第32話 希少な時間

 文化祭の二日目、今日は朝から、昨日よりも人が多い。

 この学校のご近所さん以外にも、ここのOBらしくて綺瀬崎さんと親しそうにしゃべっている人や、私服姿の大学生か高校生っぽい男子や女子とか、色々といて。


 ここで将棋を指したいっていう人はそんなに多くはないけれど、それでも駒に触って目を輝かせる子供達はいて。

 駒の動かし方とかを教えたりしながら、朝の時間は過ぎていく。


 そんな中、部室の扉がそっと開いて、綺瀬崎さんがそっちの方に走り寄った。


「おはようございます。ようこそ、師匠」


「うん、おはよう。なかなか賑わっているね。結構結構」


 入って来たのは、黒い縁の眼鏡を掛けていて、髪の毛をぴったりと整えている、初老の男性だ。

 背は高くなくて、痩せていて。

 両手を後ろで組んで、ちょっと背中を丸めて、にこにこと笑っている。


 この人が、綺瀬崎さんの師匠で、プロ棋士の大橋九段。

 棋界の最高峰にいる一人だ。

 今まではテレビでしか見たことがなかったけれど、そこの印象と同じで、普通のおじさんっぽい。

 その人の前で綺瀬崎さんは、いつもよりもたくさん笑顔を覗かせて、直立不動だ。

 きっとこの人のことが大好きで尊敬しているんだろうと、一目で分かる。


「うんうん、懐かしいねえ。あまり変わっていないね」


 優しい眼差しで部室を眺めてから、対局コーナーで空いていた椅子に座った。


「じゃあ、一局やらせてもらおうかな」


 ……ええっ!!!???

 大橋九段が、将棋を指すの!?!?

 今ここにいる対局係は、俺と繁久君だ。

 お互いに顔を見合わせて、ここは綺瀬崎さんにお任せるするしかないと、頷き合う。

 こんなの、まともに相手ができるとしたら、ここでは彼女しかいない。


「あの、綺瀬崎さん……」


「師匠、私と指したって面白くないでしょう? ここにいる桐谷君に相手をしてもらおうかって思います」


「そうか、それは楽しみだね」


 ……な、なんですってえ!!!???

 綺瀬崎さんにお願いをしようとする前に、お二人で話しをされてしまった。

 そんな、俺なんかが、相手になる訳がないじゃないか!?

 何を言ってるんだ、綺瀬崎さん!!!


「じゃあお願いね、桐谷君」


「…………」


 なんだかその笑顔、無邪気な子供が蟻を踏みつぶす時のそれに似ていませんか?

 まさに蟻と巨人、村人Aと魔王のような対決を、楽しんでいませんか?


「桐谷君かい? じゃあやろうか?」


「は、はい……」


 こんな人に柔和にほほ笑みながら言われると、それ以上は断れない。

 綺瀬崎さんだって、今まで見たことがないほどの、にこにこ顔だし。


 仕方がなくて、ぴんと背中を伸ばして、大橋九段の前に座った。

 ひとつひとつ駒を並べる指先に、いつも以上に力がこもる。

 とても相手にならないと思うけど、こんな人と向かいあって一局指せる機会なんて、滅多にないんだから。


 正式な対局に則って振り駒をやって、大橋九段が先手番になった。

 彼の初手は角道を開ける7六歩、こちらはそれに応じて8四歩として、飛車先の歩を進めて、戦いが始まった。


 綺瀬崎さんは振り飛車が得意で、その師匠らしく彼も飛車を角の傍に動かした。

 こちらは飛車を動かさない居飛車でじっくりと構えて、相手の出方を伺う模様に。

 でも、遥かな格上相手になにもしないままだと、どんどんと差をつけられてしまう。

 じっと盤上を眺めて、勝機を伺う。


 とはいえ実力の差はやっぱり歴然で、中盤でのやり取りで駒をたくさん取られてしまって、だんだんとジリ貧の状態になっていった。


『パシーーーン………!!!』


 大橋九段が持ち駒の金をこっちの玉の横に放った時、空気を切り裂くような音が走った。

 いつの間に出来上がっていた人垣も、びりびりと震えるようだ。


「まいりました」


 もう打つ手がなくなったので、負けを認めて頭を下げると、大橋九段はそれまで真剣だった表情を崩して、柔らかい笑顔になった。


「うん、うん。瑠美ちゃん申し訳ないけど、コーヒーをもらえるかな? ちょっと観想戦がしたい」


「は、はい!」


 大橋九段からオーダーを受けた綺瀬崎さんが、慌てて喫茶コーナーの方に走る。


「いいかな、桐谷君、観想戦?」


「あ、はい。勿論です!」


 観想戦とは、対局が終った後で、駒を動かしながら戦いを振り返ることだ。

 どこがよくてどこが悪かった、そんなことを言い合って、次への参考にするんだ。

 駒を最初から並べ直して、一手一手動かしながら、思いついたことを言い合う。

 もっとも、俺なんかが言えることは少ないけれど、訊かれたことに応えると、大橋九段はうんうんと頷きながら、代わりの手を教えてくれたりする。


 「桐谷君、だったね? 君は強いな。どこかで習ったのかな?」


 綺瀬崎さんが入れた紙コップのコーヒーを口にしながら、そう言葉を贈ってくれる大橋九段。

 圧倒的な差で負けてしまったので、そう言われても全然実感がないのだけれど。


「実家に住んでいた時に、近所に将棋好きな人がたくさんいました。その人たちに、色々と教わったんです」


「そうか。君の実家は、どこにあるのかな?」


 大橋九段の物言いは明るくて優しい。

 ユーモアがあって人懐っこい解説は、将棋ファンの中でも人気が高い。

 最近では久々にタイトルホルダーに返り咲いて、巷ではオヤジの星といった、嬉しいのかどうか分からないような呼ばれ方をしている。


「岐阜県です。何もない田舎ですけど」


「……岐阜県?」


 大橋九段の手が、ピタリと止まる。


「そこの、どのあたりだい?」


「T市の近くです。といっても、そこからバスに乗って大分山の中ですけど」


「そうか……ちなみに、十文字っていう名前に、心当たりはあるかい?」


 え……? どうして、そんなことを訊くんだろう?

 でも、そうだな、確か……


「ちょっと離れたとこに、そんな名前の家がありました。そこのおじいちゃんとも何回も指しましたけど、滅茶苦茶強くて、一回も勝ったことがありません」


 少し前の記憶を辿って応えると、すぐ横に座っていた綺瀬崎さんが口を震わせた。


「あの、大橋師匠、それってもしかして、十文字大師匠のことじゃ……?」


「そうだね、そうかもしれないね。住んでいる場所が同じだし。それにどこか、打ち筋が十文字師匠に似ていると思ったよ。こんな偶然って、あるんだなあ」


 大橋九段の話を耳に入れて、氷のように透き通った瞳に光を宿す綺瀬崎さん。


「桐谷君、十文字仙叡じゅうもんじせんえいって人、知らない? もうかなりのご高齢のはずだけど」


「え? どうでしたっけ? どこかで聞いたことがあるような……でもその人は近所の人からは、仙さんって呼ばれていた気がします。たしか90才を越えたヨボヨボの人でしたけどね」


「……桐谷君……その人って多分、大橋師匠の先生。十文字仙叡大師匠よ」


 なんだか難しい言葉を寄せられて、俺の脳回路はついていけなかった。





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打ち上げ花火の夜に、クラスで一番気になる君と仲良くなった まさ @katsunoi

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