第3話

「ハァ……!くそ、そろそろ当たれよ!」

「えー?やだよ」



 ドッチボールを始めてからもう一時間は経っただろう。とにかく朝田は避ける、避ける、避ける。冬川の全力のボールをキャッチしては外野にパスをしているので全滅した冬川のチームは避けることしかできなかった。

 外野からの「お兄ちゃんがんばれ!」という声援のみを心の頼りにしてもう一度投げる。朝田は右足を軸にジャンプして楽しそうに声を上げる。



「楽しいね!」

「な訳!」



 流石仕事に就かずにドッチボールをしているだけあって、どれだけ足元を狙っても一向に当たる気配がない。それよりも外野にパスが回って自分が当たる心配をした方がいい。


 大人だからと言って小学生を舐めていたのかもしれない。今の子は自分の時よりもボールを投げるスピードが早い気がするし、避けるのもキャッチも戦略もすごい。



「最近の小学生って家でゲームしかしないんじゃねえの⁉︎」

「ゲームもするけどドッチの方が楽しいんだ!」

「俺ゲーム嫌い!」

「プロスピしかやってねーよ?」

「ぜえ……ぜえ…」

「お兄ちゃん当たるよ!後ろ後ろ」

「マジで早く終われよ…」



 絆創膏少年のボールをキャッチした時、スーツが汚れていることに気がついた。そりゃあこんなに汚いボールを受け止めたり走ったりしていたら汚れるか、と思う。

 それにしてもここまで汚れてくると面白かった。一枚しかないシャツを土まみれにして帰ってきた時の思い出が蘇る。もう随分前のはずなのに、目前にしたかのように思い出せた。



「ウラア!」

「おわ」



 残った力を振り絞り朝田の脛を目掛けて投球したボールは、自分の予想していた速さよりも早く世界を駆け抜けた。

 軽い音がして朝田の足元にボールが落ちる。油断していたのか、朝田はさらに目を大きく開いて、ゆっくり閉じながら頭を抱えた。



「ごめん!油断したーっ!」

「やべえアサケンがやられたあ!」

「お兄ちゃんつえー」



 やっと強敵を倒したとだけあって思わぬ疲労感が体に流れ込んでく。筋肉を全て動かしたような気がして止まない。息が上がって酸素が恋しくなり、心なしか視野のピントが合わない。

 冬川は会社の行き来しか運動をしないので、一日に動いていい量を超えてしまったのだろう。普段の不摂政を祟りながら水を飲もうと立つと、帽子を逆向きに被った少年が満面の笑みでボールを掲げていた。



「……ちょ、ま。たんま」

「アサケンの仇!」

「タンマつってんだろこのガキ!」













「やーっ。意外に白熱した勝負になりましたな!」



 時刻は午後七時を丁度回ったところ。朝田と冬川は居酒屋でとり皮を摘みながら生ビールを飲んでいた。冬川はすっかり疲れてしまったようで枝豆の皮をを箸でいじりながらため息ばかりついている。



「マジでお前なあ…ドッチボールチームなら先に言えよ。だからあんなに避けんのうまかったんだな」

「ありゃ、言ってなかったか」

「ほんとお前そういうとこ〜……」



 通り過ぎたアルバイトの店員に朝田はおかわりを頼んで空のジョッキを端に寄せる。何が楽しいのかずっとアハアハ笑っていた。




「ねえ、楽しかった?」




 朝田は世界の真ん中みたいに笑って尋ねる。それを見て冬川はグル、と上を向いて、いっぱい嫌な顔をして。



「少しな」



 そう言って下を向いた。一つ嫌味を言ってやろうと思ったが、あんまりにも彼の笑顔が眩しくて見なかったことにして酒を煽る。朝田はそれを見て「よかった」とこぼしたのだ。彼にも彼なりの心配事があったそう。



「ね、また遊ぼうよ。こうやって」

「ヤダ。俺仕事あるんだ」

「じゃあ俺の仕事に付き合って。動画撮りたいんだけど、一人じゃちょっとしんどくて。お願い」



 聞いた途端、馬鹿だ。と思った。そもそも冬川は会社員だし、毎日こんな風に早く帰れるわけではない。もちろん断ろうとした。したのだが…



「ハイ!わかった。今日奢ります!好きなもん食べていいよ」

「まじ」

「大マジ。言ったでしょ?結構有名になってきたって!」



 そう言った朝田はビールを運んできた店員におつまみを数点頼んで、両手を合わせて頭を下げた。



「頼むっ!この通り」



 居酒屋の喧騒というものは何故か心地の良いものである。朝田行きつけのこの店は店主が定年退職した後に息子と一緒に始めたので、店内には地域の顔見知りしかいない。


 ぼんやりと聞こえる会話では来週のゲートボールだったり、孫のために小学生の流行を抑えていたりと、本当に他愛のない、輪郭のない春みたいな声が聞こえている。

 オレンジの照明が唐揚げに落ちた。く、と眉を顰めて。



「…………一回」

「おっ」

「一回だけだ」

「おおっ」

「うるさい。今のなし」

「わーっ。ごめん!あ、お姉さん。だし巻きいっこ」



 焦る朝田を横目に、冬川はハイボールを二口飲んだ。朝田の前だと色々なことに気が付かせる。例えば、自分が甘い卵焼きが好きだったこととか。普段インスタントのものばっか食べているから、たまになら付き合ってやらんこともないな。と思っていた。もちろん朝田の奢りで。



「ここの店の卵焼きってさ、」

「うん。しょっぱいよ」

「じゃあ食わねえ」

「えーっ!」

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世界で一番近い空 (株)剛田のアサイー @takeshi1010

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