第一二編

パワハラ夫にざまぁ

 「離婚するだと⁉」

 「ええ、その通りよ。あたしはもう決めたの。これ以上、あなたの横暴に我慢したりしない。もう二度と、誰かのオモチャになったりしないってね」

 あたしは堂々と胸を反らして言ってやった。

 思いっきり挑戦的な表情を浮かべて。

 藤村ふじむら――もう『春樹はるきさん』なんて呼んでやるもんか。あたしはもう、こいつのものじゃないんだから――は、あたしが自分に刃向かったのがよほどショックだったんだろう。表情をこわばらせたまま目を白黒させている。

 目をつりあげ、髪を振り乱して汗を流しているその表情はまるで鬼みたいだったけど……いまのあたしには、ただただ滑稽なものにしか見えなかった。

 「ふざけるな! お前みたいな高校にも行ってなくて、かわいくもない女がひとりでなんて生きていけるわけないだろ!」

 藤村ふじむらは唾を飛ばして大声でわめき散らした。そうすれば、あたしが怯えきって言いなりになると思ってるんだろう。この一年、そうだったように。

 でも、おあいにく。もう、あんたなんか怖くないわ。あたしはもう決めたんだから。あんたと別れて今度こそ自分の人生を生きるんだって。そう覚悟を決めたからにはもう怖いものなんてない。それに――。

 助けてくれる人だっている。

 あたしは、あんなに藤村ふじむらに怯えてきた一年が嘘だったように落ちついていた。冷静に言い返した。

 「『お前』なんて呼ばないで。あたしには佐藤さとう夏香なつかっていう名前があるんだから」

 あたしはあえて、結婚前のもともとの名前を名乗ってやった。もう、こいつの妻じゃないんだから『藤村ふじむら夏香なつか』なんて名乗る必要もないからだけど……もちろん、嫌がらせの意味もある。

 あたしはつづけて言ってやった。

 「ええ、その通りね。あたしは家が貧しくて高校にも行けなかった。中学を出てコンビニバイトで暮らすのが精一杯。一生、結婚もできないし、子供も産めない。ずっとずっと社会の底辺を這いずって生きていくしかない。そう思っていた。だから、店の常連客でエリート会社員のあなたにプロポーズされたときは嬉しかった。天にものぼる心地だった。これでもうお金に困らずにすむ。人並みの暮らしができる。そう思ったわ」

 あたしの言葉に、藤村ふじむらは少し余裕を取り戻したみたい。汗まみれで額に髪の張りついた顔に『それ、みたことか』っていう表情を浮かべて、あたしのことをせせら笑った。

 「なんだ。わかってるんじゃないか。そうさ。お前は、おれのおかげでまともな暮らしができてるんだ。おれと別れたら、お前なんてなんの価値もない。せいぜい、ろくでもない男たちに体を売って稼ぐぐらいしかない。それだってお前みたいなブス、まともな客に相手にされるわけがない。おれと別れたらお前なんて一生、世の中の底辺を這いずってみじめに生きていくことしかできないんだ!

 それがわかっているなら二度と生意気、抜かすな! いままで通り、おとなしくおれに従え。おれの言うことにはなんでも『はい』って答えて、言いなりになっていればいいんだ! そうしていれば、これからも人並みの生活をさせてやる」

 藤村ふじむらは両腕を組んで、思いきりあたしを見下しながら叫んだ。自分の優位を信じきっているんだろう。あたしのことをいままで通りの、学歴もなければ手に職もない、ひとりでは生きていけない無力な小動物、自分の機嫌次第ではかわいがり、不機嫌なときには痛めつけてストレス発散する都合のいいペット。

 そう思っているんだろう。

 でも、おあいにく。あたしはもう、あんたのペットじゃないの。

 あたしは藤村ふじむらの言葉を無視して、自分の言うべきことを口にした。

 「でも、それがまちがいだった。相談に乗ってくれた人にもはっきり言われたわ。

 『他人に頼って、幸せにしてもらおうと思ったのがそもそものまちがいだ。自分を幸せにできるのは自分しかいない』ってね。

 本当、その通りだったわ。あんたは妻や恋人がほしかったんじゃない。ただ、自分のストレスをぶつけられるオモチャがほしかっただけ。だから、あたしに目をつけた。学歴も特技もなければ、美人でもない。そんな小娘なら自分に逆らえるはずがない。いくらでもオモチャとして扱ってやれる。そう思っていたんでしょう。

 そんなこともわからずに、大喜びで結婚したあたしがバカだったわ。本当、反省してる。だから、慰謝料は請求しないであげる。この一年、あんたがあたしに投げつけてきた暴言と暴力を考えたら全財産ふんだくってやってもいいぐらいだけど、自分のバカさかげんの代償として納得しておくわ。

 でも、だからこそ決めたの。今度こそ、他人に幸せにしてもらうんじゃない。自分の力で幸せをつかみとるんだってね」

 「ふん。ずいぶんと偉そうなことを言うようになったじゃないか。中卒の能なしの分際で。お前なんか誰が相手にするものか。就職も結婚もできやしない。おれからはなれたらたちまち飢え死にだぞ。自分の甘さを思い知って、おれのもとに帰ってきて、泣きつくことになるんだ。

 『あたしがバカでした。もう一度、お世話してください』ってな。

 どうせ、そうなるんだからいまのうちに謝っておけ。そうしたら許してやる。おれは強くて優しい男だからな。いままでどおり、おれの言うことに従うなら養ってやる」

 「偉そうなのはそっちじゃない。よくもまあ、そんなにふんぞり返って、ろくでもないことばかり言えるものね。あたしがあんたの母親だったら恥ずかしくて死んじゃうわ」

 「なんだと⁉」

 「ずいぶんと、あたしのことをバカにしてくれてるみたいだけどね。でも、おあいにく。ちゃんとあてはあるの。プロ嫁として契約したんだから」

 「プロ嫁だと? なんだ、それは」

 「あたしみたいな貧困女子とキャリア系のシングルマザーを結びつける制度よ。あたしたちには学歴も収入もない。でも、労働力を提供することはできる。キャリア系のシングルマザーは地位と収入はあるけど家事や育児といった役割を分担してくれる人を必要としている。

 だから、お互いに契約して住み込みの家政婦として働く。その間に仕事について教えてもらい、社会に出る準備をする。仕事先の人とも出会えるし、就職先も紹介してもらえる。そういう制度よ」

 あたしの言葉に藤村ふじむらは『これだから世間知らずのバカは!』って大笑いした。

 「そんな都合のいい制度があるもんか。詐欺に決まってる。だまされてるんだよ。お前みたいなバカな女はカモにするにはピッタリだからな。そんなものを信じて、のこのこ出かけていったら骨の髄までしゃぶられるぞ」

 「詐欺なんかじゃないわ。契約相手にはもう会っているし、その人の会社にも行った。その人はいままでにふたりのプロ嫁と契約していて、そのふたりとも会って話を聞いてきたわ。ふたりとも、あたしと似た境遇だったけど、いまではちゃんと正社員として会社に勤めて自分の足で人生を歩いている。それを見てわかったの。あたしにだって同じことができる。ただ、最初の一歩を踏み出す勇気さえあればいいんだってね」

 「この……!」

 藤村ふじむらの顔に怒りがはじけた。エリートらしい端正な顔が醜く歪んだ。昨日までのあたしならその表情を見て怖さに震えていただろう。すっかり怯え、泣いて謝っていたにちがいない。でも――。

 今日からはちがう。

 いまのあたしには勇気がある。

 これまでに出会った何人もの人から勇気をもらってきたんだから。

 無力な女相手に威張り散らすことしかできない卑怯者なんか、二度と怖がるもんか!

 あたしが怯えないのを見て藤村ふじむらはますます怒り狂った。目をつりあげ、口から唾を飛ばしながら叫んだ。

 「この恩知らず! 裏切りもの! 誰のおかげでこの一年、働きもせずに食っちゃ寝していられたと思ってるんだ⁉ おれが養ってやっていたおかげなんだぞ!」

 「なに威張ってるのよ。あたしが自分からはなれられないように、経済力を奪っただけでしょ。第一、あたしはこの一年、家の仕事をちゃんとしてきた。あたしがやって来たこと全部、家政婦を頼んでやってもらったらいったいいくらの出費になるか、思い知るといいわ。あたしは離婚して出ていくんだからいい機会でしょ」

 「そんなことは許さないぞ! おれは離婚なんて絶対に認めないからな。お前はずっとおれのものでいるんだ!」

 「いいえ。離婚してもらうわ。言ったとおり、この一年間のことを問題にする気はないし、慰謝料を請求するもつもりもない。おとなしく離婚に応じるなら、それ以外はなにも要求しないであげるわ。でも、子どもみたいに駄々をこねるようなら裁判沙汰よ。こっちこそ骨の髄までしゃぶり尽くしてやるわ」

 「この……!」

 今後こそ――。

 藤村ふじむらの顔に限界を超えた怒りがはじけた。右腕が振るわれ、握りしめられた拳があたしの顔面を殴りつけた。

 ――ざまあみなさい。

 あたしは心のなかで勝ち誇った。

 ――これで、あんたは終わりよ。

 あたしが内心でほくそ笑んだそのとき――。

 「そこまでだ」

 その声と共に、その人は表れた。とくに目立つ外見ではないけれど、そのなかに狂気染みた危険な気配を感じさせる男の人。

 「な、なんだ、お前は⁉ ここはおれの家だぞ! なにを勝手に……」

 藤村ふじむらはいきなりの第三者の登場に動転したんだろう。唾をとはしながら叫んだ。でも、威勢がよかったのも最初だけ。その叫び声はすぐに消えてなくなった。男の人の後ろからもうひとりの人物が表れたのを見たからだ。

 それは、厳しい表情を浮かべた制服姿の女性警官だった。

 「け、警官……」

 藤村ふじむらの顔が青ざめた。

 さすがに、自分がいかにマズい状況に追い込まれたかわかったんだろう。

 いい気味だわ。せいぜい、今後の自分の運命に怯えるがいいのよ。

 そんな藤村ふじむらを前に、男の人は下手なシェークスピア俳優みたいな大仰な身振りで名乗りをあげた。

 「地球進化史上最強の知性。またの名を藍条あいじょう森也しんやと申します」

 その名乗りに――。

 一瞬、場が静まりかえった。

 藤村ふじむらは呆気にとられて立ち尽くしているし、藍条あいじょうさんの後ろに立つ女性警官もどんな表情をしていいのかわからず困っているみたい。

 ……いや、まあ、あたしも正直、この趣味はどうかと思うんだけどね。

 藍条あいじょうさんは『誰も助けてくれない』って絶望していたあたしを助けて、相談に乗ってくれて、プロ嫁という制度を教えてくれて――って言うか、藍条あいじょうさんがプロ嫁制度の生みの親なんだけど――藤村ふじむらに立ち向かう勇気もくれた恩人だけど……これだけは本当、なんというか、その……。

 わかってやっているんだと思いたい。

 そう……だよね?

 本気じゃないよね?

 でも、とにかく、藍条あいじょうさん本人は大真面目。名乗り終えると藤村ふじむらに視線を向けた。その姿、はっきり言って肩書きだけのエリートの藤村ふじむらより一億倍も迫力がある。

 「お前が夏香なつか氏を殴ったシーンはしっかり録画した。うってつけの証人もここにいる」

 藍条あいじょうさんはそう言って、後ろに立つ女性警官に視線を向けた。その女性警官はいまにも藤村ふじむらをふん縛ってやろうっていう表情でにらみつけている。そんな目でにらまれて、藤村ふじむらはすっかり怯えている。本当、いい気味。それがこの一年間、あたしがあんたから味あわされてきた思いよ。たっぷり、味わうといいわ。

 藍条あいじょうさんはつづけた。

 「普通ならば、暴行の現行犯で逮捕するところだ。だが、そんなことは夏香なつか氏本人が望んでいない。この一年間のことは自分の甘さが招いたことだと納得している。本人がそう言っている以上、他人であるおれがどうこう言う筋合いはない。おとなしく離婚に応じるならそれでよし。だが、そうでないなら……」

 藍条あいじょうさんは藤村ふじむらをにらみつけた。

 その視線、はっきり言って夜に生きるダークヒーローそのもの。もう、まちがいなくハリウッド映画で主役を張れる。いったい、どんな人生を送ってきたらこんな迫力をもてるのか想像もつかないけど……とにかく、普通の人じゃない。

 「このまま逮捕だ。なんなら、もっと効果的な『おとなの解決方法』も用意してあるがな」

 「お、おとなの解決方法だと……」

 その言葉の不吉な響きに藤村ふじむらもよほどビビったみたい。表情をかえて後ずさった。

 無理もないわよね。あたしだって怖くなったぐらいなんだから。でも、藤村ふじむらは意外なことにそのまま引っ込みはしなかった。脂汗をにじませながら、それでも両目に憎しみの光をたぎらせて言い返した。

 「……そうか。わかったぞ。お前、夏香なつかの浮気相手だな! だから急に、離婚なんて言い出したんだな⁉ ふざけるな! そっちがその気なら、こっちにも考えがある。おれこそ、お前たちを訴えてやる! お前らの全財産、慰謝料としてふんだくってやるからな!」

 その叫びに――。

 藍条あいじょうさんは南極の冬もかくやというぐらい冷たい声で答えた。

 「やかましい」

 「な、なに……?」

 「お前のたわごとにつきあう趣味はない。お前に選べるのは、おとなしく離婚に応じるか、それとも逮捕されるかだ。もし、浮気として訴えるというのであればそれは、この藍条あいじょう森也しんやを侮辱するということ。おとなの解決方法を執行することになる。どうする?」

 その一言で――。

 勝負はついた。


 こうして、あたしは晴れて藤村ふじむらと離婚できた。

 いまでは、プロ嫁として元気に暮らしている。

 契約相手の白川しらかわ秋菜あきなさんは、外資系会社の課長を務めるシングルマザー。隙なくセットした短い髪に、いかにもなメガネをかけた理系美女。それこそ、お仕事マンガに出てくる『ちょっと意地悪で高飛車だけど、仕事は抜群にできるクールビューティーの女上司』って感じの人。

 息子の冬徒ふゆとくんは小学五年生。お母さんに似て顔立ちのきれいな子で、さぞかし女子にモテるだろうと思う。ただ、いかにも小学生男子って感じで、生意気なんだけどね、これが。

 とにかく、あたしはいま、秋菜あきなさんと冬徒ふゆとくんの三人で、秋菜あきなさんの高級アパートで暮らしている。生意気盛りの小学生男子の相手はなかなかに大変だけど一番、手間のかかる赤ん坊の時期はとっくに卒業しているわけだから、その意味ではずいぶん楽だと思う。

 それに、生意気ではあっても意地悪じゃないし、家事の手伝いもしてくれる良い子だしね。秋菜あきなさんの教育ももちろん、これまでに冬徒ふゆとくんの面倒を見てきたふたりのプロ嫁さんのおかげでもあるんだろう。あたしは、ふたりに感謝するばかり。

 そして、あたしは、家事と冬徒ふゆとくんのお世話をしつつ秋菜あきなさんから社会人としての教育を受けている。

 「挨拶は忘れないこと! 挨拶はすべての基本よ!」

 「会った人の顔と名前は一度で覚えなさい。人の顔と名前を覚えるのが苦手なら、頂いた名刺の裏に特徴を書き込んでおきなさい」

 「さっきの電話の応対はなに⁉ 社会人として常識あるしゃべり方もできないの? 社会人としてやっていくつもりなら、正しいしゃべり方を身につけなさい!」

 「なに、この文章? なにが言いたいのかわからない文章をダラダラと読んでいられるほど暇じゃないの。文章は常に結論から書く。説明はそのあと。それを徹底しなさい!」

 ……こんな感じで、仕事以前の社会人としての基礎のきそから徹底的に叩き込まれている。普通に会社勤めしている人にとっては本当にただの常識なんだろうけど、コンビニバイトしかしたことのないあたしには、はじめてのことだらけ。とまどうことも多いし、うまくできないことはもっと多い。

 ときには、冬徒ふゆとくんが学校に行っている間に秋菜あきなさんについて会社に行き、会社の人に紹介されたり、雑用を手伝ったりすることもある。そのときに秋菜あきなさんに言われたことがうまくできなくて、失敗することも多い。そんなとき、秋菜あきなさんは本当に容赦がない。本気で叱ってくる。でも――。

 あたしはそれが楽しい。

 充実している。

 秋菜あきなさんは確かに厳しいけど、暴言ばっかりだった藤村ふじむらとちがって結果を出せば褒めてくれる。認めてくれる。秋菜あきなさんに鍛えられることで、自分が社会人として確かに成長していると感じられる。それが嬉しい。

 それに、お給料だってちゃんと出るしね。藤村ふじむらのオモチャだった頃はいつだってタダ働き。一円だってもらえはしない。家計も全部、管理されて、あたしの自由になるお金なんてまったくなかった。

 でも、ここではちがう。秋菜あきなさんは毎月きちんとお給料を払ってくれる。

 「はい、今月分。いつも、よくがんばってくれてるわね。ありがとう」

 そう言って、優しく微笑みながら渡してくれるのだ。

 そうして渡されるお金の重み。

 その嬉しいこと!

 自分の足で立っている。

 自分の力で生きている。

 そう実感できる。

 こうして、仕事を覚えていけば、成果次第で正社員として採用されることもあるって言うんだからますますがんばろうって思える。藤村ふじむらのオモチャだった頃とちがって、自分の将来に対する夢と希望がある。それに――。

 秘密だけど、とっておきの楽しみもあるしね。


 冬徒ふゆとくんを寝かしつけ、つきあいで遅くなる秋菜あきなさんのために軽めの夜食を用意していると、スマホの着信音が鳴った。画面を開いてニンマリ笑う。予想通り、送られてきたのは藤村ふじむらからの泣き言メールだった。

 藤村ふじむらは会社では『嫌なことがあっても、まわりに当たらない穏やかな人柄』って評価されていたみたいだけどそれもしょせん、あたしというストレス発散のオモチャがあったから。そのあたしがいなくなって、ストレスを発散できなくなると会社でも本性を押さえられなくなったらしい。人がかわったように――って言うか、それが本性なんだけどね――まわりに当たり散らして、ついにはパワハラでクビになったんだって。

 そのせいか、

 「戻ってきてくれ、謝るから!」

 って、悲鳴染みたメールがしょっちゅう来る。

 『おとなの解決法』の一言がよほど効いているのかあたしの前に直接、表れることはないけどメールはしょっちゅう。ブロックすることもできるけど、泣き言を言ってくるのがおもしろくてそのままにしている。もちろん、藤村ふじむらがなにを言ってこようとあたしの台詞はただひとつ。

 「もう遅い」

 ニンマリ笑って、そう言いながらスマホをしまったそのとき、チャイムが鳴った。

 秋菜あきなさんだ!

 「は~い!」

 って、あたしは喜び勇んで玄関に向かう。鍵を開いてドアを開け、秋菜あきなさんを迎え入れる。

 「お帰りなさい、秋菜あきなさん」

 「ただいま~、夏香なつかちゃん」

 って、まるでふにゃふにゃの軟体動物みたいになった秋菜あきなさんがあたしに抱きついた。

 見た目はいかにも『バリバリのキャリアウーマン』っていう感じの秋菜あきなさんだけどお酒にはてんで弱くて、ちょっと飲んだだけでこうなっちゃうのよね。

 あたしは、そんな秋菜あきなさんを抱えてリビングに運ぶとまずは水をいっぱい。秋菜あきなさんはおいしそうに水をごくごく飲み干した。それから、用意しておいた夜食を並べる。

 そのときの秋菜あきなさんの嬉しそうな顔!

 「ああ~。夏香なつかちゃんのご飯、ほんとおいしい。帰ってすぐにこんなご飯が食べられるなんて、幸せだわあ~」

 そう言って、おいしそうに食べてくれるのが本当に嬉しい。

 藤村ふじむらは、どんなに気を使って料理しても『マズい、下手くそ』って言うばかりで一度だって褒めたことなんてない。その頃と比べると、ほんと天国だわ。

 そして、なにより、このあとにはとっておきの楽しみが……。

 ケーキを前にした小さい女の子みたいに、嬉しそうに夜食を食べ終えると秋菜あきなさんはあたしに抱きついてきた。

 「夏香なつかちゃ~ん、膝枕~」

 「はいはい」

 って、あたしは床に座り、膝枕しながら秋菜あきなさんの頭をなでなでしてあげる。

 「ああ、夏香なつかちゃん、優しい、かわいい、良い匂い。ずっとこうしていたいわ~」

 って、秋菜あきなさんはマタタビを嗅いだネコみたいにゴロゴロ言いながらあたしの膝に顔を埋める。

 これが、秋菜あきなさんの正体。昼間は文句なしに仕事のできるバリキャリ系だけど、こうしてふたりきりになると本当にもうただの甘えん坊さん。このギャップがとにかく可愛くてかわいくて……。

 ――あたしの前のふたりのプロ嫁さんも、秋菜あきなさんのこんな姿を見てきたのよね?

 そう思って、心のなかで嫉妬の炎がメラメラ燃え出しちゃうぐらい。

 プロ嫁の契約期間は三年だけど……その間に、イケない愛に走ってしまいそう。聞いたところによると、秋菜あきなさんも学生時代はよく後輩の女の子と付き合っていたらしいし……。

 そう。この三年の間にちゃんと実力を身につけて、就職して、一人前のおとなになって、今後こそ自分の足で歩いてみせる。そうしたら――。

 秋菜あきなさんの本当の嫁になる。

 それが、いまのあたしの目標。

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ざまぁ回だけ並べちゃいました 藍条森也 @1316826612

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