雪の螺旋階段
小野塚
『根古間神社祭禮』権堂龍弥
煙草の匂いが染み付いた部屋の隅で
その人 は、いつも気怠そうに
窓際の壁に凭れていた。
『バックルーム』と言えば聞こえは
いいが、所詮ホストクラブの控え室だ。
殺風景な室内には鏡こそあったものの
薄汚れたソファとテーブル、それに
パイプ椅子が幾つか置かれただけの
殺風景な部屋の片隅で。
格好良いとか、そんな中途半端な
憧れではなかったと思う。どういう
訳だが理屈抜きで惹きつけられる、
とても 不思議な人 だった。
吹雪の日には、窓は開けんなよ?
厭なモン、見たくなけりゃ。
ショウさんはそう言うと、女が吸う
様なメンソール煙草に火を付けた。
「…!」慌ててライターを出そうと
するが、いつも間に合わずに終わる
俺を叱るでもなく、薄く微笑って
紫煙を吐き出す。
「お前は、そんな詰まらねぇ事に
頭を使うな。もっと世間の為になる
事に頭を使えよ。」彼はそう言うと
又、煙草の先を赤く灯した。
あの頃。俺の周りにいたのは大抵
どんな奴でも 訳あり だった。
金が欲しい、自分自身を試したい
女と戯れていたい、只何となく
居場所が欲しくて。動機は様々に
あるけれど、結局の所は誰もが皆、
裏に止むに止まれぬ 事情 を
抱えていたのだろう。
ショウさんは、その店の古参だった。
多分、三十代半ばぐらいだろうか。
この世界、年齢と経験とはイコールに
ならないが、その雰囲気や佇まい、
それに周りのホスト達の気の遣い方。
諸々から見ても歴はそこそこだと
知れた。
彼は、いつも 独り だった。
気安く声を掛けられる様な、砕けた
空気は一切身に
孤立した、よく言えば 孤高 の人。
おいそれとは真似の出来ない美学が
あったのだ。
一方で、俺はと言えば。金欲しさに
門を叩いた世間知らずの学生だった。
幼い頃に父親が失踪して、母は女手
一つで俺を育てた。大学教員だった
父親の様に学問の世界で大成して
欲しいと、教育に関しては充分に
手を掛けて貰ったとは思う。
けれども、俺が 理 I に受かると
同じ頃、母親に 男 が出来た。
そして漸く責任を果たしたとばかりに
再婚した。
義父に対して、特段の感情はない。
何らかの感情を抱く以前に 遠慮 が
あったからだ。母親は俺を育て上げたし
俺も、もう子供でいられる
なかった。だから
俺は、それを契機に家を出た。
家を出た迄は良かったが。
母親からの僅かな援助と奨学金では
足りなくて、俺は大学に通いながら
夜の世界へと足を踏み入れたのだ。
それも、いずれは周知の事となる。
国立大学の工学部に通いながらの
ホスト稼業は俄に周囲の目を惹いて
時に悪意の 標的 となる。
只でさえ競争の激しい夜の世界は
常に誰かを蹴落として這い上がろうと
血道を上げる奴ばかりだった。
でも、ショウさんは。
理不尽な妬みや憂さ晴らしの制裁とは
全く無縁の、孤高な場所にいた。多分
あまり他人に興味がなかったのかも
知れないが。
それでも時々、他愛のない話をする。
何処の誰のモノとも知れない様な、
遠い昔話だとか。
それは大抵、酷く救いのない話では
あったけれど、それでも俺は何故か
彼の語る話に耳を傾けずには
いられなかった。
雪が、次第に風を帯びて。
それはいつしか 吹雪 になる。
「女が来るんだよ。窓の外に。」
ショウさんは、ゆっくりと煙草の煙を
吐き出しながら、遠い目をして呟いた。
「女、って…ここ、ビルの九階じゃ
ないですか。それ、幽霊とかそういう
類の話…とか?」正直、苦手だった。
怖い話が、というよりも、何やら
得体の知れないものに対しての不安が。
足下の地面が、いつの間にか水面に
変わってしまうような絶望感。
不確かなものへと変わる 不安 が。
「…幽霊って言うより、呪いだろう。
吹雪の日、そこの窓の外に 女 が。
外窓の縁に両手を掛けて、ゆっくりと
這い登って来ようとする。最初は頭、
そして徐々に女の顔が…。」
「…っ。」思わず後ろに仰け反った。
「お前。怖い話、苦手だったのかよ。
まあ、顔さえ見なけりゃいい。
でも、もし見ちまったら…最期。」
連れて行かれるさ。
「その女って、何かこの店に曰くが
あったりするんですか?」色恋沙汰が
メシの種だ。男女のいざこざが高じて
トラブルに発展するのも日常茶飯事。
実際、このビルの螺旋階段から落ちて
死んだ奴もいるのだという。
それは興味があるか否かに関わらず
自然と俺の耳にも入って来る。
殺されたのか、自殺したのか。
「あぁ…そうだな。」ショウさんは
そう言うと又、紫煙を吐き出す。
「この店に曰くアリって…どんな?」
「怖がりな癖に随分ぐいぐい聞いて
来るじゃねえか。お前、自分には
関係ないから呪われねえとでも思って
いるんだろう?」少しだけ
俺を見つめるショウさんの眼は
闇の底を見つめる様に。
「…いや、別に俺は。」呪われる?
「それ、どういう…。」言いかけて
押し黙る。訳の分からない事に対して
無意識のうちに追求してしまうのは
俺の悪い癖だった。
「すみません。俺、訳が分からない方が
怖いっていうか。だから聞かなくて
良い様な事まで、つい。」
「俺が殺した。」
一瞬、ショウさんが 何 を言って
いるのか分からなかった。「……。」
「俺が殺したんだよ、店の客だった
女を。非常階段から突き落として。」
「…え。」「冗談だと思ってるのか?
もう十年にもなるか。散々貢がせて
夢見させて、邪魔になって殺したんだ。
丁度こんな吹雪の日だった。」
「はぁ。」自分でも相当に間抜けな
声が辛うじて出た。本気なのか、
それとも冗談なのか。ショウさんの
表情からは何一つ読み取れない。
「この窓の梁に、白い手を掛けて。
やっと登って来たはいいが、落ちた
衝撃で顔が。だから俺以外の男に
顔を見られるのを
見ちまった奴は道連れにされる。」
吹雪は、止みそうになかった。
窓硝子に映る室内にはショウさんと
俺の二人だけ。永遠に取り残されて
いく様な気がした。
静かに雪は降る。そして、
いつの間にか、荒れ狂う。
ふと、二重サッシの古い窓枠に
雪ではない 何か が。ひらひらと
動いているのが見えた。「…ッ!」
それは、か細い指先の様な。
「…ショウさんッ!」彼は動じない。
俺は
慌てふためいて店内へと逃げ込んだ
俺が先輩達に軽く頭を小突かれながら
『バックルーム』へと戻ってみると。
そこには、もう誰も居なかった。
俺はその後、割と直ぐに修士論文への
専念と就活を理由に店を辞めた。
その際に店長から聞いた事によると、
以前この店のホストが客の女とデキて
それに対する 良からぬ嫌がらせ の
末に、女は螺旋階段から飛び降りた。
相手のホストは『バックルーム』の
窓際で首を吊った。
そんな事件があったのだ、と。
語了
雪の螺旋階段 小野塚 @tmum28
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