Ⅲ
次の日、わたしは昼休みの前に隙をみて仕事を抜け出しました。こんなことをするのは働きだしてから初めてです。
昨日のおばあさんは工場の屋上にいました。ドラム缶をテーブル替わりに木箱の上に足を開いて座りながらのんびりとラジオを聞いています。
「あの……」
そう話しかけるとおばあさんは驚いたような様子でわたしをみつめて言いました。
「アンタかい。サボってると監督員にどやされるよ」
「すみません。でも、どうしてもこの前のお礼がしたくて……」
わたしは手に持った魔法瓶を差し出しました。おばあさんはそれを見ると怪訝そうな顔で言います。
「なんだい、そりゃ?」
「コーヒーです。インスタントですけど、手に入ったのでよかったら一緒に飲みませんか」
「ほお、コーヒーかい。うれしいねえ」
おばあさんはそう言ってにこにこと笑いました。大きく開けた口の中に、金歯がきらりと光っていました。
わたしたちは屋上でコーヒーを飲みました。本当はお礼だけをしたらすぐに仕事に戻るつもりだったのですが、おばあさんはわたしを強く引き留めてなかなか返してくれません。
おばあさんはいつもこの屋上で「休憩」をしているそうで、これまで一度もバレたことがないのを誇らしげに語っていました。
「このコーヒー、西側のだろう?」
おばあさんが突然そう言ってきたのでわたしは答えにつまってしまいました。そんなわたしを見ておばあさんは笑います。
「別に
おばあさんのラジオからはたしかに聞いたことのないような不思議な音楽が流れていました。その陽気な旋律に心までぴょんぴょんと踊り出すようでした。
「ここでも西の電波が入るんですか?」
「ここだけの話ね、西ベルリンの電波を拾ってるんだよ」
おばさんはそう言って自慢げにラジオを触りました。それはごく一般的な量産型の携帯ラジオでしたが、ところどころ人の手が加えられたような跡がありました。おそらく裏の業者から手に入れものでしょう。
「まったく、この国じゃラジオ一つ聞くのだってこんなこそこそしなきゃならないんだから嫌になるよ。これじゃあ、戦争やってた時の方がよっぽどマシだね」
おばあさんは話していると時々、わざと大きな声でそんなことを言います。わたしはその度に首筋にひやりとするものを感じずにはいられませんでした。
「あのころはよかったよ。なにせ男どもがデカい顔して街を歩くこともなかった。ノルマンディーだかスターリングラードだか知らないけどさ、戦場に行ったってだけで威張るんだからねアイツらは。アタシに言わせりゃさ、本当に威張っていいのは死んだ奴らだけなのさ。アイツらは生きて帰って来れたくせに、まるで戦場を懐かしむようなことを言って、一番の被害者みたいな顔しながら悦に入ってるんだ。ほんとうに嫌だよ、ああいうのは」
おばあさんはそこまで言って一度深いため息を吐きました。
「すまないね、こんな話して。歳を食うと愚痴が多くなっていけないよ……」
「誰か、戦争で亡くされたんですか?」
ふとそう尋ねて、すぐに後悔しました。おばあさんはわたしの不躾な質問に嫌な顔をすることもなく、どこか達観したように答えます。
「一人息子が兵隊に行ってね。まだ帰って来てないんだよ。とっくに死んでるか、もしかしたら案外西で楽しく暮らしてるかもしれないね」
「きっとそうですよ」
わたしは取り繕うように相槌をうちました。おばあさんはそれを聞くとなんだかさびしそうに微笑んで言いました。
「
「わたしは母を小さい時に亡くして、それからは祖父と父と、あとお姉ちゃんと一緒に暮らしてきました。だけどもう祖父も父も……」
「そりゃ気の毒にね。お姉さんはどうしたんだい?」
「わかりません」
「わからないってのは?」
「わたしたちはこの街で小さなカフェをやってたんです。だけど、戦争が終わる少し前に見慣れないお客さんがやって来て、陸軍の人でペーネミュンテでお仕事をしてるって言ってました。お姉ちゃんは数学と物理がすごくよくできたんですけど、そのお客さん、お姉ちゃんの才能を見込んで自分の助手にならないかって言ったんです。あのころはお店の経営も厳しくて、お姉ちゃんはお金のためにその人について行きました。はじめの一か月くらいはよく手紙も届いてたんですけど、その後すぐに戦争が終わって、それ以降はまったく連絡も取れてません……」
話し終わって、わたしは欠けたコーヒーカップを見下ろしました。黒い水面は冬の風に吹かれて白い湯気が踊っています。
しばらくの沈黙の後、おばあさんは静かに言いました。
「待ってるんだね、お姉ちゃんのこと」
はっとして顔を上げました。わたしは思い出したんです。どうして自分がこの街で暮らし続けるのか。
静かな時間が流れていました。乾いた空気の中で、鐘の音がよく聞こえました。
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