寝ころんだ遮断バーと、昨日に絡まる積乱雲

音愛トオル

寝ころんだ遮断バーと、昨日に絡まる積乱雲

 4月――雪南せつなにとっての世界の半分が消えた。

 正確には、雪南自身がその手で消した。


「今日も大変だったねぇ」

「こんなに暑いのに外練はさすがにね……時間こそ短くなったけど」

「ねね、この後どうする?」


 季節が変わっても失ったものが戻ることはなく、雪南は拭い難い後悔を抱えたまま夏のこの空を潜っていた。運動部の自分と、文化部のあの子とでは普段の学校でも合う機会などなく、まして夏休みに偶然会うことなどないと思っていた。

 会いたく、ないとも。


「雪南はどうする?この後予定ある?」

「私?えっとね、今日はたしか……」


 周りに合わせて伸ばし始めた髪をやめた。ついていけない話題にしがみつくのをやめた。手に馴染んだ仮面を捨てた。

 自分を肯定していく度に、自ら壊したはずの関係が恋しくなってゆく。

 散り散りになった空の青に張り付いた薄雲が、目を離したすきに天に伸びる真っ白な積乱雲になっていく。その速度よりも、多分ずっと速く。その大きさよりも、多分ずっと大きな、それは言葉だった。


――晴夏はるかが、好き。


「うん、大丈夫!夕方までなら遊べるよ」

「おっけー、夕方ね。そしたら――」


 肩からずり落ちるスクールバッグを背負いなおす度、きっと遠くへと進んでいる。

 あの日、晴夏から告白された時。雪南は心臓が止まるかと思った、その瞬間の熱と痛みは今でも褪せることなく脈打っている。

 だが、雪南には自分の気持ちに正直になることができなかった。


 雪南が大好きな晴夏は、雪南自身が大嫌いな自分を好きだと、そう言ってくれたから。


 自分が嫌いな自分のままでは、晴夏の隣に立つ資格など、この恋心を開くことなどできないと、そう思ったのだ。


「……え」


 だから、世界の半分を壊した晴夏との関係を断ったのに。


「――雪南」

「……晴夏」


 その場にいた2人以外にとっては、まったく意味のない集団どうしのすれ違いだった。運動部の練習帰りの雪南たちと、きっとこれから練習に行くのであろう晴夏たちと。

 けれど、2人には――少なくとも雪南には、その一瞬の視線の交錯は積乱雲の爆発に等しかった。意志とは関係に身体が動き、衝動が脳天を貫くままに、靴底がアスファルトをえぐった。


「え、雪南!?その子……あっ、ちょっとっ」

「晴夏?何かあったの?」


 強張った表情を氷のように張りつけた晴夏の手を掴んで、雪南は雲を背にめちゃくちゃに駆けだした。十歩目を少し超えたところで、手の中が軽いことに気づき、晴夏に振りほどかれたかと思ったが、晴夏はされるがままだった。


 ああ、私、なにしてるんだろう。


 好き、好き、晴夏が好き。

 ずっと、終業式の日に連絡を断ってからずっと、その言葉が脳裏から消えることはなかった。周りに合わせてばかりで、空っぽな自分が大嫌いだったから、好きになれるように努力もした。

 それでも世界を壊したことに変わりはなくて、晴夏を連れ出す理由にはならなくて。


「雪南、止まってよ」

「はぁ、はあ……晴夏」


 文化部のはずの晴夏の方が涼しい顔で、肩で息をする雪南はそこに拒絶の色を見出した。


――当たり前だよ。だって、こんなことをして。


「どうして?どうして、今更こんなこと……」

「――分からない」

「なに、それ」

「気づいたら、身体、勝手に……」


 握ったままの手が持ち上がって、繋がった腕と腕が背後を走る線路の遮断機のようだった。二人の視線を遮る断絶が通っているから今、繋がっている腕。

 あの日の答えが何か、どこか違っていたら。


「あの時は、ごめん。ちゃんと答えを返す前に逃げ出して……で、でもね、私、本当に」

「――ない」

「え?」

「もういらないって、言ってるの」


 晴夏は俯いたまま告げると、その手を振りほどいた。

 雪南から握っていたはずなのに、雪南の手からあっさりと、晴夏が抜けていく。


「私、待ってたんだよ、ずっと。あの日から。でも雪南は――来てくれなかった。もう、遅いんだよ」

「ご、ごめん、晴夏。でも私、自分のことが大嫌いで、それで、そんな自分じゃ晴夏の傍に居れないって」

「――相談して欲しかった。一緒に、考えたかったんだよ」

「……ぁ」


 雪南が口を開こうとするのと同時に、電車が空間を裂いてなだれ込んできた。声が届かない数秒を見つめあうことができたのは、もうずいぶんと昔のことで、晴夏は目を細め、ぱっと踵を返してしまった。

 ダメだ、今追いかけなかったら今度こそ本当に終わってしまう。

 終わらせたくなかった自分の世界が、本当に。


――やっと、自分のことが少しは好きになれそうだったのに。


「……はる、か」


 その背中はもう、遥か遠い町並みに消えてしまった。

 影の差す積乱雲に覆われて、雪南はその場にくずおれた。



※※※



 雨が、降っている。

 自分の身体で影になったアスファルトの、そのほんの小さな場所にだけ。


「雪南……っ」


 うずくまって、膝を抱いて嗚咽する晴夏の口から響くのは、雪南の名前だけ。

 一瞬だって忘れたことのない雪南への想いが胸を衝いて、それを堪えるごとにぽろぽろと、大切なものが剥離していく。突然の再会と、雪南の行動。

 自分があの日の雪南を、雪南の前で許していたら、何か変わったのだろうか。


「無理、無理だよ……無理なんだよ、雪南」


 晴夏はポケットからスマートフォンを取り出し、画面をつける。そこに映っているのは、晴夏ともう一人――恋人だった。

 あの場にこそいなかったが、今日もこの後部活で顔を合わせる、同じ中学の後輩。自分を好いて、追いかけてきてくれた子だ。そんな理由で高校を決めていいのか、と聞いたら晴夏がいると知らなかったらしい。


「私、もう……踏切の反対にいるんだよ」


 学校へ向かうには踏切を渡らないといけなくて、あのまま雪南と見つめあっていられなかったからわざわざ遠回りして駅の階段を使った。だが晴夏には、雪南と隔たるこの季節が見えていた。

 どうして、もっと早く捕まえてくれなかったの、雪南。


「私だって……大好きなのにさ」


 その言葉が地面に落ちる刹那、晴夏のスマートフォンが鳴った。ちょうど開いていた晴夏の眼には、後輩の――恋人の、彼女からのメッセージが躍っている。

 いつもの可愛らしい動物のスタンプと、そのあとに続く砕けた敬語。木霊する笑い声と、鮮明に浮かんだその嬉しそうな表情に、晴夏は顔をしかめた。


――、痛む喉元に目をつむった。


「――雪南」


 恋人に会う前に、この涙が枯れるまでは。

 初恋の人の名前を呼ぶのはきっと最後になるから。だから、許してね。


「……大好き」


 この言葉を、今だけは。

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寝ころんだ遮断バーと、昨日に絡まる積乱雲 音愛トオル @ayf0114

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