はるにふれる

夜賀千速

六月、ただ曖昧に

 眠るようにしにたい、と息を吸うように思う。生きているという事象さえ、うつつなのか夢なのかわからなくなるくらいに。はっきりと存在していたはずの境界が溶けて滲んで、世界と自分の隔たりが見えなくなるくらいに。そういう、曖昧な淵を歩いていたい。


 朝起きたとき、自分はまだ生きていたのかと自問する。このまま朝目が覚めなかったらいいのと、そうやって深夜に祈るばかりの毎日。叶うはずはなく、私は布団の中で蹲る。自らの肉体が発する鼓動と熱を感じ、途端に全てに嫌気が差す。それでも私に脈があること、今この時生を受けていることに希望のような何かを見出そうともがく。ずっとどこかで、救いのような何かを探している。



 重い頭のまま立ち上がり、真白の制服に腕を通す。ブレザーを羽織ってリボンを結ぶと、息が詰まって憂鬱に包まれる。日焼け止めを指にとり、頬にゆっくりとのばしていく。素肌にとけていくクリームを、くすんだ鏡越しに見つめる。乾燥した唇に色付きリップを沿わせ、なじませて感触を確かめる。アイラインをくっきりと引く。鼻筋にハイライトを入れる。自分が自分ではなくなっていく。自分が何かに変わっていく。自分が世界に溶け出していく。外界に何かが滲んでいく。私はこの時間が好きだった。華やかな色ひとつで、自分をぼかして擬態させていく時間。


 心を覆う靄は晴れないけれど、今日の日の空は快晴だった。晴れている日は心なしか、暗い感情の渦がやわらかになる。マンションの階段を駆け下りながら、自転車を飛ばしながら、ふと部活のことを考える。昨日顧問の先生が、茶道部に新部員が入ると言っていたのだ。桜の花も疾うに散り、新緑の葉が揺れているというのに。突然こんな影の薄い部活に入りたいだなんて、一体どんな人なのだろうか。


 学校に着き、廊下の喧騒に呑まれながら教室への道を進む。扉のあたりで、何人かの女子が固まって騒いでいた。相も変わらず、クラスメイトたちは嘘のように元気だ。惰性でHRを過ごし、惰性で授業を受け、惰性で昼休みを潰す。いつまで経っても平行線の日常。気力を使うことなくやり過ごす日常こそが至高であり、平穏な心のままいることが何よりも大切なのだ。



 そうやって過ごす日中は、あっという間に過ぎ去ってしまった。教室の白い時計の針はもう、午後五時を示している。窓の向こうから、吹奏楽部のチューニング音が風に乗って届く。サッカー部の掛け声、廊下ではしゃぐクラスメイトの足音。ふと耳を澄ますと、放課後の音色が無数に流れていることに気が付いた。そういう音を聞いていると、私は無性に耳を塞ぎたくなってしまう。


 怖いのだ。漂うように過ごしているくせ、こんな環境に身を置いてしまうと、必死になれなていない自分に焦るから。心を閉ざしたまま行動もしない、このままの状態でいいのかって、心に疑問符が浮かんでしまうから。一生に一度の高校生を生きようとしていない。青い春には程遠い。陽の当たる景色に背を向けて歩いてきたはずなのに、そう自覚してしまう瞬間がある。本当は少しだけ、少しだけみんなが羨ましいのかもしれない。心の奥底ではずっと、何かを待っているのかもしれない。それだけじゃ世界も何も変わらないのに、傲慢にそう思っているのかもしれない。この世界のどこかで、自分の手を引っ張って行ってくれるような、誰かとの出逢いを待っている。うっすらと祈り続けている。ずっと照らしてくれる私だけの灯を、絶えず探しているのだ。なくならない矛と盾を持ったまま、誰の瞳も見ていない今日だけれど。



 そんな夢想をしながら昇降口を抜け、隣の棟の図書館へと向かう。初夏の匂いが鼻をくすぐってくる。これからの季節、やってくる夏への希望が、木漏れ日となって頭上に降り注いでいるようだ。あまりに眩しすぎる日差しは、目を開けているのが億劫になるほどに強い。

 見えてきた図書館のすぐ傍には、私たちの使う茶道室がある。今日は何人来るだろうか。幽霊部員ばかりで廃部にもならない部活に、律儀に通っている私の方が珍しいのかもしれない。


 入口でローファーを脱ごうとしていると、ふと誰かの気配を感じた。空気が揺れたような気がしたのだ。振り返るとそこには、背の低い女の子がひとり。初めて見る誰かが、俯きがちにそこに佇んでいた。あ、と言いかけてすぐに飲み込む。新しい、一年生だ。


 長い前髪で目を隠したその子は私に気付くと、小さい唇を震わせた。肩につくくらいの髪が、さらさらと揺れている。夏服の半袖の下、きめこまやかな白い肌。小柄で内気そうで、絵本の中から歩いて出てきたような少女だ。パステルで描いた森の中、小動物と仲良く会話していそうな雰囲気。



 二人の間に沈黙が流れる。話題を探していると数秒後、顧問の佐竹先生がやって来た。どうやら今日は、外部の先生がお休みらしい。

「あ、矢野さん。昨日言ってた新入部員、日高ね」

 形式上だけとはいえ、私は時期部長だ。日高さんに頭を下げ、ゆっくりと微笑む。

 ちゃんと笑ったのが久しぶり過ぎたせいで、笑顔が不自然になっていなかっただろうか。


 顔を上げて、言葉を待つ。日高さんは長い睫毛を伏せて、ゆっくりと口を開いた。

「日高です。あの、よろしくお願いします」

 小さく、水のように透き通った声色。綺麗なソプラノだった。

「矢野、です。よろしくね」

 私に向かって、深い礼をする日高さん。同級生ともまともに話さない私が、後輩の面倒を見るなんてできるのだろうか。部活は心が安らぐ時間だったはずなのに、これからの日々を思うと憂鬱だ。今まで後輩と親しく話した経験がないため、どのくらいの距離感で接していけばいいのか何一つわからない。


「最初から教えてあげてくれる?基本のこととか、色々」

「あ、はい」

「今日は普通の稽古はこっちだけでやるから、よろしくね」

 わかりました。そう答えたはいいものの、覆う不安は拭えない。初対面の後輩に一対一で教えるなんて、私に務まるだろうか。逃げ出してしまいたい衝動に駆られながらも、日高さんを畳の上に案内する。


「えっと、お茶会とかは初めて?」

「はい、マナーとかも全く分からなくて……」

 日高さんは怯えたように答える。私の訊き方が悪かったのだろうか。誰でも最初は初心者なんだし、そんな消え入りそうな声をしなくてもいいのに。

「だよね、じゃあ今日は少しだけ」

 茶道の先生だったら、こういう時最初に何を話すのだろう。お茶の飲み方を説明するより先に言っておくこと、何かあるだろうか。


「えっと、まず。茶道にはね、いくつか流派があって。千利休を始祖とする三千家ってのがあるんだけどね。ここ部活では、その一つである裏千家の流れでやってるの」

 頷きながら、静かに聴いてくれる日高さん。拙い説明で申し訳ないと思いつつ、そのままゆっくりと言葉を続ける。

「あと、何だろう……。あっ、お茶会の時は、白い靴下を履くのがマナー。あと髪が長い人は結ぶ、とかそれくらいかな」

「白い靴下……わかりました」

 いくつか伝えた後、お茶会の作法についても説明する。いつもの動きをどうにか説明したつもりだけれど、間違えたことを教えてしまっていないか心配だ。


 一通り基本の作法を教え終わったので、姿勢を崩して休憩する。

「ねぇ、下の名前は?」

 そういえば訊いていなかったぁと思い、顔色を伺ってそう質問してみた。

「はる、です」

「漢字は?」

「えっと、はる」

 くすりと笑うと、彼女は途端慌てたような素振りを見せた。桃色の可愛いらしい口許が小さく動く。

「晴れ、って書きます。今日の空、みたいな」

 和室から仰いだ窓越しの空は、怖いくらいに真っ青だった。傾いた太陽がガラスを照らしている。小さく浮かぶ雲は、ささやかに私たちを見下ろしてくれていた。

「あの。先輩の、名前は」

 同じ質問をされた。突然瞳を覗きこまれ、心臓が跳ね上がる。大きな黒目に自分の姿が映っているのが怖くて、動揺を抑えつつ口を開く。

「あ、私はね、千鶴。矢野千鶴」

「わぁ、いい響き」

 そうかな。思わずそう呟いてしまい、腕を捲って片付けに入る。あまりに長い期間きちんとした会話をしていなかったからだろう、疲れがどっと押し寄せてきてしまった。その場を去ってお手洗いに向かい、乾いた唇にリップを塗って心を落ち着かせた。



 部活が終わって外に出ると、傾く夕日の眩しさで目が焼けそうになった。夕焼けが綺麗ってことは、明日も晴れだってことか。ふとさっき、後輩に瞳を覗きこまれたことを思い出す。疲労に加え、不思議な高揚感に包まれているような感じだ。この感情には、なんと名前をつけるのが正解なのだろう。橙がつくる電柱の影を追うように、家までの道を進んだ。

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