Ⅴ
7月に入ってハッファヴェルクでは雨の降る日が多くなってきました。
4日の朝も街には小雨が降っていました。薄暗い街の中で駅の小さな白熱灯がぼんやりとあたりを照らし出します。街はまだ眠っていました。トタン屋根を叩く雨水の音色やアスファルトの上を軽快に走り抜ける
こんな朝に市電を待つのはどうしたって憂鬱なものです。長い列に並ぶ男の人たちは無愛想であまり言葉を発しません。
延々と列に並び続けるこの日々の中で、この国の人たちは何を待っているんでしょう。誰もがそれをわかっているような顔をして、ですが誰一人としてその問いに答えられません。みんな何かを待っているうちに、いつの間にかその何かを忘れてしまったんです。そうです。みんな、その大切な何かを思い出すためにこの列に並んでいるんです。待って、待って、待ち続けて、いつか自分の順番が回ってくれば、わたしたちは望んだものに出会えるはずなんです。
わたしは今なら信じられます。いつか順番がくることを。この長い長い列の果てを。並び続けた先にある、わたしの待っているかけがえのない何かを。
周囲がにわかに騒めいて、男の人たちは線路に降りて電車の前に群がりました。
「ダメだ。死んでる……」
「シベリアの収容所で見た顔だよ」
「復員兵か」
「気の毒にな……」
人々は悲痛そうにそう話し合いました。まるで自分のことのように。
「Vor der Kaserne vor dem großen Tor
Stand eine Laterne……」
突然、誰かがそう歌い始めます。その低い歌声はまるで波のように周囲に伝わってゆき、気がつけばその場にいた男の人たちは全員で合唱を始めていました。
「「「Und steht sie noch davor
So wollen wir da uns wiedersehn
Bei der Laterne wollen wir stehen
Wie einst Lili Marleen Wie einst Lili Marleen……」」」
雨の降る暗い空の下、男の人たちは仲間を弔うために歌い続けていました。
しかし、しばらくすると緑色の制服に身を包んだ
おばあさんは仕事を辞めました。何度も訪ねてはおしゃべりをした団地の部屋は空っぽになって、わたしの元にはあのラジオだけが残っていました。
7月20日、この日久しぶりに顔を見せた太陽がファッハヴェルクの黒い街並みに沈んでいくのを、わたしは部屋の窓からばんやりと眺めていました。おばあさんのラジオはまるで染みついた習慣を守るように西の放送を流し続けています。
『先日アメリカのケネディ宇宙センターから打ち上げられたサターンⅤロケットはついに月周回軌道に到達しました。ヒューストンから中継です……』
夕陽が完全に沈んで街が暗闇に包まれると、わたしは部屋の明かりをつけて夕飯の支度をするためにキッチンに立ちました。痩せこけたニンジンの端をナイフで切り落としてティッピーに呼びかけます。
「ほら、ティッピーの好きなニンジンですよ」
返事はありませんでした。というより、ティッピーの姿自体が見当たりません。いつもは夕飯の支度を始めると呼ばれなくても出てくるのに。
わたしは急に不安な気持ちに襲われてティッピーを探しました。テーブルの下、ソファーの裏、家の至る所を除き込んで、そして見つけました。ティッピーは部屋の薄暗い片隅、暖房の裏で小刻みに震えながらうずくまっていました。
「ティッピー、どうしたんですか?具合悪いんですか?」
わたしがそう呼びかけても、ティッピーは震えるばかりで答えてくれません。恐る恐るその白い体に触れます。すごい熱でした。
わたしはティッピーの体に何が起きているのかまったく検討もつきませんでしたが、ただ事ではないということだけはわかりました。ティッピーはその赤紫色の瞳を潤ませながらわたしを見上げます。まるで何かを伝えようとしているかのように。
「ティッピー、どこか痛いんですか?教えてください。しゃべってください。お願いです。じゃないとわたし………」
いくらそう叫んでみたところで無駄でした。弱々しく頭を下げるティッピーを見て、わたしは途方に暮れるしかありませんでした。
希望などないのだと思いました。いや、本当はずっと前にわかっていたんです。なのにわたしは知らないふりをしました。もう二度と戻るはずのない日々の影を追いかけて、その幻にしがみついて、失ったものがいつか帰ってくると思い込んでいたんです。時計の針は巻き戻りません。部屋の時報が重々しく午後8時を告げました。
「うるさいですね……」
わたしはティッピーを抱いて部屋を飛び出しました。団地の階段を駆け下り、街を目指して駆け出します。
街の外れに一軒だけ、昔からの獣医さんが残っています。今医者に見せればティッピーは助かるかもしれません。
わたしは全力で走りました。薄暗い視界の中で木組みの家々が次々と後ろへ流れていきます。夜の冷たさが真正面からわたしに吹き付けました。足を踏み出すたびに石畳の硬い衝撃がわたしの体を貫きます。それでも、わたしは歯を食いしばりながら身を低くして走り続けました。わたしにはどうしてもこの小さな希望が必要だったんです。生き続けたいと、強く感じました。
獣医さんからの帰り道、わたしはボロボロの足を庇うようにゆっくりと家路についていました。ティッピーはわたしの腕の中で静かに眠っています。
街の中心地まで戻ってきた時、わたしはあるおかしさに気がつきました。こんな夜更けに人々が道に出て、じっと上の方を見ているんです。男の人も女の人も、子供も大人も、
わたしはその光景に少し不気味なものを覚えつつも気になって恐る恐る顔を上げました。
オレンジ色の屋根の向こうに広がる空は雲ひとつなく、どこまでも濃紺色の世界が広がっていいました。いくつかの明るい星々が地上の光にも負けずに力強く輝いています。そして、そんな夜空の中で一際大きく温かい光を発するもの。金色の三日月はゆったりとその身を宇宙に横たえていました。
懐かしい感覚でした。いつだったかこうして、夜空に月を見上げたことがあるような気がします。思い出は朧げな輪郭を伴って、温かい光でわたしを包み込みました。腕の中でティッピーが動いてわたしの方を見つめます。
「きっと、あそこにみんないますよね」
不思議と、ティッピーが答えてくれたような気がしました。
うさぎたちのいた戦争 八月朔日八朔 @hozumi_hassaku
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