。

「伝令を立てて、奴隷商人を捕縛するように伝えました。また、街道を行く商人の荷物検めを強化しております。

 ただ、海路はまだ、押さえられておりません。海に出られたら、我が軍は無力です。」

残念そうに言った。壇の海事力は、際国にとって、有用だったのだ。

琴は、悔しさに歯を食いしばった。

自分も、祖父が際王でなかったら、助けてなどもらえなかった。どんなに海で強い一族であろうと、計略をめぐらした奴には負ける。

「壇の隠れ巣に潜んでいた子供たちは、みんな無傷で救い出しました。これだけは、兄の間目の急使の成果です。」

間耳はそう言って、寂しく微笑んだ。


 あの夜の壇家襲撃から、7日達っていた。琴は占部から助け出されて丸2日、高熱にうなされて、生死の境をさまよっていたらしい。浮わ言で何度も疾風の名を呼んでいたそうだ。珊瑚に疾風の行方を尋ねたが、

「分からない。」

と答えた。それ以上は、琴も聞けなかった。

 際軍の軍師、将軍の瑠 間耳の報告によると、占部の居城は、あの嵐の日に落雷を受けて火事になり、焼け落ちて多数の死傷者を出したそうだ。その後、際軍の兵が鎮圧し、占部一族は瓦解した。

 建物と一緒に、占部 仁名と妻子は燃えてしまい、大やけどを負って助け出された占い婆の長老も、手当の甲斐なく息を引き取った。

 仁名の母親がその占い婆で、既にかなりの高齢だった。ケガの治療中も妄想ばかりを口にして、治療師に暴言をあびせたりと、手を焼かせたそうだ。若い頃は占いの腕も確かで、その占いを糧に一族を優位に導いて来たが、近年は占いで婆を頼る者は居なくなったと聞く。当たらない占いに金品を払う者はいないということだ。

 疾風の行方についても、捜索したが、占部の領内に疾風を監禁していた形跡は見つけられず、琴と離されてすぐに、別の領外に連れ出されたと考えられるという。

「占部は、離島の女や子供を夜襲して攫っては、遠くに売り飛ばして生計を立てていたようです。領内の領民に若い娘は居なかったので、皆売られてしまったのでしょう。疾風も、売られて行った可能性が高いです。」

瑠将軍は、鎮痛な面持ちで、そう報告した。

 琴は、悔しくて、悔しくて、涙が出た。

占部一族は、自滅の道を辿っていたのだ。領民に若い娘が居ないなんて、早晩滅びるしかないではないか。占部の、狭い段々畑を黙々と耕していた、痩せた領民達の生気のない顔が思い出された。領主は、領民達に、あんな顔をさせてはいけない。琴は、強くそう思った。


 琴が目を覚ましてからも、熱は数日続いて、身体の痛みも引かなかった為、起き上がれたのは、5日も過ぎてからだった。珊瑚は、実にかいがいしく琴の世話を焼いてくれた。ある時、

「ごめんね。ずっと女の子だと思ってたの。百合様も篤盛様も『琴姫』なんて呼ぶから…」

気まずそうに、珊瑚はそう言いながら、琴の背中の膏薬を替えてくれた。

「だから、兄さんが剣術や鎗を仕込んでいたのね。」

「琴様も、かわいいからいけないのよ。その珍しい翡翠色の瞳はパッチリしてとても綺麗だし。篤盛様に似た、黒い巻き毛はツヤツヤだし。肌はすべすべだし。肌の色は百合様に似れば良かったのにね。私たちとおんなじ色黒さんよね。」

などと、とりとめもなく話しながら、笑顔で世話をしてくれる。

「ほんとにキレイな巻き毛。」

と毎日、何度となく、寝乱れる髪に櫛を通してくれた。

 自分も親兄弟を失って、傷つけられ、辛いだろうに、琴の傍に寄り添って、琴の回復を喜んでくれる。嬉しかった。

 身体の怪我が少し回復して、動けるようになると、際国に向けて一団は移動を開始した。街道の道は荷馬車が通る程度の道しかなく、険しい山岳地帯も越えて行く為、輿では日数がかかり過ぎる。そこで、軍馬の鞍に細工をして、琴の体に極力負担がかからないような座席が用意された。王都まではゆっくり進む為、7日程度の旅程だ。

普通に馬では4日、歩いて7日、とのことだった。

 

 琴はよく、夢を見るようになった。眠っていると、何処かの見知らぬ国に居る。そんな時は、傍に必ず疾風が居る。いや、疾風の気配がした。匂いがした。

 それ以外でも、見たこともない宮殿を空から見ていたり、誰かの手元を覗き込んでいて、その手紙の内容を読んでいたりした。

 身体はここにあるのに、身体から離れて、フラフラ飛んで行っている感じだった。眠っても、眠っていなくて、長い詳細な夢を見た後は、朝目覚めても起き上がるのがおっくうに感じる程だ。

 そんな様子に気付いた珊瑚は、夜中に琴がうなされれば起こし、寝言を言えばその内容を書き写した。そして、その内容を、朝目覚めた琴と一緒に、夢の中の状況とすり合わせて、詳しく時系列に並べて、断片的な夢の中の出来事を、現実の世界に引き寄せた。数日、旅の合間合間その作業を続けると、一つの出来事の顛末が見えてきた。そして、今後、それがどういう未来に繋がっていくのかを。

 明日の午後には、王都に到着するという日の夜、王都に近い宿場の宿1棟を琴一行が貸切って泊まっていた。

 琴への夜の挨拶伺いにやって来た瑠将軍に

「瑠将軍、少し時間をもらってもいいかな。」

と琴は切り出した。そして、

「誰にも聞かれたくない話なので。」

と、小声で言った。将軍は、少し目を見開いたが、すぐに扉の外の不寝番に声をかけ、離れた場所から警備するよう命令して戻って来た。

 近くに戻った将軍に、琴は、書きなぐった文字の並ぶ、不揃いの紙切れの束を渡して、読むように促した。

 紙の文字を読み進める間耳の表情がみるみる険しくなっていく。一通り目を通した後、厳しい表情で

「この調べは、誰が行ったものでしょうか。」

と問うた。琴は

「事実として、考えられる可能性は、あると思いますか。」

琴は質問に質問で返した。

「壇家襲撃の手際の良さ、占部が扇動した形ですが、あの一族にはもはやそれ程の余力は無いであったろうと、推察していました。寄せ集めの那国は、それぞれの領地の事で手一杯。では、誰が、何の目的で事を起こしたのか。鍵を握る占部 仁名亡き後の調査が行きずまっていて難航しておりました。

この内容が事実であるならば、いや、この内容こそが、事実であるとしか、私には言えません。」

「この調べは、誰が行ったものですか。」

重ねて、瑠将軍は問うた。

「それは、今は答えられない。私は、瑠将軍を信頼している。

だから、答えられない。」

「実は、この紙には続きがあるんだ。でも、それは今は見せられない。

見せるのは、母の百合と、祖母の事を知っている、際王が最初であるべきだと思う。」

琴はそう言った。そして、

「瑠の一族も計略に嵌められてしまったと思っている。だから、王都に行ったら、瑠将軍は、この紙の内容の裏付けを探して欲しい。何かの物証を一つでも見つけたら、そこからもっと辿り易くなると思うから。

 だから、死を持って償うのは、その調べが終わるまで待ってもらえないだろうか。

際王には、私からお願いしようと思っているから。命を軽々しく捨てないで欲しい。それでは、何も解決しないよ。」

そう言って、真摯に瑠将軍の瞳を見つめた。

 翡翠色の瞳。それは、間耳に百合姫の瞳を想い起こさせた。


 百合姫が壇家に輿入れの時に、際軍将軍の副官として間耳は護衛の任についた。

あの時は、壇の迎えの船団の小船に乗り、河路で川を下り、海への河口で大きな商船風の戦闘船に乗り換えた。慣れない船旅で酷い船酔いをして、船に乗っていくらもしないうちに際軍の兵士は軒並み船縁に張り付いて、胃の中を空っぽにしていた。それでも気分は最悪で、立っている事さえやっとの有様。百合姫の侍女も似たような塩梅で、見かねた百合姫自らが、皆に水を汲んで配って回った。小ぶりの川船で、御簾を上げればすぐ外が見えるような川船なので、仕方がなかった。

 王宮の最奥で御簾に囲まれて育った姫君が、兵士や侍女を介抱している姿に、間耳は衝撃を受けた。一人一人に声をかけ

「私の輿入れに付き合わせちゃって、ごめんね。」

などと冗談めかしておどける姿に、全員ぎょっとしたものだ。

一生に一度の僥倖だと、後々の語り草になった。

その場に、間耳も居た。手づから汲んで頂いた水を、有難く飲んだ。そして惜しいことに、戻してしまったのだが。

 これから契りの者の元へ嫁ぐ百合姫は、嬉しいばかりの様子で、船酔いの気配もなく、軽やかに皆を介抱していた。

 翡翠色の緑の瞳は、父王譲りで、抜けるような白い肌に、金糸のような美しい髪を婚礼用に高く結い上げて、純白の生地に銀糸で精緻な吉祥の花々の模様が縫い込まれた花嫁衣装が、姫が動くたびにきらめいて、その笑顔と相まってまばゆかった。

そんな姿を、思い出していた。

『ああ、百合様のお子だ』

畏敬の想いに心が震えた。まだまだ幼いこの歳で、ここまで思慮深く物事を判断されている。何としても、際王の元まで無事に届けなければならない。


 その夜も更け、皆が寝静まり、琴も寝台で眠っていたが、どこからか、か細い赤子の泣き声を聞いたように思って、目が覚めた。よくよく耳を澄ますと、確かに聞こえる。妙な胸騒ぎを感じて、ガバッと飛び起きた。衝立の向こうで休んでいた珊瑚が寝巻のまま、這いずって

「どうしたの?」

と寝ぼけ眼で目をしばたいている。お互い、連日の琴の夢のせいで寝不足なのだ。珊瑚こそ、毎夜、寝言の度に起きてきて内容を書きつけるのだから、ここ最近はすぐには立ち上がれず、這いずっているらしい。

「赤子の声が聞こえる。」

「ええっ?」

部屋の明かりは机の上の燭台1つしか灯っていなくて、薄暗い。珊瑚は慌てて立ち上がった。その時、そのほの暗い部屋の中で、珊瑚の手元がキラッと光った。琴は珊瑚の手をまじまじと見た。手首の辺りから、銀色とも金色ともつかない、か細い糸が右手から出たり、左手から出たりと時々消えながら、薄っすらととぎれとぎれに外へとゆらゆらつながっているではないか。

 琴は近づいて、珊瑚の手を取った。珊瑚は意味が分からず、されるがままになっている。赤子の声は、どうやら、この糸からか細く聞こえてくる。

「ねえ珊瑚姉さん、身内に赤子を産むような人はいる?」

珊瑚はハッとして、琴を見た。琴の翡翠色の瞳の中に、金色のツヤのような光が刺すのが見えた。

「います。一番上の姉が臨月でした。」

琴は、珊瑚の手を引っ張った。子供の力とは思えない強い力だった。そのまま珊瑚の手を引いて、部屋の扉を開けて、不寝番の兵士に

「すぐに馬の用意を。時間がない。厩はどこ!」

と言うなり、走り始めた。兵士は泡をくったが、直ぐに追いかけて来て

「庭を西に出て、直ぐです。」

と後ろから教える。琴と珊瑚は裸足のまま庭に走り出て、言われた通りに厩を発見した。馬も眠っていたが、眠りを妨げるられて、不機嫌に嘶きはじめた。

 その中で、毎日琴を背中に乗せてくれていた馬と視線が合った。

「乗せてほしい。お願いします。」

琴は頼んだ。すると、馬の瞳が優しくなった。

 珊瑚と二人で馬を厩から引き出した。荷運び用の大きな軍馬で、足も太く、胴回りも太い。珊瑚に手を借りて、鞍も着けずに、鬣に摑まってよじ登った。痛めた肩に激痛が走ったが、構ってなどいられない。その後、珊瑚もどうにか引き上げて、馬の腹を蹴ろうとした時、沓を抱えた兵士と瑠将軍が走って来た。どちらも夜着のままだ。

「瑠将軍、勝手をして済まない。出来れば追ってきて欲しい。間に合わないかも知れない。急いでいるんだ。後から説明するから。」

「すぐ追います。沓はお持ちします。」

瑠将軍はそう言うと、走り出る琴に続く為、厩に走り込んで行った。


 いつも穏やかな軍馬が、今日は脚音を地面に重く響かせて疾走していく。こんなに大きな馬が、夜陰にこんなに早く走れるのかと驚くばかりの速さで疾走していく。

後に続く馬の脚音が遠くに聞こえたまま、なかなか近づいて来ない。

 珊瑚の手首のか細い金の糸を辿って、月明りの街道を戻り、深い森の中の獣道のように細い道を登って行く。沢に出た所で、馬ではもう通れない為、降りた。

 沢伝いに今度は下って行くと、洞のような岩の所から、赤子の泣き声と、女の泣き声が耳に直に聞こえてきた。

 女の泣き声に、珊瑚が反応した。

「真珠姉さん!真珠姉さん!」

珊瑚が琴を追い越して、洞に向かって転びながら走って行く。珊瑚の手首から伸びる消えかかった金の糸が、しっかりと形を取って、徐々に太くつながっていくのを、琴は見つめて、しばし動けなかった。


 そこには、生まれたばかりの、まだへその緒が繋がったままの赤子と、すすり泣く産みの母親と、力尽きて倒れた年配の女とが寄り添って寝ていた。

 その二人と赤子に取りすがって、珊瑚が泣きじゃくっている。もう、手首の糸は見えなくなった。琴は近くに寄ると

「こんな所で会えるなんて。真珠姉さん、お久しぶりです。」

とりあえず、挨拶した。

真珠姉さんは、声も出せない有様で、赤子を抱いていない方の手をひらりと振った。

「ほら、珊瑚姉さん。助けを連れて来なきゃ。さっきから、放ったらかされた馬が、大騒ぎしてるよ。あの声なら、追ってきてくれた将軍達ももうすぐ来れるよ。」

「うん。うん。連れてくる。うん。うん。」

珊瑚は泣きながら、元来た道を、馬の元へ戻って行った。

残った琴は、真珠の傍へにじり寄った。

「大変だったね。上の子供たちは、隠れ巣に隠したの?」

琴がそう尋ねると、真珠は頷いた。

「それなら、もう無事に助け出されたよ。後で会えるようにするから、姉さんは、気持ちをしっかり持って、もう少し頑張ってね。」

琴がそう言いながら、真珠の肩をさすると、真珠は涙を流しながら、何度も何度も頷いた。


 琴達から離れた馬は、盛大に嘶き、辺りをどかどか足音を立てて暴れ、その音の様子に、琴が振り落とされたのではと、心底おののきながら、瑠将軍は駆け付けた。

 すると、将軍と数名の兵達を認めた馬は静かになって、その辺の草を食んで、グーグー眠り始めた。

 程なく、泥でぐしょぐしょになって、おいおい泣いている珊瑚が現れ、ひくひくしゃくりあげながら、付いて来いと言う。要領を得ない断片的な話に、困惑しながら、瑠将軍一行が沢に沿って下って着いて行くと、洞から琴が現れて、女を2人助けて欲しいと言われた。

 何だか分からないながら、瑠将軍は最善の手配をし、てんやわんやで洞の中から女2人と赤子を救い出し、やっとのことで宿に着いた頃には、東の空はすっかり白んでいた。

 宿の瑠将軍の部屋で、琴と間耳は取りあえず、軽い食事を摂り、宿の主人に琴の汚れた衣類を整える侍女を頼んだ。

 珊瑚は、助け出した女2人と赤子から離れなかったからだ。

 部屋に一人残って、瑠将軍は椅子に深々と腰かけて、深く息をついた。とにかく、疲れた。

 不思議なことに、助けた女は、珊瑚の実の母親と、姉とその子供だった。母親の方は、野犬に襲われた時に負った傷が膿んでしまい、片足を切り落とさねばならなかった。赤子を産み落とした姉の方も、衰弱が激しく、暫くは動けそうにない。赤子だけは元気が良かった。男の子だ。同じ乳飲み子を抱えたこの宿の女将にいたく同情され、母親が回復するまで運よく乳をもらえる事になった。そこで、2人が動けるようになるまで、この宿に逗留するように手筈を取った。

 一連の昨夜の騒動を思うに、上神の采配以外に、あの2人を救い出す術は無かった。あんな離れた森の奥の洞にいる者を、どうやってここに居て知ることが出来たのか。先日の、あの書付けにしてもそうだ。誰があれ程の経緯を調べ上げられるだろうか。際国の間諜でさえ、まだどれ程も情報を掴めていないというのに。

 もうすぐ、王都に向けて出立しなくてはならない。王都に着いたら、数々の報告業務に忙殺される事だろう。封殺の命が、いつ降りるかも知れない身だ。

 自身も出立の身支度を始めながら、琴様の用意が整う知らせを今か今かと待った。


 琴は、瑠将軍にどう説明しようかと、侍女に体を清めてもらって、衣服を整えてもらう間、考えた。そこで、母の百合が、よく不思議な事を言っていたのを思い出していた。あまり理解できなくて、父に聞くと

「卒王家の血筋は上神に最も近いとされているから、常人には分からない事も、母様には分かるんだよ。大きな魚がやって来る日だったり、真珠や珊瑚の採れる場所だったり。他にも、沢山の不思議なことが出来るみたいだよ。」

と満面の笑顔で惚れ惚れとのろける父の姿を思い出した。

 今日は王都に到着する日だ。王に謁見する為の正装に着替えている。瑠将軍が、際国風の男児の衣装を揃えてくれていた。

 壇の城では、いつか際王に謁見する為の女の子の衣装を揃えてくれていた。自分は、母が第2子を儲ければ、際国の後継として際国に行く事が決まっていた。母が壇に嫁ぐ為に取り決められていた事だ。

 男児の衣装を着た自分に、ひどい違和感を覚えながら、袖を通すことのなかったあの衣装を想った。もう、城と共に焼けてしまったのに。女の子の自分は、あの城と共に消えてしまった。

 珊瑚の居ない部屋で、気詰まりそうな侍女が押し黙っている。そこに、瑠将軍が伺いの言葉を扉の前で述べた。侍女がビクッと肩を震わせた。

「瑠将軍、入っていいよ。」

と返事をして、侍女には

「ありがとう。もう下がっていいよ。世話になったね。」

と笑ってお礼を言った。侍女は頬を真っ赤に染めて、一例して下がって行った。


 琴は、ふむ。と一呼吸おいてから

「瑠将軍、昨夜の件は、とても助かりました。ありがとう。」

とお礼を言った。瑠将軍は目を伏せて

「痛み入ります。前も申しましたが、お命じくださるだけで構いません。

私はいつでもできうる限りの事をさせていただきますので。」

と胸に手を当てて、敬意を込めて言った。

「うん。ありがとう。お礼は言いたかったから。

……気になる事も沢山あるとは思うけど。上手く説明出来ないんです。

…言葉使いが難しいな…。」

琴は、たどたどしく言葉を探していく。

「端的にいうと、赤ん坊の泣き声が聞こえたんだ。その声を辿っただけ。今にも消えそうな泣き声で。放っておいたら絶対に死んでしまうと感じたから。だから、その声を無視できなかった。」

 間耳は、耳を疑った。あの離れた場所の赤子の声を聞いたから。とは。普通ではありえない。だが、この琴様の祖母の際王の妻だった卒王家の姫も、数々の逸話を残している。卒王家の血筋は尊く、上神に最も近いと聞いている。それは、こういう事なのだ。と、自分がそれに接してみて初めて、感じるものがあった。

 琴様が、そう言うのであれば、そうなのだろう。それ以上の詮索は控えた。きっと自分には分からない。


 朝日が昇り切り、暫くして王都から琴を迎える輿が到着した。あの頼もしい軍馬は、朝になっても起きずに、大いびきで寝ているらしい。一言お礼を言いたかった琴であったが、あの軍馬はもう結構なお年であると聞いたので、そっとしておくことにして、暫く宿に残る珊瑚に、代わりに果物の礼を託した。


 人生で初めて乗る輿という乗り物に、ソワソワして、落ち着かなかった。そもそも琴は、その辺の子供たちと同じように、泥だらけになりながら走り回って育ったのだ。下履き一枚で海に飛び込んで疾風達と魚を捕ったり、野山を駆け回ってウサギを狩ったりして。お付の侍女がいつも真っ赤になって怒っていた。疾風も一緒にいつも𠮟られていたっけ。その自分が、四方を御簾で隠された、箱のような狭い輿に乗って、王都の大通りの真ん中をゆるゆると進んでいる。左右の黒山の人だかりからの視線が痛い程に感じられた。

 ふと、御簾で目隠しされた意味が分かった気がした。こちらから周りは見えているが、向こうからはよく見えていない。大通りの真ん中の輿の高い位置からなら、四方がよく見渡せた。各辻ごとに脇道の奥まで見通せて、綺麗に区割りされて整備された通りの様子がよく分かる。人々の着衣、表情。店の様子。活気。王宮に近くなるに従って、見物人の衣服が上物になり、店構えも大きく豪奢になってきた。

 王宮の正門の前で、輿が止まった。目の前には見上げる高さの堅牢な鉄の門があった。両脇の石塀は長々と先の先まで続いていて、どこまであるのか、ここからは見えない。瑠将軍が馬に騎乗のまま、先頭まで歩み出て、門兵に開門を言い渡した。門兵は、おもむろに腰から山鹿の角で造られた物を口に当てた。そして、力を込めて、その角を吹いた。腹に響く、低いが力強い大きな音が空気を震わせた。山鹿の角から、あんな音が出る事に、琴はびっくりした。

 鉄の大門が、内側からゆっくりと開いていった。兵士が片扉3人ずつで押し開けていく。開きかけた扉の向こう側、王宮の中の宮殿に続く通路の脇に、大勢の人達がそれぞれの色分けされた制服の正装で、頭を垂れて並んでいた。大門が開ききった時、その通路の最奥の宮殿の建物の中から、ひときわ大柄の人物が現れた。朱色の衣装の色が目を引いた。その時、自分の手首から、銀色とも金色ともつかないキラキラ輝く糸が現れて、その朱色の人物に向かって、真っすぐに伸びていった。その糸は力強い程に太かった。その糸が朱色の人物と繋がったと認めたその時、琴の身体から何かが飛び出したような感じがして、自分がその王宮の宮殿を上から見下ろしているような感覚になった。それは、いつか見た夢の一部で、その後に続く光景がまざまざと脳裏に浮かんで来た。

不思議な感覚だった。今までの自分は、寝ぼけていたような感じで、今、本当に目が覚めたような、そんな感じがした。

 





 



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