Ⅱ
街の雪が溶けて、3月になりました。ティッピーの怪我も治ってきて、わたしもときどき配給所でミルクにありつけるようになってきましたが、それ以外、あまり暮らし向きは変わりません。寒い冬の日々はまだしばらく続きそうでした。
9日は特に冷え込む日でした。工場の昼休み、わたしは食堂で列に並んでいました。男の人二人が前後からわたしを挟み込むようにして何やらひそひそと話していました。別に聞き耳を立てるつもりはなかったのですが、こうも至近距離で会話をされるとどうしても話の内容が耳に入ってしまいます。
「
「ああ、
「
「また戦争になるんじゃないか」
「戦争か……」
「ああ、戦争だよ」
男の人たちはその言葉を口に出す時、みんな顔を顰めます。まるで生傷に触るように……
列が進んでわたしの番が近づいて来ました。工場の食堂は待ちさえすれば暖かいご飯をもらえるから大好きです。前の人が豆とじゃがいものスープとソーセージ、パンをもらってわたしがカウンターの前に進み出ようとすると後ろにいた男の人がわたしを押し退けて順番を抜かしてきました。
「スターリングラードじゃずっと空腹だったんだ。これくらい許せよ」
男の人がそう言うと、周りにいた人たちも声を上げて笑いました。わたしはその笑い声の中にあって、恥ずかしい、悔しい気持ちになりました。
わたしは何もしていないのに……そう叫んでみたところで無駄でした。だって、わたしは「何もしていなかった」のだから。
「だまりな!」
その空気を震わすような叫び声は一瞬で辺りを静まり返らせました。振り返ると食堂のおばあさんが腕を組んでわたしを押し退けた男の人に詰め寄っています。
「無抵抗な女の子いじめて、それでも男かい!恥を知りな!」
「なんだと……俺たちはお前ら女が内地でのうのうと暮らしてる間戦場で死ぬ思いをしてたんだ!お前らが俺らに指図する権利はねえ!」
わたしとおばあさんの周りでそうだそうだと男の人に同調する叫び声が聞こえました。わたしはとても怖くなってずっと顔を伏せています。
「もともとあんたたち男どもが起こした戦争だろ!?過去のことを引っ張り出してうだうだと、みっともないんだよ!」
「俺らは命を賭けてた!国のために命懸けで戦った!敬意を示されていいはずだ!尊重されていいはずだ!」
男の人の叫び声は呪詛のようにわたしの上に重くのしかかってきました。多くの人の視線がわたしの方に向けられているのを感じます。どうしようもなく、膝が震えました。
「なるほど、大した勇者たちだね……」
おばあさんの声に怯えた様子はありませんでした。
「本当に立派な愛国者、ナチだよ!アタシが
「俺たちはナチじゃない!俺たちはただ命令されたことをしただけだ!」
「
その一言で男の人は恐れるように黙ります。おばあさんはさらに言いました。
「別にあんたらが仲間内で勝手に過去の栄光に浸ってようと傷の舐め合いをしてようと気にはしないよ。だけどね、無抵抗な人をその醜い感情の捌け口にしようっていうんなら許さないからね!覚えておきな!」
もう誰も言い返す人はいませんでした。おばあさんはわたしの肩を抱くと顔を上げるように言いました。そして、わたしの顔を見ると「痩せすぎだね。いっぱい食べな」と笑って、いつもより多めにご飯を注いでくれました。わたしはその時初めておばあさんの顔をまっすぐ見ることができました。灰色の優しい目をした、綺麗なひとでした。
その日はいつもより少しだけ明るい気持ちで家に帰ることができました。お皿に注いだミルクを舐めるティッピーにおばあさんのことを話してあげます。心なしかティッピーの顔も嬉しそうです。
ドアをノックする音が聞こえました。わたしの家を訪ねてくる人に心辺りはありません。ドアチェーンをかけてそっと玄関の扉を開けました。
そこにいたのは腰の曲がった郵便局員のおじいさんでした。見ると手には一斤のパンほどもある小包を抱えています。わたしは自分にこんな大きな小包を送ってくる人にもやはり心当たりがなかったので最初怪しく思いましたが、何度確認しても宛先はわたしで間違い無かったので受け取ることにしました。
そのずっしりと重みのある小包には〈東ベルリン中央郵便局〉とだけ書かれていて送り主の名前も住所もわかりません。恐る恐る包みを解いて中身を確認すると中にはたくさんの保存食や衣料品、薬などが入っていました。どれもこちらの国では手に入れることのできない、西側のものばかりです。
嬉しさよりもまず驚きがありました。わたしはなぜ自分の家にこんなものが送られてくるのか訳がわかりませんでしたが、その答えは箱の底に隠すように入れられた手紙ではっきりしました。戦争が終わってすぐ西側に移り住んだかつての同級生たちが、壁ができて以降連絡の取れなくなったわたしを心配して色々と生活用品を送ってくれたようです。手紙を読む限り、どうやら同じような小包を何回も送ってくれていたようですが、途中で着服やら横領やらされて届いたのはこれだけでした。
ですが、それがなんだと言うんでしょう。それはこの世界に残されたわたしの唯一の思い出でした。壁の向こうであったとしても、そこにわたしのともだちが生きて、わたしのことを思っていてくれているんです。それだけで、わたしは幸せでした。
小包の中に一つ、インスタントコーヒーの缶がありました。蓋を開けると香ばしい世界の空気がわたしの肌をやさしく撫でます。思わずティッピーを抱き上げてそのふわふわとした背中に鼻を埋めました。それは遠い昔に失ってしまった、懐かしくて暖かい感覚でした。
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