未定

@0rihara5050

第1話

 1

 人の組成を入れ換えることは容易く、見てくれは変わるが思うことは保てるのだから、人を人のまま、永年に渡り永らえさせることができるだろうと春は密かに企むのだった。


 意識のあるままの人を銅像にしておくこともできようし、樹木の並びに意識ある人を住まわせておくこともできる。


 そういった想像は春に興奮をもたらすようなものではなかったが、一種の美的な感覚に触れるような気配があった。


 何より安らぎに近い感覚があった。


 2

 捨て子の春は、母の産道をくぐった記憶から明晰に持ち合わせているが、その記憶が現代とは隔たりがあることを知っている。


 春は二度産声を上げた記憶があり、母の腿の記憶も二対ある。一対は白くふくよかな腿で、もう一対は細く浅黒い腿だった。


 見るに今の母の腿は細く、薄汚いとは思っても言わないが、おそらく拭っても拭っても浅黒い。


 選べるのであればもう一対の、白い腿を持つ母の元に育ちたいものだと春はいつも思っていた。私は捨てられたのだし、時代が異なるのだから、今更幻想の母を求めても詮無いことだと思いつつ、記憶の齟齬に心細くなった。


 私を捨てたのは足が白い母だろうか。


 ならば今の母は私を拾ってくれた母か。


 いやしかし、と春は思う。


 それならば私が潜在的に持つ白い腿の母に対するこの親しみは説明がつかないような気がするし、第一、色々なことが分かるにつけ、白い腿を持つ母がいたあの時代。あれは今よりずっと時間が進んだ世界だと思う。


 母の腿だけでなく、家屋も、着物も、そして言葉も、今より清潔で、簡潔である。


 一方で、今の母の股の間から生じたという感覚も持ち合わせているのが春の心細さの大きな要因だった。私は今ここにいる肌の浅黒い母から生まれた。捨てられてこの母に拾われたのではなく、正真正銘この母から生まれた、という感覚と記憶がある。


 先の時代から前の時代に生まれなおしたという点も不可解だが、なにより心細いのは、なぜ自分は捨て子であるという「自負」を、今この時代、こんなに強く持ち合わせているのだろう。


自負。自負か。と春は思わず自分で選んだ言葉に可笑しみを感じた。


 捨て子であるという認識は春にとり、既に自己を形成する拠り所でもあった。捨て子でないのであれば、深く考えたくもないが、捨て子でないのであれば、生まれたときからずっとある記憶の齟齬に齟齬が生じそうな気がして、春は怖かった。



 3

 村で春は通常の子であり、とある女から生まれた普通の子で、頭の中で自意識と記憶の齟齬が生じているなど誰も知らなかった。


 私は誰にも同情されないし、憐れまない。春は自分が捨て子なのに、誰も自分に同情しないし憐れまない不思議を抱きながら、いつまでも統合されない自我と、噛み合わない会話に耐えながら、今を生きなければならないというそんな成り行きに、暗澹たる気持ちをいつも、漠然と、感じていた。



 4

 春は五つの頃からいつも小さく絶望しており、実の母を見下し、父の顔も名前も知らず、生きる喜びを知らないままにいつも夜が明ける前に目を覚まし、もうとっくに知っているような言葉の数々を、貧相な新聞記事などに目を通し知った。


 小さな絶望を抱えた春にとり村や近隣で起こる事件は絶望に輪をかけて春の首を絞める、ささくれだったぼろ綱のように見えたが、一方で文字に触れている間は腿の白い母のことを思いだせるようで止められず、彼女には、何か重要なことを教わったような気がしたまま七つになった年、急に母が唱えていた「呪い」を思いだした。


「いんのこ、いんのこ」


 と唱え彼の額を撫で、慈しみ深く温かいその手の力は、未だ彼の皮膚に残っているようで、七つになった日以降、その記憶だけで怖いものはなかった。足の細い母も怖くないし、顔の知らない父も怖くない。


 元より怖がってなどいない、と彼は思う。この恐れとは、親を退けたいと考えてしまう欲望に対する恐れであり、続々と思い出される呪詛が母の顔を見るたび頭に浮かんでしまう、湧き出るような恨みの気持ちに対するものである。


 この母は自分を捨てていない、と肌の浅黒い母を見て彼は思う。理性で捉えれば、この母は私を大事に育ててくれている。貧しいながら、私を力強く育てようとしてくれている。そう思いつつ、捨てられた恨みを抱かずにはおられない。


 恨みの感情が湧き上がる己が恐ろしく、殺気立つのが分かるが、その心を慰めてくれるのは腿の白い母だった。


 彼は自分の額を撫で、こんなにも温かな心強い呪符を私の額に埋め込んでくれたのに、こんなにも強い母性を感じるのに、むしろそれがふいごのように恨みの炎を煽り、逆立ち渦巻く呪いとなって喉元を激しく焼いていく。



 5

 思いだすものの中には形もあった。文字にも見えるが、文字を崩したような、引き延ばしたような記号に見え、思いだせるだけ、貴重と言われるにも関わらず紙に書いて表すことに余念がなかった。


 ある日正しく描けたという確信があり、確信が芽生えると怖気が走り、慌てて水に浸した。ふやけたらすぐ千々に破いて、薪と一緒に火にくべた。


 春はその日から、思いだした記号を土に描くことに決め、幾通りかあるそれを確信が持てるまで描き何かがかちりと合わさったような感覚を覚えると、その感覚が損なわれないよう繰り返し描き、大きさを変え線の太さを変え、何度も何度も、土地に刻んだ。



 6

 呪符もしくは霊符と呼ぶことを彼は後に思い出し、次第に何に書けば効くか、どのように書くべきかも思いだした。


 上等な紙はないから仕方なくあるもので済ませたが、効果を比べることは忘れなかった。何に書けば効くか、何で書けば効くか、誰にも悟られないうちに試し、どの霊符がどんな力をもたらすか、彼は具(つぶさ)に観察した。


 それは思わしくないものを退けることができた。できたが、主観の入り込む余地がない点が彼の不満だった。


 母を退けようとしても効かない。母は一般に悪ではなく、思わしくない存在でもないのだから、いくら足が細く貧相で、肌が病的に浅黒くても母が彼の元から去ることはなかった。


 母は呪術者(春)の生命を脅かすものではないし、彼に害なす行動など一度もしていないのだから、呪符の判断は正しいと春にも分かるのだが、自分が書いた呪符に諫められているようで不満だった。


 退けられるのはどうやら、病魔、鬼、盗人の類いで、そもそもこの設定を誰が施したのか、分からないままに不満と疑問を持ち続け、研究を繰り返したのは、到達点を知っていたからだった。


 春の主観だけで思わしくないと思うものを退けることはできないが、望ましくないとされているものを呼び込む呪符は創造できる。そんな確信を持っていた春は、呪符を何度も書きなおし、転換点を探り、逆の作用を持つそれを、我が家の土間の隅に小さく書いた。


 父親が来た。巨大な顔に、越えた腹を持つ普段家に寄り憑かない男だが、足は母と並ぶほど細い。初めて見た。どこに行っていたのだ。死に別れたのかと思っていた。この男とこの女から私は生まれたのか、と思うと恨みはいや増した。父は母を嬲り犯した。息子の前だというのに構わず着物を剥いで、いちもつを突き入れ、激しく痛がり抗うのに腹を立てて殺した。


 春は自分の招いたことだが、望んだ結果ではないと思った。実際あとに父が残ってしまった。母は病死が相応しいと思っていた。母が父に襲われているとき、今までにない怒りにかられ、戸にかける突っ張り棒で男の背を強かに打った。自分が何故そうしているのか分からなかった。心のどこかで、土間の隅に貼った呪符をはがせば良いと分かっていたのに、そうしなかった。父を叩きながら、母に情が無いわけではなかったのか、と意外に思う自分を他人事のように眺める目があった。自分の後頭部の辺りから自分を見ている目が全てを冷静に眺め、またこいつが記憶を残すのだ、と父を叩く春は思った。



 7

 母の死を一人に数えるならば、春は十までに村の人間を三人殺した。


 極貧の老夫婦のところへ強盗が入った。強盗は袋いっぱいに何かを詰めて逃げ、中の老夫婦は殺されていた。鮮やかな手並みに見えたが、もしかしたら二人は抵抗しなかったかもしれない。


 あの二人は今の生活から解放されたかったのだ、と春は理解した。


 土間の呪符はとうに剥がして、父はまたどこかへ消えていた。


 簡単に物事を操ることができると思った春は、呪符の力、引いては腿が白い母が残してくれた愛情を心強く思い、その意思を感じた。呪符を使いこの貧相で小汚い村を管理することが腿の白い母に対する貢献なのだと信じた。


 仄暗い、いびつな貢献感につつまれ、春は自ら霊力を込めた呪符の効果に満足したが、その後は村全体を巻き込むような巨大な呪符を土地に刻み込むため、個人を攻撃することに興味を失っていった。



 8

 澱粉工場が村に二件あった。ほかに下駄屋、魚屋、肉屋、麹屋、造花屋、酒屋、鍛冶屋、呉服屋。


 いずれの品にも技術にも春は驚いた。


 村の外れにある澱粉工場以外は、店と呼ぶには憚られる小ぢんまりとした小屋のようなものでしかなかったが、いつも心のこもった品物があり、求めれば応え、いつも働いている村人に尊敬のような気持ちも持っていた。


 春は村にも村人にも興味が無かった。


 村に暮らす自分にも興味が無かったが、村を取り囲む自然にも村人の営みにも尊敬があった。村のためにできることは無いかと心の内で彷徨う自分の魂を観じつつも、人に抱く憎しみ、恨みは抑えようもなかった。


 二度生まれ、二つの相反する魂を併せ持つようで、これをどこかで、何かで、何とか結び付けなければ整合性の取れないという焦りのようなものもあり、間違った方法で村人や父親を殺してしまう可能性があった。


 興味がなければ恨みもないはずだろう。春は自問した。確かにそうだ。村の人間に恨みなどない。恨みはきっと、頭上よりももっと高いところにある、と春は思った。宙に浮いている恨みや憎しみの感情を、頭の天辺の河童の皿のようなもので受け止めるような仕組みになっているのだろう。


 母の、今や母と父の細い脚が手のように機敏に動き、恨み汁を満たした如雨露(じょうろ)が頭の上で傾けられるところが想像できる。


 そういうものを両親から絶えず注がれているから、私はこんなに尊敬しながら、恨むことができるのだ。


 10

 呪術の作用を反転させた経験を応用し、春はほとんど全ての呪術を再現することができた。再現と言えど、そのほとんどは体感的には閃きだった。


 白い腿の母の声がたまに春の耳元でささやく呪詛が、彼の創造を促した。


 閃きの感覚に突き動かされて呪術を研究したけれど、これに関して春は謙虚に、先人が練り上げたものをお借りし、再現し、少しだけ改造している、という感覚だった。


 研究は、再現できるという確信を得られたら、あとは合致の音がするまでひたすら試し続けるだけで良かった。そのときは遅かれ早かれやってくる。次第に合致の音を聞くまでの時間も短くなっている感覚があった。


 人の寿命を永らえさせるあの秘術は高等過ぎて春には扱えないことが分かっていた。そもそも一人の術者だけでできることでもなかった。例えばかつていたという大陰陽師などであればできるのかもしれないが、少なくとも春には人の命を縮めることはできても延ばすことはできない。


 そこまで彼は知覚しており、自分が扱っている呪符の来歴、母が自分の額に残した力の来歴を理解し始めていた。


 このときには己の力量の不足も感じていたが、苦しいわけではなかった。命を永らえさせる必要を感じないのだから、極みへと達する必要などないと思っていた。


 しかし同時に、彼らを留めておきたい、という欲求が彼の腹の底を叩いていることも感じていた。彼らを喜ばせ、彼らに賞賛されたい、という気持ちが湧いてくるのも確かだった。彼らというのはもちろん村人で、彼らは尊敬に値する人々であり、恨みの対象でもあった。村人だからではない。自分の目の前にいるから恨みの対象だった。


 村人の誰かが病で苦しんでいるとき、彼が呪符をそっと枕元に置けば、数時間とかからずに良くなった。タダで済むと思うな、と言うと、それまで満面だった病人の家族の顔はこわばり、決まって両手で春の手を掴もうとする。その仕草が彼は許せず、呪符をはがせば彼らは井戸に金でも放られたように呪符へ頭から飛び込み、床に沈み込むような格好で絶望の声を上げる。


 非常に不快なことだが、春の魔を退ける呪符の効果は不可逆であり、全快したらはがしてもまた病むということはなかった。


 村人は憎たらしいが可愛らしくもあり、かと言って懐くと鬱陶しい。



 11

 何をするにも試験でしかなかったが、結果に情動がついてくるのが問題だった。


 すがる村人の手が音を立て、すべてが噛み合ったとき閃く脳、染み渡る脳髄の清冽さに涙が出そうになった。彼らの体組織を換えてしまえば、と声に出して、ふいに、その場には絶対に誰もいないのに、誰かに、それは村人などではなく、例えば記憶の中の母に聞かれては困ると思って口を噤んだ。


 突飛な発想に思えた。思えたが、これもやはり、先人の誰かが既に発明していることのようにも思えた。加えて春にはずっと先の、腿が白い母の時代に備えた記憶も眠っているようだった。人の体には、水も金属も備わっているのだ、と春は、おそるおそる、本当は母に聞いてほしいみたいにこれみよがしに、声を出した。


 12

 何度も呪符の試験がされた。


「悪いものを退けるか」、「悪いものを呼び込むか」の二元論で春は呪符を理解していたが、考えてみれば良し悪しを呪符が正確に判断する理由はない。記憶を呼び起こそうとすればするほど、「正義」が揺らぐ瞬間というものは人の世にごまんとある。呪符は人の世の流れに従って倫理観を改めるか?


 呪符の効果に良し悪しを定めるのは、あくまであたりまえの人倫を把握している春の恣意的な観測によるところが大きい。


 呪符が行っているのはもっと複雑な経過を辿って行われる「否定」であり、もっと言えば「事実の組み換え」なのではないか。


 これを頼りに小さなものから大きなもの、物質から出来事までを対象に、様々な試験をした。モノの組成を換えることは比較的容易く、それまで悪いものを退けて来たり、悪いものを呼び込んだりして来たのにも関わらず、こちらはうまく要領が掴めないような感覚に陥った。


 単に魔を退けたり魔を呼び込んだりすると理解していた方がある種の呪符は扱い易いと春は実感したが、このときに脳の中に起こっている変化もまた、組成の組み換えが起きた故だと思えばまた何かを掴んだ気がした。



 13

 数か月の研究の末、家畜の身体を樹木化することは比較的容易にできるようになった。


 この頃には、腿の白い母の中に陰陽道の知識があるという予測に至っていた。母が私に与えた力はおそらく自然を理解し組み替える能力で、それはかねてから陰陽師と呼ばれる連中が扱っていた諸能力と接近する概念だろうと思えた。


 母はそれこそ春の額にそれを埋め込む際に少し組成を入れ換えて備えたのだろうが、今のところその真意は分からない。分からないがこれは母が望んだ道を歩んでいるのだ、という実感があった。


 人の身体は尋常ではない速度で樹木化した。老人の方が変化は遅いが苦痛も少なく、心理的な抵抗も少ないようだった。若い人間は泣きわめき、誰彼かまわず抱き着いて、それが恋人同士だとしたら相手は受け入れ、樹木化した腕が身体を離せず巻き込んで、絞め殺す場面もあった。


 村の女を巻き込んだ貧弱な一本の樹木は、かつての恋人を自分の腕で絞め殺す感触に顔をゆがめながらかたまり、思う力はのこされたまま根を張った。


 言わばこれは失敗のための失敗だった。樹木に人間が務まるものか。樹木も病むさ。もっと硬く、もっと柔軟に。金属の血を流せば。構想の初めからその予定だった。体温はいらぬ。何かをつかみ取ろうとする手のひらもいらぬ。意思と足を持てど、何も掴むな。


 春は志願者の耳元でこう囁いた。腿の白い母が春の耳元で囁くのを真似た。


 春には名前が分からないが、村の男の中で一番背の低い男などは、志願する人間がいることが信じられなかった。食べることも騒ぐことも女を抱くこともできないんだぞ。最後の一言のせいで彼の訴えは笑い話になった。そうか、お前はまだ女を抱いたことがないのか。そりゃ心残りだな。言っちゃ悪いがあんなもん、実際はそれほど良いもんじゃないぞ。ここらの女は臭いさ。


 そう言った老人は若く清潔な女は目に映らないようで、好んで肉の間に垢を溜めた女を追いかけ続けた薬屋だった。


 極端な二人の会話を聞いた村人は二人ともを宥めるように、いいじゃねえか、木になれば光と水だけで生きていける。冬も外で突っ立っていられるよ。無理もなく無茶もなく、綺麗なまま生きていけるよ。春の囁きの受け売りだった。


 14

 村人の肌は固く干からびたようになるが内側には金属製の油とでもいうべきものが常に一定速度で流れており、全身にはごく微量ではあるが水分が、心細くならない程度蓄えられている。


 観察するに、身動きを取らなければ根を張るようである。かなり早い段階で体組成を入れ換えた老夫婦は、二人で絡まり合うように互いの足というか腕というか、人でどの部位とは言い難いものを絡ませ合って生きていた。仲睦まじいものだと人は言う。春も大方そのように感じて満足していたが、二人は互いに窮屈に感じているらしく、もうほとんど開かない口をあけて、互いに罵り合っているが、見かけ上、それほど憎しみ合っているようには見えない。実際彼らはそれほど強い感情を持ちえないということを春は知っていた。


 春が確信して頭に留めているものはことごとくその通り、多少現実と異なっていても、客観的にはその通りの映像に景色に、なんというべきか、本人も分からないが設定として成り立つようになり、結果的にそうなる。


 幼い頃から腿の白い母の囁きを印にして、ものごとを習得して来た春は、いつも心の中に潜む母に伺いを立てるようになっており、その声が、実際に聞こえているのか、春の幻聴なのかはやはり、分からないけれど、母が言うのであれば間違いないのだ、という確信だけが逞しくなり、もう現実を変えることが自然なことだと感じるようになっている。


 彼がいくらか力を持っていることは確かで、過去から未来に及ぶ超自然的な記憶を持っていることは事実であるが、それ以上に彼が持っていたのは心の底から湧き上がる確信で、確信があるが故に生じる説得力である。


 確信と説得力が両輪となり、ほとんど彼の言葉についていけない村人は、ただ無地無色の紙であって、容易に染められてしまう。彼の口車に乗って、体の組成が限りなく樹木と金属に近くなったのも、もちろん彼の呪術的な才能があってこそだが、こんなにも村が人の形に近い樹木うごめく、生理の常識を隔てた場所になることは、ここに春という性質と人格がなければ成り立たなかった。


 春は自ら持つ能力で、視界を変える力を持っていた。


 能力で以て人に影響を与える人間的な魅力を持っていた。


 それを魅力と読んで良いのかどうかはそれぞれの判断によるところだが、少なくとも春は、自分が自分の意思と思想と能力が、村人の役に立っているという自負心でいっぱいで、この上ない快感が、貢献している感覚に宿っていると日々感じていた。


 そう思えばこそ、彼は彼を捨てた母、腿の白い母の判断も肯定することができた。もしかしたら母も自分と同じように、過去から未来へと連綿と続く記憶を見ることができたのではないか。私がこの村で、ここの村人とどのように暮らし、どんな貢献をするのか、見えていたのではないか。


 私を捨てることは、母にとっても苦渋の決断だったことは間違いない。なぜならこんなにも母の愛は私の中に根付いている。


 母が残した呪術の数々、知恵と、優しい声、そしてこれはさすがの母もいささか予想外だったかもしれないが、いつまでも濃く残るあの白い、やわらかで、甘い匂いがする腿の記憶。


 私はこれらを糧にして、こんな寒村ではあるが、目の前にいる縁ある人間たちに貢献することができて、なおかつ、約束された未来に向かって歩き続ける勇気をもって、気力を充実させたまま、生を全うすることができている。


 彼はその、生を全うするという人間に等しく与えられたはずの機会を村人から奪っているなどとは一切考えず、人に近い樹木がじりじりと彼を求めて寄ってくる様子を、満足気に眺めるのだった。


 15

 人々がにじり寄ってくる理由に彼は最初気が付かなかった。


 大方の村人はまだ口が利けるはずだが、音量は揃って極小で、ほとんど唸りか微風が吹き抜けていくようにしか聞こえなかった。


 よくよく話を聞いてみても「きしみ」がどうとか言うばかりで、どうやら村人自身、自分の新しい身体にはじめて生じる新しい不都合を言葉にするのが難しいらしかった。


 とにかく身体に不快なところがあるのだろうと判断した春は、村人のそれぞれに様子を伺い、皆が訴えているらしい不快の普遍性を割り出し、全体として解決すべきことなのか、それとも個別に対処すべきことなのかを見定めるkとおにした。


 村人の様子を伺うと言っても、ほとんどの不快がある村人は、恐ろしく鈍い速度で自ら春のところへ赴いた。春の元へ必死の姿でたどり着いた村人たちの声は聞き取りにくく、とにかく不快だ、ということは伝わるが、どれだけ訴えを聞いても根本的な解決の方途ということに関しては何も思い浮かばない。


 母は沈黙を貫いている。


 はじめに拵えた呪符の様子を見ると、本来の自然に侵されて印が消えかかっているところがあって、これは雑草を処理したり、獣の糞を取り除いたりして対処する必要がありそうだった。


 春はまだ樹木化へは踏み切っていない村人に呪印の整備を指示した。


 彼らは夫子どもが樹木化へ踏み切った、妻が樹木化へ踏み切った、という類の樹木村人の身内であることが多く、その樹木化した家族が何やら身体の不快を訴えていると言えば、協力しないわけにはいかなかった。


 とは言え、そういう連中はもうあまり数は多くなかったので、春も作業に精を出し、自ら生み出した村人のために働いた。


 幾ら働いても作業は追いつかず、どことなく流れる不満の雰囲気を春は嫌った。


 体組成を入れ換えることを頑なに拒否している村人の何人かがいた。彼らはただ思いとどまっているのではなく明確に拒否をしている連中で、樹木化した家族がいないかそもそも独り身で、警告を利かず春の甘言に乗った連中に何かしてやる義理などなかったが、彼らにも春はついに頭を下げた。


~つづく~|



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