四畳半の約束
真花
四畳半の約束
季節は巡る。季節だけが巡る。
陽が暮れて、最後の蝉の声がする。四畳半の部屋に響いてくる声を掻き消すように永蔵はギターを弾き、歌う。僕は部屋の隅に座って永蔵の演奏を聴く。伸ばした髪をヘアバンドで止めて、丸めがねをかける永蔵は控え目に言っても若いおじさんで、清貧な日々なのに小太りで、着古した服をまとっている。
九時になると永蔵はギターを置く。家主との約束らしい。そして必ず水を一杯飲む。
「ミカは今度の曲、どう思う?」
永蔵が言った言葉は煙のように浮き上がっていた。
「いい曲だと思うよ。でも、ズバッと入って来る感じはないかも」
永蔵は少しだけ俯いて、弱々しく笑う。
「そっか。まあ、そうだよな。俺もそう思うよ」
永蔵はギターの腹をトントンと叩く。僕は黙ってその音を数える。
「バイトして、ギター弾いてだけの毎日じゃ、豊かなものは生まれないのかも知れないな」
永蔵は顔を上げて、僕の目を見る。
「じゃあ、たまには他のことをしたらいいじゃないか」
「そうだな。でも、そう言うことじゃなくて、日常的にもっと刺激があったらなと思うんだ」
僕の体がすぼむ。その収縮を振り払うように僕は首を振った。
「僕がいるよ」
永蔵は小突かれたかのように目を瞬かせて、小さく頷く。ギターを叩く指が止まった。
「むしろミカがいるから、俺はギターに集中出来るのかも知れない。いや、悪い意味じゃないよ」
「僕は邪魔なのかな」
永蔵は首を急いで振る。
「そんなことない。俺はすごく助かっている。でも、それに甘んじて外の刺激を求めないことは、改善しなきゃいけないと思う」
「永蔵って、僕のこと最初から怖がらなかったよね」
「本当はちょっとビビったんだよ。部屋にいきなり少年がいるんだもの。でも、見た目がやさしそうだったからとにかく話してみたんだ。そしてら、いい奴だった」
僕は喜びのツボを突かれて、頬が大きく綻んだ。永蔵は照れたように笑う。
「僕も住人が永蔵でよかった」
いつか永蔵が成功したらこの部屋を出て行く。その日まで僕が存在するかは分からないが、その別れを望みたいのに望みたくない。気持ちが伝わったのか、永蔵が一瞬締まった顔になってから、また笑う。
「末長くよろしくな」
僕は真っ直ぐに永蔵の言葉を受け取れない。今日は二千五百日目だから。僕は言わなくてはならない。永蔵がどうするかに関わらず、伝えなくてはならない。だが、息が詰まる。永蔵は穏やかに僕を見ている。永蔵にとってはいい話だ。顔を見ていたら言葉にする力がぐつぐつと湧いて来た。
「永蔵、あのね、僕って、ただの地縛霊じゃないんだ。西洋だと天使とか悪魔とか呼ばれているものなんだ」
「ふぅん。だとしてもミカはミカだろ」
永蔵は余裕たっぷりの顔をする。僕は言うべきことが分かっているのに言い淀んで、永蔵は僕をじっと見ながら続きを待っている。僕は視線を逸らさずに、勇気を溜める。
「奇跡を一つ、起こせるんだ。小さな奇跡。ヒットするような曲が降りて来る、くらいだと思う。もし奇跡を望むなら叶えられる。その代わり、僕と言う存在は消える」
永蔵にとって音楽で成功することは人生を賭けているものに勝つと言うことだ。僕なんて同居人に過ぎない。この停滞から抜け出すのに贄にするのにためらいもないだろう。僕は永蔵の唇が動くのが怖い――
「奇跡ねぇ」
僕は固唾を飲んで耳を澄ます。
「バイトに行かなきゃ。どうするかは明日でもいいかな?」
「うん。大丈夫」
本当は大丈夫じゃなかった。早く答えを聞きたかった。
「このまま永遠のコンビニ店員をするか、と言う問いとも取れるね」
「そこまでじゃないよ」
永蔵はのろのろと準備をする。何も言わない。僕も黙っている。そのまま永蔵は部屋を出て行った。置き去りにされるのは毎日のことだ。
僕は狭い部屋の中をうろうろする。狭過ぎて上手くうろうろ出来なくて、いつもの場所にうずくまる。そこは部屋の角で、部屋全体と窓が見渡せるところで、ギターと歌を聴く定位置だ。僕は消えると言ったが、本当には消えない。ここからいなくなって、別の場所でまた発生する。だが、永蔵との関係は終わる。だから、永蔵にとっては僕は消えるので間違いない。僕は旧友を訪ねるみたいに永蔵のところに行くことは出来ない。奇跡に使われるのは僕達の関係性とそこに乗っている時間だ。……僕は捨てられるのだろうか。永蔵の望みのためなら、それでもいいのかも知れない。成功したならどの道この部屋を出て行くのだから、同じだ。
僕はそれでいい。……よくもない。全然よくない。僕は永蔵の前から消えたくない。それでも、永蔵がそれを望むなら叶えなくてはならない。そう言う存在だと自分で割り切らなくてはならない。きっとそうなる。永蔵に奇跡は必要だ。そこを間違えることはないだろう。
考えても同じことばかりが頭の中を巡るから、寝ることにする。永蔵は朝の六時までコンビニだからその時間には起きよう。体育座りをして目を閉じる――ここに来てからのことが一つずつ浮かんでは消えていく。
――オーディションを受けに行って帰って来た永蔵は地面に顔がくっついているんじゃないかというくらいに落胆していて、僕が「大丈夫?」と訊いたら、「死ぬかも知れない」と答えた。「大嫌いな生き物をけなすコンテストくらいに、ボコボコに言われた」と唇を噛み締めた永蔵は、この日ばかりはギターを弾かなかった。「俺だってがんばっているんだ」「どうして結果につながらないんだ」「くそ、くそ、くそ」永蔵が半べそになりながら口から漏らす言葉を、僕は一つずつ受け止めようとして、上手く出来たかは分からないがずっと一緒にいた。次の日、永蔵はいつもよりも熱くギターを弾いた。
――駅前に弾き語りに週に一度永蔵は行く。僕はいつも部屋で待っている。だから、どれくらい客が来るのか盛り上がるのか、全然分からない。分からないが、帰って来た永蔵にかぶりつきで話を聞く。大体、客が一人か二人いればいい方らしい。だが、その日は帰って来るなり笑顔が弾けていた。「すごかった?」僕が訊くと、「すごかった」と永蔵は答えた。「十人以上、人垣みたいな状態になったんだ。毎曲、拍手があって、おひねりもあって、三人がCDを買ってくれた。でもそれ以上に、曲が届いた感触があったんだ。俺の曲だよ。ミカ、俺の曲が届いたんだ」僕は嬉しくなってぴょんぴょん飛び回って、永蔵も一緒になって跳ね回った。「だから今日はごちそうだ」と、永蔵は焼き鳥を出した。
――「俺って、才能がないのかな」唐突に永蔵はギターを置いた。「ずっと芽が出ないままおじさんになっちゃったよ」僕は困って、「才能の有無は僕は分からないよ。でも、永蔵がギターと歌に対して普通じゃないってことは分かる」永蔵は小さくため息をついた。「執着も才能の一つだと言うことか?」「そうかも知れない」「はは。でもそうかもな。そもそも、才能があろうがなかろうがやるんだから関係ないか」永蔵は勝手に復活して、ギターを手に取った。
――「コンビニバイトって、どうなの?」と僕が訊いたら、永蔵は首を捻った。「正直、基本的にはつまらないよ。面白いのは、深夜だからだと思うけど、常連さんと話を少ししたりすることがあることかな。それ以外は、業務を淡々とこなすか、時間が過ぎるのを待つかだけだから」僕は永蔵が好きでやっているのかと思っていたから、こっそり驚いた。「どうしてコンビニバイトを続けているの?」永蔵はもう一度首を捻って「無資格で比較的時給が高いのと、怪我をするリスクが少ないから、かな」僕は頷く。「確かにギタリストは手の怪我は絶対したくないよね」永蔵は口許だけ笑う。「その通り。俺はギタリストであって、コンビニ店員ではないんだ」僕は、「そうだよ!」と声を上げた。
――永蔵がギターの弦を貼り直すのを見るのが好きだ。どこかの楽器店で買って来た弦を用意して、ペグを緩める。永蔵は弦の交換の間は喋らない。切れた弦や古い弦が取り払われて、新しい弦が張られる時、ペグを締めると同時に弦が擦れる音がする。僕はその音が好きだ。チューニングをしてから、ジャン、と音を出す。そして必ず最初に同じ曲を弾く。もちろん永蔵の作詞作曲オリジナル、曲名は「ヒマワリ」、真冬だってその曲を弾く。生まれ変わったギターが、いつもの曲と交わって、永蔵のギターになる瞬間を僕は何度も目撃して来た。僕は拍手をして、永蔵が得意げに頭を下げる――
「ただいま」
永蔵の声で目が覚めた。僕は思い出の波の中に泳いでいる間に眠っていた。
「おかえり」
永蔵はいつもギターを弾く場所にどっかりと座る。
「奇跡の話なんだけど」
僕はひゅっと息を呑んで、頷く。
「いらないや」
「どうして」
言いながら僕の底の方が嬉しくなって踊っている。僕は永蔵と別れなくていい。
「確かに成功するための一つの手段としては、魅力的だと思う。でもそれでミカがいなくなっちゃうんじゃ嫌だし、奇跡なんかなくても自力で掴み取って見せるよ」
永蔵は自信ありげに口許を緩ませる。
「本当にそれでいいの?」
「いい。そりゃ、このまま報われないで人生終えるのは嫌だけど、まだなんとなく大丈夫な気がするんだ」
「そっか……別の何かに使うとかは?」
「ない。さっきも言ったけど、ミカがいなくなるのは嫌だ」
僕の胸が暖かくなる。
「分かった。ありがとう」
「うん。でさ、今思い付いたんだけど、次の曲はミカをテーマにして書こうかと思うんだ。奇跡をくれる天使か悪魔か地縛霊か分からない生き物? 人? の話」
僕はもう嬉しさを隠さない。わー、と立ち上がって喜ぶ。
次の日、永蔵は部屋に帰って来なかった。その次の日もそれからずっと帰って来なかった。僕は部屋から出られないから探しにも行けない、もやもやとしながら毎日を過ごした。永蔵は死んだのかも知れない。そうでなければ帰って来ない理由がない。
五週間後、永蔵は帰って来た。
「ミカ、久し振り。車に轢かれて入院していたんだ。さみしかったよな。ごめんな」
僕はそんなことより永蔵が生きていたことの安堵の方が大きくて、へたり込む。
「生きててよかった」
永蔵は昨日と同じことを今日もするかのように、いつもの場所にどかっと座る。
「それがある意味、死んだんだよ」
「どう言うこと?」
「左手が動かない。元に戻るかどうかも分からない。つまり、ギターが弾けなくなった」
永蔵の目は虚空を見つめている。そこに置いてあるのは、何もない未来だろう。
「そんな」
「困ったね。俺にはもう何もない」
永蔵は首を振る。闇が流れ落ちて行くみたいだった。
「永蔵は、僕の歌を書くんだよね?」
「もう出来ない」
「ギターで生きるんだよね?」
「それも出来ない」
「僕には手段がある。覚えている? 奇跡の話」
永蔵は、うっ、と詰まる。
「ダメだ。ミカがいなくなっては、ダメだ」
「僕が消えるか、永蔵が死んだままで生きるか、どっちか、ってことだよ。僕は亡霊に過ぎない。僕は、永蔵に生きて欲しい」
永蔵は黙る。その視線が左手に注がれている。
「やっぱりダメだ、そんなこと」
「きっとずっとそう言う。そう言ってくれる。……きっと、僕の歌を歌って」
僕は永蔵の左手に触れる。ぼう、と僕が光る。
「さよなら」
「待て、ミカ」
「何?」
永蔵は苦しそうに息を詰める。ゆっくりと首を振る。
「ありがとう」
永蔵は僕の目をしっかりと見て、その双眸には涙が溜まっていた。
「いいよ」
僕はそれから消えた。
永蔵の「ミカ」が街中で聞かれるようになるのは、もう少し先のことだ。
(了)
四畳半の約束 真花 @kawapsyc
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