第四章 突風アリス


「これは夢?」






「そうだよ。菜々子」




◇夏哉




そのヨーグルトの


パッケージを見た時、


闘志がみなぎり、


思わず


箱を片手で


握りつぶしそうになった!!






ことの発端は俺が実家にかけた何気ないいつもの電話。


「あー母ちゃん? 俺だけど。これから帰るわ」


大学は2年に進級してしばらくがたっていた。


俺は一応オレンジを休部状態にし、平日はできるかぎり、家庭教師のバイトをし、休日はヨットサークル GO TO SEA(やめてほしいネーミング)にかかりっきりの毎日を過ごしていた。


なかなか実家に顔を出す時間がなかったけど、そろそろマトモなメシが食いたくなって、家庭教師先から、実家に向かうことにした。


1泊してからアパートに帰ろう。


家庭教師が終わってから実家に電話を入れた。


「夏哉。それじゃさ、スーパーで買い物してきてくれない? ヨーグルトと片栗粉買い忘れてね。あ、ヨーグルトはわかってるわよね? 銘柄はいつもの、成城岩井のオリジナルのものを買ってね。あら、あとハーブがそろそろ切れるのが……」


「げー、めんどい! ハーブは別に今じゃなくていいんじゃね?」

「んーわかったわ。ハーブはあんたすぐ間違えるから」


うちの母ちゃんはなにやら趣味で「ハーブ教室」とかいうヤツを開いている。

うちの庭の一角は、だからハーブ畑になっている。

ハーブは基本、雑草らしく、ほっときゃ育つらしい。



だけど、1年中、質のいいものが採れるわけじゃないし、日本の風土にあわないハーブもある。

母ちゃんはだからしょっちゅうハーブを買っている。


ハーブ料理を教えたり、ハーブでリースを作ったり、ハーブを使った消臭法とか?


俺の家は平日の午後、近所の有閑マダムのたまり場的な場所になっているらしい。まあ楽しくやってくれているのはいいことだ。


出たついでに買って来いって言われることもあるけど、母ちゃん御用達の成城岩井はめちゃハーブの種類も銘柄も量が多い。


俺はこの中から母ちゃんの言っている銘柄のハーブを探すのかと思うと、軽いめまいを起こすほど。


それは弟のヒカリも一緒らしく、俺とヒカリは軽度のハーブ恐怖症だ。

親が懲りすぎると子供は引くんだよ。


そんなわけで俺はヨーグルトと片栗粉だけを買いに、成城岩井に寄った。


菜々子の住んでいたアパートに移り、駐車場を失った俺のランクルは今、実家に置いてある。

免許を取ったヒカリが乗り回しているらしい。

基本、俺のアシはバイクだ。



だけど、家庭教師に行く時は、心象が悪くなるのを恐れて、一応電車で行っている。


成城の駅から、そのスーパーに向かう。

輸入食材を多く置いてる高級スーパーだ。


ここのオリジナルっていう食材も最近、増えてきた。

母ちゃんは、ここのヨーグルトを料理とかジュースに使っているみたいだな。


俺は片栗粉を買うと、ヨーグルトの棚に向かった。


「えーと……お! おおおっ!」


俺とそのヨーグルトの運命的な出会いの瞬間だった!!


「ここここれはっ!!」


ごくごく一般的な日本で最もポピュラーなヨーグルトのひとつ、ルーマニアヨーグルトの大箱を俺は手に取った。

値段なんか母ちゃんの指定してきた成城岩井ヨーグルトの半分だ。



裏面に書かれている文字や写真を詳細に確認していく。


こっちでいいじゃんか。これもひとつの神託だ。


俺は買い物カゴにルーマニアヨーグルト20個と、同じ銘柄の飲むヨーグルトを3本入れた。



「夏哉! あんたいったい何考えてるのよ? うちは今あんたがいないから3人家族なのよ? それがどうして短期間にヨーグルト20個も消費できるのよ!」


「一人一日一個食えばいいだけだろ? 健康にいい」


「もう、ふざけるんじゃないわよぉー」


ヨーグルトの詰まったビニール袋をうんざりした顔で見下ろす母ちゃんを横目に、足に絡まってきたモクレンを抱き上げる。


モクレンはここ数年母ちゃんが飼ってるチワワで、ひとなつっこい可愛いヤツだ。(モクレンが俺んちに来た時、モクレンが花盛りだったんだと!)


「いいじゃん。そのハーブ教室で使えば。ハーブとヨーグルトを使った料理!」


「それに夏哉! お母さん、このヨーグルトじゃなくて、成城岩井のヨーグルト買ってきてって言ったわよね?」


「悪いけどしばらくこの銘柄のヨーグルト使って!! それから、飲むヨーグルトもな」

「どうしてー!!」


「そんでここのマークは切り取って俺に渡して! んじゃそういうことでメシ! 俺腹へってんの!」


そこで母ちゃんはおもいっきり不審な顔をしてルーマニアヨーグルトを手にとって、裏側の記事を声に出して読み始めた。


「ご愛顧感謝プレゼント、復刻版・アリスの懐中時計? 毎月500名様……。鍵デザインキーホルダー、1000名様? ジョン・テニエル氏の挿絵に忠実に再現……ってなにこれ? あんたこの懐中時計が欲しいの?」


「そう! 悪い?」

「はーん。彼女がアリス、好きなんだ?」

「そうだよっ」


俺が大学に入った時、買ってもらった菜々子とつき合いだした頃に住んでいた1LDKのマンション。


菜々子が留学でイギリスに行ってしまってから、俺は菜々子の住んでいたアパートに移り、そのマンションは人に貸している。


その差額分は俺の小遣い。

金がないと菜々子に会いにイギリスに行けないから。


親の持ち物だから、どうしてもマンションを貸すのに、納得してもらう理由を説明しなくちゃならなくて……俺は親に菜々子のことを仕方なく話した。


一度、別れている間に連れて来たことがあった菜々子のことを、俺の両親はなぜかいたく気に入っていて、そういう理由なら……ってマンションの件は即OKになった。


だけど菜々子のことはがっつりバレた。


だから俺がヨーグルトにこだわるとかいう奇行を見せると、面白がって食いついてくる。


うぜぇ。

親に彼女がいるって知られるのは全くうぜぇことこの上ない事態だ。


「だから協力して? 毎月500名ならがんばれば当たるかもしんないだろ?」


そこにやっとヒカリが顔を見せた。

俺が来るとけっこうすぐ顔みせるヒカリが珍しいな。



てかヒカリも絶対大学入ったら俺みたく一人暮らしするとか言ってたのに、まだこの家にいるのか。


「おぉナツ久しぶり」


俺にそれだけ言うと、キッチンに向かう。そこで冷蔵庫を開ける。

牛乳を飲む気だな。なんでかヒカリは無類の牛乳好きだ。


「待てヒカリ」

「はん?」

「お前、今日から牛乳じゃなくて飲むヨーグルトを飲め!!」

「は?」


「俺が特別に買ってきてやったヤツが冷蔵庫に入ってる!」

「はぁ?」


「そっちのほうが身体によくて、テニスも上達するんだよ!」

「…………」


普段と違う俺の言動のせいなのか、思いっきり、なんて返していいのかわからない感のあるヒカリだ。


「夏哉が彼女のためにそのヨーグルトの応募パッケージを集めたいらしいのよ」


横から母ちゃんが言う。


「なーるほど。そういうこと。わかった。いいよ!」


そこでヒカリがにやにやしながら言う。


「ナツの菜々子狂いもこれであますとこなく広がるな? このヨーグルトだろ? 毎月500名って、めっちゃ集めなくちゃ当たんないだろ。だけど集めれば無理でもないような微妙な数字だもんな」


牛乳を冷蔵庫に戻すと、飲むヨーグルトを取り上げたヒカリが言う。

もう知れ渡るのは覚悟の上よ。


だけど、菜々子はこのジョン・テニエルの挿絵が一番好きなんだよ。

クラシックで独特の風合いのある挿絵。


幻想的すぎてとても可愛いとは言えないと思うんだけど、とにかく菜々子はアリスの挿絵は原本のこの挿絵画家にこだわる。


菜々子が好きだと言うから、俺もなんとなく、気にはしている。

気がついたことだけど、アリスのモチーフは確かにいろんなところに溢れかえっている。


元にしてるのはこのジョン・テニエルの挿絵だとわかる。

だけど、影だったりすることが多くて、ジョン・テニエルの挿絵に忠実なものって案外少ない。


そこで見つけたのがこのヨーグルト! 

ジョン・テニエルの世界を再現!とはっきり書いてある。そこに載ってるイラストもたしかにジョン・テニエルのものだった。


懐中時計は500名だけど、鍵のモチーフのキーホルダーは1000名。

期待できない数じゃない!


「お母さん、がんばるわ! 夏哉にようやくできた彼女だもんね! もう18にもなって彼女がずー―っといないからお母さん心配してたのよ」


「…………………………………………………」


ヒカリがぎゃははっと腹を抱えて大笑いする。

「ヒカリっ! そんなに笑っちゃ夏哉が傷つくわ。夏哉だっていろいろ事情があって、ほら部活とか忙しくて彼女できなかっただけなんだから」


ヒカリが『ひーっ俺もうダメかも』とヘンな声を出して床に転がった。

ヒカリは俺の高校時代の素行を知っている。


「うるせえんだよっ」


俺はヒカリの背中をがんっと蹴飛ばし、その身体をまたいでテーブルについた。

「母ちゃん! メシっ!」

*夏哉*2


「ナツ、なんだこの大量の飲むヨーグルトは?」 


休日。ヨットサークルの買出しを俺は自分からかってでた。

もちろん、ヨットだってスポーツだから、いつも飲むのはスポーツドリンクだ。

でも今日は、8:2の割合でルーマニア飲むヨーグルトとスポーツドリンク、両方用意した。当然部費で。


「ヨーグルトは乳酸菌が入ってるから疲労の回復に絶大な効果があるんすよ」

「へえ、そう」

珍しげに、何にも疑わずに先輩たちはそれを口にしていく。


「なんかたまにはこういうのも新鮮だな。これ、子供の頃、よく飲んだかも」


あと何回かはこれ、イケそうだな……。


「あ、ゴミはこの袋にお願いします。俺、始末しておくんで」

「おーありがとな」


海の上。



爽やかスマイルを振りまきながら買ってきた飲むヨーグルトを先輩たちに勧めると、懐かしい味だと褒めてくれて、それを美味そうに飲み干してくれる。


そんなありがたい先輩たちの姿に、俺はうつむいて漆黒の微笑みを口元に浮かべた。


そんな俺をゲンナリした表情で見ている二人。健司とナベだ。

俺のアパートに召集したフォルガの集まり。

前に住んでた広いマンションと違って、今のアパートは15人はもう満員電車状態だ。


「今日の酒は焼酎のヨーグルト割りがメインだ」

「はぁ?」

「俺、ビール持ってきたぞ」

「いいからこのヨーグルト割りを飲め! こっちのほうが身体にいいんだよっ」


会費徴収型飲み会。酒を用意したのは俺。もちろんヨーグルトを用意したのも俺。


「えー! なんでだよ。最初はビールでいいだろ? そんな飲み方聞いたことないぞ?」

「試してみたらソウルまっこりに似てる」



「絶対嘘だ! 何考えてんだよナツー! 俺らのカネだぞ!」


血の気の多いこいつらを篭絡してヨーグルトで酒盛りをさせるのが、一番難題だろうな、とは思った。

俺だって実際美味いとは思えねえもん。


「菜々子ちゃんがこの裏のパッケージについてるアリスのファンなんだよ! 全くマイナーチックな趣味だぜ」


そう言ったのは健司だ。


「もうナツ、こいつらには正直に言ってお願いしたほうがいいって」


ナベも言う。


この二人には一応、ワケを話しておいた。


最近、昼飯ん時、俺がいつも飲むヨーグルトを飲んでるのを不審がり、あんまりつっつくから協力してもらうこと条件で、本当のことを話した。


俺んちの冷蔵庫も今、飲むヨーグルトとふつうのヨーグルトばっか、入ってるしな。


「彼女に何ヶ月も会えないかわいそうなタマりまくってる男のために、今日は飲むヨーグルトで勘弁してやってくれ。俺からもお願いするから」


心の友の健司が言う。


「なんだよ。んじゃ最初っからそう言えばいいじゃん」


ああ……! 持つべきものは友達だなあ。

みんな絶対美味いなんて思ってないヨーグルトの焼酎割りで楽しく、酒盛りをしてくれた。


俺のヨーグルト生活も1週間を向かえ、最近肌が白くなってきたんじゃないかと思う頃、確実、着実にルーマニアヨーグルトのパッケージ切り抜きが集まってきた。

友達も2枚3枚と手渡ししてくれる。


今、俺の手にはゆうに100枚を超えるパッケージ切り抜きがある。

ナベがネットで懸賞に当たりやすいハガキの書き方とかいうサイトを見つけ、プリントアウトしてきてくれた。


母ちゃんからもパッケージ集めといたから取りに来いって連絡が入り、行ってみると、こっちもたった1週間で80枚を超えるパッケージ切り抜きが!! 


なんでもハーブ教室仲間にメールをまわし、息子の一大事だからどうしてもルーマニアヨーグルトのパッケージを集めて欲しい、と言ったらしい。


いったい俺はどんな息子だと思われてんだ。でもありがたい話には違いないな。母ちゃんのハーブに俺は初めて感謝したかも。







ヨットサークルのたまり場、8カフェで俺と健司とナベは3人で黙々とハガキを書き続ける。


「ナツ、色ペン使えよ。ジミなんだよそれじゃー! ほら、このお手本プリントをしっかり見ろ!」

「あー、わかったよぉー」


俺はうんざりして、『大ファンです』の文字をキラキラのペンで囲んだ。


「こんちはー!」


座る俺らの上から知った声が降り注ぐ。


「おー、枝川」


俺がいる関係でよくここにも顔を出すようになった枝川が、ヨットサークルの先輩に挨拶している。


「ほら。こんだけ集めたぞ! オレンジの後輩に無理やりヨーグルト飲ませて集めたんだからな」

「心の友がここにもっ!!」


俺は枝川に抱きついた。


「気持ち悪りぃな。そんじゃな!」

「待て!」

「なんだよナツ、そんだけ集めてやったんだからいいだろ?」


「心の友は一緒にハガキを書かなければならない!」

「はあっ?」

「いいから座れ!」

「ヤダよ。オレンジ裏切ったヤツなんて」


「でもお前は俺が好きだからこんなに集めてくれたんだろ? 自分の気持ちには素直になろうぜ?」

「別に好きじゃ……」


「今度、リカと1泊旅行ん時は、俺んちに泊まったって言っていいから。なんだったら親に電話してやっから!」

「別に俺は男だからアリバイ工作する必要ないんだけど」


「それもそうだな。まあいいから座れ」


やっと枝川の想いがかなったオレンジの同級生リカ。

リカの話をしてるとおもしろいほどわかりやすく枝川の顔が赤くなっていく。


俺は椅子に座りながら、ついでにぼーっとしてる枝川の肩にぐっと力をいれ、椅子に座らせた。


「なんだてめえらまだヤってねえのか」

「うっ! うるせえよナツ! 俺は手の早いお前とは違うんだよっ!」


「ほらペン持てって。手がはええも何も両想いんなったら、そうするのが自然の摂理なの! なー健司?」


「だな。だけどお前だって最初のつき合いん時は菜々子ちゃんと2ヶ月も手もつなげず――……」

俺は健司のぽっぺたにキラキラペンでびーっびーっと長く線を2本描いた。


「ネコになった! それ以上言うとメガネネコになんぞ!」

「ナツー、それが無償でここまでやってやってるご学友にたいする態度か?」


「……そうだった。すいません」

「お前の”ちゅー”のためにがんばってやってんだぞ?」


うなだれる俺の頬に健司がキラキラペンでくちびるらしきものを描いた。


「ガキかよ……お前ら」


俺はあきれる枝川にペンを握らせた。


「ほらほら来たるべきリカちゃんとのめくるめく一夜のために、今はこのハガキを書け!」


枝川もしぶしぶハガキを書き出した。


「全く! 菜々子先輩のことんなるとナツはやることが突飛すぎるよな」

「菜々子ちゃんのことだけじゃないけどな。こいつの予測不能の行動は!」


ナベが言う。


俺たちは黙々と4人でハガキを書き続けた。



*夏哉*3


うっわっ!! マジで?


俺の右手には真鍮の懐中時計。忠実に再現って書いてあったけど、どうなんだろう。その当時の物を再現したのかな? 


菜々子が持っている古いジョン・テニエル作画の本を見ても、たしか時計なんてうさぎがもってるなーってわかるくらいの描写しかなかった。


まあいい! 

それはかなり精巧に作られているように見える。

そしてなんと俺の左手には鍵のモチーフがついたキーホルダー。


信じられないことに両方あたったのだ!!

早く菜々子に見せたい。

菜々子の喜ぶ顔がみたい!!

俺はネットでロンドンまでの格安チケットを調べた。

とにかく安いヤツ。もう今月、金がぎりぎり。

詳細に調べていくと、往復でどうにかいけそうなプランが見つかった。


しかも今月、菜々子の大学で、試験のあとの休暇ってのがあるらしい。

菜々子の大学が休みの日にあわせて俺は飛行機をとった。

突然行って、おどろかせる作戦だ!


しかし、問題は金だ。もしかしたら野宿になるかもしれない。

だって菜々子は寮だから、そこに転がり込むわけにいかないのだ。

俺も試験ですぐにもどらなきゃならない。


俺は、バックパックに薄手の寝袋もつめた。

でもレンタカーだけは借りて、どこかに行きたいな。


それくらいの金はギリであるかな。

国際免許も入れる。両手に握った鍵と懐中時計を見ながらにやにやする俺。


思い立ったら会いたくてたまらない。俺の可愛い菜々子ちゃん。

俺は健司とナベと枝川にラインを送信した。


『ありがとな。両方あたったわ。俺ちょっとロンドン行ってくる。すぐもどるからあとよろしく!』


『はあ?』

と、ナベから返信。


『ロンドンは「ちょっと」行く場所じゃねえだろ! 頭冷やせ!! もうすぐ試験だぞ!!』

と健司から返信。

『ナツ行くな。俺はリカよりお前が好きだ』


最後の枝川のメールを見て、よけい行きたくなった。

3人からの友情エールを受け取り、俺は、靴を履いた。

いってきまーす!


俺は足取りも軽くバックパックをしょって家を出た。空港に向かう。

もうなんどか乗ったロンドンヒースロー空港行きのブリティッシュエアライン。


ほとんど地球の裏側なのに、これで行けば寝ている間につく。

俺は機内食を完食したあと、うすーい毛布に包まって、ふわふわと柔らかい夢の中に入っていった。


目覚めれば菜々子のいるロンドン。ヒースロー空港だ。



この空港からは菜々子の寮まで俺はもう地下鉄もバスも乗り継いで楽勝で行かれるようになっていた。


次に、俺は奇妙な揺れで目を覚ました。

シートベルト着用のランプがついている。

なんだ? もうロンドンか? 


時計を見るとなるほどもうついてもよさそうな時間だった。


んー! よく寝たー。

うーんとこの懐中時計のためにがんばったんだから、菜々子にもうーんとがんばってもらおう! 

なんちゃって俺のいやらしい妄想も実は現実的な問題に叩かれる。


そんな場所、ねえんだよな実際。

所持金が怪しい。

しかも野宿で風呂も入れないかも。


でも、もうこの時計を手にした時から、会いたい気持ちが止まらない! 

そんな俺の浮かれムードを一掃するように、機内がざわつき始める。

起きはじめた乗客が騒ぎ始める。


交わされる英語。何を言ってるんだかわかんねえ。

でも、この飛行機、明らかに旋回している。

俺は窓際だった。


外を見る。薄暗いもやの中で、どうにか空港らしい明かりが見え隠れしている。


なんだ? 降りないの? もしかしてトラブル? 

俺は毛布をたたんでシートベルトと体の間に一応、入れると、じっと外を見つめた。

この霧のせいで降りられないのかな。


窓枠に片肘をついて外を見ていた。次第にイラつきを増したような英語の声が高くなっていく。


みんな説明を求めている。

たまにガタガタ機体が揺れるものの、いますぐどうこうって感じじゃないよな。

たぶん、霧で降りられないんだと思うけど。


そうしてようやくアナウンスが入る。

俺はリスニングのテスト並に耳に全神経を集めて、聞き取ろうとした。いくつか聞き取れる単語がある。



ロンドンヒースローエアポート。チェンジ……。ノッティンガムエアポート……。


げ? げげげ? 


まさかと思うけど、ヒースロー空港じゃなく、そのノッティンガムとかいう空港に向かうのか? 


どこだぁそこは! 

俺ぁ、ヒースロー空港じゃなきゃわかんねえ。


そのノッティンガムとかいう場所がイギリスのどのあたりなのかもわかんねえ! やばい! 大ピンチ! 

九州と北海道くらい離れてたらどうしよう。


ああ、そっかイギリスはそこまででかくないか。

それにしても、ロンドンからかなり離れた場所だったら、俺、金がねえんだけど。


もうこの際考えたって仕方がない。俺は今やれる唯一の事、つまり体力温存のためにさらに眠る事にした。


そして寝ている間に、どうやらノッティンガム空港についてしまったらしい。


飛行機から降ろされ、説明を聞く。

当たり前だけど早すぎてほとんど聞きとれない。

となりにいるじいさんに俺は中学生並の英語で聞いた。


Please speak a little more slowly…….


なんか振り替え便がでてヒースロー空港には行かれるらしい。

だけど予報によると、この霧はいつ晴れるかもわからず、もしかすると明日。

現在、どうするか検討中です。だそうだ。


明日なんて待ってらんない。

どうなるかもわかんないのに悠長に待ってる時間がもったいない。

もう帰りの便もとってある。

早く菜々子のところへ行かなきゃ!


俺は、まだ固まって待っている乗客の群れから抜けて、荷物を背負うと歩き出した。まず本屋だ。

とりあえず、少しだけ金をポンドに換えた。空港は換金手数料が高い。


イギリスの見やすい地図を買ってここがどこなのか把握しなくちゃ。

幸いそれは空港内ですぐに見つかった。

俺は本屋を出るとすぐに地図を開いて確認する。


「なんだ、めっちゃ遠いわけじゃないんだな」


ああ、だけどどうすっかなー。

金を使わないで、どうにか菜々子のところまで行きたい。

菜々子とレンタカーを借りてどこか行きたいから。

その金だけはとっておきたいから。


「やるだけやってみっかなー」


俺は空港の前の道路に進み出た。



*菜々子*1



店から出るともう外は真っ暗だった。

試験が終わって、明日からは創立祭や学会でうちの大学は3日間おやすみだ。


ふー。疲れた。


せっかく留学させてもらっているから、けっこうがんばっているわたし。

イギリス人の友達に誘われてのなんていうか、打ち上げみたいなもの? 

お酒を飲んでおしゃべりをした。


試験で疲れているせいか、お酒のまわりも早い。

わたしはそんなに強いほうじゃないからな。


今日はゆっくり寮……じゃなくて、そうだ、今日からホテルなんだ。

古い寮の配管が壊れて、何人かの部屋を修理することになった。

運の悪いことに、わたしの部屋もそのうちのひとつに入ってる。


「うーん……面倒くさいなあ」


寮に3日ぶんの荷物を取りに行ってこれからホテルに移動しないと。


あーあ。

3日も休みなら、日本だったら、ずっとナツと一緒にいられたかもしれないな。

ナツに何ヶ月会ってないだろう。

わたしが驚かせようと、日本に突然帰った時以来だ。


ああ、会いたいなあ。

ナツに会いたいなあ。


目の前がぐらんぐらん揺れてるのは、景色が揺れてるんじゃなくてやっぱりわたしが揺れてるんだよね。


寮がそろそろ見えてきた頃、わたしは思わず呟いた。


「ナツぅー……」





「なんだよ」



え? 今の日本語? 

すごくナツの声に似ていた。でもこんなとこにナツがいるわけないし……。


そっかわたし、やっぱりすごく酔っ払ってるんだ。

だから幻聴が聞こえるんだね? 

でもどうせなら幻聴じゃなく、幻覚がいいなあ。


「ナツ、出てきてよぉ」

「いるじゃん」

「え?」

「菜々子、何時だと思ってんだ? 女が一人で歩く時間じゃねえだろ」

「え?」


わたしは目の前に立つ人を見て固まった。


「まあ、お前が酔っ払っても、寝ても覚めても俺のことばっか考えてるっていうのは、けっこういい気分だな?」


「これは……夢?」

「そうだよ。菜々子」


わたしは目の前の人の腕にそっと触った。


「会いたかった」


そう言ってその人はわたしを抱きしめる。

最初は柔らかく、それがだんだん強く。

かかとが浮き上がってしまうほど強く抱きしめられる。

こういう力加減の全くなってない抱きしめ方をする人をわたしは一人だけ知っている。


「くるし…………ほん……とに……ナツ?」


開放されたわたしの肺に空気が一気になだれこむ。


「菜々子……」


ねじ込むように唇を重ねられる。

感情が先走ると人の話なんて聞いちゃいない。この自分本位なとことか夢にしちゃ、あまりに実物そっくり。唇を離すとその人は言った。


「寮の門限あんだろ? 明日から休みだったよな? 連れて行きたいとこあんだけど。朝、迎えにくるな」


「ダメだよ。朝なんて。夢が覚めちゃう。今日は寝ないの」

「……そういう大胆なことは寮じゃない場所で言ってほしいよ」


「え?」

「おんなじことベッドの上で言って?」

「はい?」

「おやすみ菜々子。酔っ払って眠いんだろ? 明日、電話するから」


ナツが背中を向けて去っていこうとする。


「ダダダダメっ!!」

『ナツもどき』がしょっているバックパックに手をかける。


「配管が壊れて、わたし、休みの間、寮が手配したホテルに泊まるの。待ってて。今すぐ荷物とってくるっ!」

「ま! マジでっ?」

「うんっ。3分でもどってくるから消えないでよ」


「おおっ!」


わたしは部屋に掛けこんだ。慌てすぎてドアに激突しそうになる。

夢なら激突しても痛くなかったのかな。


わたしはもう用意してあった旅行用の鞄にクローゼットからお気に入りのドレスをとってつめた。

これから3日、たいした予定もなかったから、ろくな服が入っていない。


本当はもっと吟味して靴とか選びたいけど、さっきのまぼろしナツはきっとすぐ消えちゃう。消える前に戻らなくちゃ。


わたしは鞄を持って走った。


「やっぱり……」

玄関の前には誰もいなかった。

風にさわさわと玄関前のイチイの木の葉が揺らされて鳴るだけ。


試験、がんばったご褒美にちょっとだけまぼろしになって会いに来てくれただけ?


「ナツのバカ」


もうちょっとだけ一緒にいてくれてもいいじゃない。

あんなにリアルな幻影を見せておいて、そんなに慌てて消えなくたっていいと思う。


「そういうこと言う悪い子にはたっぷりお仕置きがまってるぞ」


幻聴とともにわたしの身体が温かい温度に包まれる。


「ナツ?」

「今のバカ発言取り消しのために、ナツ大好き大好き大好きって10回言わないと、ここでお仕置きしちゃうもんなー。俺もう待てないもんなー」


そう言って派手にわたしのスカートが後ろからばらっとめくり上げられた。


「暗くってぱんつの色が見えなーい!」

「もうまぼろしになっても恥ずかしい男だなー!」


わたしはスカートを両手で押さえるため、鞄をぼろっと落とした。

振り向くと笑顔のナツがいた。

嬉しくて、ナツの懐に飛び込み、拳で胸をたたきながら、涙がでそうだった。

ああ、これは絶対に夢だね。


ナツの胸に抱え込まれるとかすかに彼がいつも使ってるムスクの石鹸の香りがした。


香水とは違うからこれはこうやって密着しないとわからないの。

わたしだけがだから知ってる香りなの。


ああ、ナツなんだ、夢かもしれないけどまだ覚めてないんだ。

そう思って、安心すると一気に酔いが回る。

夢なら何を要求しても聞いてくれるよね。


アリスが不思議の国に行っていたのが夢だったように、わたしも、ナツという夢の国を訪れたんだね。

ようこそ菜々子ちゃんってナツの国が言ってるの。


「抱っこ!」


「は?」

「ホテルあっち!」


わたしはナツにもたれかかってブレブレの手を振り出すようにまっすぐ伸ばし、寮の玄関から続く道に向けた。


「……歩いてどんくらい?」

「うーん……15分くらい?」

「無理っ。ホテルまでお前の好きな横抱きなんてさすがの俺でも腕がもたねえ」

「夢なのに?」


夢ならなんでもできると思ってナツの目を覗き込み、おねだりスマイルを見せた……つもり。

ナツの喉仏が何かを飲み下すような動きを見せる。

「おら、おぶされ」


ナツはバックパックを下ろし、かわりにわたしを背負った。

手にわたしの荷物と自分の荷物をひとまとめにして持つ。


へへへ。わたしの彼氏は細身なのにバカ力! 


夢を見ているんだから眠っているハズなのに、わたしは眠くて眠くて、『まぼろしナツ』の背にもたれてうとうとした。


揺られながら春の夜風が後方に流れていく気持ちよさを感じていた。

ナツの背にもたれたままホテルに着いた。


「とうちゃーく!」

「とうちゃーく! じゃねえよっ! 重いっ! だけどお前ちっとも体重増えてないだろ? 食ってんのか?」


「ナツを思うと食事も喉をとおらなーい!!」

「楽しそうに言うなっ!」


さすがにフロントをこの格好では通れない。

なくなくナツに降ろしてもらい、大学名と寮名、名前を言ってフロントから鍵を受け取った。


バックパッカーみたいな若者の多い大きいホテルだからナツは旅行者にまぎれて隠れていて、その後、わたしとエレベーターに乗り込むのは簡単だった。

豪華なホテルではないけど、居心地はよさそう。


部屋のドアを開けると清潔で小さな空間に、シングルのベッドがひとつ。


「ほら菜々子、シャワー―……」

「ナツ、入ってきていいよー」


わたしはもう眠くて眠くてほとんどベッドにダイブ状態。

歯磨きしなくちゃ。

メイク落とさなきゃ……ナツが出てきたらシャワー……出てくるのかな。


ここで夢はおしまい?ふわふわしてよくわからない。

久しぶりに見たナツはぜんぜん変わっていなくて、あいかわらずかっこいい……。


「菜々子、菜々子っ」


柔らかくわたしの肩が揺すられる。


「うーん……」

「いいのかシャワー」


まだナツが消えていない。


でもきっとわたしがシャワーに行ってる間に消える気なんだね。


「いいの。もう早くナツと一緒に寝たいのっ」

「……そっか」


ナツはゴソゴソ何かやっているみたい。

無理に瞼を押し上げると着ていたTシャツをわざわざ脱いでベッドに入ってくるところだった。


「菜々子……」

「うーん……ナツ大好き。あ、すごいこのムスクの匂い、ナツのお風呂上りの匂い……大好き……」


香りつきの夢の中。

わたしはナツに抱きついた。

二人で包まった通気性のいいコットンリネンの下で、ナツがわたしの髪を優しくなでる。こめかみにキスする。


大好きなナツの腕の中。わたしは夢の中で夢に落ちていく。


「菜々子?」

「…………」

「菜々子っ!?」

「…………」

「俺と寝るってホントに寝るだけかよ!」


よく意味のわからないことを言ってナツがイラっとした声を出す。

ナツのイラッはたいてい一瞬で直るから別に平気。

気持ちいい腕の中に深くもぐりこんだ。

「このヤロー、勝手にあちこち触るぞ」

「それはダメ」

「そこだけきっちり答えるなっ」


それからナツはわたしを柔らかく両腕で包むように抱いた。

ナツのむき出しの二の腕の筋肉の流れが大好き。

ななめによじれるように走ってる。


それをわたしは指で確かめた。そうそう、こういうカタチ。

やっぱりナツなんだね。


「ううー……やめっ」


何うなってんだろ。

でもナツのこういう色っぽい声も好きかも。


「いたっ」


額に何かが当たる。


薄く目を開けるとナツがほぼ垂直にわたしの額に額をぶつけたみたいだった。


「全くなんの拷問だよ。ここまで苦労して来たのに。起きたら覚悟しとけよ?」

「はー……い!」

「意味もわからず答えんじゃねえ! マジで手加減しねぇぞ」


額に軽い痛みを感じたその場所に今度はやけに熱くて柔らかいものが押し付けられる。


「ナツ……大……好……き」


わたしの意識はそこで途切れた。



*菜々子*2



「痛いなぁ」


久々の二日酔い。わたしは頭を片手で包んで起き上がった。

でもなんだかすごくいい夢を見た気がするの。


アリスになって不思議の国にいった夢。

そこにはどういうわけか、ナツがいて……そっか。

わたしにとっての夢の国はナツのいる場所だから、不思議の国はナツのいる場所で間違いないんだね。


でもアリスの不思議の国が夢だったように、わたしのナツの国も夢だったんだね。


あーあ。朝なんかこなけりゃよかったのに。


…………ところでこの男物の腕は何? 


わたしは自分の手を目の前まで持ち上げた。

その指にたがい違いに組み合わされた男の人らしき指から伸びるたくましい腕に目をやった。


むきだしの腕は部屋の冷房で寒いせいか、肩から先が薄いコットンリネンのシーツで包まれている。


「えっ!!!!!!!!!」


そこでいきなりわたしの思考全開!

わたしはその指を振りほどいてベッドから立ち上がった。

わたしに乱暴に振り払われてもその手の持ち主はぴくりともしない。


ままままさか。

わたし……ナツじゃない人と一夜を……?

自分の格好を見て、少し胸の動悸が収まる。

昨日と全く同じだ。

服、脱いだ形跡ないよね。

でもこの人……。


わたしは恐る恐るコットンリネンのシーツに手を伸ばした。

日焼けした腕。白人じゃない。


まさかまさかまさか……そっとひっぱったシーツから覗いた端整な横顔。


ナツ!


わたし、まだ夢を見てるの?

昨日、なんとなくナツの背に揺られてこのホテルに来たような気がした。

あれは全部、夢なんだと思ってた。っていうかこれがまだ夢の続き? 


ムスクの匂いが微かにした。ナツはちゃんとシャワー浴びたんだ。


それなのにわたしはそのまま寝ちゃったんだ。


恥ずかしい!! ナツが目を覚ます前にシャワー浴びなくちゃ。

たとえ夢だとしても、汗とお酒の匂いの彼女なんて最悪。


わたしは自分の荷物の中から洗面用具一式と着替えをあさる。


「なんだこのドレス?」


荷作りの時入れたおぼえのない、最近買ったお気に入りの一張羅が入っていた。

でもせっかくナツがいるんだからこれを着よう。

どうしてだかわからないけどこれが入っててラッキーだったな。

わたしは下着とドレスと洗面用具を持ってバスルームに向かった。


わたしがバスルームから出て来てもナツはまだ眠っていた。

どういうわけでここにナツがいるのかよく思い出せない。


いきなりイギリスに来た? 

わたしは自分のスマホをチェックした。

連絡入ってたの? 入ってない。 


でもナツに試験のあと、うちの大学が休みになることは言っておいた。

それに合わせて来てくれたの? 

わたしは裸で寝ているナツを見つめた。

あいかわらず綺麗な横顔。


ナツは朝、仰向けで顔だけ横を向けて寝ているか、下向いて枕を抱いて寝ているかどっちかが多い気がする。

「これってよだれのあと? 唇の皮、乾燥して剥がれてるのかな?」


わたしは唇の端の微かに白くなっている部分に手を伸ばした。

その手がいきなりガチっと掴まれる。


「よだれも出るっての。こんないい女が隣で寝てんのに。なんにもできねえとか」


手の動作の素早さとは裏腹の緩慢な言い方でナツがゆっくり目を開く。

やっぱりナツだった。


「ナツ……」

「あいかわらずの小悪魔っぷりだぜ」

「ナツ、どうして?」

「全く……寝れねーっての。この狭いベッドでお前にくっつかれちゃ。何ヶ月俺、禁欲してると思ってんだ?」

「どういうこと?」


ナツはそこでわたしの手を強くひく。


「どうせまたほとんど覚えてねえんだろ? ナツと一緒に寝るのっ! って豪語してたんだからな!」


「あー、でもなんか一緒に寝たみたいだよ?」

「何ヶ月も離れてる恋人同士が一緒に寝るってのはな、こういうこと言うんだよっ」


ナツがわたしを組み敷き、上に乗る。


「ナツ……」


ナツのまだ眠気の残っている熱い手が、起用にわたしの服のボタンをはずしていく。反対の手でわたしの髪を優しくなでる。


唇に音をたてて軽いキスをされる。


「ナツ、ま、……っ」


この事態にまだついていけないわたしは、ナツの手を思わず押さえてそれ以上の行為を阻もうとした。


「焦らすと倍返しになんぞ?」

わたしは何も言わず、自分の手を緩める。倍返しでもいいよ。消えないでくれるなら。

わたしの大好きな、ふわっとセットされたみたいな黒髪。


ワックスをつける前でもけっこうナツの髪はカタチがついている。

それがちょっとだけかかる首筋にわたしは自分の腕を絡めた。


ナツ、髪伸びたね……。





熱風に翻弄される甘い夢。

そうして二人折り重なるように沈み、そのままナツはもう一度眠りについた。


酔っ払っていたわたしと違って、ナツは本当に昨日あんまり寝てないのかもしれない。

日本からイギリスまで来た。

曖昧なわたしの記憶が本当なら、ナツはわたしをここまで背負ってきた。疲れてるんだよね。


わたしはリネンを身体に巻いてベッドの上に起き上がり、静かな寝息をたてているナツを見つめる。

日焼けした男っぽい顔。汗で張り付く前髪をかき寄せた。愛おしいなって思う。


誰かの寝顔に見入って飽きないなんて、恋っておかしな現象だよね。

抱かれる時、あまりの手際のよさに本当は少し哀しくなる。

ナツの過去に嫉妬する。


ナツは二つのことをいとも簡単に同時にこなす。

今は服を着ていなかったけれど、いつも左手でわたしの髪をなでながら、自分のシャツのボタンを右手だけで起用にはずす。


わたしに触れながら、流れの中で自分の用意もすべて難なく片手でこなす。

避妊具の袋を真っ白い犬歯で食いちぎる時のナツのすがめた瞳は、わたしの肌を泡立て、自分を淫らだと思ってしまうほど色っぽいと感じる。


それと同時に嫉妬を覚える。

慣れている。こういうナツを知っているのはわたしだけじゃない……。


もう……こんな嫉妬をナツはしなくてすむんだからね! 

……そりゃわたしもナツの前につき合った人もいたけど。

ナツが初めてではないけど、ほぼ初めてとかわらないくらいしか……。


「んー……っ」


ぐだぐだ忙しくいろんなことを考えながらナツにどのくらい見入っていたのかわからない。

ナツが伸びをするように大きく身をのけぞらせた。


起きそう……。

わたしはあわてて下着をつけ、ドレスも着込んだ。

洗面所に駆け込みバタバタと3分でメイクしてベッドに戻る。


髪、おかしくないかな? ドライヤーでちゃんとは乾かしてないからな。

ああ、こんな、もう両思いになった彼氏の過去なんかに嫉妬してないで、髪もメイクもちゃんと整えてくればよかった。


首を大きくまわしてナツは気だるそうにそのまぶたを開いた。

横になったままベッドに座るわたしのほうに手を伸ばして、髪の先をちゃらちゃらいじる。


「菜々子おはよ。もうだいぶ時間たっちゃった?」

「そうでもないと……思う」


「あれからずっと俺に見とれてたんだろ」

「ちっ!! 違うよっ!!」

「慌てて服着たんだろ? ボタン掛け違ってるぜ?」

「えっ!!」


そこでぎゃははっとナツが笑い出す。

確認するわたしにおどけた口調の優しい言葉。


「嘘だよーん。俺だって昨日の夜は、おあずけくらってずっとお前に見とれてるしかなかったんだからおあいこだろ? 手、ひっぱって。起きるわ」



「もう、自分で起きてよ」


そういいながらも、ちょっと嬉しくて、重いナツの身体を両手で力いっぱいひきあげる。


「早くなんか着てって」


『男性』って名前の芸術作品みたいなんだよナツの裸は。明るいと恥ずかしいんだよ。


「はいはい」


妙に素直な返事。

上半身だけ伸ばしてサイドテーブルの上に置いてあるバックパックから黒いTシャツと上に羽織る前開きシャツを取り出す。


「冷房効きすぎかな? ちょっとこの部屋寒くねえ?」


Tシャツを着たナツは上着にするシャツのボタンの下半分を両手で留めた。


ああいうことする時だけボタンは片手ではずすのか! 

ちゃんとお行儀よく両手が使えるじゃない。


なんだか無性に腹がたってそっぽを向いた。こんな気持ちはナツにはわからない。

わたしはただナツに翻弄されているだけなんだから。


「菜々子? どうした?」

「…………」

「なんだよ。はっきり言えよ」


こんなこと言えるわけないでしょ。

見たこともないナツの過去の恋人に嫉妬しているなんて。


「なんだか現実味がなくて。夢かな、なんて……でもどうして? この間、電話ではまだ当分お金たまらないみたいなこと言ってたじゃない」


「どうしても菜々子に会いたい理由ができた。だから俺、めちゃ金ないよ? 飛行機の格安チケットで来るだけでせいいっぱい」

「え……」


まだぐちゃぐちゃと開いて中身が見えているナツのバックパックを覗く。

大きく開いている上の部分から見えるのは寝袋? 

野宿かなんかするつもりだったの?


「ホテル、とってなかったの?」


「だから金ないんだって。菜々子の寮に泊まるわけにいかないし。菜々子は何日も前から外泊届けださないとダメなんだろ?」

「そうだけど、でも」


そこまでして来てくれたのはどうして?

お風呂とか入らないつもりだったのかな?

かっちり外出ができそうな服装に着替えたナツが荷物までまとめ始める。


「親父が仕事の勉強とか会合なんかでアメリカに行くことが多いんだよ。だから、親父からファーストクラスラウンジの招待券だけはゲットしてきた。空港の飛行機待ちの間にそこでシャワー入れるの」


いつ帰るの? 

そう聞こうとしてやめた。


ホテルもない、シャワーもない、そんな状態でナツが長くこの旅行を計画してきたんじゃないってことがわかる。

帰ってしまうことを考えたくなかった。


「もうさあ、飛行機が霧かなんかでヒースロー空港につかなかったんだよ。ノッティンガムとかいう空港について。マジ、びびった! 金使いたくないのに、そんな菜々子の寮から離れた場所に連れてかれて」


「振り替え便出たでしょうに。それかバスとか」


「だと思うよ? だけど俺のいた時点でまだぜんぜん決まってなかったんだよ。飛行機とかバスとか。悠長に待ってる気分じゃなかった」


「電車できたの?」

「最悪それも仕方ないかな、と思ってたんだけど、すっげえラッキーなことに、ヒッチハイクってヤツに成功したんだよ!」


「ヒッチハイクぅー?」


いまどき、そんなの成功するんだ?


「気分はバックパッカーだな!」

「気分じゃなくてナツのやってることは立派なバックパッカーだよ! ていうかそれをバックパッカーっていうのはバックパッカーに失礼かも」


寝袋にヒッチハイク。もう、悪い人につかまったらどうするんだろう。

危ない。ナツがいくら強くても、相手が人数多かったら、もうアウトじゃない。


「ナツ」

「ん?」

「危ないことしないで。ちゃんと言ってよ。ホテル代もバス代もちゃんと出すから」


「菜々子にそんな心配かけたくないの。お前だって金はぎりぎりだろ? ちょっと今回だけ特別。じゃなきゃ、ちゃんと計画立てる」


「誰に乗せてもらったの? そんなすぐ停まってくれたんだ? 車。危ないじゃない。お金とかバックパッカーから取っちゃう人だっているんだよ? 大人数だったら……」


「キレイなお姉さんだったよ」


「え……」


それはそれですごく微妙なんだけど。

キレイなお姉さんが一人でバックパッカーなんか乗せる?


そこでナツはにやっと笑った。

わたしがきっとすごく不審そうな顔をしたんだ。


「もしかして妬いた?」

「……あやしい!」

「だよな。口説かれたよ。あたしんちに来てシャワー使っていいとか」


「そんな英語、ナツわかったの?」

「それくらいはわかるよ。向こうだってめっちゃゆっくりわかりやすく喋ってるもん」


「…………」


ナツはわたしの頭を引き寄せて自分の肩に押し付ける。


「行くわけないだろ? 俺はもうお前じゃなきゃなんも感じねえの!」


でも心配だよナツ。

ナツは大学でわたしが最初、逆ナンみたいなことして『つき合って』って言った時だってぜんぜん驚かなかった。

ナツにとって、そんなの珍しいことじゃないんだ。


「まあ、まさかそんなこと言ってくるとは思わなかったからお願いしたんだけど、その車でよかった。すんげえいいとこ連れてってもらったの! これからレンタカー借りてそこに行こう。絶対菜々子好きだから」


「えっ?」

「ほら早くっ。俺あんま時間ねえんだよ」

「…………」


やっぱり時間がないんだね。

一応寝袋まで入っている大きいバックパックをここに置いて、小さい鞄を背負うナツだ。

ここに戻ってくるんだ。まだ消えないんだ。


戸口に向かうナツはわたしを振り返り、手首を突き出すようにして上に向けた。


「ほら菜々子」


豆だらけの無骨なてのひらを見ながら、たくましくなったな、と思う。

出会った頃のチャラチャラしたかっこいい男の子。

その面影はしっかりそのまま、さりげなく風格だけがそなわった。


安アパートでの一人暮らし。自分でお金を稼ぐこと。

格安チケットをとって一人でイギリスまで来るのなんてなんとも思っていない。


飛行機が予定と違う場所についても冷静に対処して、強引すぎる彼らしいやり方でアクシデントは切り抜ける。


英語なんてほとんど喋れないこと、自分でわかってないんじゃないかと思うよ。

ナツはわたしに追いつくって自分で言うけど、わたしにしてみたら、もう追い抜かれているような気がする。

わたしはナツさえいれば、きっとどんな秘境に連れて行かれてもこわくない。


「ほら急ぐぞ」


差し出した手を掴め、と少し動かして促す彼のその潮焼けした笑顔。

ぎゅうぅんって胸が痛む。その痛みが今は幸せ。

今は誇らしい。


「うんっ」


電車の中で初めて見たまだ高校生のナツ。今から思えばほとんど一目ぼれに近かったのかもしれない。

有名中学からエスカレーターでうちの大学に入った医者の息子。


ただのお坊ちゃんにしか見えなかったナツが、こんなにしっかりした子だったなんて。


わたしはナツの手のひらを飛びつくようにして握った。

指を絡めてナツはわたしの手をしっかり握る。

この強すぎる握力にもだいぶ慣れてきた。


進化し続ける男は、わたしの中でもまるで細胞分裂でもするように増殖していく。

ナツの色に染め抜かれてもいいなんて思うけど、きっとそれを彼は望んでいない。


わたしはわたしでしっかりここでがんばらなくちゃ。

でも今だけ、もう少しだけ消えないで。

わたしにあなたのいる、鮮やかに色のついた世界をもう少し見せてください。


ナツは地図で確かめながら、レンタカー屋で車を借りた。


「悪いな。一番ランクの低いヤツで」

「いいよ。そんなの! どこ行くの? 公共機関使ってもいいのに」

「このために金残しておきたかったんだよ。せっかくなんだから菜々子とふたりっきりがいいもん」


そんなナツの言葉に口元がだらしなく緩む。


「それにナビついてるからこっちのほうが迷わない。えっとー……」


「どこに行ったのナツ? その人の誘い、ことわってからも、わたしの寮まで連れてきてもらったの?」


「さすがにそれは気まずくて無理だった。でもだいぶ、ロンドンの近くまで来てて、もう1台、市内に入る車が捕まったの。道路で指立てててもなかなかつかまんないな、と思ってでかい公園に行ってロンドンナンバーの車の運転手に片っ端から交渉した! 次、乗せてくれたのはおじさんだったから、問題なかったよ」


逞しいなナツ。英語でナビを入れる精悍な横顔。

筋ばっていても、長くてどこか繊細な指先。

「あれー。このスペルじゃねーのかなあ?」

「ねえナツ、わたし入れるよ。どこ?」

「いいの! まあもしかしてお前好きそうだから行ったことあるかもしんないけど……おっヒット!!」


「ケニルワース城。行ったことないよ。でも行きたいとは思ってた」

「すっげえ綺麗だった」


途中、車をいろんなところで止めて、わたしとナツは歩いた。

露天のアイスクリームを一緒に食べ、たまたま見つけた蚤の市をひやかす。


「おーっ。かっこいい! 本革でこんなに安いの、日本でないよな」


ナツは細いレザーを何本か編みこんでポイントにスカルモチーフの金属を使った黒いコードブレスを持ち上げた。


いかにもナツが好きそうなデザインだ。


確かにこれで日本円で1000円しないのは安いかもしれない。

でもナツはそれをもとのとおりに台に降ろした。


「買わないの?」

「金が危うい」


出会った頃の2度目のデート、ナツは平然と1万円以上する似たようなブレスを買っていた。

それが今では1000円もしないブレスを『金がない』とあきらめる。


……わたしだけのせいではないんだと思う。

ヨットも始めたからそれでお金がかかる。でも、わたしに、会いに来ることはやめない。

お金がギリギリでもヒッチハイクしてでも会いに来てくれる。


そのブレスを見ながらわたしは胸が熱くなった。


「わたしが買う」

「いいよ菜々子。俺、似たのいくつか持ってるし」

「ナツ、わたしにこのネックレス買ってくれたでしょ? だからお返し」


そう言って、わたしは首元に下がる、以前ナツが買ってくれたアリスのハートをモチーフにしてるネックレスを触った。10万以上したはずの。


「そっか。ありがと」


ナツがにこっと笑う。

わたしはナツがさっき持ち上げたブレスとその隣にあった全く同じデザインで色が赤、っていうのも一緒に手に取った。


「おそろいで買ってもいい?」


今度はにこっではなくナツはにやっと笑った。


「可愛いこというじゃんっ!」


頭を強引に肩に引き寄せられる。

わたしは交渉してちょっと負けてもらい、2つぶんのブレスのお金を払った。

お互いの手首に付け合う。


これは自分で留め金を止めるのはけっこう手間取るから。

ナツは左手。わたしは右手。手をつなぐと同じデザインのブレスが2つならぶ。


ナツはその後もふざけて、わたしに16世紀の貴族の帽子をかぶせて『微妙~』と笑う。


心臓が甘くずきゅんってする。本当に射抜かれているみたいだ。

ナツの笑顔に夢なら覚めないで……と繰り返し願う。


この時間がどこかでナイフを使ったようにスパッと切断されるかと思うと胸が切なさに悲鳴をあげる。


アンティークのおみやげ用の帽子を売るおじさんの顔が怖い。


「ナツ……日本と違うからあんまり商品に触っちゃダメなんだよ!」

「そうなの?」


おじさんが英語で軽く怒り口調で買ってくれと、交渉してくる。


でも高い。しかも使い道ないよ。

わたしがお金を払おうとすると、ナツが帽子をそっともどし、『そーりー』とおじさんに言った。


それからわたしの手を掴むとすごい勢いで走り出す。

わたしだってそんなに足は遅いほうじゃないけど、ナツの足の速さにはついていけない。

異国の市場。人ごみをぬう様に走るナツとわたし。全く現実味がなかった。

市場の果てのほう、駐車場の近くの通路まで走るとナツはようやく立ち止まった。

「ちょっと汗かくときついかも」


わたしはブレスを持ち上げていった。

そのブレスは留め具の部分に遊びがある。

片側が鎖状になってて、どこに留め金を入れるかでゆるくなったりきつくなったりする。


「やり直してやる」


ナツは一度そのブレスをはずし、もう一度、調整してから、はめなおした。

そして身をかがめ連結部分にキスをした。


「……菜々子、めちゃくちゃ可愛い……」


そのまま往来の真ん中で抱きしめられる。唇が重ねられる。市場の喧騒。

子供の走り回る靴音。物売りとお客の交渉。


もう何も気にならない。



日本であれば、いくら市場の中の細い道とはいえ、こんな往来の真ん中で抱き合ってキスをするなんてありえなかった。

いくらふざけるのが好きなナツでもそれはしたことがない。


異国の、それもわたしの生活圏からだいぶ離れた場所だからか、幸福度ばかりがやたらと高くて現実味が全くなく、本当に夢の中みたい。


ナツといるとわたしの思考は麻痺する。

心臓は2倍の速さで動き出す。

ナツも。

わたしに対して、そうでありますように。

重ねた唇が震える。残された時間に怯えるように。


わたしとナツの目の前には12世紀の初頭に建てられたケニルワース城。

確か17世紀の内乱で城は破壊されたんだ。


今残っているのは立方体の茶色い煉瓦を積み上げて造った方形の天守閣と巨大な城壁だけ。

平日のせいか、城壁の敷地内に入っているのかここに人はいなかった。

昔はこの城の西と南に湖があったらしい。

でも今は綺麗に刈り込まれた芝と、その周りは牧草地になっている。


「ここから見る風景がなんか好き」


ナツは城壁の前の牧草の中に寝転んだ。


膝まで届くかどうかの雑草が青々と茂っていて、名前も知らない黄色い花がそこかしこに咲き誇っていた。

そんなのどかな風景がどこまでも続いている。


城壁の中には今なお美しい廃墟が残っている。

生涯独身を貫き、『イングランドと結婚した女王』と言われたエリザベス1世が恋をした場所だ。


数奇な運命に導かれるように女王になったエリザベスはイングランドを黄金時代に導き、今のイギリスのいしずえを作った。




そしてこの城の主はレスター伯ロバート・ダドリー卿。



エリザベスとは幼なじみだったはずだ。


生涯にわたりエリザベスの臣下として影で彼女を支えた人。

鉄壁の女王も恋をする。


自分が贈ったこの城で、結婚することはできないレスター卿と何を思ってこの風景を見たんだろう。

レスター伯は、自分の生涯の忠誠はあなたにあったと、病の床からエリザベスに手紙を送っている。


そしてエリザベスはその手紙の裏に書き付けた。


『彼からの最後の手紙』


この世で結ばれることのなかった2人が天使になって、今この頭上でわたしとナツを見つめ、微笑んでいるような錯覚に陥る。


『あらあら今の恋人たちはいいわね』ってレスター伯に甘えながら寄り添うエリザベス。


そうだったらいいのにな。

澄み渡り、優しい風の吹き抜ける青い青い空。

わたしの恋人は新緑も美しい牧草の上に寝転んでその空を見上げている。


「眠いのナツ?」


わたしもその横に寝転んだ。


「眠いのはお前だろ? さっき市場出て食事してから食ったケーキ、めっちゃ酒入ってたじゃん。車運転する俺は食っちゃヤバいんじゃねーのってくらい入ってたもん」


「うん。めっちゃ入ってた!」

「目がとろんってしてる菜々子。お前、酒飲んでも顔色かわんねえけど、顔つきは変わる。こっちの男の前であんま飲むなよ。強くないんだから」


「やだなあ。恥ずかしい」

「色っぺえの。襲いたくなるくらい」


そう言ってナツはわたしの右手を握った。

2人の手首にはまった黒のコードブレスと赤のコードブレスが触れる。


「手錠みたい」


それを見てわたしはつい思った言葉が口をついて出た。

くすっと笑うナツ。


「逮捕されたのはどっちだ?」

「ナツ。だってこれはわたしが買ったブレスだから」


そこでナツは挑戦的な表情で片側の口角を持ち上げる。


「へえ? 俺は捕まったのか? 望むところだ。絶対解くなよこの手錠。大学卒業したら今度は俺が逮捕する。こうやって!」

ナツは一度手を離し、自分の薬指をわたしの薬指に巻きつけた。


澄んだ空が青くて高い。ひばりが鳴いている。

目の前には800年も前の建物とどこまでも続く美しい緑の牧草地。


隣にはわたしが恋焦がれる19の男。

ナツは日差しがまぶしいのか目の上に右手をもっていってそれを遮っている。


いくら膝丈程度の草とはいえ、寝転んだわたしたちは、他の人からは見えにくいだろうな。


他の人っていないけど。平日。

観光シーズンでもないここはかなり静かだ。あの日を思いだす。

抗っても抗っても強い磁力でわたしをひきつけたナツ。

好きだと自覚し、でもこの人に抱かれたらわたしはすぐ飽きられると思っていた。

ロンドン留学も現実的になっていた頃だった。

そんな日々、二人っきりになる機会が訪れた。


夏合宿でナツが一人遅れてやってきたんだ。


早朝、2人でテニスをし、その後、テニスコートのそばのクローバーの敷き詰められた空き地で2人寝転んだ。

甘くて辛い時間だった。あの日と同じ甘くて哀しい時間だ。


もうすぐナツはわたしの前から去っていく。


「ナツ……」


つながれた手から力が少し抜けているような気がした。

わたしは起き上がった。


「ナツ……?」


ナツの呼吸が規則正しくて、返事はない。


「寝ちゃったの?」


寝ちゃったみたい。気持ちいいもんね。

牧草をなでて吹き渡る風の感触が心地いい。眠くもなるよね。

運転したり走ったり。

昨日はほとんど寝てないって言ってたし。


きっとアリスとお姉さんが川の堤にいた日もこんな眠くなる日だったんだろうな。お姉さんは難しい本を読んでいて、アリスはすることがなかった。


今のわたしみたいに。ナツは眠ってしまい、喋ることもない。

わたしはちゃんと上半身を起こした。





 !!!!!!!!


その時!!


わたしは見た。確かに見た。

チョッキを着た白いウサギが懐中時計で時間を確かめているのを。


後ろ足二本で立っている!!

アリスのウサギ? 


え? 嘘!


ウサギは二本足でわたしの前を通り過ぎた。


「ああたいへんだ! たいへんだ! おくれてしまうぞ」


喋っている。


『不思議の国のアリス』のセリフそのまんまだ。

ウサギは牧草地を走り抜けていった。


「待って……」


どうしよう。

隣を見るとナツはまだ気持ちよさそうに寝ている。

寝ている場合じゃないってば!!


「ナツナツ起きて。大変なの。ウサギが……」

「…………」


起きない。でも一緒に行きたい。ナツと一緒に行きたい。不思議の国へ。


「ナツ、行くよ。不思議の国へ一緒に行くの!! 起きてよっ!!」


どんなに揺さぶってもナツは起きなかった。どうしよう。

わたしはウサギのほうを見ながら両手でナツの胴体を、それこそ丸太みたいにごろんごろん転がした。


どうしてここまでされてこの男は起きないんだっ!!

ウサギはどんどん遠ざかっていく。


「ねえナツっ!! ナツと一緒に行きたいんだってばぁ!! 起きてよぉ!! 一緒に行きたいのっ!!」


ウサギが見えなくなりそうだった。

仕方なくわたしはナツを残して立ち上がり、ウサギのあとを追いかけた。

あんなに遠くにいたウサギに難なく追いつく。

ウサギは垣根の下の大きな穴にぴょんっと飛び込んだ。


えー? 

こんなとこにこんな垣根、あったっけ?

いやこれは夢なんだ。

ナツがこのイギリスに現れたところからが長くて素敵な夢なんだ。


だったら!!

えいっ!! 


わたしは思い切ってウサギが飛び降りた穴に飛び込んだ。

たしかここは落ちても落ちても底のない長いトンネルのはずだ。


がんっ!!いたっ!! 痛いー!! 

長いトンネルじゃなかったの?棚には確かマーマレードとか

本棚とかあるはず。


それにアリスは地球の中心にきてると思うくらい落ちたはずなのに、底についた時、痛いとか言ってなかったような。

でも痛いんだけど。



「あれ?」


見たことがあるようなないような天井が見える。

わたしのすぐ隣にはシングルのベッドがひとつ。

それ以外には造り付けのクローゼットと小さな机。ホテルだ。


「ナツ?」


返事がなかった。


あれれ? わたしナツに連れられてケニルワース城にいたはずだよね?


「ナツっ!!」


どうやらわたしはホテルの床に寝てたみたいだ。

ベッドから落ちたんだ。

だよね。シングルのこのベッドでナツと2人じゃ狭い。

いつケニルワースから帰ってきたんだろう?


「ねえナツってばあ!!」


わたしはベッドの上を覗いた。







誰もいなかった。



「夢……さめちゃったんだ」


ナツがわたしに会いに来たことも。このベッドでナツに抱かれたことも。

2人で蚤の市を冷やかしたことも。ケニルワース城に連れて行ってもらえたことも、全部夢? 


アリスの不思議の国が全部夢で、アリスは目覚めたとき、お姉さんの膝の上にいた。

なんて不思議な夢だったのだろう、とアリスは思ったんだよね。


でもわたしは。


「なんて素敵な夢だったんだろう」


そこでわたしは自分の手首に、夢に出てきたものがはまっているのに気がついた。ナツとおそろいで買ったコードブレス。


「え? どうして?」


小さく呟いて力なく持ち上げた右手から、何かがカシャンと滑り落ちた。

懐中時計だった。アリスの挿絵に出てくるような古い懐中時計だった。


え?え? どういうこと? 

わけがわからないまま、左手にも違和感を感じ、手をひらいてみる。

アリスのモチーフだろうか? 


クラシックな銀の鍵だった。

アリスが不思議の庭に出て行く時に使った鍵、みたいなデザインのキーホルダー。


どういうこと? 

わたしはやっぱり不思議の国に行ったの?

これはそのおみやげ? ナツと一緒に行きたかったのに、ナツは起きてくれなかった。

違う――!!!! 


もう顔から火が吹きそうなライン送ってこないでほしいよ。

絶対ナツだってそっちの意味の『イ○』じゃないってわかってたはずだよ。

もうエロはどっちよ!! 

すぐそういう方向に思考がいくんだから!!


わたしはそれでも心がこれ以上ないほど優しく満たされていることを知った。

ありがとうナツ。

短い時間にわたしにこの懐中時計と鍵を届ける目的でここまで来てくれたんだね。


試験前だっていうのに。

お金も時間も無理無理で。

抱かれる時、慣れているナツの過去に嫉妬した。

でも、わたしは確かに今、あなたにこんなにも愛されている。


わたしは懐中時計と鍵を胸に深く抱きしめた。


サイドテーブルのスマホの横にもうひとつナツが置いていったものがある。

それはわたしがいつも大好き、って言っているムスクの香りのするナツの愛用の固形ボディソープだった。

手に取ると、かすかにナツに似た匂いがする。


でもやっぱりどこか違う。

似ているけど違うんだ。

わたしが知っているのは、このボディソープを使ったあとのナツの匂いだから。


ナツに抱きしめられた時だけに感じる微かな香り。

でもこのボディソープもわたしが寂しくないようにっていう、ナツの愛情だ。

次に会う時まで、わたしが大事に取っておく。

もう高いボディソープが買えなくなったと前に電話で言っていたから。

わたしはあなたに、不思議の国に迷い込んだアリスのように翻弄される。


でも、アリスが不思議の国を怖がることなく自分の足で歩いたように、わたしも、ナツという素敵な国を歩いていくよ。


ナツ、大好き。

また会える日まで。お互いの場所でがんばろうね。


わたしはナツにラインを送った。


『ありがとうナツ! 次はカーディフ城に”一緒にイキたいな!”』





「これは夢?」




「そうだよ。菜々子」



~Fin~







































































































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citrus age 番外編 2 菜の夏 @ayu

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