女神のひとしずく
於とも
第1話 刃を渡る
炎が肌を焦がす程に近付いている。
既にもう、どこにも退路はないようだ。
胸に抱いた想い人が、震える声で
「私を置いて お逃げください。あなただけでも…」
そう懇願している。もう、何度その言葉を聞いたことか。
ふと、笑いが込みあげた。
「この俺が、そなたを手放すと思うのか?」
とうとう、男はそれを口にした。彼女の翡翠色の目から、涙がこぼれた。
「我が妻よ。あきらめろ。そなたを置いていくつもりは無い。」
彼女は身に深手を負っていた。抱きしめた体から、刻々と命の灯が消えてゆくのが伝わってくる。だが、周りの炎は、彼女の灯が消えるより先に自分達に襲いかかるだろう。もう、熱がじりじりと肌を焦がし始めている。
男の名は、壇 篤盛。妻の名は、卒 百合。
永い戦乱の世が落ち着き、戦に疲れた人々がやっと家族の温もりに幸せを見出しはじめた頃。隣の領地に攻め込む余力が無くなり、大きな国としての体裁はなくても、誰かを王として担がなくても、持領でどうにか生活が成り立っていく事に気付いて、日々の糧を得ながら、それなりに渡世していく術を人々は身に着けた。
そんな豪族達の集合体の国、那国。その那国の東の端に、壇一族は、持領を守る城を構えて暮らしていた。武勇に長けた一族で、持領には陸地から迫り出すように海に面した半島があり、そこからさらに東の海に向かって幾つもの離島が点在する領地を管理する。沢山の船を所有して、島々と交易を行い、時には海原を超えた先に向かうこともあった。
そんな壇家の長子として篤盛は生を受け、産湯のかわりに海の水に浸かったような育ちの、勇猛な青年に育った。海の潮風と強い日差しにも負けない肌は日に焼けて浅黒く、瞳も黒い。形よく整った鼻梁は母譲りで、堀の深い顔立ちと立ち姿は、父譲りである。漆黒の巻き毛の豊かな髪を、束ねて背中に垂らしている。全体的に美男には例えられないが、人なっつこい笑顔が若い娘達にも受けが好い。人望も厚く、闊達な物言いで老齢の先達からも将来を見込まれていた。筋骨隆々として上背もあり、鎗の名手として、海の大魚も銛で一突きで仕留めるのが得意だった。
肌を焼き始めた炎を見つめながら、壇 篤盛は腕の中の妻に唇を寄せた。
想い人から夫に選ばれて、子も生した。共に白髪になるまで睦みあえればと願っていたが、その望みは叶わなかった。柄にもなく幸せに浸っていたのか、足元をすくわれてしまった。
夜陰に攻め込まれ、何とか活路を切り開こうと、襲い来る刃を薙ぎ払い、切り倒し奮闘したが、多勢に無勢。守りの猛者も次々と倒れて、気付けば己一人になっていた。火の手が上がった城の中で、背にかばっていた妻に背をかばわれて、何としても守り抜きたいと思っていた愛しい女に刃が突き立った瞬間、怒りに我を忘れた。
敵の目的は、妻の百合を手にする事にあったようで、百合に深手を負わせたとたん、潮が引くように引いていった。
今は、二人きり。
炎の中をしばらくさまよったが、既に辺りは火の海となっていて、逃げ出る隙も無い。
篤盛は、一つ大きく息をついて、今一度、妻をしっかりと抱きかかえ直して、その場にどっかりと腰をおろした。
もう、辺り一面炎の渦で、火の粉が彼女の美しい顔にかからないように、懐に深く抱き込んで、更に自分の衣で包み込んだ。
「琴は、無事に逃げたでしょうか…」
震える声で百合はささやいた。
琴とは、今年六つになったばかりの二人の娘だ。唯一授かった二人の子供。この先、この子に姉妹を授けてやる望みは絶たれてしまった。
「守り人衆が付いている。疾風もいる。大丈夫だ。」
篤盛も、百合の耳元でささやいた。
「これから、我ら二人で遠くから見守ろう。」
二人は、見つめ合って笑った。妻は、
「この度の事、私がもっと早くに気付いていれば。……本当に申し訳ありませんでした。」
百合は、深い翡翠色の瞳に涙を一杯にして、ぽろぽろとこぼしながら、肩を震わせている。
「…言うな。そなたのせいではない。上神の采配であろう。」
篤盛は優しく微笑んで、妻の頬の涙を指でそっとすくった。
「俺は果報者だ。そなたを一目見た時、どうしても欲しいと思った。その願いが叶って、契りの相手になれたのだからな。」
百合の頬に再び涙が伝った。
「愛しています。篤盛様。」
妻は、まっすぐ夫を見つめた。
「愛している。いとしい百合姫。」
そして、篤盛はしっかりと妻を懐に抱きしめた。
「すぐに後からゆく。待っていてくれ。」
そう言って、妻を見つめて優しく微笑んだ。妻も微笑み返し、どちらからともなく唇を重ねた。そのまま、夫は短剣で妻を深く貫き、愛しい妻を炎に焼かれる苦しみから救った。
妻は微笑んでいた。美しかった。
夫は、炎から守るように妻を深く抱き込んで、微動だにせず、迫りくる炎を睨みつけた。敵は、娘の琴姫の捕縛に向かっていることだろう。
守り人の疾風は今年立志したばかりの14歳。他に守り人衆が数名。いずれも頼みにする腕の者達であるが。
篤盛の衣に、遂に火がついた。目を閉じて、かわいい娘の面影を想い浮かべた。
そして、上神に娘が無事に落ち延びるように、一心に願った。
やがて、二人の影は炎の中で見えなくなった。
古くからの教えで、この世は、上神の采配で動いているという。特に男女の出逢いについては。上神が定めた相手とでなければ、夫婦になったとしても子供は生まれない。
上神の定めた相手の事を「契りの者」という。
「契りの者」を感じ取れるのは、産みの役目の女側であり、伴侶としての契りの相手を選ぶのも女である。そこには地位も身分も関係しない。契りの相手は上神が采配するものであるから。
男は、女に選んでもらう為にある。
しかし、世の中には貧富の差は常にあり、地位も身分も血筋も存在する。
とかく地位も身分もある血筋の者は、多くの女を従えたいと考えるが、従えた女の中に「契りの者」となる女が居なければ、己の子を残すことができない。あくまでも、子を生す相手を選ぶのは女であった。
琴は、眠っているところを、突然に揺すぶり起こされた。その切迫した気配に、ただならぬ事を察した。
寒気がする程の静寂が辺りを満たしている。夜に動く獣も息を潜めて、虫さえ鳴かない。知らずに身震いがした。
目の前には、幼なじみの疾風の顔があった。
「琴姫、支度を。」
声をひそめて、疾風は言った。いつも世話をしてくれる侍女ではなかった。髪の毛がピリピリする。
「父様と母様は?」
琴もささやくような小さな声で、尋ねた。
「篤様の言いつけです。琴姫だけを落とせと。内通者がいます。既に城は囲まれています。篤様達は逃げきれません。」
琴は息を飲んだ。足元から震えが上がってきた。
「琴も戦う。」
「なりません。篤様の言いつけです。東の壇家と北の卒家の血を絶やしてはならぬ、との事付けです。何としても生きよとの仰せです。」
疾風の覚めた黒い瞳にまっすぐ見つめられ、琴は、言葉も出ない。
「早く。」
引き起こされて、夜着の上から薄闇色の装束を着せられ、脚に脚絆と水牛の皮で作った旅用の沓を履かされた。あっという間に身支度は整った。
「守り袋は持っていますか?」
疾風が聞いた。琴は守り袋のある懐に手をやり、頷いた。
それを確認して、疾風は頷くと、琴の手を引いて、廊下に忍び出た。
暗がりの中、そこには、物言わぬ姿になった侍女が一人、横たわっていた。それは、幼い頃から琴の世話をしてくれていた侍女だった。驚いた様子の琴を見て、疾風が短く言った。
「内通しておりました。琴姫を連れ出すことで、命乞いをしたようです。」
琴は、言葉も出なかった。疾風は、繋いでいる琴の手を労わるように強く握った。
琴には、疾風のこの手の温もりが、今は何より心強かった。
城の周囲から殺気がざわざわと忍び寄って来ていた気配から、騒がしい馬のいななきや、金属がこすれ合う嫌な音が風に乗って聞こえて来はじめた。
疾風に手を引かれ、琴は、周りを5人の守り人衆に囲まれて、城内の地下から、東の海に面した岩場へ続いている抜け道を、ひたすら走る。暗くて足場の悪い下り道を転びそうになると、すぐ脇の守り人が、ひょいと抱えて、少し走ってくれる。
でも、すぐに下ろされて、また走る、を繰り返している。
城外の海沿いの崖路に出ると、月あかりで辺りが見やすくなった。
もう、だいぶ下ったと思った。
すると、しんがりを走っていた守り人衆の一人が、
「じゃっ!」
とにっこり笑って、立ち止まり、手を振った。
そして、彼を残して、他の者達は歩調を緩める事もなく、去ってゆく。
琴は驚いて、疾風を見るが、疾風も守り人衆も厳しい面のままで、黙々と道を下っていく。しばらく下ると、さっき通って来た後ろから、恐ろしい怒号と、剣劇の音が響いて来た。
そこでまた、
「じゃっ!」
また一人、にっこり笑って、立ち止まった。
「疾風、弟よ、頼むぞ!」
疾風は頷いた。皆、無言で走り去った。琴の目から、涙がこぼれた。
疾風の兄は、琴が小さい頃から、よく遊び相手をしてくれた。遊びの中から、馬の乗り方や、崖を駆け上る山鹿の乗り方、剣術、鎗術、棒術等の武芸も教えてもらった。
琴自身は、決して強くはならなかったけれど、身を守る術は一通り教えてくれた。
その朗らかで、強くて優しい兄と慕う人が、今、去っていった。
琴を逃がす為だけに、彼等は、命をかけている。
琴は、歯を食いしばって、走った。転んでも、直ぐに立ち上がって走った。
今は、疾風の兄の、捨て身で戦う剣劇の音が聞こえている。
また一人、今度は無言で、琴姫の頭をさっと撫でて、若者がその場に残った。
琴は、彼の事もよく知っていた。寡黙であまり話したことは無いけれど、琴が困っていたら、適格にヒントをくれて、すくい上げてくれた。
琴と疾風達の守り人衆は、一旦海へ出て、船で対岸の島の砦に逃げ込む算段だった。東の海に面した崖に穿たれた隠し通路にやっと辿りつき、もうすぐ、目的の隠し船の桟橋に差し掛かる。その時、真っ暗な海から、怒号が飛び、正面の守り人の胸に深々と矢が突き立った。ぬらぬらとゆらめく夜の海に、無数の船の影が見えた。明かりも灯さず、落ち延びる者達を狙う為に、待ち伏せていたのだ。
しかし、矢を受けても彼は、少しよろめいただけで踏ん張ると、疾風と琴姫の盾になるように二人を背にかばって、そのまま壁際まで後退した。次々と矢が打ちこまれてくる。
その矢を切り払いながら、
「疾風。船に乗っても逃げきれない。隠れ巣に琴姫を隠せ。ここから少し戻った所にある。」
そう言った。もう一人の守り人衆も、無言で頷くと、
「疾風、こっちだ。」
と、矢を切り払いながらじりじり来た道を戻りはじめた。
矢が届かない岩場の影に来て、残った4人がうずくまる。周りの気配を探りながら、守り人衆の一人が背後の崖の壁の一部を押した。すると、大人が一人入れる程度の穴が出現した。暗がりでよく見えないが、岩に似せて造られた板戸がはまっていた。
「琴姫、ここへ。」
有無を言わせず、押し込められた。
「必ず助けに来ます。それまで、ここに隠れていてください。」
疾風からそう言われ、不安で仕方ないけれど、琴は頷いた。
元通りに板戸を閉めると、三人は離れて行ったようだった。
壇の一族郎党は、身を守る最終手段として、戦えない幼い子供や女を守る為に、隠れ巣という場所を領内の至る所に作っていた。数日過ごせるように、乾物や中に水気のある固い殻の、水の実などを置いてある。
幼い頃から、隠れ巣に籠ったら、大人が助けに来るまで、決して巣から出てはいけない、と習う。誰かが扉を開けるまで、子供は潜んでいなくてはならない。
暫くして、激しい怒声と剣劇の音が道の上手と下手の方から微かに聞こえた。その気配は暫くすると静かになったが、扉の前の道を、荒々しい言葉を吐きながら行きかう者達の気配が続いて、琴は膝を抱えて震えを押し殺した。懐に抱えた守り袋に、どうか疾風達が無事でありますようにと、祈るしかなかった。
どれ程の時がたったのだろうか。扉の向こうからの気配が感じられなくなった。この隠れ巣は暗くて、よく見えなかったが、手探りで探すと、食べ物が入った皮袋を見つけた。中には、干した鹿肉と干し飯が入っていた。近くに水の実も転がっていた。干し飯を少しかじった。水はまだいい。
今が夜なのか、朝なのかも分からない。
琴は、いつの間にか眠っていたようだ。何かの気配に、はっと目が覚めた。扉の向こう側で気配がする。味方か、敵か。息を詰めて我知らず身を固くしていた。
扉の端から、日の光が漏れて入って来る。まぶしさに琴は目が開けられない。
その時、ふっと香った匂いで、それが疾風だと分かった。
やっと目が慣れたら、やはりそこには疾風がいた。
厳しい顔つきで、顔色も悪く、げっそりとした姿で、琴の顔を除き込んでいた。
「琴姫、大丈夫ですか?」
思いがけず、自分の方が心配された。穴から這い出すと、そこには2頭の牡の山鹿がいた。穴から出ると、思わず、大きく伸びをした。
そして、明るい中で、自分の袖から伸びた手を見て、何となく違和感を覚えた。急に体が大きくなったような感じがある。
あれ?っと思って足元を見た。脚絆の脚がかなりきつい。脚を伸ばしていなかったからだろうか。脚絆を緩めて、もう一度巻きなおさねば、などと思っていたら、急に股の間に変な違和感が感じられて、思わず押さえてしまった。
そして、そこに、今まで感じたことのない膨らみをとらえて、琴は驚愕した。
声にならない驚きと、琴の仕草の様子を見て、疾風がおののいた。何か、予想外の事が起こっていると、疾風も感じた。
しかし、とにかく、今は、この場所から離れなくてはいけない。
疾風は隠れ巣の板戸を素早く閉めて、元通りに隠すと、何だか驚きに固まっている琴姫を山鹿に乗せて、自分も鹿に跨ると、琴姫を急かして、山鹿に急斜面の崖を登らせていった。琴は、母から言われた数々の不思議な言葉を、ぐるぐる思い出していた。
上に登るにつれて、焼け焦げた臭いがして、琴を現実に引き戻した。鹿の手綱を見事に捌きながら、焼け野原となった城の遥か遠くの海岸に無事に登りついた。そのまま、二人は森の中の道なき道を駆けて行く。
しかし、追手はとうに、二人を見つけていた。そして、疾風も、琴も、その事にすぐに気付いた。二人を囲い込むように四方から寄せて来る兵士の駆け音が徐々に近付いて来る。恐らくもう、逃げても捕まる。
きっと、疾風は琴を守って最後まで戦うことだろう。あの夜に守ってくれていた守り人衆はもういない。もう皆どこかで冷たくなっているのだろう。
疾風を失う事は出来ない。琴の最後の生きる希望だから。
琴は、鹿の脚を止めた。先導していた疾風が、恐ろしい形相で振り返ると、すぐに轡を返して琴の傍に戻ってきた。
疾風が言葉を発する前に、琴は言った。
「逃げきれない。甘んじて捕まろう。」
疾風の顔は蒼白になっていた。
「このままでは、疾風が死んでしまう。私はそれが、耐えられない。二人で生きる道を探そう。」
琴は笑った。
「父様は生きよと言った。それは、疾風にも言ったのよ。ここで死んではいけない。二人で生きよう。」
疾風は無言で厳しい目を琴に向けている。
「私に考えがある。奴らは私の命は取らない。際国のお爺様を脅す大事な人質の駒だから。生かしておいた方が使い道があるもの。だから、疾風も殺させない。」
疾風は、目の前の琴姫が、あの襲撃の夜が明けてから、別人に変わったように感じた。泣きながら逃げていた、か弱い姫はもういない。
琴姫と疾風に向けて矢をつがえた一団が、間もなく二人を取り囲んだ。
頭領らしい男が、少し前に出て、ニヤニヤ笑いながら最初に声をかけた。
「追いかけっこはもう終わりかな。嬢ちゃん。」
「追いかけっこなど、初めからしていない。そして、私は嬢ちゃんではない。
壇 篤盛が一子、壇 琴喜だ。私の祖父の際国王がこの夜襲について、お前に使者を送るはずだが、どう返答するのか。際王の唯一の娘の私の母を誅殺して、丸く収まればいいがな。」
フンと鼻で笑って、琴は言い切った。
「姫ではないだと!」
頭領の男は怒鳴ると、
「確かめろ!誰か、奴の着物を剥げ。」
そう言って、誰かに無体をさせようとした。場に一瞬の緊張が走った。だが、さすがに、強国際王の孫にそんな事をしたのが自分とバレたら後々面倒なので、誰も動かなかった。
「さっきから、無礼な物言いだ。名を名乗れ。」
琴は頭領を睨みつけて言った。
見た目は幼い子供であるのに、その物言いと風格には威厳があり、周りの男達の視線を琴は真っ向から受け止めた。
壇 琴喜と名乗った少年は、山鹿に跨り、鞍もつけずに乗りこなしている。気性の荒い山鹿は、乗せる人を選ぶ。乗りこなすには、かなりの胆力が必要で、大人でも乗りこなすのはかなり難しい。しかも、若い牡鹿の2頭だ。牡鹿同士が出合うと、激しい勢力争いが始まる。どちらかが死ぬまで戦うこともあるほどだ。しかし、目の前の子供と若者は、どちらも牡鹿が自ら乗せているようだ。牡鹿の立派な角の具合から見て、群れの長の鹿である可能性が高い。群れを守る長の鹿が、自分の群れよりも、この二人を選んで乗せている。その事実は、若い二人を侮ってはいけない事を示している。頭領は、黙ったまま、名乗らない。
その場に沈黙が流れた。
「相手が名乗ったのに、名乗り返さないのは、殺す気だからか?
おいおい、人質にするんじゃなかったのか?
俺はあのおっかない際王と喧嘩する気はないぜ。」
その沈黙を破ったのは、琴と疾風の背後からだった。
「追っかけて済まなかったな。俺は、那国の西側で、一番際国に近い領地に居るんだ。瑠 間目という。さっきから、偉そうにしているこいつは、占部 仁名だ。
占部家はその名の通り、占いを得意としてる。こいつの占いに乗っかったんだが、壇の子供は女のはずじゃなかったのかい?仁名さんよー。」
占部 仁名は、黙っている。
「際王の娘さらっていい思いして、孫娘の契りの者が俺たちの中にいるから、後はどうとでもこちらの思う通りになるんじゃなかったのかい?」
瑠 間目は、気分が悪くなるような事を、あからさまに言って、暴いた。
「占部の占い、上神から見放されたかもな。上神は卑怯な戦が嫌いと、昔から言うじゃないか。今更だが、俺たち一族まで見放されちゃかなわんからな。俺は抜けさせてもらう。」
そう言って、自分の配下に合図すると、20名程が森の中に消えていった。
残った者達に重い沈黙が下りた。
「本当にお前は、男なのか?」
占部 仁名が更に言った。琴は、山鹿から降りると、
「着物を手荒く剥かれたくないからな。しかたない。」
そう言うと、下履きの袴の前をはだけて、男の一物を出した。
「ついでだ。」
と言って、放尿しはじめた。これには一同、その姿を凝視した。特に疾風は、信じられないものを見たものだから、固まった。
実は、一番びっくりしていたのは、琴姫であった自分自身だった。
隠れ巣から出た時、股に違和感があった。それが何かを確かめる間もなく、鹿に乗った。多分、自分は男になった。と思った。腕の力強さや、脚の力が違うから。
今、その違和感のモノを出してみたら、付いていた。
試しに放尿してみたら、出た。単純に、尿意が限界だった事もあるが。
自分で自分のソレを見て、また母のことを思い出した。
「女の子だったら、琴乃。男の子だったら、琴喜。私も昔は、百合ではなく白と呼ばれていたのよ。どちらでもなかったから。卒王家はそうなの。」
と。上神に最も近い血筋と言われる卒王家。母の百合はその王家の最後の生き残りだった。よく、不思議なことをさらっと言う人だった。
母の母が、際王の元に嫁いで、百合姫を産んで亡くなると、時を置かずに卒王家は隣国の賀に攻め込まれて滅んだ。百合亡き今、卒王家の最後の生き残りは自分になってしまった。どうして自分が男になったのか、元に戻れるのか。色々尋ねたくても、教えてくれる人はもう居ない。琴は泣きたい気分になった。
占部の兵に引き立てられるように、琴と疾風は占部の領地に連れて行かれた。向かう街道は荒れており、馬も難儀するような場所が幾つもあった。瑠の領地を横切る形になったが、瑠の領地のほとんどは湿原で、馬はぬかるみによく脚を取られた。山鹿はどんな道も難なく行くが、傍に居る占部の手の者を嫌って、隙あらば蹴ろうとするので、占部の馬も乗り手も常にピリピリした道行となった。
瑠の小さい櫓のような城を迂回して、やがて占部の領地に差し掛かると、瘦せた土地に樹木もまばらな急峻な山の頂上付近に、小さい建物が見えた。
占部の領地は、その山のみのようだ。小さな畑が段々と山に張り付くように階段のように作られているが、畑の作物も小さく、細々と弱々しくて、お世辞にも豊とは言い難い。農作業をしている農民も、みな痩せており、こちらの一行にちらりと目を向けはしたが、すぐに俯いて黙々と作業をしているばかりで、領主である占部 仁名に挨拶する様子も無い。これには琴も疾風も面食らった。
ここに着て、いかに壇の領地が豊かで活気があったか、人々が生き生きと過ごしていたかを、琴は思い出して比べていた。
占部の居城は、城と呼ぶには程遠い、長屋のような作りの、低い天井の2階屋だった。狭い平地に無理やり長屋を建てたような感じで、この小さな長屋に上階と下階とに人がひしめき合うように暮らしているようだ。台所は申し訳程度に屋根がついた屋外の小屋で、水はその脇の岩場からちょろちょろと滲み出しているのを集めて使っている。便所はその台所の一段下の狭い所に石を積んで場所をつくり、そこに穴を掘ってあるだけの、囲いも何もない場所だった。
そんな占部の城に着いた時、琴と疾風は、山鹿から飛び降りると、尻を叩いて山鹿を追い払った。あっという間に、山鹿は更に山を駆け上がり、姿を消した。
山鹿を逃がさなければ、多分今夜のうちに占部の食料にされるだろう。2頭は今頃は自分達の群れへ向かって疾走していることだろう。
占部の者達から、苦い視線を向けられた。馬上の仁名から指示されて、幽閉される小屋へと、琴と疾風は別々に手に縄をかけられて、連れて行かれた。
琴の入った小屋は、予想通り、ひどいものだった。何と、床下に豚が飼われており、酷い臭いがした。驚いた事に、隙間だらけの丸木の床板の、一番隙間の広い場所に便所として用を足せと言われて、面食らった。
布団は無い。干し草の束を渡されて、それを敷いて寝ろと言われて、更に面食らった。狭い小屋には窓は無い。丸木を蔓で縛って組み上げた四角い狭い箱のような作りで、丸木と丸木の間の隙間から、外が見渡せた。子供の琴が寝転ぶ事は出来るが、両手を広げたら壁に付くだろう。両手は荒縄で縛られたままで、逃亡しないように、小屋の扉を閉める際に、足まで縛られた。後ろ手に縛られなかっただけでも、よかったと思う事にした。
空が夕焼けに染まっている。あの森からここまでは、山鹿で1日かかるようだ。などと、ぼんやり考えた。寒くは無い季節で助かるが、羽虫には閉口する。血を吸う奴もいて、あちこち刺されて痒くてたまらない。
食事の世話は無いようで、さっき、豚の餌の野菜くずなどが外から投入されたのに、琴には何もなかった。
喉が渇いた。隠れ巣の中で、水の実を飲めばよかった。と後悔した。
疾風は何処かに連れて行かれてしまった。きっと似たような小屋に押し込められているのかも知れない。
昨晩からの緊張と、疲れで、いつの間にか、琴は深い眠りに落ちていった。多分、今夜殺される事はないだろうし。
暖かい季節とは言え、日の出前の冷え込みに、琴は目が覚めた。朝の湿気を帯びた干し草を引き寄せて床に敷き、少し腹に乗せたが、とにかく寒い。
空腹も耐えがたかった。干し草の柔らかそうな穂の部分を試しにかじってみた。以外なことに、小さな穂の芯は、干し飯みたいな味がして、食べられた。
馬だって、干し草食べるんだから、毒でなければ食べてみようと、比較的柔らかい葉の部分を探して、よく噛んで食べた。
食べたら、それほど寒いと思わなくなった。
琴は、意地でも、例え死んでも、自分から食べ物を乞う事はするまいと心に決めていた。壇を卑怯にも夜襲して襲った奴らに、頭を下げるなど、我慢ならない。
次の日は、朝から曇り空で、やはり、豚に餌は与えても、琴に食事は運ばれなかった。水さえ持って来ない。琴はふつふつと怒りが湧いてきた。私が泣き言を言って、すがって来るのを待っているのだろう。
決して思い通りになるものか。
しかし、喉の渇きは切実だった。ひたすら雨が降るのを待った。
希望通り、その日は雨が降り始めた。はじめはポツポツとした感じだったが、程なく、土砂降りになった。雷まで激しく鳴り始め、風も横殴りに打ち付けてきて、嵐になった。
琴は、天井の丸木の間から、滝のように流れてくる水を、腹いっぱい飲んだ。全身ずぶ濡れで、寒かったけれど、干し草が濡れて程よく柔らかくなった部分があったので、モリモリ食べた。手を縛っていた荒縄も濡れて柔らかくなったので、木の節に擦りつけていたら、切れた。手首に酷い擦り傷が出来て血が出たが、気にしなかった。そのまま足の縄を解き、立ち上がって大きく息を吸った。
丸木を縛っている蔓を切る為に、行動を起こした。蔓の細い箇所の目星をつけてあったので、雨でふやけた蔓を、歯でガリガリと噛んで削っていく。唇がささくれに当たって血の味がしたが、かまわなかった。何度も噛んで食いちぎっていたら、とうとう切れた。そこから蔓を解いて、繋がっている部分を解いた。しかし、頑丈に組まれた丸木は数か所の蔓が解けた程度ではビクともしない。
「くそっ!くそっ!解けろ!」
そう毒付きながら、丸木をガンガン蹴った。すると、意外にも、小屋が少し動いた。もしかしたら、小屋ごと下に転がれば、壊れてに逃げられるかも知れない。
そこからは、勢いをつけて、小屋の壁に全体重をぶつけた。何度もぶつけていくうちに、小屋が少しずつずれて、平地に均した部分から一部が外れて小屋が斜めにかしいだ。
「やった!」
今度は、渾身の一撃で、傾いた方の壁に体全部で肩から体当たりして、踏ん張った。
小屋は、ゆっくりと崖に向かって倒れていった。最初の転倒の一撃は、うまく脚から受けた。次はもう、回転がついて、どの方向に受ければいいのか分からない。元の豚小屋の跡に、上屋がなくなって、びっくりした豚が叫んでいる姿が、妙に鮮明に見えた。干し草が体にまとわりついて来る。2回、3回と全身を打ち付ける衝撃がきた。頭を抱え込んで、丸くなって受け身を取った。4回目の衝撃の後、丸木小屋はバラバラに崩壊した。
琴は、自分に巻きついている干し草を払いのけつつ、立ち上がった。身体のあちこちが酷く痛いが、歩ける。骨はどこも折れていないようだ。
落ちた所は段々畑の一角で、激しい豪雨でぬかるんでいる。雨と風は変わらず猛然と荒れ狂っているが、そのおかげで琴が小屋を引っくり返した音は目立たなかったらしい。疾風のことが気がかりだったが、ここは逃げるしかない。
よろよろと足を踏み出したが、目が回っているのか、フラフラする。転びそうになって立ち止まった時、先の石垣から、人が2人、姿を現した。
琴は歯を食いしばった。戦おうにも、何も武器を持っていない。せめて棒でもあればと、とっさに辺りを見たが、丸木の残骸しかない。自分には大きすぎる。しかし、むざむざとこのまま捕まる訳にはいかない。後ろはには段々畑の石垣があるが、その下の高さがどれ程かは分らない。しかし、後ろに下がって飛ぶしかない。
一瞬の間に状況を判断して、琴が動こうとしたその時、先の2人が膝を折って敬意を示した。ぬかるみに膝をついて、頭を垂れると、1人が少しにじり寄ってから、
「壇家の琴姫とお見受けします。我らは、際王の手の者。お探ししておりました。」
と言った。そして、顔をあげると、
「お側に寄る事を、お許しください。」
そう言いおいて、男2人は立ち上がり、琴に駆け寄ってきた。
『信じていいのか…?』
琴が迷っているうちに2人はもうすぐ傍に来ていて、
「ご無礼します。」
と謝ってから、1人が、優しい手つきでそっと琴を抱き上げた。
そして足早に畑を出ると、その石垣の脇にもう2人の男がいて、1人が先導し、もう2人が後を守る形態で、足場の悪い坂道を恐ろしい速さで走り降りて行った。
暴風雨は変わらず続いていたが、それをものともせず、力強い足取りで進む。
琴は揺れで身体中が痛くて、時々苦悶の呻き声を漏らした。その度に
「申し訳ありません。後暫くご辛抱ください。」
と、琴を抱いた男は何度も謝った。
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