私は猫
森川文月
第1話 片思いのあの男子が
私は不思議な体験をした。事件と呼んでもいい。その事件があるから今の幸せがあるといっても過言ではない。
それは高一の秋のことだ。
友だちと楽しく喋りながら、下校している時だった。私はシオンと腕を組んで歩いていた。
急にシオンが横顔を覗き込み、変なことを言った。
「セイナ、鼻から赤い糸が出てるよ」
シオンはけげんそうな顔をして首をかしげる。
「そう? たぶん赤い糸じゃなくて鼻血ね」
私は的確に状況を分析した。
「そっか。糸のわけがないか」
シオンはアハハと声を出して笑った。
「好きな人の裸を想像してのぼせたんだわ。きゃー、恥ずかしい」
私はティッシュを出して鼻を拭った。
「好きな人って、だれ? もしかして」
ココハは私とシオンの顔を見比べ、手を叩いた。友だちと三人でキャッキャと笑い、大げさな身振りでふざけながら、歩いた。
町角でシオンやココハと別れた。
途中、バーのマスターで不破というおじさんが現れた。私は軽く会釈した。不破はサングラスをかけたまま、こちらに見向きもしないで無言ですれ違った。愛想の悪い、変な大人だ。
不破をやり過ごし、帰宅の道すがら、私の目の前を一人の生徒が横切った。男子生徒で私の片思いの相手だ。名前を北斗武尊という。
「あ、タケル」
そう言いかけ、私は凍りついた。
一台のトラックが猛スピードで走ってくる。人影がスローモーションのように秋空を飛んだ。タケルは宙を舞うと、ドサリと地面に落ちた。私は一瞬、視界が真っ暗になるほどの衝撃を受けた。
トラックは停止することもなく、無情に走り去った。タケルはうずくまり、動かない。トラックがタケルをはねた。
後で考えたら、あれは明らかに轢き逃げだった。
「な、何てことを」
私は地面にぺたんと尻をつけた。しばらくの間、どうしてよいのやら分からなかった。秋空を眺め、口を開けてホケーっとしていたらしい。近所の人がそう証言した。とにかく、私は途方に暮れた。
ややあって、タケルの弟のワタルが通りかかった。すぐに兄が倒れているのに気づき、慌てて騒ぎ出した。騒ぎを聞きつけ、近所の宮崎さんがやって来た。彼女がスマホを出して警察と消防に通報してくれた。宮崎さんはタケルの体を揺すり、大声を出して呼びかけた。タケルの反応は返ってこなかった。目を閉じたままで体はピクリとも動かなかった。
やがて、パトカーと救急車がサイレンを鳴らし、現場に到着した。
「たいへんなんです。男の子が倒れてるの」
宮崎さんは切迫した口調で、救急隊員に現状を伝えた。私の知る宮崎さんというおばさんは、いい人である。心配そうに見守りながら、中腰で私の肩を抱いた。
「セイナちゃん、しっかりするんだよ」
「は、はい」
その時、私は卒倒しそうだった。深呼吸を三度して、どうにか気持ちを落ち着けた。
その後、事件の一報を受け、警官が聞き込みを開始した。私は、事件の第一発見者として、目撃した車や事故当時の状況をつぶさに訊ねられた。事故の起きた時刻からしばらく時間が経過し、私は冷静に答えられたと思った。
「事件のこと、話してくれる?」
男の警官は穏やかな顔で訊ねた。
「はい。トラックが一本道を走ってきて、高校生をはねました」
「高校生というのは、どうして分かる?」
「それは同級生の男子生徒だからです」
「高校名は?」
「銀空高校です」
「被害者の名前、分かる?」
「はい。北斗武尊です。武尊と書いてタケルと読みます」
「タケルくんは一人で歩いていたのかな」
「そうです」
「歩道をはみ出したりは」
「してないです。ちゃんと白線の内側を歩いてました」
「トラックは向こうからやって来て、あっちへ行ったの?」
警官は指をさして確認する。
「そうなります。とにかく、すごいスピードを出してました」
「トラックのナンバーなんて、覚えてないかな」
「そこまではちょっと。一瞬だったので」
「車体の色は?」
「白です。白っぽいトラック。でっかいヤツ」
「他に目撃者はいそうかな」
「さぁ。夕方で、この辺は人通りも少ないし、たまたま私くらいしかいなかったのかも。目の前で見たのは私だけかもしれない」
「タケルくんの家族に連絡するけれど、ケガをしてるから病院に運ぶよ。きみの名は?」
警官が顔を覗き込む。
「私は流です。流星七」
「ナガレ、セイナさん。神坂病院て、分かる?」
「分かります。近所にあって、通ったこともありますから」
「救急車がタケルくんを神坂病院に運ぶらしいから、向かってくれる? 後で家族も合流するはずだ」
「承知しました」
私はテキパキと答えたものの、内心ではビクビクしていた。こりゃあ、エライことになったぞ、と。スマホの写真機能で自分を映してみたら、顔が青ざめていた。他の人が事故に遭った場合でも、そうなったかもしれない。よりによって、片思い中の相手のタケルがはねられてケガしたのだ。しかも、重傷のようだ。救急車が来ても、宮崎さんが揺すっても動かなかった。
「どうしよう。タケルはどうなっちゃうの? そばにいられても、私は何をしてあげたらいいの?」
いくつもの疑問と疑問符がわいてきて、私を悩ませ、苦しめた。そんな経験などしたことはなかったし、何一つとしてできそうにないように思われた。高一の女の子にできることなんて、たかがしれている。肩を落とした。
軽い絶望感を抱え、警官から解放された。私は救急車に乗って神坂病院まで揺られた。すぐに着くのだが、信号で停車した。
目を閉じているタケルの手を握ってみた。ほんのり温かい。まだ体の熱はある。ということは、生きている証拠だろう。早くケガが治ってほしい。意識も取り戻してほしい。心からそう願った。
銀空高校では、もうすぐ秋の学園祭が始まる。来週の話だ。こんな楽しい時期に、私の恋する相手は、なんと不幸な運命を背負わされたのか。かわいそうすぎる。私がトラックの異変にもっと早く気づき、タケルに注意を促せば、こんなことには――。私は唇をかんだ。深く首をうなだれた。
やがて、救急車は止まった。暗い駐車場で後ろのドアが開き、寝台に寝ているタケルは外へ運び出された。車の赤いランプが消え、大人たちがどやどやと病院内に入る。タケルを乗せた台は車輪つきになり、廊下を滑るように進んだ。
手術室の前で扉は閉まった。当然、中には入れない。私は一人で待つことになった。
「お嬢さん、患者さんの付き添いですか」
看護師の女が優しい声で確認する。
「はい。同級生のセイナです」
「セイナさん。患者さんの家族が見えるまで、病棟の待合所で待ってもらえますか」
「はい」
「手術が終わったら、看護ステーションから直接知らせに行きますので」
「分かりました。あの」
「なあに?」
「タケルの容態はどうなんですか? 手術するんですよね」
「心配しないで。きっと上手くいくわ」
看護師は明るく言うと、私の肩に手を置いた。
「待合所で待てばいいんですね」
看護師は頷き、肩を押して促した。
私は手術室を振り返った。小さなスペースがドアで仕切られ、その向こうが手術を行う部屋らしい。
看護師の教えてくれた、中央の待合所に行った。
そこには窓を背にしてクリーム色の長椅子があった。
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