ウインのたいせつな一冊は……

紅戸ベニ

第1話(1話完結)

 芝桜しばざくらウインが小学四年生のときの、出会いとわかれのお話です。

 

 ウインは読書の好きな女子です。スポーツも好きなのですが、それよりずっと本が好きなのです。

 休み時間になると、クラスメイトが外で遊ぶのに、ウインはきまって教室で本を読んですごしました。学校に友だちは少なくても、物語の中で出会う登場人物たちが彼女にとっての大切な友です。本の世界にいると安心できるのです。

 そんなウインにとって、秋といえば読書の秋。二学期はまいにち図書室に立ちよって、ちがう本を読むのがウインのもくろみでした。少ないけれどウインには女子にも男子にも友だちがいて、たまにドッジボールにさそわれたりもします。その時はいっしょに遊びますが、ほかの時間はぜんぶ本、本、本の日々でした。

 ただし、この年の秋は少し違いました。

 一人の女の人とのかかわりが、ウインを少しだけ変えるのです。


 親戚しんせきのお姉ちゃん、名倉なぐらアズサ。そのアズサお姉ちゃんがウインの家をたずねてきたのです。アズサは教育学部の大学三年生で、小学校の先生になることを目指して学んでいます。ウインにとってはほんとうのお姉さんのような存在でした。


「じゃじゃーん。来週から、ウインの学校に、教育実習きょういくじっしゅうに行きます」

 とウインに教えてくれました。ウインはその知らせに大喜びです。

「わっ、すごい。アズサお姉ちゃんが先生なんだ。楽しみだなあ」

 夏休みに会うことが多かったアズサお姉ちゃんは、いつもタンクトップに短パンという格好でウインの家に来ていたので、先生というイメージがわきません。お正月に会うときだって、男の人みたいなごわごわのジャケットに、じょうぶな生地きじのロングパンツの姿すがたで、ちっとも晴れ着なんか着ません。大人たちに「今の女の子は、自由な服を着られていいわ。スカートもはかなくていいんだもの」とか「でもお正月くらい女の子らしいかっこうをしてもいいと思うけど」とか「顔立ちがいいから、アズサちゃんはどんな服を着ていても美人よ」とか、好き勝手に言われていました。


 着任式ちゃくにんしきのあいさつで、ウインは驚きました。はじめ、アズサだとわからなかったくらいです。なぜなら、いつものカジュアルな姿とうって変わって、ピシっとしたワイシャツにいグレーのスーツのすがたでしたから。髪の毛だって、くせっ毛をクリップでまとめていた髪だったのに、つやつやのロングヘアがまぶしいくらいです。かっこいい大人の女性でした。

 大変身したアズサお姉ちゃんは、学校では男女どちらからも人気の「名倉先生なぐらせんせい」になってしまいました。

 ウインは「名倉先生」と親戚しんせきだということを言わずにいました。アズサお姉ちゃんも、聞かれないかぎりはウインのことは言わないでおく、と約束やくそくしてくれました。

「アズサお姉ちゃんと親戚だなんて言ったら、休み時間に質問ぜめされちゃうもん」

 ――そうしたら本も読めないし。

 ほんとうは、人気者のアズサお姉ちゃんとの関係を自慢じまんしたい気持ちだってあったのでしたが。


 アズサのほうは、小学生の児童じどうからの人気とうらはらに、毎日が戦いのようでした。授業のための指導案しどうあんづくりとか、見学した授業のレポートとか、やらなければならないことは山のようで、その山は高くなる一方だったのです。土日を使ってなんとかやりくりして、教育実習を乗りこえるしかないと考えていました。

 ウインのことは気になっていましたが、さいしょの数日は、とてもウインの様子を見にいく余裕も時間もなかったのです。

 やっと二週間目で、アズサはウインのところに顔を出すことができました。

 お昼休みの、だれも残っていない教室で、太陽の光もあびずに、天井の人工のあかりでウインは本を読んでいます。

「し、ば、ざ、く、ら、さん。来たよ。アズサだよ」

 ウインの名字をよびながら、つくえの前にひざを曲げて、ウインの読んでいる本の上に顔を出しました。ウインはとても驚いて、

「ぎゃっ、アズサおねえ……名倉先生!」

 ウインがすぐに笑顔えがおになったので、アズサはほっと安心しました。仲間はずれとか、いじめとかに悩んでいるのではなさそうです。もともと本が大好きなのは知っていましたから、ウインが自然に一人で本を読むようになったのだとアズサにはわかりました。

「芝桜さんは、外に出ないの?」

 今日はたまたまだれも教室の中に人がいませんが、廊下ではおしゃべりしている女子がいます。教室で友だちをすごす人がいることもありますし、忘れた宿題に、必死に手を動かして取り組んでいる人がいることもあります。

「さそわれたら、ドッジボールをすることもあるよ。でもたいてい本を読んでいるね」

「そっか。今、こうしてお話をするよりも、本のほうがいい?」

「ぜんぜんそんなことないよ。お話できてうれしいよ。名倉先生、すごくいそがしそうだったから、話せなかったし」

 アズサは、髪の毛をふたたびまとめ髪にしていました。きっと長い髪はやっぱりじゃまになるのでしょう。服も、体育のある日にはジャージでいる時間がふえました。

 アズサはウインに話が合うように、本の話をしていきました。

 それからは、ウインが本を読んでいるところにアズサがきてくれることも増えました。

 アズサはウインがあまり友だちといっしょにいないことが気になるようです。

「ドッジボールは好きなの?」

「わりと好きだね。さそってもらうこともあるけど、私がドッジボールが強いからかも」

「ふむー、ウインはスポーツもできる子だもんね。私と同じタイプ」

「男子が、この学年の子はみんな背もちっちゃくて、スポーツあんまり強い子がいないせいだよ。アズサお姉ちゃんのほうが、スポーツできるでしょ」

「それはあるかも。ま、男子がさそいやすいウインのほうが、お姉ちゃんは安心かな」

 ウインはアズサとの会話がうれしく思いました。アズサお姉ちゃんは先生の仕事があるのに、その時間をちょっぴりウインに分けてくれています。

 アズサは少し間をおいて、気になったことをずばりと切り出しました。

「男子で気になる子はいないの?」

 ウインは考える様子もなく、すぐに答えました。

「うーん、残念ながら、いないなあ。みんな子どもすぎる気がする」

 その答えを聞いて、アズサは「そっかあ」と言ったあと、急に大きな声を出しました。

「でも!」

 ウインはおどろいて、目を見開きます。

「わあ、びっくりした。大きい声出して、なに?」

 アズサはニヤリとしながら言いました。

「男子は、化けるよ」

「化ける?」

 ウインがふしぎそうに問い返します。

「そう、中学くらいになると、背も追いいて、力も強くなるの」

「そういうものなの?」

 とウインは首をかしげます。

「かっこよくなる子も出てくるよ」

 と、アズサは少しからかうように続けました。

 ウインはそれに対して、少し大人っぽい言葉を使って言います。

「いやそれは、女子がお年頃としごろになるせいもあるんじゃあ」

 アズサはその通りだと言わんばかりに大きくうなずき返します。

「それもある!」

 ウインは思わず笑いました。

「あるんだ」

 アズサは少し表情を引きしめて、

「だから、ウインも変わってもいいんじゃないの?」

 と、ウインに水を向けてきました。

 その言葉にウインは少し苦笑いの顔になります。

強引ごういんにきたなあ、アズサお姉ちゃん」

 と返しました。

 そこでお昼の時間が終わって、アズサは教室を出ていきました。

 その日の夕方、アズサとウインはふたたび教室で顔を合わせていました。昼休みの続きをウインは考えていたのです。ウインは自分の心の中にあるもやもやした形のない思いについて考えました。その結果を、アズサに話し始めました。

「私は、アオムシなんだよ」

 ウインが言ったことは、ここまでの会話と関係もなさそうです。

 けれど、その言葉はアズサの注意を引いたみたいです。

「おや? そのうち美しいチョウになるって?」

 ウインは少し考えながら答えました。

「どんな羽根はねのもようか、わかんない。チョウになるのか、ガになるのかもわからない。でも、たぶんそのうちさなぎになるよ」

 アズサは面白そうにウインの言葉をうながします。

「ほうほう」

「今は、こうして葉っぱを食べてる時期なんだよ」

 と、ウインは本を持ち上げてみせながら説明しました。

 アズサは笑いながら、ウインの言ったことを理解してうなずきます。

「うまいね、ウイン。紙の数え方は一葉いちよう、二葉だからね。本を読むことは葉っぱを食べることだ」

「あはは。さすがアズサお姉ちゃん、すぐわかったね」

 と、ウインも笑顔を見せました。

 さらにウインは自分の言葉をつむぎます。アズサが少し表情を引きしめて、聞いてくれました。

「まわりが、私、ウインにれてくれたんだね。ウインが一人で本を読んでいるのが当たり前で、さそわれたらドッジボールもする」

「そんなもんかなあ」

 そこでウインがするどく言いました。

「アズサお姉ちゃんも同じじゃん」

「え?」

 アズサは驚いたように聞き返します。

 ウインは、アズサの今の服や髪の毛を指さしながら説明しました。

「今のその服、ジャージだよ」

 アズサは少しれながら笑います。

「あ、今日は体育もあったから」

 ウインはさらに言葉をかさねます。

「髪の毛も、気合の入ったストレートパーマじゃなくて、まとめ髪にしてるし」

「朝の時間ももったいなくてね」

 と、アズサはその指摘してきを受け入れました。

 ウインはそんなアズサをじっと見つめて、安心させるように言います。

「それでもみんな、アズサお姉ちゃんが変わったなんて思ってないよ。名倉先生はそんな感じなんだねって、みんな慣れてるよ」

 その言葉にアズサは少し驚き、そして感心したように言いました。

「おお、なるほど」

 ウインは優しく続けました。

「心配しないで。本を読んでもいいから読んでいるだけ。本がなければ、本を読まなくてもちゃんとやれるウインだから」

 アズサはそれを聞いて、にっこりほほえみました。

「そっか」

 その会話を終えて、アズサは感心したふうに言いました。

「まあ、思ったよりウインは学校でうまくやってるね」

「うん。本を読んでばっかりで孤立こりつしてると思った?」

 アズサは正直に答えました。

「思ったよー。でも、ウインはそういうスタイルなんだよね。葉っぱを食べて、ぜんぜんちがうウインに変身する日にそなえている」

「うん。自分ではそんなイメージ。でもそんなたいしたものにはならないと思うけどね」

「ごけんそんだねえ。でも、わかった。へんな心配は、もうしないよ」


 ある日、アズサは『星の王子さま』を手にしてウインに差し出しました。

「まだ読んだことがないって言ってたでしょ」

 と、両手でそっとさし出しながら渡します。

「ウイン、このお話は、ちょっと……じゃなくて、かなり変わった人たちが出てくるよ」

 アズサはウインの顔を見ながら続けます。

「変わった人の住むいろんな星のあいだを、王子さまがたびをしてくるお話なんだ。それから地球に来て、友だちができる話」

 ウインは受け取って、こんなふうに言いました。

「あはは。もしかして、まだ私にたくさん友だちを作ってほしいって思ってるの?」

 アズサは首をふり、ウインの目をじっと見つめながら静かに答えました。

「ううん。王子さまには友だちは少ないよ。でも、出会いは、すごく大きな価値があるの。それだけを読んで体験してくれたらいいの」

 ウインはわかったような、わからないような顔をしていました。でも不安はありません。

 ――アズサお姉ちゃんが、この本がウインの役に立つって思ったから、くれたんだもんね。

 その日の放課後。

 ウインは、静かにページをめくり始めました。

 ――ゾウを飲み込んだうわばみかあ。うわばみっていうのは大きなヘビ。

 王子さまと一輪のバラから話が始まりました。そして王子さまの宇宙の旅がはじまります。本当に変な人たちばかりが出てきます。けれど、なぜか生き生きした本物の人のようにも思えるのです。

 出会いや別れ。物語の後半にさしかかり、地球での話、キツネやヘビ、そして友だちとなる「ぼく」との出会い。

 ――王子さまも、友だちは少ない。でも、たくさんの出会いをしてた。アズサお姉ちゃんが読ませたかった理由が少しわかったかもしれない。

 ウインは『星の王子さま』が、自分のたいせつな一冊になる予感よかんがありました。


 アズサが放課後に、とてもつかれた顔をしているのを、ウインは見かけました。なんだか、少し落ち込んでいるように見えたので、ウインは話しかけてみました。

「ちょっとね……。今日の授業で一人の男子に、嫌なことを言われちゃって。声をかけたんだけど、こう言われたんだ。『あんた、まだ先生じゃないじゃん。オレが言うことを聞く必要なんかないだろ』って。うまくいかないときもあるんだよね」

 アズサがそう言うと、ウインは少し考え込みました。そして、考えたことを伝えました。

「ねえ、アズサお姉ちゃんのしたことは、ちっともムダじゃなかったと私は思うよ」

「どういうこと?」

「あのね、今は反発されても、もしかしたら次に気をつけてくれるかもだよね。私も、家でちょっとなにか言われたとき反発しちゃうけど、そのあと気をつけるようになるもん」

 その言葉を聞いたアズサは驚いた顔をしました。けれど次第にまぶたが下がってきて、笑顔の表情になりました。ウインの大好きなアズサお姉ちゃんのいつもの顔でした。

「そうだね、ウインの言う通りだ。私より大人だなあ」

 ウインは自分の言葉がアズサにとどいたことがうれしく思えました。そして、年上のアズサに、思い切って考えたことを伝えてよかったと思いました。


 昼休み、教室で本を読みふけるウインの姿を見つけたアズサは、軽い口調で声をかけました。

「やっほー、ウイン。今日も葉っぱをむしゃむしゃ食べてるかい?」

 ウインは本から顔をあげてにっこりと笑い、

「食べてるよ」

 と答えます。

 アズサは続けました。

「アズサお姉ちゃんは以前は、ちょっとかん違いしていたね。小学生も自分でやりたいことがあるのにさせてもらえなかったり、がまんしているはずだって思い込んでた」

「うん。そういう子もたくさんいると思うよ」

「でも、ウインは今、そうじゃなかったんだね。物語や知識ちしきをむしゃむしゃ食べて、たくわえる時間だと考えてる。自分で考えて、そうしてる。すごくいいことだと思うよ」

 ウインはほめてもらった気がしてうれしく思いました。けれど、ウインが一人でなんでも考えているように思われていることに後ろめたい気持ちがしました。

 そこで、秘密ひみつをアズサお姉ちゃんに明かすことを決めました。

「でもね、アズサお姉ちゃん、秘密ひみつにしてくれる?」

 と少し声を落として言いました。

 アズサはあごをくいっと下に引いてうなずき、

「いいともさ」

 と、表情はまじめにして返しました。

 ウインはひと呼吸こきゅうしました。そうして心を落ち着かせてから言います。

「私もただの小学生だからね、話し相手がいるほうが助かるんだよ」

 アズサはその言葉に驚き、

「なるほどね。アズサお姉ちゃんがウインに友だちがいたほうがいいと思ったのも、あながち間違いじゃなかったんだね」

 と言いました。

「うん。でも、ここから秘密ひみつだからね。家族にも言っちゃダメなんだからね」

 と、ウインははずかしそうにしながら、ねんします。

「わかった。信用第一しんようだいいちだね。秘密はちゃんと守るよ」

 とアズサは笑顔で約束やくそくします。

 ウインは、小声で話し始めました。

「いるの。友だちが、いつもそばに」

 アズサは意表をつかれた、という表情をうかべました。けれど口に出しては、じょうだん談っぽく軽く受けとめて、

「うん、とりあえず私には見えない友だちってことだね。ここにはほかにだれもいないし」

 と、まわりを見回します。

 ウインは軽く笑って、

「イマジナリーフレンドって知ってる?」

 と問いかけました。

「おおっ、『見えない友だち』っていう私の発言、大当たりじゃん」

 と、アズサはうれしそうに笑います。

「イマジナリーフレンド、わかるよ。心の中に自分で作り出した、見えない友だち。ウインにはいるんだね」

「うん。でも、人間じゃなくて、ドジでポンコツなロボットだけどね」

 と、ウインは続けます。

「なんにもできないんだ。いつも私に質問ばかりしてくるの。『あれは、なに? 本に書いてあったりする?』『いいね、ウインお姉ちゃんは、元気に動かせる体があって』って」

 その言葉に、アズサはふむふむとうなずきながら言いました。

「なるほどね」

 ウインは説明のための言葉をえらびながら続けます。

「その言葉を思い出すとね、せっかく体を動かせるんだから、ドッジボールにさそわれたらちゃんと体を動かしてこないとねって、思うんだよ」

 アズサはその答えに感心しながら、

「お、いいね」

 とウインを持ち上げます。

「それに、体が自由に動かせるってすごく大事なことだなって思うの」

 とウインは話を続けます。

「自分の足で知らない場所に行ったり、自分の手で食べ物を取ったりしないといけないなあって。私のロボットには、それができないから」

 アズサはその考えに、こんなふうに理解を示して言いました。

「なるほどね。たしかにテレビや動画を見るだけなら、体がなくてもできるけど、ほんとうに遠い場所に行ったり、自分の手で食べ物を取るのは、体がないとできないね」

「そうなんだよね。私の中のドジでポンコツなロボットにも、それを体験させてあげたい。私の体を通して。私の体をすつもりで」

 アズサは笑顔をうかべながら、

「なるほどね。ウイン、いい友だちを持ったね」

 と感心して言いました。

 ウインは少し得意とくいげに

「うん」

 とうなずきました。けれども、続けて少しさびしげに言います。

「ただ、やっぱり手も足も私のをりないといけないのが、どうしようもないことだけど、ちょっともうしわけないんだ」

 その言葉に、アズサは柔らかく笑いながら優しく答えました。

「そうかもしれないね。でもさ、いちばん大事なものを、そのロボットはちゃんと持ってるよ」

「え、なんだろ?」

 とウインは聞き返します。

 アズサはウインを見つめて、はっきりと答えました。

「そのロボットには、心がある」

 ウインはその言葉を聞いて、たしかにそうだ、と思いました。

「あ、そうだね。私の心とはちがう心を、持っているかもしれない」

 こうして、ウインは秘密を伝えることができました。自分の中のポンコツロボットと会話して、自分のやるべきことを考えている、ということを。


 数日後、アズサがウインに声をかけました。

「おや、ウインが本を読んでいないね」

 ウインは笑顔で答えます。

「アズサお姉ちゃん、今日はドッジボールにさそわれたんだよ」

 アズサはウインの答えにニコニコしながら、

「それ、ちょうど私もウインをドッジボールへ勧誘かんゆうにきたところだったよ。今日はいい天気だからね」

 と、自分からもウインを外にさそうつもりだったと伝えました。

「アズサお姉ちゃんはドッジボール得意なの?」

 と聞くと、アズサはあいまいな返事をします。

「いやあー、それなりかな?」

 ウインは、あえてアズサと別のチームでプレイすることにしました。相手チームのほうが、よく姿すがたを見られるし、それに、いっしょに遊んでいる気分になれると思ったのです。

 アズサはボールをひょいひょいとかわし、守りに集中しているようでした。キャッチは一度もしません。攻撃もしないままです。おたがいのチームがどんどんボールを当てていき、ついにアズサがチームで最後の一人になりました。このとき、ウインのチームもすでにウインだけになっていました。

芝桜しばざくらさんと一対一になったね」とアズサは言いました。

 ウインはニヤリとしながら言います。

「どすこい、投げてこいっ」

 アズサはウインのやる気に少しおどろきつつも、軽くボールをげました。ウインはがっしりと両手で受け止めます。まだアズサが本気を出していないことは明らかです。

名倉先生なぐらせんせいに、ボールを当ててやる!」

 と強気で言い返しました。本気を出させてみたい、と思ったのです。

 アズサはウインの攻撃的こうげきてきな言葉に意外そうな顔を見せました。しかし、その表情をすぐに引っ込めてすうっと目元めもとを引きしめました。

「たしかに強いね。今度はそっちの攻撃だね」

 と、ウインの攻撃にそなえます。その顔は今や真剣しんけんそのもので、手抜てぬきをするようには見えません。

 ――アズサお姉ちゃんと、真剣勝負しんけんしょうぶだ!

 ウインは外野がいやのチームメイトにパスを回します。取られないように、けれどアズサの近くにいる子にボールをどんどん回します。強い相手と戦うときの作戦です。

 ついに、アズサをコートのまん中に追いつめました。そして、ウインは助走じょそうをつけて思いきりボールを投げ、

 「くらえっ」

 とさけびます。

 今度はアズサが両腕りょううででしっかりボールをキャッチしました。どすっという音がコートにひびきます。外野の子たちも「おおっ」とどよめきます。ウインの攻撃は、やはり四年生の中では力強く、ここまでほとんどキャッチされてこなかったのです。

 アズサは時間をおかずに、素早すばやくウインに攻撃こうげきのボールをほうってきました。

 ウインはコートの前のほうまで出ていたため、すぐに反応はんのうできません。

「ぎゃわーっ」

 ウインは体がやわらかいのもひそかな自慢じまんです。体をくの字に曲げて、ひざの間に顔をうめこむようにして体を低くしてかわしました。

 ボールはウインの体の上を通りこして、外野へ飛び出しました。ころがるボールを相手チームの子がおいかけていきます。

「これで時間をかせげた……」

 とウインがホッとしたところで、「アウトー!」という声が相手チームから飛んできました。

 ウインのチームメイトの男子も

「芝桜、おしかったなあ」「先生の攻撃、すごかったからな」

 と言っています。ウインがきょろきょろと見回すと、アズサが目で笑いながら言いました。

「トレードマークのポニーテールがかすっちゃったね、芝桜さん」

 アズサが差し出した手を見て、ウインは理解しました。体はボールをよけても、ポニーテールのかみの毛がボールに当たったのです。

「はあ……そっか。負けちゃった」

 と言って、握手あくしゅわしました。

 数日後、ウインはアズサに話しかけていました。自分の決意けついを表すためです。

 その決意とは、

「アズサお姉ちゃん、決めたよ。私、そろそろさなぎになる」

 というものでした。

「葉っぱを食べるのをやめちゃうってこと?」

 とアズサが茶化ちゃかすように言いました。

 ウインは少し笑いながら首をふり、

「やめないよ。本を読むのはやめない。でも、心の中でさなぎになる。そして新しい自分を作っていくんだよ。一年後には羽化うかするんだ。ウインのウは、羽化うかのウ。一年間だけね」

 アズサはウインの言葉を聞いて、自分もまた変化をむかえるポイントにいることを思い出します。

「一年後か。私も大学を卒業そつぎょうする年だね。教員採用試験きょういんさいようしけんに合格したら、私もばたくよ。新しい自分になるんだ」

 ウインは笑いながら、

「アズサお姉ちゃんは、きっときれいなチョウならぬ、いい教員になるよ」

 と言いました

「ありがとう。ウインはどんなふうに羽化するのかな?」

 ウインはふっと息をぬいて、

「それを決めるのが、さなぎの一年間なんだよ」

 と答えました。

「すっごく活動的な子になったりして。野生児になって無人島でサバイバル生活を送るような」

 アズサは冗談めかしてからかいました。

「それもちょっと興味あるんだよね」

「うわあ、もしそうなったらウインが変わりすぎてて、出会ってもわからないかもだ」

 と、アズサはわざとおどけたふりをして言いました。

「わかるように、このポニーテールは残しとく。それに」

「それに?」

 アズサは首をかしげます。

「心がある。心の形は、どんな姿すがたになっても、変わらない」


 その会話をきっかけに、ウインの生活は少しずつ変わり始めます。これまでは本を読むことに没頭ぼっとうしていたウインでしたが、今はちがいます。しだいにウインのほうから声をかけて、男子や女子をドッジボールにさそい、昼休みを体を動かしてすごすようになりました。

 やがて、アズサの教育実習きょういくじっしゅうの終わりが近づき、ウインにとっても別れの時がせまってきました。『星の王子さま』で読んだ「別れ」というテーマが、今は自分のこととなって、ウインの心に重くのしかかっていました。

 ――次にアズサお姉ちゃんと会えるのは、お正月かな。でもきっといそがしくなって、今までより会えることがっちゃうんだろうな。

 きっと家に来るときには、アズサはラフな服装ふくそうで、先生のすがたではなくなっていることにウインは思い当たります。

 ――「名倉先生なぐらせんせい」を見ることができるのは、今だけなんだ。

 ウインは、自分の中に芽生めばえた感謝かんしゃの気持ちを形にしてアズサに伝えたいと決意しました。彼女は『星の王子さま』に出てきたバラをモチーフにした刺繍ししゅうを、えらびました。心を込めてハンカチに刺繍をしました。それは、アズサへのおくり物としてふさわしいものだと感じていました。

 教育実習きょういくじっしゅう最終日さいしゅうびがやってきました。

 お別れのあいさつをするその日、ウインは何日もかけて作り上げたバラの刺繍ししゅうのハンカチをアズサにわたしました。

「アズサお姉ちゃん、これ、私が作ったの。バラは、『星の王子さま』で最初にできた、たった一人の王子さまの友だちだったから」

 ウインはあらかじめ考えていた言葉を思い出しながら、さらに話しました。

「私に大切な一冊をくれた名倉先生に、このハンカチを持っていてほしいんだ」

 アズサはそのハンカチをしっかりと受け取りました。彼女は、刺繍ししゅうをじっと見つめます。

 ――王子さまは、地球に来てからもバラを思い出すことができた。目には見えない遠い場所にあっても、大切な友だちを思い浮かべていた。

「ウインにとっても、私にとっても、心にいつも思い浮かべることができるバラができた。ありがとう。私は、バラを大切にするよ」

 秋の日差しの中、風がさらさらと木々をゆらしていきます。

 教育実習きょういくじっしゅうがはじまったときにはあつさが残っていたのに、今はもう風につめたさがまじり始めています。ウインは新しい秋物の服を着ていました。カーキ色のシャツにオリーブ色のジャケット、そしてごわごわした綿めんのパンツ。アズサは気づくでしょうか。この秋にウインがえらんだ服がアズサがいつか着ていた服にていることに。

 一方、アズサは初日と同じ白いワイシャツに、い色のパンツスーツを着ています。アズサはちらっとウインの服装に目をやりましたが、何も言わずに軽く手を振り、そのまま静かに学校を去っていきました。

 

 その日から、ウインはクラスメイトとの時間をさらに楽しむようになりました。女の子たちとアニメや漫画の話をし、男の子たちとスポーツやビデオゲームを楽しむことがえました。学校でも放課後でも、今までよりずっと友だちといっしょに過ごすことが多くなっていきました。

 季節が冬にうつりました。

 ある日の帰り道、

さなぎになってから、かえって動き回っているなんて、ちょっと変だよね」

 と、『星の王子さま』を胸に当てながら、ウインは心の中でつぶやきました。

 すると、心の中の誰かが答えました。

「ぜんぜん変じゃないよ。亜幼虫あようちゅうっていって、さなぎに近い姿すがたで動き回ったりする虫もいるよ」

 その声にウインは思わずみがこぼれました。

「あはは、いつか本で読んだ知識だなあ」

 と、彼女は心の中でその誰かに返事をします。自分の心の一部が、ウインに答えてくれたのでした。


 そのとき、ウインの目のはしに、冬のバラの花が見えた気がしました。どこかの家の窓辺まどべいていたのかもしれません。四季咲しきざきのバラもあると本で読んだことがありました。四季咲しきざきというのは、一年中、季節にかかわらず花をつけることです。

 今日だけなぜか、そのバラが目に飛び込んできたのでした。その理由に、ウインには思い当たることがありました。アズサお姉ちゃんはどうしているかなと考えることが、このところ多かったのです。

「心があるからだよね」

 その時、となりを歩いていた同じクラスの男子が、ウインの一人言に気づいて

「ウイン、なにか言ったか?」

 と声をかけてきました。

「なんでもないよ」

 と答えてから、思いついたように

「ねえ、今日も格闘かくとうゲームで遊ぼうっか」

 と言ってみました。このところ、ウインは格闘かくとうゲームの腕がめきめきと上がり、男子たちにも負けないほど強くなっていました。ゲームパッドでどんなわざでも好きなタイミングで自由にくり出せるウインでした。とくに上手なのが、大技を相手に当てずにほんの少し手前で出してわざとすきをつくる、いわゆるフェイント技です。これを見て相手が攻撃したら、ウインのコンボ攻撃こうげき餌食えじきなのです。

 ――攻撃こうげきを当てようとした直後が、いちばん防御ぼうぎょあまくなる瞬間しゅんかんなんだって、私は知ってるからね!

「いいぜ。今日こそ、俺が勝つ!」

 ウインは笑いながらジャケットのそでを軽くまくり、答えます。

「私も、負けないよ」

 力強く言いました。


 彼女たちの頭上には、目には見えないけれど星が輝いていました。青空の向こうに広がる無数の星々。その中には、彼女たちの未来をみちびく星もきっとあるのでしょう。

 ウインは、これから自分がどこへ飛び立つのか、まだ知りません。だれにも未来の自分のことはわからないのです。

 それでも、ウインは家へとつづく地面を元気にみしめます。


(おわり)

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