憶えていますか

 運よく大手企業へ就職して数年が経ち、佐々木は日々の忙しさに追われていた。今日は久しぶりに大学の同期である藤井に誘われて飲みに行くことになっている。「彼女を紹介したい」と言われ断る理由もなく、懐かしさと少しの緊張感を抱きながら店へ向かう。

 

 指定されたバーに入ると、藤井はすでに席に着いていた。隣には美しい女性が座っている。長い艶やかな黒髪が印象的だった。


「莉子だよ、俺の彼女」


 藤井が照れくさそうに紹介する。莉子と呼ばれた女性は軽く会釈をし、控えめに微笑んだ。そのとき佐々木を捉えた彼女の瞳が、何かを思い出したかのように一瞬揺れた。どこかで見たことがあるような気がする。佐々木も何かが胸の奥で引っかかるような感覚を覚えたが、藤井が「何飲む?」とメニューを差し出してきたため、その違和感はすぐに消えてしまった。


 会話をしながら、莉子はどこかそわそわと落ち着かない様子であった。ふと莉子が髪をかき上げたそのとき、その左耳があらわになった。耳たぶにきらりと光るピアス、そしてヘリックスピアスかと思ったそれは……二つの並んだ黒子だった。


 ――この感じ、どこかで……?


 思い出が急に佐々木の頭をよぎった。中学の頃、クラスメイトの優等生に同じように耳の黒子を見つけて「ピアスみたいだな」とからかったことがあった。彼はいつも学年トップの成績で、生徒会の副会長をしており、バスケ部ではキャプテンも務めていた。なんでもできる色白の優男だった。天は二物を与えず、なんて大嘘だと佐々木はいつも思っていたのだ。一方で、女子にも大人気だったのに誰と付き合うこともなく、どこか陰鬱とした雰囲気もあった。田舎の小さな中学校で彼は、神童とさえ呼ばれていた。

 

 ――彼は右耳にも黒子があったはずだ。


 静かに飲み物を口にする莉子の耳を、佐々木は無意識に見つめていた。不安そうに佐々木に顔を向けた莉子。視線が交差したそのとき、莉子の目が怯えと戸惑いを映し出した。莉子の見せた反応が、佐々木の過去の記憶を一気に呼び起こす。



 その後、彼はどうしたか。地元で一番の進学校では特進クラスに所属し、難関大学へ進学。佐々木は同じ高校に通っていたものの、学内で顔を見かける程度でほとんど話すこともなかった。だが、高校卒業以来、彼はぷつりと消息を絶ってしまったのだ。大学を卒業したかどうかも定かではない。同窓会にも一度も参加せず、彼がどこで何をしているのかを知っている者は一人もいなかった。

 


 藤井も莉子の様子が気になったのか、「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ」と優しく肩に手を回して安心させようとしていた。藤井がトイレに立ったそのとき、藤井を見送る莉子の右耳に黒子が――まるでピアスのようなくっきりした黒子が、目に飛び込んできた。莉子が慌てて耳を隠すように髪を手で押さえる仕草を見て、佐々木の中で何かがはじけた。


 莉子は彼なのだ。確信した瞬間、佐々木の心は激しく揺れた。でもそんな佐々木以上に、莉子は目に見えて狼狽えていた。莉子の顔には、彼の面影がはっきりと浮かび上がっていた。思えば努力の人だった。他にすがるものがなかった彼にとって、努力は唯一の逃げ道だったのだろう。今の姿は、その結果だ。自分の力で、やっと掴んだ幸せだ。


「藤井って、ほんっといいやつだよな」


 おそらく藤井はまだ知らないのだろう。でも、考えるより先に、言葉が自然に口からこぼれた。佐々木は笑って莉子を見つめた。祝福のつもりだった。莉子は驚いたような、でもどこか安堵したような表情を浮かべて、涙をこらえるように頷いた。佐々木はそれ以上何も言わなかった。それが昔の友としての最後の役目だと感じたから。静かな時間が続いた。


 藤井が戻ってくると、佐々木は何事もなかったかのように話に花を咲かせた。莉子は口数こそ少なかったが、表情は少し柔らいでいたように見えた。

 


 

 別れ際、佐々木は二人の背中を見送りながら、どうしても言わずにはいられなかった。

 

「藤井、絶対に大切にしろよ。その……莉子さんのこと」

 

「どうしたんだよ、急に?」と藤井は驚きながら振り返り、すぐに「もちろんだよ」と力強く答えた。


 ――幸せになれよ。


 佐々木は莉子に向かってぐっと親指を立てて見せた。それを見た莉子の顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。

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