微笑み

三輪晢夫

微笑み

 今の時代に珍しく、その女学生は読書好きだった。十代の半ばにして、ロシアのドストエフスキーやトルストイ、チェーホフ、アメリカのヘミングウェイ、フォークナーを読み漁り、海外文学を好む傾向にあったが、日本の大江健三郎や三島由紀夫や筒井康隆は嫌いでなかった。ただし彼女は東野圭吾やアガサ・クリスティなどのミステリーは嫌いだった。理由はわからない。そこで読むのは純文学だとかSFの本が多かった。彼女の通う学校に本好きは居ないではなかったが、いずれも辻村深月や村上春樹のファンで、それらを好まぬ彼女とは相容れなかった。そうして彼女は人間関係を鬱陶しく思った、……彼女は教室において孤独だったのだ。

 毎日登下校の際、数十分の電車の行程で彼女は本を読む。一文一文じっくりと読むので、頁をめくる速度はのろまであるが、その分一文字一文字が冴えた音のように頭に入ってくる。それは心地よかった。こういう読み方が、冴えた文章の冴えた言葉遣いに適しており、元ゝ鋭かった言葉に対する彼女の感覚をより鋭敏にした。だからこそ文章の出来不出来に関して彼女は異常に判別できたのだが、この特性が役立つ事はいよいよ学生の時分なかった。無論数年後、社会に出てからそれが役立つ事はないではなかったが、歩んだ道が本に関わらないものであったが為に、時の流るるまま老ゆるまで日の目を見る事はついぞなかった。そして彼女自身、その事に不満などはなかった。畢竟彼女は優れた文章を読めればなんでもいいのだった。むしろ晩年に至って彼女に不満があったのは、現代の文壇に優れた文章を書く作家の非常に稀有な事で、純文学にしても、おおよそ過去の文豪たちと比較にならない。それは感性の鋭さ、言葉遣いの巧みさもそうだが、何より小説を書くに必要不可欠な思想の練り込みが足らない。無意味に悲しみ、無意味に病む。無意味に体を売り、無意味に同性を愛する。無意味に放蕩する。浮気する。これを作中に描写する事を悪い事だとは思わないが、昨今の作品はどれも判で押したようにこれらのいずれかが描かれる。それが作品のテーマの都合上であったならばまだしも、大方は、世間の流行りに乗ったり、あるいは気取ったりしているだけの、まったく意味のない描写である。なにも小説のみに言えることではなく、音楽などにおいても同様なのだが、現代の文化というものは軒並み品性という言葉を知らない。そんな思いは無意識ながらも彼女の学生の頃からあった。学校の読書家たちと相容れなかったのは、意識せずとも、どこか彼女自身の中に彼らを見下す風向きがあったからかもしれない。

 初夏の、陰鬱な天気で、少し肌寒いある日の事である。彼女は平生の通りに午前七時半に家を出て、最寄駅から××線の電車に乗った。彼女の住むのは校舎のある都心から離れていたので、電車が動くにつれ次第に車内に人が増えていくが、彼女の駅に至ってはまだがらがらで、空いている椅子ばかりが目立った。そこで彼女の定位置の椅子は決まっていた。車内にいる人も、段々と同じ面の人ばかりで見慣れて来、そこにはある暗黙の了解ができる。つまり彼女の定位置は彼らの中で決まっているのである。しかしその日、その定位置にはすでに客が座っていた。見ない顔だ。座っていても分かるすらりとした長身の男で、仕立てたばかりというような紺のスーツを着こなして、性格の真面目さが表情に浮き出ている。それが、静かに、本を読んでいる。仕方がないので、彼女は男のちょうど前の席に座った。その時ちょうど扉が閉まって、プラットフォームから暗澹たる朝の澄んだ町へ無機質な電車の車体が川の水のように奔りだした。

 翌日にもその男は彼女の定位置で本を読んでいた。彼女はやはり男の前の席を陣取り、紙面の文字を追いながら、ちらと男の読む本の表紙を盗み見た。それは田山花袋の蒲団である。彼女は田山花袋を読んだ事があったが、とりわけ蒲団は好きな話だった。粗筋は以下の通りである。小説家として名の知れた時雄は妻子のいる身であったが、ある熱心な美しい若い女が弟子にして欲しいというので、弟子にして家に置いていた。彼は美しさに惹かれてその弟子に恋をする。元来の善性と師匠の立場からそれは胸の奥に仕舞い込んでしまったが、その弟子が京都に男と旅に出て、恋に落ちたと知ると、煩悶としたまま、清純な恋であることを条件に、男と女の恋の保護者となる。女にはすでに許嫁があり、両家の親はこの恋を決して認めようとしなかった。男は神戸で同志社大学へ通っていたが、彼を育てた神父、宗教が嫌になって、時雄と女のいる東京へ出る。そうして幾度も重ねられる男と女の逢瀬に時雄は酒に溺れながら、神戸を勢い飛び出した男は生活を堕としていくので、いよいよ女の実家に手紙を出して、男と、女と、女の父で会合を開くと、男の態度云々によっては娘をやらんでもない、とにかく今は大学に戻って勉学に励み、また娘も文学に精進して、それから結婚はすればよろしいし、今のままではその男に娘をやることはできない、結婚の時期が来るまでは娘を他所へやることはせぬし、それまで清純な恋を約束できるのなら、結婚すればいい、こういう帰結となった。が、あるきっかけから男と女が関係している事を知ると、清純な関係を条件として恋の保護者であった時雄は弟子の娘と縁を切り、父もそういうことならと、泣く娘を連れて故郷へ帰る。男は事態を知って青褪めた後も、東京で稼ぎ口を見つけて生活している。家に残された娘の部屋にはまだ娘のものがある。時雄は泣きながら女の蒲団に顔を押し付けて、その匂いを嗅ぐ。物語は終わる。

 彼女は主人公時雄の、真っ直ぐで善性なところが好きだった。結婚している身でありながら恋をするのを罪悪としないのは、それが実際面に出ることなく、また手を出す事もせずという事もあろうが、心の自由を尊ぶ彼女の気質が出ていると言って差し支えない。逆に、男、無闇に女の純潔を散らし、その歳まで彼を親切から育てた神父を自分勝手に簡単に捨て、すぐに涙を流す、その女々しいのが嫌いだった。しかし嫌いでありながら、彼女はこの作中において誰より自分と似ているのは男であると思った。自分を女々しいと思っていた。そうして、自分が女々しいことを肉体的に女だからとする、そういうところもやはり女々しいのだと自覚していた。たしかに彼女は女々しかったが、変なところで男気があった。しかしそれは、そこでスーツの男に話しかけるような男気ではなかった。そもそも前述の通り人間関係を厭っているのである。……彼女はまた自分の本を読み始めた。

 それから一週間、男はいつもいた。その翌週もいた。さらにその翌週、翌々週と続いて、ついに一ヶ月ぐらい乗っているから、その男は車内の空気に溶け込んでしまって、もう違和は生じなかった。そうして彼女の定位置も、男の前へと変わった。この一ヶ月、休日は知らないが、平日に居ない時はなかった。転勤にでもなったのだろうか、これからずっとこの電車に乗るのだろうか、などと考えながら、またそれほどの興味が湧いたのでもないが、電車で読んでいた男の本の題名は全て記憶していた。一週間ごとに男の読む本は変わった。初めの一週間は「蒲団」、それから同じ本に収録される「重右衛門の最後」、翌週は三島由紀夫の「獣の戯れ」、翌々週はトーマス・マンの「魔の山」、さらに翌週は趣が変わって、太宰治の「斜陽」だった。田山花袋と三島由紀夫は読んだ事のあったが、「魔の山」と「斜陽」は読んだことがなかった。無論存在は知っている。しかし数ある本の中でそれを読もうとする優先度は低かった。が、男が読んでいるのを見て興味が湧いたので、その週末に本屋に出かけた。よく晴れた日の午前、近場の丸善までは歩いて十五分程であるが、ふと何か思って平生より少し身なりに気を遣った。それなりに長い髪を櫛で梳かして、白いワンピースの上に優しい水色のカーディガンを着ただけだが、なかなか見れなくはないと自分で感心した。財布とスマホだけを持って家を出た。丸善の一階は雑誌とかビジネス本が置かれていて、小説はないから、着いてもエスカレーターで二階に上がる必要がある。そこで例の男と出会った。男は白いシャツと黒い半ズボンを着て、普段ワックスで固めた髪が、今日ではぼさぼさだが、清潔感がないわけではない。むしろそれにはギャップなるものが生じていて、女はちょっと緊張した。エスカレーターに、男は彼女の四段上にいて、ポケットに右手を突っ込んで、左手を手すりにかけている。こちらに気づく様子はない。二階に上がって、彼女は男の後を数歩遅れて着いて行きながら、早く本を買って帰ってしまおうと思った。けれども求めるところの本棚が一緒だった。傍に立ちながら、自分で赤い顔をしているのが分かる。変な汗が出てくる。そうして、こんな事で赤い顔をして緊張する自分が馬鹿らしく思う。彼女は今日に限って身なりに気を遣ったことを、やがてふつふつと後悔しはじめた。夏の初めに差し掛かって、カーディガンは暑すぎやしないか、と今更ながらに思った。

 男は最後まで女学生に気づくことなく、彼女もまたそそくさと「魔の山」と「斜陽」だけを取り出すと、気づかれぬうちにとっとと家へ帰った。家へ帰ると、彼とまったく関わりのない自分が、彼と同じタイミングで本屋に出向き、彼の読んでいる本を選んで買ったことに、自分ながら気持ち悪いと思った。無論それは偶然に過ぎないのだが、もしかしたら相手にはストーカーか何かに自分が映っているのかもしれないと思うと、気分が沈んだ。そんな自分があまりに自意識過剰であるという気もした。恋、という言葉が胸中に浮かんでくると、焦ってそれをかき消した。年頃の少女のような自分が嫌だった。月曜日に彼と顔を合わせるのが億劫だった。しかし太宰治の「斜陽」は面白く、週末はすぐに終わった。翌る日は月曜日だった。

 月曜日は初めて彼と会った日のような曇り、梅雨曇りだった。彼女は平生の通りを装って、しかし恐る恐る電車に乗った。電車はやはり人の少なく、彼の姿はすぐに目につく。そこでふっと違和感に気がついた。彼はたしかに今までと同様、静かに席に座り、紺のスーツを着こなし、黒い髪をワックスで固めてエリートサラリーマンという風体であるが、本を読んでいないのだ。膝の上に鞄を乗せて、向うの窓の奥に飛ぶ夏燕を見ている。彼女はやっぱり定位置に座った。その日も昨日のように髪を梳ってきたが、それゆえ、少し恥ずかしかった。彼女はふるえる指先をふるえないように注意しながら、リュックサックから太宰の「斜陽」を取り出して開いた。すると男も鞄の中から「斜陽」を取り出した。彼女は驚いて男の表情を見た。扉が閉まり、電車が発車する——その時、男は初めて微笑みを見せた。

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微笑み 三輪晢夫 @Hachi0805

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