くちゃ
香久山 ゆみ
くちゃ
くちゃくちゃくちゃくちゃ。
ずっと咀嚼している。何食べてるんだろう。聞いても、「齢とると噛む力が弱くなって」。そのまま時間だと出て行ったが、あのまま電車に乗る気かしら。満員電車で乗り合わせたら、不愉快以外ない。いや、さすがに駅のトイレで吐き出すか。家では一応気を遣っているのかもしれない。どうでもいいけど。
夕飯はすき焼きにした。といっても、二人で食卓を囲むこともない。あたしは帰りを待たずにさっさと自分の分を食べ終えて、帰宅したあの人は自分で卓上コンロに火をつけて温め直して食べる。薄情だとは思わない。あたしだってパートに出てるし、家のことは全部やってる。トイレに下りたついでに、「食べ終えたら流しまで運んでおいて」と声を掛けると、「うん」と気のない返事。手酌でビールを飲みながら、ぼけーっと野球中継を見ている。またくちゃくちゃ口を動かしながら。あーやだやだと思いつつ、寝室に上がった。
翌朝も、トーストとベーコンエッグとサラダとポタージュ、と大したものは出していないはずなのに、気付けばくちゃくちゃしている。一体何がそんなに噛み切れないというのか。くちゃくちゃ。耳につく。それ以上聞きたくなくて、グレープジュース一杯飲んだきり、挨拶もそこそこに二階へ上がった。パート先で相談したって、望む回答は得られない。
昔はこんなじゃなかったのに。食べ方がきれいな人だと思ったことも、結婚を決めた要因だった。また、食に対してこだわりがあまりないのも良かった。彼は母子家庭で、早くに亡くなった義母は早朝から深夜まで働いていたから、インスタントやレトルトがお袋の味なんだとよく話していた。だから、インスタントを食卓に並べても懐かしいといってきれいに食べるし、手料理を作った時には必要以上に感激していたものだ。
そうだ、あたしは彼と食卓を囲むのが好きだった。なのに、いつからこうなったんだろ。
「ごめんね。ちょっと寝坊しちゃって」
そう言って、買い置きのロールパンとカップスープを並べ、食卓に座る。
「……別にいいよ」
そう言って、あの人は腰を下ろしかけたが、座らずにまた立った。黙ってキッチンへ入っていく彼の背中から目を逸らす。怒ったのかしら、いやこんなことで怒ったりしないだろう。妙にそわそわして、我ながら情けない。
本当は、いつもより早く起きていた。夫が起きてくるタイミングに合わせて、作りたての温かい食事を出すつもりで。久しぶりに食卓を二人で囲むために。けれど、想像するだに気恥ずかしくて。それで、寝坊したふりして、夫の向かいの席に座った。
キッチンから戻ってきた夫は、二本持ったバナナのうち一本を黙って私の前に置いた。
くちゃくちゃくちゃくちゃ。
食卓に、二人分の咀嚼音が響く。結局ろくに会話もなく、夫はいつもと同じ時間に家を出て行った。あたしは脱力してしまって、夕飯もともに囲む気力は起こらず、帰宅した夫は食卓に並べたおかずを自分で温め直して一人でくちゃくちゃ食べていた。風呂に入ったのを見計らって下りると、食べ終えた食器はきちんと洗って水切カゴに並べられていた。
翌朝こそはと、早めにキッチンに入り、塩鮭は脂が落ちすぎないようグリルし、目玉焼きは彼好みに裏面を少しカリカリ焦がして黄身はとろりと半熟に焼く。味噌汁も夫の起床時間を見計らって煮込んだ。ちょうど夫が席についたタイミングで食卓を並べ終えた。なんだか新婚の時のようにドキドキしている。
「おはよう」
声を掛けると、夫は少しだけ驚いた様子で「……おはよう」と返した。あたしはほっと息を吐き、静かに夫の前の席に座る。「いただきます」彼に合わせて、あたしも両手を揃える。
「あのね、ジャガイモをいただいたから、今晩は肉じゃがにしようと思うの」
一晩かけて考えた台詞。ドキドキと口から心臓が飛び出しそうだ。肉じゃがは夫の好物。彼はただ「うん」と言った。「明日はカレーでいい?」「うん」「今は繁忙期じゃないから、当分は定時で帰ってこられるわよね」「うん」「しばらく夕飯はジャガイモ料理になっちゃうけど、朝は好きなものにするわ。明日は何がいい?」「何でも……、いやポテトサラダとか芋で構わないよ」ぽつぽつ会話を重ねる。結婚して十年の間に髪は薄くなったけど、不器用で誠実そうな雰囲気は変わらない。
「いってきます」と家を出た夫、今朝はくちゃくちゃしていなかった。「いってらっしゃい」とあたしも笑顔を返す。ドアが閉まると、腹部に手を重ねてほうっと息を吐いた。
よかった、この調子でまた夫婦仲を取り戻せそう。けど、芋じゃなくて精のつく鰻を貰ったことにすればよかったな。授かったのがパート先の不倫相手の子だとばれないように、なるべく早く仲良くしなくちゃ。
くちゃ 香久山 ゆみ @kaguyamayumi
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