うさぎたちのいた戦争
八月朔日八朔
Ⅰ
1969年、
元日の休みが終わり、仕事が再開してから2週間ほど経った頃だったでしょうか。朝礼の時間に工場長がおはなしをしました。なんでも、わたしたちの工場で作られた部品がロケットになって、遠く空の上でなにかすごいことをやったみたいです。工場長はずっと得意げでした。わたしたちの共和国、そして社会主義の絆で結ばれた兄弟の国々は科学技術で西側を大きく引き離したそうです。わたしは自分がずっと作り続けてきたあの部品がロケットに使われていたということをその時初めて知りました。
終業を知らせるベルがけたたましく鳴ると私は油で黒く汚れた作業着のまま急いで列に並びました。組合の書記に仕事のチェックをもらわないと配給所で物がもらえません。でも、早くチェックを済ませて配給所に行かないともらう物自体が無くなってしまいます。
この日はいい位置に並べました。このまま配給所まで急げばミルクがもらえるかもしれません。ですが、そんな希望はすぐに捨てなければなりませんでした。背丈がわたしの倍はある屈強な体つきの男の人が前に割り込んできたんです。
「あ、あの……わたしが先に……」
わたしは咄嗟にそう声を上げましたが、その男の人は振り返って舌打ちをしただけでまた前を向いてしまいました。
わたしはそれ以上何も言えませんでした。この街にいる男の人はみんな戦争から帰って来た人たちです。いつも怖い顔をしていて大きな声で怒鳴るように喋ります。わたしは男の人たちの前ではいつも一歩引き下がるしかありません。わたしは、あの戦争に行っていませんでした。
やっとチェックが終わって工場を出た時には冬の陽はもうすっかり落ち切っていました。街灯がうっすらと照らす石畳の上を配給所に走ります。道の両側には灰色に汚れた雪が堆く積み上げられていました。
Y字路の角にある配給所の前には長い列ができていました。この分だとミルクは無理そうです。
配給所の建物は昔とかなり変わってしまいました。棚にはコーヒー豆と色とりどりのカップの代わりに無個性で均質な工業製品が並んでいて、カウンターに立つ人も花のような笑顔を咲かせた女の子たちではなく、無愛想で高圧的なおばさんです。それなのに、どうしてでしょう。あのカフェよりも今の配給所の方がずっとたくさんのお客さんが並んでいるんです。オレンジ色の屋根の下に丸い窓が見えました。あそこは、わたしの部屋があったところです。大きな月が空に登っていました。
結局、配給所でもらえたのはライ麦パンと残り滓のような少量の野菜だけでした。公営労働者団地の一室に帰ると小さな釜戸に火を入れて鍋をかけます。塩と配給所でもらった野菜を使って簡単なスープを作り、硬すぎるパンをそれに浸して食べました。
パンとスープを少し残しました。ただでさえ人一人が生きるのに十分とは言えない量のこの食事を残すようになったのはひと月ほど前からです。
「ティッピー、ご飯ですよ」
わたしはそう言って暖房の前に丸まって眠る白いうさぎにボウルを差し出しました。この子を拾ったのは1968年のクリスマスイヴ、街に大雪が降った夜でした。配給所からの帰り道、寒空の下街灯の微かな温もりに縋るようにしてうずくまる1羽のうさぎを見つけたんです。一面の雪景色の中でこの白いうさぎを見つけられたのは偶然ではありません。道を横切るようにして点々と落とされた赤い血痕の先にこの子はいました。ひどい怪我を負っていて、ところどころ刃物で切り付けられたような痕があることからも人間にやられたんだとわかりました。
ファッハヴェルクの人々がうさぎを嫌いになったのはたぶん戦争が終わった後からです。戦争中は街のあちこちにうさぎがいました。みんなこのかわいいふわふわの生き物のことが大好きで、撫でたり抱っこしたり、お菓子をあげる人もいましたっけ。でも、戦争が終わって、街に赤軍がやってくるとみんなそれどころではなくなりました。特に兵隊に行っていた男の人たちが帰って来た後は食べるものが足りなくなって、食料をつまみ食いするうさぎたちは厄介者になりました。みんな、昨日までかわいがっていたうさぎを殺して鍋にして、ファッハヴェルクからうさぎの姿は消えました。その時になってはじめて、わたしは戦争がどういうものだかわかったんです。
「ごめんなさい。今日もミルクはもらえませんでした。明日こそは頑張ってみます」
ティッピーはわたしがそう話しかけても何も答えません。ただ小さい口を懸命に動かしてふやかしたパンに齧り付いています。
突然、どうしようもなく悲しくなりました。目から涙がとめどなく溢れて、思わず声を上げて泣きそうになりましたが隣の部屋の住人に聞かれるのが怖くて必死に息を殺しました。
ラジオでしょうか。知らない言葉で歌う男の人の低い声にまじって、どこからかポルカの音色が聞こえました。
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