第9章
第25話
「ラナロロは、エリーギアから鍛冶屋の息子さんがしてくれた話を聞いたことが?」
「いや、ない。あったらとっくに思い出してる」
ラナロロは一つ伸びをして、道の脇に生えていた草から何か取った。
「それもそうか」
そう呟いたメニラに、ラナロロは自分の手のひらを見せた。その上にはちょこんと豆の莢のようなものが乗っている。
「何これ?」
「笛」
答えると、ラナロロは豆の莢の茎に付いていた側を千切った。続けて横の部分を開き、中の豆を取り出すと、空になった莢を唇で挟んだ。息を吹き込む度にピーピーと音がする。
「草笛みたいなものか」
メニラも豆の莢を取ってきて同じようにやってみたが、なかなか上手く音が出ない。コツでもあるのだろうか。
「下手くそ」
ラナロロはメニラを揶揄って笑っている。
「そんなこと言ったって難しいよ。これ」
「小さいころにやってたんだ。それを今思い出した」
ラナロロが無邪気に笑っているのを見て、メニラも笑った。ラナロロが自分の過去の話をこんな風にしてくれていることが嬉しい。
二人は草ばかりの道を、笛を吹きながら歩いた。
今二人がいるのは、ラナロロの生まれ故郷であるイエヴィンだ。意外なことだが、鍛冶屋から馬で二日かければ着くほど近い距離にある。二人はゼーリカとの国境付近で馬を返して、あとは徒歩でここまで来た。
立て続けの移動で疲れが溜まっていたらしいラナロロは一度瘴気の病の症状で寝込んでしまったが、一昨日やっと熱も下がったところだ。
長い間一緒に移動してきた武器商人には既に別れを告げてきた。武器商人はメニラたちのことを孫のように思っている節があったが、いつのまにかメニラにも武器商人を家族のように慕う気持ちが芽生えていたようで、別れ際は涙しそうになった。ラナロロも、武器商人の抱擁にきつく抱きしめ返していたことを思い出す。
「またいつでもわしの店に来るんじゃぞ」
いつだか嘘泣きをしていた武器商人の目には、今度は光るものが浮かんでいた。
少し感傷的な気持ちに浸っていると、ラナロロの足が止まった。
「やっぱり全然残ってないな」
言っているのは、家屋のことだ。ギプタ軍が乗り込んできた時に火を付けられたと聞いてはいたが、本当に軒並み残骸と化している。かろうじて家だった場所だとわかるのは、家の一部の石造りだった部分や陶器でできた食器のようなものが散らばっているからだった。しかし、それさえも既に多くが草木に覆われている。
エリーギアの家の辺りにも行ってはみたが、紙の一つも残っていないのでやはり薬にまつわる情報というのは得られなかった。一応いろんな破片を集めてみたが、作れるのは花瓶や皿などで、完全に骨折り損だった。
太陽がてっぺんに昇ったところで二人はちょうどいい岩を見つけた。腰を下ろし、布に包んできたパンに手を付ける。パンは硬く、あまり質がよくない。喉が渇くと言ってラナロロが水筒に口を付けた。その中にはゼーリカの茶が入っている。
「冷たい」
今日は少し肌寒いからと温かいものを注いできたが、もうとっくに冷えてしまっているようだ。水筒に布でも巻いておけばよかったかもしれない。
けれど、ラナロロは文句を言った割にはそう嫌そうではなかった。まるで猫が甘えてくるみたいな様子でメニラに身体を寄せてくる。
「ふふ、どうしたの」
「寒いから」
真っ白い頬にごく優しく触れると、嬉しそうに目が閉じられ、唇が笑みの形になった。そこに触れるだけのキスをするとラナロロは幸せそうに笑った。
世辞にも贅沢なピクニックではないが、偶にはこういうのも悪くない。
そう思っていると、ふいにラナロロが言った。
「ゼーリカに戻ろう」
「いいの?」
「小さな村だ。これ以上見るところがない」
そう言い切ったラナロロは、後ろにごろんと身体を倒した。
エリーギアがイエヴィンの人間であっただけで、薬を調合したのはどこか別の誰かだったんだろうか。それならばまだいい。もしエリーギア本人が調合したもので、彼女しかその方法を知らなかったとしたら。そしたら治療法は永遠に失われてしまったということになる。
「これまでの旅は無駄だったのかな」
メニラも同じように岩の上に寝転がり、空を見上げた。青く澄んだ空は、どこまでも高い。高くて遠い。
「そんなことはない。本当に治療法があるということはわかった。また探せばいい」
エリーギアが鍛冶屋の息子に渡した薬以外にも、誰かが考えた薬があるかもしれないとラナロロは言った。
いつになく前向きな言葉に、なんだか救われたような気持ちになる。まだ時間は残されているはずだ。これで終わりというわけじゃない。
「それに、故郷に再び来れたことも嬉しいんだ。今までだったらイエヴィンのことなんて聞きたくもなかったけれど、今は知りたいと思えるようになった。メニラのおかげだ」
思わず横を勢いよく向くと、ラナロロもびっくりしたような顔をした。それがおかしくて二人で肩を震わせて笑い合う。
「戻ろうか」
荷物を纏め、元来た道を引き返していく。足取りは案外軽い。
途中で草が生い茂っているところを通りかかると、また豆の莢で笛を作って口に咥えた。上手く作ることができたのか、あるいはコツを掴んだのか、今度はピーピーとちゃんと音がする。
「ラナロロ!聞いてた?」
自慢げな顔をしたその時のことだった。
ガサガサ。草むらの中から音がする。
メニラの身体は硬直した。またオオトカゲだったら。そしたらもう救助は見込めないだろう。
音の方向をじっと見つめる。草をかき分けて何か黒っぽい頭が現れる様子に、ごくりと唾を飲み込んだ。
「オオワタリガラス?」
信じられないというように声を上げたのはラナロロだった。オオワタリガラス。胸の高さくらいまで背のある、巨大な鳥だ。ギプタのギルドの小屋にいたのは覚えているが、野生にもいるんだろうか。突かれたら一溜りもない。メニラは警戒してラナロロの一歩前に出たが、ラナロロはというとそれを押しのけてどんどん近づいて行ってしまう。
「えっ、ラナロロ?」
「ボウシだ!」
ラナロロは大きな声でそう言って、オオワタリガラスの首に勢いよく抱き着いた。ラナロロが羽毛に顔を埋めるのに対して、カラスの方も目を細めてじっとしている。飼い主が言うのだから間違いはないのだろう。あの小屋にいたボウシなのだ。
「なんでこんなところに」
しばらくして少し落ち着いたラナロロは、不思議そうに口にした。ラナロロの知っている限りでは、ボウシは檻を開けることはできないのだと言う。
「そもそも、こんなところまで飛んで来れるものなの?」
「瘴気の森に連れて来る時も、ギルドの方から飛ばせて段々移動していくんだ。だからそれ自体は疑問ではないんだが」
そこまで言うと、ラナロロは何か思い出したのか苦笑した。
「ボウシがメニラのお守りを盗った時も、本当は瘴気の森に飛んで来るはずだったんだ。でもメニラのところへ寄り道して遅刻したみたいだ」
だから瘴気の森で初めて会ったラナロロは、狩りに連れて行くことが多いというオオワタリガラスと一緒ではなかったのかと納得がいった。
「私がギルドにもう戻らないとわかって、誰かが放してくれたんだろうか」
ラナロロはボウシの首の辺りを優しく撫でた。真っ黒な羽毛はやや汚れている。少なくともしばらくの間、こうして野外で過ごしていたのだろう。
「こんな偶然会えるなんて。なんだか不思議だね」
メニラはしみじみと呟いた。
「いや、半分は偶然じゃないかもしれない」
「なんで?」
「その笛」
ラナロロが言っているのは、メニラがさっき吹いていた豆の莢のことだ。確かにボウシに遭遇する直前に吹いてはいたが。メニラは首を傾げた。
「覚えているかわからないが、メニラを助けた時私は笛で助けを呼んだ。あれは人じゃなくてオオワタリガラスを呼ぶためのもの。笛で呼び寄せるんだ。だから、メニラのその笛の音で反応したのかもしれない」
あの時ラナロロが吹いていた笛は、動物の骨で作られたような乳白色の笛だった。音はもっと甲高くて、この豆の莢の笛のような間抜けな音とは似ても似つかない。けれど、そんなものなのだろうか。
ボウシはメニラの顔を凝視した。
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