藍色の海のそばで

@神振千早

 夜の電車に乗り込む。

 これで残りのお金は1203円。帰る分には800円くらい足りない。文字通りの片道切符だ。でも、だからこそ、これでいい。これが覚悟かわからないけど、ようやく決まった気がする。私は今日、美しい場所に行く。

 これが私の最初で最後の家出になるのだろう。置き手紙も置いていないから探されるのだろうか。いや、置いていても確実に捜索願は出されるだろう。

 目を閉じながら券売機をタップして適当に買った乗車券を改札機に通す。この時間帯だったので無事に座ることができた。

 初めて夜に一人で出かけた。県外に出るのも初めてだ。もう帰る予定はないけれど。

 乗車券を見ると行き先は未海市となっていた。あまり聞いたことがない。携帯も家に置いてきたからどんなところかも調べられない。でも、どうせ連絡してくるような友達はいないんだから持っていても意味がないと思う。

 突然まぶたを閉じそうになって勢いよく目元を擦る。当然か。いつもなら私はもうとっくに寝ている時間だ。どうやら学校の体育の授業で体と心に疲労が溜まっているのだろう。明日の授業は、と思いをはせる頭を無理矢理現実に連れ戻す。

 外はもうすっかり夜の帷が下りていて、月が雲で隠れた夜は街灯の光だけが街を照らしている。でもその街灯も進むに連れて減っていく。もう少し明るければ反対に流れていく景色が見えたのだろうか。窓に顔を近づけて外を眺めてもほとんど何も見えない。夜の闇は電車を包んでより深い闇へと誘っている。

 ふと、3秒くらい青が見えた気がした。


「まもなく、未海、未海、お出口は左側です。The next station is Miumi.The doors on the left side will open.」


 慌てて立ち上がり電車を降りる。ここで降りないと降りられなくなってしまう。改札口を通り駅から出る。深夜24時の街はひっそりと寝静まっているようでどこかで誰かが生活している音が聞こえる。

 行くあてもなくふらふらと歩いていると小さな波の音が聞こえた。なにかに引っ張られるように走り出すとそこにはビーチと言えるほど広くない砂浜があった。すぐ近くにアスファルトの道路が仁王立ちしている。

 懐かしい。

 一体海に行くのはいつぶりだろうか。確か小学5年生の時に幼なじみの玲華と行ったとき以来だろうか。それでも夜の海を見たことはない。

 夜の海は光が当たっていないので青というよりは黒で何も見えない。靴を脱ぎ浜辺において海に少しずつ裸足を入れると底が見えない闇が私を少しずつ侵食していくのがわかる。冬の夜の海はひんやりとしていて少し気持ちいい。水をすくって少し舐めると塩辛い味がした。やっぱり少し涙に似ている。

 セーラー服に手をかけて脱ごうとした瞬間少し世界が明るくなる。空を見るとちょうど天辺に登った満月が雲の間から出てきた。水面には美しく月が写り出す。

 そんな時突然声がした。


「何してんの、女子中学生」


 声がしたので道路の方を振り返る。

 脱いでいなくてよかったと盛大に安堵する。どうせ私は楽な場所に行くから見られたところでなんともないが。

 そこにはダボッとしたジャージを履き、緑色のパーカーに灰色のマフラーを付けた人がいた。ブーツが黒光りしている。街灯のせいで逆光になっている上にフードまでしっかりと被っていてその人の顔が見えない。それでも声と雰囲気からそんなに年を取っているようには思えない。どう考えても中学生ぐらいだ。

 言葉に詰まる。正直に言う訳にはいかない。私は自殺するために家出してきました、なんて口が裂けても言えない。少しの間逡巡していた。


「ふうん」


 その人が私のことを上から下までジロジロと見てくるとウンウンと頷く。お前がここにいる訳を知っているぞと言われる気がして、知ったふうな口を利くその人にイラッとした。


「あの、あなたは誰ですか」


 そう言って私は尋ねる。

 その人は正直、顔が見えにくいから男なのか女なのか判別しにくい。そのうえ声も女にしては少し低いし、男にしては高過ぎる。名前を聞けばある程度わかるんじゃないかと思い、問う。


「僕は小鳥遊碧。小鳥が遊ぶでタカナシね。今を生きる花の男子中学生だよ」


 自慢げというよりかは必死に男子であることを主張している気がする。

 彼は歩道にずっと立っていてこっちに来ようともしない。まるでお前がこっちに来いと言いたげな態度だ。普通、誰かに話しかけるときは自分から近づくものなんじゃないのか。常識が音を立てて崩れるような気がした。

 それにしても私はこんなときでも非日常に興奮しているようだ。見知らぬ少年との邂逅に心が踊っている。

 真夜中に二人きりで海を見るというとロマンチックに聞こえる。物事は言い方次第でどうとでも変わる。私はそれを少し前に思い知った。


「で、なんで真冬かつ真夜中の海に制服のまま入るなんて酔狂な真似をしてんの。風邪引くよ、絶対」

「引いたって別に構いませんから」


 変なものを見るような目で彼は私を見てくる。私の目から見れば彼も十分変なものに値すると思う。


「まあそんなことは抜きにしてもこんな夜に制服でいたら補導されると思うよ」

「それを言ったらあなたもそうだと思いますが」

「散歩してるだけだから大丈夫」

「そんなことは通じませんよ」


 この人と話しているとペースが崩れる。クラスメイトに無視されるのに慣れすぎたせいで他人との会話を成り立たせにくい。最後に家族以外と話したのは三ヶ月前だろうか。

 一体彼は何がしたいのだろうか。自慢じゃないが私はごくごく普通の中学生だ。私に特別何か話したいことがあるとは思えない。

 突然彼が笑い出す。一体何がおかしいのだろうか。人の顔を見て笑うなんて失礼すぎると思う。


「なんで笑ってるんですか」

「名前聞いてないなって」

「言う必要あります?」

「いや、ないね」

「はあ」


 やっぱり少しおかしいと思う。普通なら自分も言ったから君も言え、というような展開になるかと思っていたんだけどあっさり彼は引き下がった。こう言われると何故か少し申し訳なくなってくる。


「私は平野奈良ですけど」

「へえ。奈良県、行ったことある?」

「ありませんが、何か?」

「別に何も」


 やっぱりふざけている気がする。

 彼はここから当分動きそうもないし、ここからでは楽な場所に行けそうにない。私の思う常識的な考え方を持つ人が自殺をしようとしている人を見たら止めるだろう。彼に常識的な考えがあるかは判断に困るところではあるのだが。

 海から出て靴下を履き、ローファーも履く。最後に海に入りたかったけど、セーラー服を濡らすことに抵抗があって着たまま入ることができなかった。脱ごうとした時に彼が来たから結局足までしか海に入れていない。これじゃ足湯じゃないかとも思ったけど冬の海を足湯と言うには水温が低すぎるなと自分にツッコミを入れる。


「それでは」

「ホイ」


 その場から去ろうとしたら突然緑色が目の前に飛んできた。思わずキャッチしたそれは彼のパーカーだった。突然飛んできたパーカーと彼を見比べる。これを、どうしろと?まさかとは思うけどこれを捨てろと言うことか?


「えーと、パーカーって」

「それあげる。どこ行くか知らないけど、風邪引くよ。防寒ぐらいしてさっさと家に帰りな」


 そう言って彼はこの場を去ろうとしていた。右手を天に掲げながらこちらを振り返りもせず、ブルっと震えている。どう考えても彼のほうが風邪を引きそうだ。白のシャツがやけに目立っている。

 フッと笑いそうになって唇を噛む。人を信用してはいけない。だって人はいつか私を裏切るから。いつか私が人を裏切ってしまうかもしれないから。信頼関係なんて壊れるのは一瞬だ。私はそれを、知っている。


「帰る場所なんて、居場所なんて私にはない」


 慌てて口を塞ぐ。もう誰にも弱みは見せないと決めたのに、口走ってしまった。予想以上に精神が参っていたのだろうか。それは私にはわからない。

 しかし何故かこぼれたその言葉を彼の耳が拾う。突然こちらを振り返った彼はまるで女の子のような顔をしていた。その上髪型はポニーテールだ。本当に男なのだろうか。思わず見惚れていると彼がとんでもないことを言い出した。


「じゃ、ウチ来る?」

「へ?」

「誘拐罪になるとは思うけどいいよ。ウチに来なよ」


 彼は何を言っているのだろうか。耳を疑う。

 彼の家に行けと?私はもう、楽な場所に早く行きたいのに、それを諦めろと?彼はもしかしてだけど、私に冗談を言っているのだろうか。でも彼の真剣な眼差しがそれを否定している。

 でも、だからこそ疑問が出る。


「親に聞かなくていいの?」


 思わず素の口調で問いかけてしまう。せっかく敬語を使っていたのにギリギリのところで失敗してしまう。初対面の人やそこまで親しくない人には敬語を使うと決めているのに。


「聞く必要ないよ。あんな奴なんかに」


 突然彼の雰囲気が険悪なものに変わる。

 どうやら私は彼の地雷を的確に踏み抜いてしまったらしい。どうすれば良いのだろうか。コミュニケーション能力が玲華ほど高くないから、こんな時なんて言えば良いのかわからない。

 唇をかみしめる。


「まあいいや。ついて来な」


 そう言って彼はもう一度踵を返して歩いていった。

 ひとまずパーカに腕を通して追いかける。あまり嗅いだことのない柔軟剤の匂いがした。でも、その匂いは嫌いじゃなかった。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 彼の足が突然止まる。家はこじんまりとした一軒家だった。こんな時間だからなのか、窓から光が漏れているようなことはない。それにしても、普通は中学生が日付が変わるころ外にいたら親は心配するものではないだろうか。彼のことを信頼しているのか諦めているのか。一体どちらなのか。

 彼が右ポケットに手を突っ込んで、左ポケットに手を入れて、慌てる。


「やばい」


 突然彼が慌てだす。まるで何かをなくしてしまったかのようで。

 家につく直前で探し出したと言うことは、もしかしてあれだろうか?外から見た感じだと家の中に起きてる人はいないみたいだし。だとしたらちょっと面白い。私を家に呼んだというのに、鍵がなくて家には入れないんだから。


「鍵が、ないんですか?」

「あ、あははは」


 まるでギギギと音がしそうな、油の塗っていない機械じかけの人形のように彼はこっちを振り返った。何かを失敗したときの冷や汗を流していそうな顔で。突然彼は目を輝かせる。彼は私のおなかのあたりを見ていた。強い視線を感じた気がしておなかの前に手を持ってくる。


「だった。パーカーだったね。うんうん」


 そう言って数歩で二メートルほどの距離を詰めてくる。書道で出遅れた私はパーカーの右ポケットに手を入れられた。その手は何かを探るようだった。一瞬遅れて手を引き剥がす。


「ちょっと、変態!」

「わっ、うるさっ」


 赤面しながら叫ぶ。

 当然布越しとはいえ体に触れられた私は彼を止める。何か見ているとは思ったけど、まさか触ってくるとは思わなかった。女の子のポケットに無断で手を突っ込むなんて変態のすることだ。許可をもらっていても変態のやる事なきがしなくもないが。


「いや、それ僕のパーカーじゃん」

「あげるって言いましたよね。たとえあなたのものでも布越しとはいえ異性に触れるんだから断りぐらい入れてください。そしたら脱いで渡しますから」

「すいませーん」


 おそらくだけど全く反省していない口調で彼は言う。

 飄々としているけど恥ずかしくないのだろうか。一応私は女なんだし、彼は本人的には男だ。年頃の男子は女子のおなかに触れたら恥ずかしくないのだろうか。私は恥ずかしい。

 もしかして精度が高すぎる女装なんじゃないのかと思えてくる。ポニーテールだし。ただ、ポニーテールもただ縛っているって感じがするし、薄着になったからわかったけど骨格的に女子っぽくない。


「今脱ぎますから」


 パーカーを脱ぐ。パーカーを着ていたのに慣れていたからか、体に突き刺さるような寒さが襲ってくる。いくら住んでいた場所よりも南にいるとはいえ、さすがに真冬の夜にセーラー服は厳しかった。スカートだけでも寒かったのに、上までブラウスになったら、本当に寒い。

 これは彼に会わなかったら風邪を引いていたかもしれない。それまで生きていたかはわからないけど。死んだ後に風邪を引くなんてことはないだろうし。


「なるほど、左だったか」


 右ポケットをあさり終わった彼が左ポケットに手を入れて鍵を取り出す。キーホルダーは最近流行のソードマスターズ・ブレイブ、略してソーマスの主人公。そういえばもうすぐアニメ化するって前玲華が言ってたっけ。漫画も読んだことがない私にはわからないけど。

 ソーマス自体には別にそんな興味はない。ただ玲華が漫画を読むのが珍しいと思っただけだった。今となってはあれがかなり最後の方の会話になるけど。あの数日後に喧嘩して、玲華が数日私を無視した。その結果元々私を敵視していたらしい玲華の取り巻きが私をいじめだした。

 その結果が今だ。

 私は家から何キロか離れた場所で自殺しようとしている。彼のせいで実行はまだだけど。私が死んだら玲華は後悔するのだろうか。昔の私なら何の躊躇いもなく未来の彼女の心境をこう考えただろう。奈良が死んだのはいじめを止められなかった自分のせいだ、と。


「鍵開けるよ」


 でも今の私にはわからない。そもそも玲華が今私をどう思っているかもわからない。さすがにいじめには気づいてると思う。玲華はルールに厳しくてちょっと融通が利かないところがあるけど、鈍感なわけじゃないから。

 瑠唯も紗月もいじめを完全に隠し通せるほど手際が良くない。そんな二人のことも友達だと思ってた。でも、今は好きになれない。仲良くしていた裏で私のことを邪魔に思っていたなんて。気づかなかった。


「何、ぼーっとしてんの」

「え?」

「さっさと入りなよ」

「あ、うん。わかった」


 促されるままに家にお邪魔する。玄関に靴は今彼が脱いだ物以外なくて、家に人の気配はしない。廊下には無駄な物が一切置いてなくて、モデルルームみたいだ。実際に見たことはないけれど。

 彼に付いて行って上った階段の先はリビングとダイニングだった。テーブルの上には食べ終わったあとのカップラーメンの残骸が放置されていた。カレー味と書かれているけど、彼が食べたのだろうか。


「ああ、ごめん。汚いでしょ」

「いえ、別にそういうわけじゃ」


 手際よく出していた箸ややかんを流し台に入れて洗いはじめる。本当に女子なんじゃなかろうか。今のご時世で家事ができるから女なんて言ったら炎上間違いなしだけど。

 ただ、女子ならばこの年には存在しだす胸の膨らみが、シャツからはまったく感知されないから、もし女子ならば晒しを巻いている可能性が浮上しだす。そんなのだとしたらどれだけ男装に力を尽くしているのかって話しになる。男装が趣味の人間が近くにいないからわからないけど。


「ほんとに、男なの?」

「は?んー、3分待ってて。証拠持ってくるから」


 そう言って彼は下に何かを取りに行った。

 人を家に上げて、しかも監視下に置かないなんて凄まじい。危機感がないのか、それとも何されても大丈夫と思っているのか。心配になってきた。とんでもない家に来てしまったんじゃなだろうか。

 別に死ぬのは良いけど、レイプとかはごめんだ。包丁の位置だけでも確認しておくか。立ち上がってキッチンの方に向かおうとした瞬間、声がかけられる。


「意外と早く見つかったよ、て、どうした?急に立ち上がって」

「いや、別に。それより見せてくださいよ」

「ほい、保険証」

「え、他人に見せて良い物なの?」


 また敬語が外れた。驚いたら素の口調が出ちゃう癖、なんとかしないと。そんなこと気にしたそぶりも見せず彼は言う。


「他人を家に上げるような男にそれ言う?」

「そうでしたね」


 確かに保険証には男と書いてある。誕生日は三月二十七日。私より一ヶ月以上遅い。大体あと三ヶ月と十日ぐらいかな?


「誕生日見てるでしょ」

「え、あ」

「視線でバレバレ」


 おかしい。小説だと男に女が言うセリフだったのに、何で彼がそう言っているのだろうか。やはり女なのか?女なのか?とたった今証明された謎に殴りかかろうとして踏みとどまる。もうやめよう。神経が痛い。


「ソファで寝る?それとも布団出そっか?ベッドは渡さないけど」

「いや、泊まりませんけど」

「ほー。これは通報案件ですねぇ」


 心の底から楽しくて仕方がないというようにニヤニヤしている。もうしょうがない。ここで通報されるのは厄介だから、しょうがない。名乗ったのは失敗だった。


「わかりました。ただ、さっきみたいなことしないで下さい」

「はて、先ほど小生は何かをやらかしたのだろうか。記憶にないのう」

「茶化さないでください。軽く体に触れてましたよね、あれ。急に触るのはやめてください」

「急にじゃなければ良いの?」

「そういうわけじゃなくてって、はあ。疲れました。そうですね、布団を出していただけますか?」

「おっけー。リビングに敷いとくから待ってて」


 壁に掛かっている時計を見たら、もう一時三十分を過ぎていた。自分史上最大の夜更かしだ。どうせ更新されることはないけど。明日このおかしな人から逃げて別の場所に行こう。

 敷いてもらった布団に寝転がる。布団に寝るのはいつぶりだろうか。少しだけ、地面の固さが伝わってくる。布団の中は暖かった。


「おやすみ」

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