僕だけのひだまり
僕には同居人がいる。いい年のおっさん、
剛は仕事から帰ってくるといつも楽しそうにごはんを作る。一日の出来事を僕に話しながらそれを食べ、風呂前には筋トレを欠かさない。一緒に暮らし始めて気ままに十年、そんな二人の平凡で楽しい日々に終わりがくるなんて、僕は少しも予想していなかった。
剛の生活に変化を感じたのは先月のことだ。外で食事を済ませることが増え、かすかに知らない人間の匂いもした。もともと清潔感のある人間だったが、最近はやたらとおしゃれしているし、部屋も妙に片付いている。家にいてもにやけながらスマホを眺めているだけで、僕が呼んでも上の空。剛は一体どうしたんだろう……。
あれは三週間前の日曜日。剛は新品のユニクロを着て、何度も髭や髪をチェックして、念入りに歯磨きまでして出掛けていった。遅くなるかもと言っていたから、ゆっくり昼寝を決め込んでいたのに。僕が窓辺でうとうと日向ぼっこをしていると、玄関で音がした。驚いて目を開けると、剛と知らない人間が立っていた。僕は座り直し、少し姿勢を低くして見守った。
「
……にゃ?
なんだって? 僕は面食らって、ピンと耳を反らせた。聞き取れなかった。剛、今何て言った?
「
分かったのは「よろしく」だけ。人間はにこにこ笑って、僕に手を伸ばしてきた。おいおい、いきなり触るんじゃない。僕は咄嗟に体を引いて威嚇した。「こら、ホクロ」剛が慌てて人間を気遣っている。少し剛を困らせてしまったかもしれないが、仕方がない。僕のテリトリーだ、簡単に許すわけにはいかない。
「
「
「
「うん」
訳が分からないまま、僕はササミにありついた。尚香というのか。おやつをくれたし、案外いい人間なのかもしれない。今日だけは僕の剛と肩を並べて座っていても許してやることにしよう。僕はそっと剛の膝の上に乗った。剛は優しく撫でてくれたけど、いつもとは撫で方が違う。少し緊張しているような手つきだった。
尚香が何かを言い、剛が笑う。剛は楽しいのだろうか。僕には分からない。それからというもの、尚香はよくこの家にやって来た。最初は週に一度だったのが、いつの間にか二日に増えている。驚いたことに、尚香はちゃんとした日本語も話せるみたいだった。だけど尚香も剛も、二人の間でだけあの不思議な言葉を使う。なんでも二人は「ド
昨日、帰って来た剛は少しソワソワしていた。久しぶりにカレーを作るつもりらしい。野菜を丁寧に切ったり、スパイスを棚から出しては匂いを嗅いだり、いつもより入念に下準備をしている。
「ホクロ、明日は大事な日なんだよ」
剛が僕に話しかけた。僕にはその「大事な日」がどんなものかは分からないけど、尚香が来る日はいつも剛がとても嬉しそうなことだけは分かる。明日もたぶん、そんな日なんだろう。
「いつも食べ歩いてばかりだからね、たまには手料理もいいかなって」
そういうものなのか? 楽しそうで何よりだ。僕はしっぽを揺らして料理する剛を見つめた。
そして今日、剛の帰りは早かった。隣には尚香。持っている箱からは何やら甘い香りがした。二人は忙しく動き回っていたかと思うと、あっという間にケーキやカレー、ワインがテーブルの上に並んだ。それからろうそくに火をつけて、楽しそうに歌なんか歌って、プレゼントも交換して……。
「
カレーを一口食べた尚香が目を輝かせた。剛はホッとしたように笑った。
そういえば誕生日だって、確か剛が言ってたな。僕は急に思い出した。昨日が尚香の誕生日で、明日は剛の誕生日。だから真ん中の今日、一緒にお祝いをするんだって。僕には関係ないと思って忘れてた。でも関係あった。こんなに寂しいなんて。剛の目に僕は映っていないようだった。僕のことなんか忘れてしまったみたいに。
「ホクロ~」
忘れられてどのくらいたっただろう。いじけてふて寝している僕を呼んだのは、ほろ酔いの尚香だ。
「
尚香がかがんで、僕を覗きこむ。首にぶら下げていたキラキラが揺れた。黄色いキラキラ、ゆらゆら……。
「
狙いを定めた僕に気付いたのか、尚香は慌ててキラキラを手で隠した。なんだ、剛があげたのか? なかなかいいセンスだ。
新しい味のかりかりはおいしかった。お腹が満たされたから、少しだけ尚香のことを考えてみる。まあ悪くはない、と思う。そのとき「おいで、ホクロ」剛が突然僕を呼んだ。さっきまで忘れてたくせに何を今更。僕は眠ったふりをしようとした、けど……。
僕はゆっくりと立ち上がった。尚香が撫でようとするが、気分じゃない。その手をするりと避けて、剛の膝の上に丸まった。やっぱりここが一番居心地がいい。
「もう、
そう言って笑いながら尚香が剛の肩に頭をもたれかけた。剛の、僕を撫でる手が止まる。そしてその腕は尚香の背中に。ふうん、そういうことか。僕は剛と尚香を交互に見上げた。だらしない顔だな、剛。でも。剛にとって尚香は特別な人間で、どれだけ大切に思っているか、やっと分かった気がした。
僕の剛だけど、ちょっとだけ尚香に譲ってやる。その代わり僕を撫でるのはお預けだ。だって剛の僕だから。唐突に終わった剛との日々に、尚香が加わる。変な気持ちだけど、剛が幸せなら僕も嬉しい。
温かい剛の膝の上。僕だけの特等席。ひだまりのような温もりに包まれて、僕は静かにまどろんだ。
・「
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