後編
「まだ、早い」
確かに、
この動きは、関羽の独断であった。
確かに、将は外にあっては独自に判断して動くことが許される。しかし、関羽の率いる軍は国境や小さな町を荒らして引き上げようという小規模なものではなく、魏将・
「どうであろうか?」
無論、劉備は「やめよ」と言うことができる。だが、そこには関羽に対するはばかりがあった。
――関羽よ、何故だ?
決して関羽を軽んじているつもりはない。だからこそ、荊州という要地を任せているのである。最も信頼できる者だからこそ、任せられるのだ。
しかし荊州を得て、さらに益州を得るという経略を立て実行するにあたっては、諸葛亮や
政権の中枢を彼らで固めた劉備からは、最古参の臣である関羽が遠い存在になっていた。
劉備の表情には、その事に対するばつの悪さもあった。
それが、あやふやな問いかけとなった。
諸葛亮は答えることが出来なかった。
北伐は時期尚早である。出来れば数年、軍が整うまで待ちたい。それは劉備も分かっているだろう。
だが、ふたりは関羽を止める言葉を口に出来なかった。止めればおそらく、関羽は退く。しかし「承知した」と答える一方で、関羽は『何か』を心底に沈めてしまうだろう。それは大きく重く、二度と浮かび上がることのないものである。
だからこそ、何も言えなかった。
結局、両者のすれ違いは正されることなく放置された。
関羽の軍勢は、曹仁への援軍として駆けつけた
この快進撃に宮中は沸き立ち、歓呼の声があちこちで上がった。劉備も安堵したように笑貌を見せた。
小さな棘はやがて知らぬ間に抜けてしまうであろう、いや、そうであってほしい。
だが、待ち受けていたのは悲劇だった。
快進撃を続けていた関羽を危険視していたのは、曹操ばかりではなかった。とりあえず荊州を二分する形で話はついていたが、
曹操と結んだ孫権の軍勢は北を向いていた関羽の背後を突き、荊州の諸郡を攻略したのである。
進退窮まった関羽は
その知らせが届いた日、群臣は言葉をなくし、宮廷は静まり返った。それを破ったのは、劉備の大声である。
「おのれ、孫権め!」
劉備は顔を真っ赤に染めて罵声を放ったが、それは、己の後ろめたさを孫権にぶつけたに過ぎない。
群臣の前から退いた劉備は、
「……儂が、関羽を殺してしまった!」
両手で顔を覆い、項垂れた。
劉備は、荊州にとって後詰めにあたる
しかし、これもまた後ろめたさをぶつけるだけの行為であると、劉備は理解していた。
「真っ先に援軍を出すべきなのは、誰よりも儂自身だったではないか!」
国運を左右する一戦、なにより兄弟のごとくに交わり苦楽をともにしてきた関羽の危機である。
ならば、なぜ劉備自身が
確かに諸葛亮らの言うとおり、益州の軍は万全ではない。劉備が軍を発することに、彼らは良い顔をしなかったであろう。それでも、劉備が是が非でもという姿勢を見せれば、止められなかったはずだ。
劉封が上庸の鎮撫を優先したのは、劉備に必死さを見なかったためかもしれない。もし劉備の熱意が劉封に伝われば、彼もまた動いたであろう。
そうすれば、たとえ荊州を失ったとしても、関羽を救うことは出来たのではないか?
「逃げるぞ、関羽」
と、手を取ってやることは出来たのではないか?
そうすれば関羽は、髭に隠れた口元を緩めて共に駆けたであろう。
荊州など、またいつか取り戻す機会も生まれよう。たかがその程度のものだ。
しかし、関羽というかけがえのない男は、二度と還ってはこない。
――いつの間に、俺の身体はこんなに重く鈍くなっていたんだ!
劉備は両手で顔を覆ったまま、動けなかった。
関羽の首級は孫権から曹操の元へと送られ、曹操は諸侯の礼を持って関羽を葬った。関羽の死の翌年に曹操は没する。そして劉備は仇討ちとばかりに孫権を攻めるが、その途中に
かつて関羽は曹操に捕らわれた。勇将を愛する曹操は関羽を手厚くもてなしたが、それでも関羽は暇乞いをして流浪する劉備のもとへと戻った。
死後に
しかし、はたして関羽の心が最期まで劉備とともにあったのか……それはわからない。
桃園の幻 一条もえる @moeru_i
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