第26話

「ひ、久しぶり」

 何を言えばいいのかわからず、とりあえずそう声をかけてみる。ボウシはぴょんぴょんと跳ねてメニラに近づいてきた。

「ツンツン」

 そう発しながら嘴が太ももの辺りに当てられる。かなり力はあるが、痛くはない。メニラはボウシが少しなら言葉を話すということをすっかり忘れていたので驚愕した。

「俺のこと覚えてるのかな?」

「覚えてるんだろ。だから揶揄われてる」

「揶揄われてるの……?」

 鳥に揶揄われているというのはなかなか複雑な感情にさせられるが、覚えていてくれたことは素直に嬉しい。

 ボウシはラナロロの方を見て、少し首を傾げると、一度ばさばさと羽ばたいた。十メートルくらい先に降りて、またこちらを窺っている。

「着いてきてほしいってこと?」

 メニラとラナロロは顔を見合わせると、ボウシの後を追った。二人が意図を汲み取ったと知ったボウシは、今度は五十メートルくらいを一気に飛び、二人が追い付くとまた同じようにした。そうしているうちに、メニラたちが元々散策していた場所とはかなり遠ざかってしまった。

 少し先には小川がちろちろと流れていて、その周りに細長い葉が吹き出している。まだ春先だからか、地面が透けている部分が多い。辺りには花のない木がぽつぽつと生えていた。

「こんな村の外れの方に……。一体どうしたんだ?巣でも作ったのか?」

 ボウシはきょろきょろしていて落ち着きがない。

 ラナロロは木の幹に寄りかかり、ボウシが落ち着くようにと頭を撫でた。

 メニラも横に座って何となしに上を見上げた。硬そうな緑色の葉の先に明るい色をした新芽が出ている。それに紛れて、白いひらひらが一つだけこちらを向いていた。

「あっ」

 思わず声を上げると、ラナロロもメニラの視線の先を辿った。

「これがトネリコだよ」

 首の後ろに模様として入れられるはずだった花。それを、ラナロロは目を丸くして見ている。

「村に生えてたのか」

「もっと咲いてる木もあるかな」

 たくさん花のついたトネリコは、遠くから見るとふわふわしていて本当に綺麗だ。それをラナロロに見せたくて、少し辺りを歩いた。

 ラナロロは木に背中を預けてしばらくその様子を見ていたが、今はボウシを連れてメニラの後ろに着いてきている。

「一緒に探してくれるの?」

「見張りだ。また瘴気の森に入って迷子になられたら困る」

 そう言いながら、ラナロロはけらけらと笑っている。

 メニラは首の後ろに片手を当てた。

 よく見ればこの辺りにある木はトネリコだけ。しかし、まだ時期が早いのか花をつけているものは先程の一つ以外にはない。

 小川に浮かぶ石の上を飛び跳ねて渡ってさらに進んでも、トネリコに花はない。次第にごつごつとした岩肌が見えてきた。そこまで行ったら引き返そう。そう決めて、もう少しだけ歩く。

「小川の先まで来るのは初めてだ」

「えっ。まだ瘴気の森じゃないよね?」

 ラナロロは頷いて続けた。

「さっきの小川には幽霊がいて、渡ろうとすると水に引き摺り込まれるって教えられたから。昔はそれを信じてたんだ。今思えば、増水した時に子どもが流されないようにするための脅しだったんだろうな」

 微笑ましい話だ。メニラにも似たような経験がある。小さな時には、祖母が「酒は薬じゃ。大人になると皆どっか悪くなるんで飲まにゃならん。だけんど、子どもはいかん。飲んでしもうたら死ぬ」と言っていたので、それを信じていた。ある程度大きくなってから、子どもが多少飲んでしまったところで死にはしないと知ってかなり衝撃を受けたものだ。

 きっとこの手の話はどの国の子どもにも共通なのだろう。

 そんな話をしていると、花のついたトネリコが見つからないまま折り返し地点に辿り着いてしまった。

 目の前にはがさがさとした褐色の壁が広がっており、僅かな凹みに苔が生えていたり、上の方から蔓が垂れ下がっていたりする。斜め先にはぽっかりと空洞が覗いていた。

「洞窟を見るとオオトカゲが出てこないか構えちゃうよ」

 メニラはおどけたが、入口の高さはメニラを襲ったオオトカゲが通れそうな程ではない。

「通れてもコトカゲくらいだな」

 ラナロロは冗談を言って笑った。

「ちょっと入ってみるか?」

 尋ねる形になっているが、ラナロロの顔には興味があると書いてある。ボウシも飼い主と同じ気持ちなのか、入口の先を黒い瞳でじっと見つめていた。

「そうだね。少し見てみよう」

 ラナロロはランプに火を付けて中を照らした。足元は崩れた岩のようなものが重なっていて、急な斜面になっている。先にそこに降りたラナロロは、メニラに手を差し伸べた。繊細そうな手のひらを掴むと、転ばないようにと案外しっかり支えてくれる。

 ボウシは自力で斜面を下れるのだろうか。メニラは心配して後ろを振り返ったが、ボウシは重そうな体を持てあますことなく、ぴょんぴょんと跳ねて危なげなく着いてきていた。

「少しひんやりするね」

 天井からはちょうど雨垂れのような形状の岩が無数に伸びている。自然にこんな形になるというのはなかなか想像ができない。かといって、人工的に削り出したものとも思えなかった。なんとも不思議で興味を引かれる。

 頭をそれにぶつけないように時折身を屈めながら奥へと進んでいく。そうして随分下ったと思ったころ、開けた場所に出た。

「湖?」

 そう呟いてラナロロの足は止まった。

 一歩先はがくんと低くなっていて、そこからずっと奥まで水が溜まっているのがわかった。ランプで照らされた水面はエメラルド色で、波一つなくただ静かにそこにある。洞窟の入り組んだ形状によって、色の深いところと明るいところとが生じていた。メニラはその神秘的な光景に息をのんだ。

 ラナロロはランプを足元に置いて膝を突くと、湖面へと手を伸ばした。白い手が透き通った水の中で揺らぐ。俯けられた横顔に、肩から落ちた髪がさらりとかかった。その様子は一枚の宗教画のようだ。

「冷たい」

 メニラもその横にしゃがみ込んで、水を手のひらで掬い上げた。不純物のないそれは、手の中では緑色には見えない。海が深い青色に見えても、汲み上げた海水に色はない。それと同じなのだろう。

「イエヴィンにこんな綺麗な場所があるなんて知らなかった」

 ラナロロが呟いて腰を上げようとしたその時、ボウシがその背を押した。

「あっ」

 腕を掴もうとするが、届かない。

 静かだった湖はドボンと音を立てた。

「ラナロロ!」

 メニラは必死に叫ぶが、その必死さが間抜けに思えるほどに、ラナロロはすぐに水面に顔を出した。白いマントがふわふわと浮かんでいる。

「っは、大丈夫。大丈夫だ、メニラ。ここにも川の幽霊はいなかった」

 髪を邪魔そうに掻き上げたラナロロは、自分を引っ張って、上がるのを手伝ってほしいと言った。

 メニラはほっとした。ラナロロがボウシを咎めないのを見るに、ボウシのいたずらはよくあることなのかもしれない。ちらっとボウシを見るが、小首をかしげてしらばっくれている。随分人間らしい鳥だとメニラは呆れ半分感心半分で首を振った。

 入口の辺りでラナロロがしてくれたように、手のひらを差し出した。が、手首が掴まれて、強く引かれる。

 目を丸くしたその瞬間、バシャンともう一度水が跳ね上がった。

 一瞬泡とともに沈み、浮き上がると、ラナロロは腹を抱えて笑っていた。

「もう、ラナロロ。びしょ濡れになっちゃったよ」

 楽し気に持ち上がっている頬に指の背で触れると、ラナロロは説教をされたくない子どものようにそれから逃げた。

「お前のせいでメニラに叱られてしまった」

 言葉の割にちっとも懲りていない様子のラナロロは、こちらを覗き込むボウシの嘴の先を濡れた手でとんとんと触った。

 ボウシは嘴が湿っても嫌ではないようで、グーグーと甘えたように鳴いている。

 ラナロロはマントを丸めてボウシの目の前に置くと、あとは仰向けになってぷかぷかと水に漂った。

 メニラは苦笑して、同じようにマントを脱ぐと天井を見上げる。

「ギプタでも思ったけど、ボウシはラナロロによく懐いてるね」

「私が雛から育てたんだ。だからだろ」

 ボウシは体の大きさからいって、生まれたのは数年前だろう。ラナロロがメニラに出会うずっと前の話だ。以前の話だと、ラナロロはギルド内に親しく話せるような人間がいなかったと言ったが、ボウシとは信頼しあっているように思える。ラナロロがどんな風にボウシの世話をしていたのか、メニラは見てみたいような気がした。

「名前には何か由来があるの?」

「ああ。オオワタリガラスの雛は羽毛がもっとふわふわしてるんだが、成長とともに生え変わる。ボウシは、少し大きくなってもその毛が頭の上だけ残ってたから帽子を被っているみたいだった」

 メニラはその様子を思い浮かべて笑いを溢した。

 ラナロロはふと自分の身体を見てうんざりしたような声を上げた。仰向けになったまま腕を持ち上げるのを眺める。

「生成りは安いがやっぱりだめだな。うっかりするとすぐこうなる。水を扱うからと腕を捲れば物凄い形相をされるからそういうわけにいかないが、色の薄い染料の服はそのまま腕周りが濡れたらこうして透ける。上着を着ていればまだなんとかなるが、そうじゃなければ雨に濡れてもアウトだ」

 確かに、これまでラナロロが着ていた服は色の暗いものだけだった。この衣服は古城の決闘で破ってしまったものの代わりに買ったもので、一番新しい。

 メニラは思った。きっと他にも今までにたくさんの制限があったはずだ。メニラの想像もつかないほど、彼は普段から神経を尖らせてきたのだということをひしひしと感じた。

「イエヴィンへの感情は少し変わったが、それでもこれを見られて平気なのはまだメニラだけだ」

 メニラは背中に浮き上がった模様に指先で触れ、そこに唇をそっと押し当てる。

 それに、ラナロロは笑い声とも吐息ともつかない音を漏らした。

「これ以上いたら変な気分になる」

「変な気分?」

 なんとなく困らせたくなって、肩や首をキスで辿る。すると、ぴくりと反応したラナロロは、すばしっこい動物みたいに逃げて、岸によじ登った。

 メニラも笑いながら上がって、脱いだ服を絞る。

「だめだ。絞っても絞っても水が出てくる」

「外を歩いているうちに乾くかな」

 そう言った時、ラナロロがぴたりと動きを止めた。

「メニラ」

 横を見ると、ラナロロは剥き出しになった腕を驚いた顔をして見つめている。

「どうしたの?」

 尋ねてから、メニラも気づいた。

 身体にあった発疹。昨日までは痛々しく残っていた。それが薄らいでいる。

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