第27話
穏やかな寝息を聞きながら、ラナロロは瞬きをした。寝返りをうつと、規則正しく上下する肩がテントの外から入ってくる光でぼんやりと見える。
二人でイエヴィンを訪れた日から一週間。二人は、ちょうど村のあった近くに簡単なテントのようなものを作って、そことゼーリカの国境付近の村を何度か行き来している。
隙間の多いテントの中には、明日の朝のためのパンと、寒さをしのぐためのボロ布がある。
時代の最先端を行く機械などなく、むしろ時代を遡ったかのような道具しか手元にはないが、ラナロロにとっては十分だった。メニラと苦戦しながら川魚を捕まえたり、草に寝転んで空を眺めたり。そういうことができれば他には何もいらない。
ラナロロは目の前で小さく動いている背中にそっと触れようとして、けれど手を引っ込めた。
メニラを起こさないように静かに起き上がってテントの外に出る。すると、毛並みが大分良くなったボウシが疑問そうに顔を向けた。それもそのはずで、焚火の見張りをする順番はボウシに回ってきている。まだラナロロの担当時刻ではない。
しかし、ラナロロが頭に触れると、ボウシは眠いと言わんばかりに自分の身体に顔を埋め、目を閉じる。
ラナロロは倒木に腰かけて、ゆらゆら揺れる炎の先を目で追った。さっきまで魚を刺していた木の枝はもう炭になってしまっていて、跡形もない。夜の風が頬を撫でていく。
ラナロロの病気はすっかり癒えた。癒えてしまった。
この旅の目的。
メニラはラナロロを許し、受け入れ、傍にいることを認めてくれた。それでも一日たりとも忘れたことはない。
今、タイムリミットはゼロを指している。
「どうしたの?調子悪い?」
ラナロロの気配で起きてしまったのだろうか。心配そうな声とともに、メニラがテントから顔を覗かせた。
「いや、具合は良い。とても」
ラナロロは答えて、それから思い出したように薄く笑みを作った。しかし結局安心させることはできなかったらしく、メニラは目を擦るとラナロロの横に静かに座った。
「湖の効果かな?」
「ああ。鍛冶屋の息子が飲んだのも湖の水だったんだろう。刺青に描かれていたものは湖までの道標だったのかもしれない」
「七年越しに、イエヴィンの人たちがラナロロを守ってくれたんだね」
同じように炎を眺める男は、今自分のことのように表情を和らげているのがわかる。ラナロロは胸がずきんと痛むのを耐えた。
「メニラはこれからどうする?」
「うーん。もう村を出て二年半経ったからね」
黙って頷く。ラナロロもここ最近ずっと数えていた。
次に言うことはわかっている。その先を聞きたくないと思うが、いっそ早く言ってほしいとも思う。
メニラは首から下げたお守りを取り出して、そこに視線を落とした。
「村に帰るよ。婆ちゃんも心配してると思うし」
「ああ……それが良い」
ラナロロは静かな絶望を感じながら、それでもまだこの瞬間は許されるはずだと、メニラの温かい肩に頭を乗せた。
帰らないでくれなんて酷いことは言えない。それに、ラナロロは家族を大切にしているメニラが好きだ。
メニラは突然のラナロロの行動に驚いたようではあったがそのまま好きにさせてくれた。その手がラナロロの髪を慈しむように撫でる。
「ラナロロさえ良ければ、村に招待したいな」
「メニラの村に……」
想像さえしたことのなかった提案に、ラナロロはメニラの顔を見上げた。
メニラの村については話で何度も聞いた。ザサムにある小さな村で、皆親切で温かいと。贅沢なものは何もないが、星がよく見えて、獲れる魚は大きくて、果物が美味くて……。
行ってみたい。
この男が生まれ育った土地はどんなものなのか、知りたい。
けれど、自分の素直な望みを口にすることは躊躇われた。
「……良いのか?だって私は……」
ラナロロは幼少期のことを思い出していた。
まだ自分の民族が周りにどんな扱いをされているか知らなかったラナロロは、大人の目を盗んでこっそり他の村の子どもたちと会っていた。子どもは皆純粋で、大人のしがらみなんか別世界の話のように、一緒に泥だらけになって遊んでいた。
それがある日を境に一変した。相手の親たちが何か言ったらしい。それまで愛称で呼び合っていた友達は、誰一人相手にしてくれなくなった。それどころか、一人がラナロロを突き飛ばすと、他の皆が愉快そうに笑い声を上げた。
ラナロロはその時初めて差別というものを知った。ラナロロの家族は皆優しく、周りの人も気のいい人たちばかりだ。そんな人たちが外の世界では蔑まれていることなど、ラナロロは考えたこともなかった。その衝撃は、小さな身体で受け止めるにはあまりに大きすぎた。
今にして思えば、人を殺す瘴気の森で何の対策もなしに狩猟や採取を続け、それでもなぜか生きているイエヴィンの人間はさぞ不気味に見えただろう。実際には、村にある瘴気の毒を和らげる湖が特別なだけで、人自体には特殊な能力など何もない。普通の人間だ。しかし、そんな不思議な湖があれば、外の勢力が黙っていないだろう。こぞって手に入れようとするに決まっている。そう考えたイエヴィンの人間は、瘴気の森を自分たちの縄張りにするために、湖のことは極秘として成人の儀を終えた同族のみにそれを教えた。
今ならば、そういう理屈がわかる。けれど、あの時のラナロロにはまだ何もわからなかった。ただ追い出されるようにして家に帰り、母親の腕の中で泣いた。
母親はラナロロが他の村の子どもと交流していたことを責めはしなかったが、その子どもたちからラナロロを庇うようなこともまた、言ってはくれなかった。
「これでわかったでしょう。あなたは他の子どもとは違うの。迎合する必要なんてないわ。あなたは誇り高いイエヴィンの子よ」
母親の優しくも硬い声を聞きながら、ラナロロの目からはとめどなく悲しみが溢れた。
ラナロロは誇り高くありたいわけじゃない。ただ、もっと普通に、普通に生きたいだけなのに。
大人になったラナロロは思う。母親のあの言葉は本心から来るものだったのだろうか。
「ラナロロ、誰も嫌な顔なんてしないよ。世界を見て来いっていうくらいなんだから」
メニラの優しい声に意識が引き戻されたラナロロは、もう一度頭を肩に擦り寄せた。そして小さく呟くみたいにして答える。
「嬉しい」
本当にメニラの村の人たちがラナロロを受け入れてくれるかどうかはあまり自信がない。メニラの大切な人たちに対しても、結局は出自を隠したくなってしまうのではないか。
けれど、メニラのような心の広く、豊かな人間が育った村だと言うなら、その住民もラナロロを気味悪がらずにいてくれるかもしれない。そんな淡い期待が浮かぶ。
何より他でもないメニラがそうやって言い切ってくれると、胸がじんわりと温かくなって、呼吸が楽になる。
村への訪問はきっと最高の思い出になるだろう。
一生忘れることのない思い出。
ラナロロは、メニラがお守りを服の内側へしまうのを目でぼんやりと追った。
村に行くのが終わってしまえば、再び独りだ。思い出を糧にして独り彷徨い続ける。
覚悟はしていたつもりだった。けれど、思ってしまう。
手放したくない。いつまでもこうしていられたらいいのに。
「その後は?」
「その後?」
「ああ。村に帰った後、メニラはどうする?」
メニラは不思議そうな顔でラナロロを見つめた後、空を見上げた。
短い金髪が少し揺れる。綺麗な横顔だ。ラナロロは思った。
「何も決めてないけど、村より南へ行ってみたいかな。その後はもう一度西の方も。エジュジャもゼーリカもゆっくり見て回れてないし、また薬屋にも武器商人のお爺さんのところにも顔を見せないと」
「村に腰を落ち着けなくていいのか?」
「何言ってんの。ラナロロが言ったのに。忘れちゃった?旅が好きだって言ってたでしょ」
メニラがからからと心地いい笑い声を上げているのを、ラナロロは何か別世界の出来事のように呆然と見ていた。
「一緒に、いてくれるのか?もう薬は見つかったのに?」
「当たり前でしょ。どうしちゃったの」
一切の迷いなく告げられたその言葉と同時に、ラナロロは自分の膝に顔を埋めた。
目の奥が熱い。きつく閉じているはずの瞼から、一粒、また一粒と温かいものが溢れて、止まらない。
「……ラナロロ、泣いてる?」
戸惑ったような声とともに、ラナロロの震える背中に躊躇いがちに手が置かれる。
ラナロロはそうされて初めて、自分は泣いているのかと思った。
言いたいことが山ほどあるのに、何かが喉が詰まったような感覚がしてなかなか言葉にならない。
しゃくりあげそうになるのを抑えて一言を口にするのに、随分時間がかかった。それをメニラはじっと見守ってくれている。
「……本当は、旅じゃなくてもいいんだ。形は何だっていい。メニラと一緒だったら」
ラナロロの言葉を健気に覚えていたらしい男に本当のことを言うと、メニラはかなり驚いた声を上げた。
「えっ、そうなの」
なんだ、気づかなかったなあなんて、メニラはのんびりした口調で言う。ラナロロは涙声のまま続けた。
「ずっと、病気なんて治らなければいいと思ってた。メニラは、私の隠し事を知っても薬を探すのを放り出さずにいてくれたが、治療法に辿り着いたら今度こそ本当に旅が終わる。もう一緒にいてくれないんだと思って。また独りになるのが怖かった」
自分の幼くてわがままな思いを全部そのまま打ち明ける。
出自のことも、自分がメニラを助けた本当の理由も伝えることができた。けれど、この一つだけは最後の最後まで言えないでいた。
メニラはしばらくの間沈黙して、その後に大きくため息を吐く。
幻滅されただろうか。無理もない。メニラは一生懸命治療法を探してくれていたのに、ラナロロはその気持ちをずっと裏切っていた。
ラナロロは自分の身体を抱きしめた。
けれど、その次に聞こえたのは予想よりもずっと優しい声だった。
「馬鹿だなあ。別に何の目的もなくたって、一緒にいるよ。前に言った『傍にいて』っていうのも、そういうつもりだったのに。ラナロロは期限付きだと思ったの?」
顔を見せてと言うメニラの声に、ラナロロは首を横に振った。みっともない泣き顔を見られたくない。
けれど、メニラは「大丈夫だよ」と言って、体温の高い手のひらで背中をそっと擦る。そうすると本当に心が落ち着いてくるから不思議だ。ラナロロは今更のようにメニラが自分よりも年上だということを実感した。
目元をごしごしと袖で拭ってようやく顔を上げると、頬に手が添えられて、その指先が湿った目尻を優しくなぞる。
「ねえ、こういうのは期限を理由に離れられるような人にはしないよ」
その言葉に、行動に、一体どれだけの愛情が込もっているだろう。
ギプタのギルドにいたころには、自分にこんな幸せが訪れるなんて想像したことさえなかった。
ラナロロの目からはまた一つ、涙の粒が落ちて頬を流れた。
朝日が昇っていくのに伴って、足元の影が短くなっていく。影は三つ。二人と一羽。
ラナロロはメニラに手を差し伸べた。
オランビエのポルデレルの大通りでしそびれた握手。けれど、もう別れのためのものではない。
「何度も腕を引いたり引かれたりはしたけど、こうするのは初めてだね」
そう言って微笑むのに対して、ラナロロにも自然に笑みが浮かんだ。
メニラの手の温度が、包み込むような優しさが、手のひらを通して伝わってくる。
「行こうか」
太陽を左側にして歩き出す。
少し暖かくなった春の風が、トネリコの甘い香りを運び始めていた。
咲かないトネリコ U原もみじ @u-hara_196
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