第5話「蝶の夢、蛾の現(うつつ)」
朔太郎と雪絵の理論は、科学界に大きな影響を与えた。彼らの研究は、物理学と生物学の境界を越えて、様々な分野に波及していった。
ある日の午後、二人は大学の研究室で新しい実験データを検討していた。窓の外では、秋の風が木々を揺らしている。
「朔太郎さん、この結果を見てください」
雪絵が興奮気味に言った。彼女の指さす先には、複雑なパターンを示すグラフがあった。
「これは……予想以上の結果だ」
朔太郎は目を輝かせた。それは、彼らの理論が予測した以上に複雑な創発現象を示すデータだった。
「私たちの理論は、まだまだ発展の余地がありそうですね」
雪絵が嬉しそうに言った。朔太郎は頷きながら、ふと窓の外に目をやった。
「ねえ、雪絵さん。少し外に出ませんか」
雪絵は少し驚いた顔をしたが、すぐに微笑んで答えた。
「はい、いいですね」
二人は研究室を出て、大学の中庭に向かった。秋の陽光が、色づき始めた木々を優しく照らしている。
「美しいですね」
雪絵がつぶやいた。朔太郎は、彼女の横顔を見つめながら答えた。
「ああ、本当に」
その言葉が、雪絵だけでなく、周りの風景全てに向けられているのは明らかだった。
二人は、ゆっくりと歩を進めた。途中、一匹の蝶が彼らの前を舞っていった。
「ねえ、朔太郎さん。私たちの理論は、この美しさを説明できているのでしょうか」
雪絵の問いかけに、朔太郎は少し考え込んだ。
「数式や法則では、確かに世界の仕組みを説明できる。でも、この美しさ自体は……」
朔太郎は言葉を探すように空を見上げた。
「それは、私たちの心が感じるものかもしれませんね」
雪絵が優しく言った。朔太郎は、彼女の言葉に深く頷いた。
「そうだね。私たちの理論は、世界の仕組みを理解する道具に過ぎない。でも、その理解が深まれば深まるほど、世界の神秘さや美しさに気づくんだ」
二人は、ベンチに腰を下ろした。そこから見える風景は、まるで一枚の絵画のようだった。
「朔太郎さん、私たちのこれからはどうなるのでしょうか」
雪絵が、少し不安そうに尋ねた。朔太郎は、彼女の手を優しく握った。
「それは、蛾の羽ばたき同様、予測不可能だ。でも……」
「でも?」
「どんな未来が待っていても、君と一緒なら乗り越えられる気がする」
朔太郎の言葉に、雪絵の頬が赤く染まった。
「私もそう思います」
二人は、互いの目を見つめ合った。その瞬間、彼らの周りを一匹の蛾が舞った。
「ほら、また蛾だよ」
朔太郎が指さした。雪絵は、優しく微笑んだ。
「蝶の夢と蛾の現……。私たちの人生も、そんな感じかもしれませんね」
「どういう意味だい?」
「華やかな夢を追いかけながらも、地道な現実と向き合う。そんな生き方」
朔太郎は、雪絵の言葉に深く考え込んだ。
「素晴らしい考えだ、雪絵さん。私たちの理論も、そんな二面性を持っているのかもしれない」
二人は、しばらくの間黙って風景を眺めていた。やがて、朔太郎がポケットから小さな箱を取り出した。
「雪絵さん、君に渡したいものがあるんだ」
雪絵は、驚いた表情で箱を見つめた。朔太郎がそっと蓋を開けると、そこには一つの指輪があった。
「これは……」
「僕と一緒に、この不思議な世界をもっと探求してくれないか」
朔太郎の声は、少し震えていた。雪絵の目に、涙が光る。
「はい、喜んで」
雪絵は、優しく微笑みながら答えた。朔太郎は、そっと指輪を彼女の指にはめた。
その瞬間、二人の周りを無数の蝶が舞い始めた。まるで、二人の愛を祝福するかのように。
「不思議ね。こんな季節に、こんなにたくさんの蝶が」
雪絵が驚いた様子で言った。朔太郎は、優しく彼女を抱きしめた。
「これも、私たちにはまだ説明できない創発現象の一つかもしれないね」
二人は、蝶に囲まれながら優しく寄り添った。そこには、理論では説明できない、しかし確かに存在する幸福があった。
夕暮れ時、朔太郎と雪絵は研究室に戻った。窓の外では、夜の帳が降りてきている。
「さあ、新しい研究を始めよう」
朔太郎が言った。雪絵は、嬉しそうに頷いた。
「はい。今度は、愛という創発現象について研究しましょうか?」
二人は、笑い合いながら新しい方程式を黒板に書き始めた。窓の外では、一匹の蛾が静かに飛んでいった。
それは、新たな物語の始まりを告げるかのようだった。蝶の夢と蛾の現実が交錯する中で、朔太郎と雪絵の新しい人生が、そして新しい科学の地平が、静かに幕を開けたのだった。
(了)
【科学的純愛小説】蝶の夢と蛾の現(うつつ)の方程式 ―― 物理学者と生物学者の創発する愛 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi
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