6月になりました。ハッファヴェルクにも遅れて春がやってきます。

 わたしはすっかり元気になったティッピーと一緒に新しくできた公営団地に移っていました。職場までは少し遠くなって通勤に市電を使うようになりましたが、前よりも暮らしはずっと良くなった気がします。

 おばあさんとはあれ以降交流が続いています。たまたま同じ団地に越してきたこともあって週末にはわたしが部屋を訪ねておしゃべりをするのが日課になっていました。おばあさんはいつもあのラジオで西の放送を拾いながら思い出話をしてくれます。この街であの日々の記憶を共有できる人がいるということはわたしにとって幸せなことでした。


 15日の午後、この日もわたしはおばあさんの部屋を訪ねていました。テーブルの上に置かれたラジオはニュース番組を流していて、その内容はどうやら遠い東の国、日本のことのようでした。おばあさんはそのニュースを聞くと顔を顰めて言います。

「聞いたかい、西ドイツヴェッシーの次はあの日本ヤーポンが世界で二番目の経済大国だとさ。まったくうらやましい限りだね。同じ戦争に負けたってのに、どうしてこんなに違うんだか……」

 わたしは世の中のことはよくわかりません。ですがこの日本という国にはどこか馴染み深い響きを感じるのでした。

「戦争中はこの街にも日本娘ヤパーナリンがいたね。アジアのお菓子を売っててさ。覚えてるかい?」

「覚えてます。よく、覚えています」

「いろんな人間がいたね。アンタは知らないだろうけど、街角にあったカフェ、表向きはシュトラスブルクから来たフランス人フランツマンがやってるってことになってたけど本当はユダヤ人ユダの店だったんだよ。結構な数の人間が知ってたけど別に気にも留めてなかった。こんな田舎街じゃそんなことどうだってよかったのさ。まったく滑稽な話だよ。ナチ幹部の妻子があの店の常連だったって言うんだからね。おおらかな時代だったよ」

 戦争中、わたしの周りにはたくさんの人がいました。ドイツ人、ナチ、ユーゲントの子供に日本人、そしてユダヤ人も。みんな知っていました。いや、どうでしょう。やはりよくわかっていなかったのかもしれません。あの時代、男の人たちのいなかったこの街の女の子たちにとって、それはそんなに大切なことではなかったんです。

「あの人たち、今どうしてるんでしょう」

「さあ、ユダヤ人たちはイスラエルにでも行ったんじゃないかね。ナチで捕まらなかった奴らはどうなったんだか……南米に逃げたって話はよく聞くね。あとはパレスチナに渡ったのもいるにはいるらしいよ。酔狂なことだね」

 その話を聞いて、わたしは遠い外国に思いをはせました。そこは一体どんなところなんでしょう。街並みは綺麗でしょうか、吹く風は暖かいでしょうか、人は優しいでしょうか、動物はかわいいでしょうか、話される言葉は、流れる音楽は、食べ物の味は、コーヒーの香りは……そこは、ここよりもいいところなんでしょうか。

 わたしはハッファヴェルクの外に広がる世界を知りません。この街は、わたしにとっての全てでした。

 

 しばらく呆けて窓の外を見つめていたわたしをその場に引き戻したのはドアを叩くノックの音でした。おばあさんは椅子を立って玄関を開けます。どうやら郵便が届いたようで、おばあさんは椅子に掛け直すと茶色の封筒を雑に切って中身を確認しました。

 急に、おばあさんの目に涙が溢れました。わたしはそれにとても驚いて、どうしたらいいのかもわからずただあたふたとするばかりでした。

「息子が、帰ってくる……」

 おばあさんは震える声で言いました。わたしはそれを聞いてもしばらくはその意味を理解できませんでした。それを見たおばあさんはわたしの手に手紙を握らせると無言でそれを読むように促しました。

 それは、シベリアからの手紙でした。おばあさんと同じ苗字を名乗る男の人はやや頼りない筆跡で、自分が戦争で敵の捕虜となって生き延びたこと、つい先日まで収容所で強制労働に就いていていたこと、そして、ようやく解放されこの街へ帰ってくることを詳細に書き記していました。黄ばんだ便箋のところどころで斑点が跡となって文字のインクを滲ませています。

「あの子は生きてたんだ。ああ!神よ感謝します。本当に、今日まで待ち続けてよかった……」

 おばあさんは天を仰いで言いました。それを見て、わたしの気持ちはどうしようもなく昂ります。胸の奥の方から何かが突き上げるようでした。石のように冷たく固まっていた頬がぎこちなく動いて、ぴくぴくと震えました。ほぐれきれない顔の上を流れ落ちた涙がスカートの上に点々と染みをつけます。

 ラジオは空気を読まずに軽快な旋律を流し続けていました。西陽が部屋の中にまで強く照り付けます。ハッファヴェルクの街並みは温かく光り輝いていました。

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