税所律子税理士事務所の事件簿

@oota_ishii

第一話 再就職

「ここでいいんだよな」

 ハローワークで貰った簡単な地図を頼りに駅から歩いてきたのだった。

 九月といってもまだまだ残暑が厳しい。吹き出る汗を拭きながら玄関前に立つ。ドアには『税所律子さいしょりつこ税理士事務所』という表札が貼ってある。

 就職活動など高校以来だ。まさかこの歳でやるとは思わなかった。急に緊張してきたので、大きく深呼吸してからチャイムを鳴らそうと指を伸ばす。

 その瞬間、ドアが開いて一人の中年女性が出てきた。

「あなた、、やめたほうがいいわよ!」

「はっ!?」

 そう言うだけ言って、停めてあった車に乗り、早々に走り去っていった。

 いったいなんなんだ? は相当ヤバいのか? 不安がよぎる。

「えーっと……、どなた?」

 呆然として車を見送っていると、開きっぱなしのドアから若い女性の声がした。

 そうだ、えーっと、なんて言えばいいんだっけ……。

「あ、あの、ハローワークから……」

「あ、はいはい聞いてます。さあどうぞ、中へ」

 彼女がそう言いながら両手で入るよう仕草をするので、家の中に入ってドアを閉める。

 そして、用意してくれたスリッパを履いて隣の部屋に入った。

「暑かったでしょう。麦茶でいいですか?」

 部屋の中央にあるソファーに座るよう促しながら聞く。

「はい」

 クーラーが効いているのでみるみる汗が引いていく。やっと余裕ができたのか事務室の中を見回す。

 自分のうしろ側には窓を背にした大きな机。そして、ソファーの周囲には事務机が四つ。壁際には本棚やがくに入った賞状などが飾ってあった。その一角に冷蔵庫があり、彼女がコップに麦茶を注いでいる。

 そのコップを持ってきて、目の前のテーブルに置くと、向かい側に彼女が座った。

「いただきます」

「どうぞ」

 二口ほど飲んでカバンの中から紹介状と履歴書を彼女に渡す。それを受け取ると「ふんふん」言いながら読み始めた。そして、一言。

「えっ!? 辞めちゃったの?」

 辞めたからに来ているんだが……。

「理由を聞いてもいいですか?」

「はい」

 べつに悪いことをして辞めたわけではない。正直に話すことにした。

「一言でいえば『疲れた』んです」

「疲れた?」

「ええ、精神的にですけど」

「やっぱりブラックなんですか?」

 言われてみればブラックかもしれない。

「カスハラかもしれません」

「例えば?」

 なぜか彼女の目が輝いてる。好奇心というやつだろうか。

「何年か前、国税庁長官が国会で証人喚問されたときとか」

 弁護士をつけて『捜査中だから答えられない』の連発。あれじゃ、誰だって怒るのはわかる。

「ああ、あれですか。確定申告会場では怒号が飛び交ったとか」

「まあ、気持ちはわかるんですけどね……。日頃の鬱憤の受け皿みたいになってるんです」

「他には?」

 えっ!? まだ聞くの?

「そうですね……。ビールに消費税をかけるのはおかしいとか」

「だって消費、あっ、そうか、酒税との関係?」

「ええ、二重取りはけしからん、とか」

「酒税は価格の一部ですから、固定資産税と同じで……」

「要はどっちが払うかで決まるんですけど、ガソリンと軽油みたいなもんです」

「そう説明するんですか?」

「いえ、そんな説明したら、まさしく火に油です」

「法律ですから国会で決まったことです。文句はお近くの国会議員へどうぞ。ですね」

「確かにそうですね」

 もう聞かれないだろうな。なんか怖くなってきた。さっきの女の人もそうだったのだろうか。

「税理士の資格は? 試験はどうでした?」

 やっぱりそう来たか。

「国税三法は免除ですが、簿財の試験結果はまだでして……」

 課税部門にいた場合、十年以上の勤務で税法の試験は免除になるのだ。だが、簿記論と財務諸表論は免除されず、八月に受けたのだがさっぱりだった。

「それなら簡単ですね」

「それで……」

 採用かどうか聞きたいが、それも怖い。

「ごめんなさい。これからもう一人来るんです。採用するかどうかは電話でもいいですか?」

「わかりました」

 外に出ると、涼しくなっていた。空を見上げると真っ黒い雲に覆われている。

「これは一雨来るな」

 あまりお金を使いたくはなかったが、タクシーで帰ることにした。

 アパートに帰って、税金二重取りのビールを飲んでいると電話が鳴った。

 採用するとのことだった。

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