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英雄ひでおくん」


 稽古後の武道場。英雄くんは竹刀の手入れをしていた。竹刀をばらばらにして、竹のささくれを小刀で丁寧に削っている。私が声をかけると、英雄くんは顔を上げた。


「あ、ごめん。もうすぐ終わる」

「じゃあ私、外で待ってるね」

「うん、すぐ行くから」

 

 隣にいた教育実習生の小野原おのはら先生にぺこっと頭だけ下げて、私は道場の外に出た。高三の五月。もうすぐ七時だというのに外はまだ明るい。夕日のオレンジが、道場の外壁を柔らかく照らしている。

 

「……英雄、由香里ゆかりちゃんと付き合ってんの?」


 小野原先生の声が聞こえた。大学四年生の小野原先生は、剣道部のOBでもあり、英雄くんのお兄さんの友人でもある。小さいころから一緒に遊んでいたというだけあって英雄くんとも仲がいい。気さくな先生だけど、生徒のことを名前で呼ぶのはなんだかなあ、って思う。だって私、英雄くんにもまだ「嶋田しまださん」としか呼ばれたことないのに。私はスマホを見ているふりをして、そっと聞き耳を立てた。


「付き合ってないよ」


 英雄くんの返事はあっさりしていた。だよね、照れてもくれない、知ってた。それでも「だよなー」と笑う小野原先生の声が聞こえてきてちょっと腹が立つ。

 

「急げよ英雄、友達待たせんなよ」

「うん……よしできた」

「あ、俺のが終わったら一緒に油塗っといてやるよ」

「ほんと? ありがと、ゆうくん」

「おい、学校では『小野原先生』っつったろ?」

「今はいいじゃん、部活のときはちゃんと先生って呼んでるし」


 英雄くんの笑い声。

 

「大体さ、祐くんが先生とか、なんか信じらんないよね」

「なんだと?」


 楽しそうだな。思わず中を覗き込むと、英雄くんが私に気づいた。


「ばいばい、祐くん」

 

 英雄くんは逃げるように外へ出てきて、私に向かって「お待たせ」と笑った。「気を付けて帰れよ」という小野原先生にもう一度「さようなら」と頭を下げ、私たちは肩を並べて歩き始めた。英雄くんは二人分のバッグを載せた自転車を押している。電車通学の私をいつもこうやって駅まで送ってくれるのだ。英雄くんは、優しい。


 親友の美咲みさきは私の英雄くんへの気持ちを知っている。よく「まだ付き合ってないの?」と聞いてくるけど、私たちは付き合ってない。英雄くんとは同じ中学の出身で、高校でもクラスメイト、おまけに同じ剣道部だ。仲はいいと思うけど、それだけの関係。名は体を表すという言葉の通り、文武両道の英雄くんはみんなのヒーローで、私にとっては特別な存在だった。彼女がいないのは知ってるけど、英雄くんが私のことをどう思っているのか正直よく分からなかったし、それを確かめる勇気も私にはない。こんなふうに英雄くんを独占できる時間がただ嬉しかった。


 駅に着いたとき、ちょうどいつもの電車が出発した後だった。


「ごめん、僕が待たせちゃったから」


 次の電車まで三十分待ちだ。申し訳なさそうな英雄くんを見て、「一緒に待ってくれる?」と私は聞いてみた。英雄くんは「いいよ」と言って、自転車を止てきてくれた。英雄くんはいつも私のわがままに付き合ってくれる。特に買い物。コスメだって、洋服だって、英雄くんは真剣に私に似合いそうなものを選んでくれるし、なによりすごく楽しそうにしている。そういうところも好きなんだ。


 駅内にあるドラッグストアのコスメコーナーを覗く。何を買うわけでもないけどこういうのは見てるだけで楽しい。後ろからついてきた英雄くんも、興味津々であれこれ眺めている。ふと立ち止まった英雄くんは、華やかなピンクのリップのテスターを手に取り、じっと見つめた。「どうしたの?」と聞くと、英雄くんはちょっと恥ずかしそうな顔をして、「うん……この色、なんかいいなって」と言って、手の中のそれを棚に戻した。


「可愛い色だね」

「あっ、嶋田さん似合うんじゃない?」


 少しだけ早口で、英雄くんが言う。ちょっと派手な気もしたけど、英雄くんがそう言うなら、と試しに買ってみることにした。化粧室でさっそく塗ってくると、英雄くんは「すごく似合ってる」と言ってくれた。


 

 

「……で、それが立川たちかわの選んだ色なのね。由香里、そういう色も似合うんだ。立川もセンスあるじゃん」

「でしょでしょ? 私も気に入ってんの」

「そんでまだ何の進展もないわけ?」

「んー、まあ」

「ほんっと立川ってつかみどころがないよね」

 

 翌日、教室の隅っこで、私は美咲に買ったばかりのリップを見せていた。反対の隅の席には、ぎゃあぎゃあ騒ぐ男子たちに背を向けて、静かに本を読む英雄くんの姿がある。まるで別世界の住人みたいに、大人びていた。

 

 英雄くんとは中学のころから一緒によく遊んでいたし、お互いの部屋もよく行き来していた。高校生になったばかりのころ、私がVネックの少し胸元が開いた服を着ていると、英雄がふと視線をそこに落としたことがあった。真面目な英雄くんでも、見るんだ――最初はそう思った。でも他の男子みたいな、あのいやらしい視線とは全然違って、英雄くんは戸惑いの混じったような悲しい顔をしていた。見たことのない影に触れてしまったような、そんな気がした。思えば、私が英雄くんに惹かれ始めたのは、あの瞬間だったのかもしれない。

 

 

 

 教育実習が終わると、当然だけど、小野原先生は大学へ帰っていった。それから、高校総体も終わって、期末テストも終わって、夏休みになって。私と英雄くんは相変わらずで。夏休みは一緒に勉強をするために、何度か英雄くんの家にも行った。その日も私は英雄くんの部屋で数学を習っていた。

 

 英雄くんはリビングに何かを取りに行ったきり、なかなか戻ってこなかった。一人で解くには難しくて、本棚から参考書を借りようとしたとき、机の上のノートに隠れるように小さなクリアポーチが置いてあるのに気付いた。私は目を見張った。中はコスメで、私のと同じリップも入っていた。いつだったか、英雄くんが選んでくれた鮮やかなピンクのリップ。外側のポケットにはカップルのプリクラが数枚。手でハート作ったり、バックハグしたり。彼女がいたなんて、聞いてない。


 心臓がきゅっとした。でも何かおかしい。薄く加工してあるとはいえ、これはやっぱり英雄くんじゃない。じゃあ、誰……? と思った瞬間、落書きいっぱいの一枚を見つけた。

 

 プリクラをまじまじと見つめる。レースのブラウスを着た女の子の横に目を引く「ヒデオ」の文字。まさか……。その正体に気づいて、私は危うく声を上げそうになった。


「なんでっ……?」


 女の子だと思ったのは、英雄くんだった。ウイッグを付けて、唇は鮮やかなピンクに色づいていたけど、間違いなく英雄くんだった。じゃあ、隣で笑っている「ユウキ」は……。私ははっとした。

 

――小野原先生だ。

 

 小野原先生と、女の子の恰好をした英雄くん……私は混乱して、すぐにポーチをもとの場所に戻した。英雄くんはまだ戻ってこない。思わずクローゼットに視線がいく。あの中に女の子の服があるのだろうか。このプリクラはいつ撮ったのだろう。一体どれが本当の英雄くんの姿なのだろうか。頭がぐるぐるする。見てしまったことを後悔したけどもう遅い。英雄くんにバレないことだけを祈って、一心不乱に数学の参考書をめくった。

 

 その後は何を勉強したのかさっぱり頭に入らなかった。複素数の極形式なんてただでさえわからないのに、何度も同じ質問を繰り返して英雄くんを困らせた。具合が悪くなったと言ったら英雄くんは心配して家まで送ってくれたけど、あのときのことはほとんど覚えていない。


 そういえば、ずっと女友達みたいだったな。家に帰ってからふと、そんなことを思った。英雄くんは、私が知らない世界を持っている。秘密を知ったことで、英雄くんとの関係が変わってしまうような気がして、私は怖かった。

 

 翌日、私は美咲について塾の見学に行った。英雄くんと離れる口実がほしかった。親に頼んで塾に申し込み、美咲と一緒に通った。美咲と塾に行くことを伝えると、英雄くんは優しく「頑張ってね」と言ってくれた。英雄くんはまっすぐ家に帰り、自分で勉強をしているみたいだった。ときどき話をすることもあったけど、私は英雄くんと意識的に距離を置いていた。



 

 合格発表の日、学校へ報告へ行くと先に英雄くんがいた。


「嶋田さん」


 にっこり笑って、英雄くんが手を振った。

 

「聞いたよ、第一志望合格おめでとう」

「ありがとう、英雄くんもおめでとう」

「ありがとう」


 この感じ、久しぶりだ。今までぎくしゃくしてたのが嘘みたい。いや、ぎくしゃくしてたと思っているのは私だけだ。だって英雄くんは何も知らないはずなんだから。


「英雄くんは剣道続けるの?」

「うん、そのつもり。嶋田さんは?」

「私は分からないなあ。バイトもしてみたいし」

「そっかあ、バイトかあ。僕もやってみたい」


 英雄くんは「楽しみだね」と言って笑った。地元の大学に進学する私と違って、英雄くんはもうすぐここを離れる。やっぱりなんか、寂しい。

 

「英雄くんは東京の人かあ。一人暮らし、するんでしょ?」


 ぽつりと呟くと、すぐに「ううん」という声が返ってきて、私は驚いて英雄くんを見上げた。英雄くんは照れくさそうに小さな声で言った。

 

「祐くんと一緒に住むんだ」

「え? 祐くんって、お……小野原先生と?」


 素っ頓狂な声が出た。英雄くんははにかんだような笑顔で「うん」と頷いた。

 

「祐くんね、予備校の講師になったんだって。僕の大学とも近くだから、一緒に住もうって言ってくれて、だから」


 英雄くんは思い出したように「ふふ」と笑う。


「あ、そ、そうなの? あの、親は何て……?」

「祐くんが一緒に住んでくれるなら安心だって、すっごく感謝してた」

「……そう、なんだ」

「今、祐くんが部屋を探してくれてるんだ。僕が行ったら、二人が気に入るところに決めようって」


 そう話す英雄くんはすごく嬉しそうで、私はそれがとても辛かった。


 驚いたけど、打ちのめされた訳じゃない。だって本当はとっくに気づいていたから。英雄くんは小野原先生のことが好きなんでしょう? 一緒に住むって、そういうことなんでしょう? 英雄くんは……本当は女の子になりたかったんでしょう?


 英雄くんは英雄くんのまま、ヒーローでいてほしかった……なんて私の思い上がりだった。ごめんなさい。恋する乙女の顔をした英雄くんはとても幸せそうで、私はこみ上げてくるものを抑えるのに必死になっていた。

 

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