桃園の幻

一条もえる

前編

 男は鬱々として日々を過ごしていた。酒杯を煽ると、その雫が見事な鬚髯しゅぜんを濡らす。

 関羽かんう、字を雲長うんちょう。それがこの美髯を持つ男の名である。

 天下を揺るがした黄巾の乱に際し、幽州涿郡ゆうしゅうたくぐんにおいて起った劉備りゅうびに従って乱世を転戦すること、はや四十年近く。荊州けいしゅう益州えきしゅうに続いて漢中かんちゅうの地を得て漢中王となった劉備の元で前将軍に任じられ、今の関羽は荊州の軍事を統括している。関羽に勝る待遇を受ける将はいないと言えた。

 それでも、関羽にとっては楽しまない日が続いていた。

 そもそものきっかけは、かれこれ十年ほど前、荊州に身を寄せていた劉備が、諸葛亮しょかつりょうという男の元を訪ねたことにある。

 まだ三十歳にもならない青年と語り合った劉備は大いに感心し、彼を帷幕いばくに招いた。以来、劉備は諸葛亮の献策を重んじ、進退の大要も諸葛亮との間で話し合われてきた。孫権そんけんと結び、荊州と益州を併せて曹操そうそうと対峙する……それが、諸葛亮の描いた絵図である。劉備はその大略を歓び、諸葛亮を重んじたのである。

 関羽と、そして義兄弟の契りを結んだ張飛ちょうひは、それこそ同じしょうで寝るほど劉備の近くにいた。それ故、朝に夕にと諸葛亮と語る劉備に不満を言ったこともある。

 しかし「水魚の交わりである」と言われては引き下がるしかなく、実際、諸葛亮の才幹は抜きん出ており、それは関羽とて認めていた。

 だが……。

 今、劉備を支えているのは諸葛亮をはじめとする荊州の人材と、益州を攻略する際に助力した法正ほうせいが中心となる、益州出身の人材なのである。

 東奔西走していた頃から劉備に仕えていた簡雍かんよう孫乾そんけんといった者どもは既に亡く、糜竺びじくは席次こそ高いものの、政治の中枢にあるとは言えない。

 自分と同格である後将軍に任じられている黄忠こうちゅうも、荊州閥である。張飛が右将軍となったのは当然にしても喜ばしいことだが、その張飛にしたところで、先ごろ手中に収めた漢中を任されることはなかった。やはり荊州閥の、魏延ぎえんが抜擢されたのである。

「富貴を得たいわけではない」

 酒気を帯びた息を吐き、関羽は呟く。

 決して、彼らを妬み、僻んでいるわけではない。

 ただ……。

 ――今の我が君は、失うことを恐れているようにも思えてならぬ。

 荊州閥と益州閥とは、多少の軋轢はあるにしても対立とまではいっておらず、ほどよく劉備を支えていると言える。しかし関羽の目からは、劉備が彼らに対してかなりの気を遣っているように見えた。

 両派閥なしに荊州と益州を支配し続けることは出来ず、劉備は自らの乗る車の両輪を常に気にかけているのだ。そういった群臣に囲まれ、王位という遙かな高みに劉備は登ってしまった。

 ともに立った日、この乱世を平らげ民を安んじることを誓った関羽であったが。

 ――これならばいっそ、転戦していた頃の方が愉快であった。

 あの頃の劉備は、実に恬淡としていた。

 劉備、関羽、そして張飛の三人は常にともに戦い、数多く敗れもしたが、天下に名を成さんとする気は総身を巡り、互いの心に距たりはなかった。

 黄巾の乱で功を立てた劉備は幾度も官途に就いたが、そのたびに官を捨てた。劉備にとって官位は一時に腰掛ける椅子のようなものであり、執着するものではなかったのである。

 官位どころか、曹操と戦って敗れたときには配下や家族さえ見捨てて遁走した。

「あれは、実に見事であった」

 それを思い出した関羽の頬に、笑みが浮かぶ。

 関羽自身、見捨てられたひとりである。劉備の家族を守った関羽は取り残され、曹操のもとに身を寄せることとなった。見事な去りように呆然としはしたものの、恨む気にはとてもならなかった。

 得たものを守ろう守ろうとする者が見苦しく足掻いて落命していったことに比べて、その遁走のなんと鮮やかであったことか。その逃げ方に、卑劣さや悲愴さはどこにもなかった。

 曹操が奪うならば、劉備は捨てる。

 その生き様こそが曹操への痛烈な批判であると、関羽は思った。

 ただ、曹操が強大となるなかで、その政権を批判するためには、それまでの生き方を変えるしかなかったのであろうか?

 かつて劉表りゅうひょうのもとに仮寓していたしていたとき、劉備は太ももについた肉を見て、志を果たせぬ間に時が過ぎてしまったことを嘆いたというが。

 その焦りが、劉備に守り、保つことを選ばせたのかもしれない。

 それ故に、内においては礼容を尽くして荊州・益州の人材を迎え、外においては江南の地に依る孫権と結んでいる。

 だが、それは相手の思惑に劉備が囚われることでもある。もはや劉備は、彼らを捨てて逃げることはできまい。

 ――やりきれぬ。

 関羽は大きくかぶりを振った。それらこそ、劉備に張り付いた髀肉ひにくであろう。

「これならばいっそ、南海の果てに逃れたほうが良かったかもしれぬ」

 曹操の南征に対して、である。

 南に逃れて交州こうしゅうに至った方が良かったのかもしれない。そこでも敗れ、さらに逃れて南海に浮かぶこととなろうとも。

 人はやがて死ぬ。戦いの果てに、ついに敗亡することになろうとも。

 関羽は酒気を帯びた息を、長く長く吐き出した。

 ――我が君が曹操を批判し続けたことを、万民は忘れまい。

 だが、そうはならなかった。

 諸葛亮は天下を統べる大略として、孫権と結ぶことが喫緊であると言った。

 しかし、あの者がどれほど信用できるものか?

「あの者こそ、保身に汲々とした男だ」

 関羽は吐き捨てる。

 孫権などは、父と兄の残した財と領土を守ることに血道を上げ、家臣どもの担ぐ利害の天秤に載せられた存在でしかない。赤壁において曹操と戦ったのも己を守るためであり、同様に己を守るためであれば、曹操と結ぶこともするだろう。到底、天下万民のことなど考えておるまい。

 顧みれば、まさに劉備がそのようになり始めているように、関羽には思えた。

 ――我が君は、何があろうと曹操と結ばぬであろう。それだけは確実に孫権などより器が大きい。

 その感想は、いかにも皮肉が過ぎたか。

 関羽は自らの着想を不快に感じ、眉間に深々と皺を刻んだ。

「ただ風のごとく、よ」

 酒杯を叩きつけた関羽は立ち上がり、配下を呼ぶ。

 翌朝。

「……のう、将軍はどうなされたのだ?」

 集められた諸将は怪訝な顔つきを隠さず、関羽の子・関平かんぺいに問うた。

 しかし問われた方とて、

「さぁ……わたくしにも、わかりかねます」

 と、首を傾げるほかない。

 このところ、関羽に憂いがあることは明らかであった。どれだけ飲んだところで醜態をさらす父ではないが、それにしても明らかに酒量が増えていた。

 しかし、今日の気色の良さはどういうことであろう。

「集まったな。では、軍議を始めよう」

 軍議と言われ、諸将の顔つきが引き締まる。

 だが、関羽の話が進むうち、諸将の表情はいっそう厳しいものになっていった。

 てっきり、国境辺りを荒らし回って来る程度だと思っていたのである。しかし関羽が掲げた策はそれを遥かに上回り、動員する兵力も集積する物資も膨大なものである。さらには敵地で撹乱する者どもにも調略の手を伸ばすなど……。

「将軍。これほどの陣容、まさか、樊城はんじょうを攻めるおつもりでしょうか」

 おずおずと、糜芳びほうが問う。彼は貴臣である糜竺の弟である。

 樊城は荊州北部にあって曹操の一族・曹仁そうじんが睨みを効かせている要地である。これを攻め取るのは、容易ではない。

 すると関羽は美髯の奥に笑貌を見せ、

「おう。樊城ばかりか、曹操のいる許昌きょしょうまで駆けてくれよう」

 と、胸を張った。絶句する糜芳。

 うろたえた様子が目に現れたか、関羽は糜芳に唾がかかるほどの距離に顔を近づけ、

「物資の輸送は、汝に任せる。いっさいの滞りがないよう、留意いたせ。

 滞った場合は、汝の首を刎ねてくれる!」

 と、睨みつけた。

「は、ははッ……!」

 全身を汗で濡らす糜芳をよそに、関羽は次々と諸将に指図をする。その意気込みが伝わったか、諸将の目の色も変わった。

 数日後、整然と並んだ軍兵を見渡した関羽は目を細め、満足気に頷く。その奥にいくばくかの寂しさを見て取れた者は、ひとりとしていなかった。

 勝って曹操を討ち果たしたとしても、もはや劉備のもとには戻れまい。軍功を立てすぎた臣下を劉備が……それ以上に閣僚たちがどのように見るかは、歴史が雄弁に語っている。

 無論、敗れれば還ることができるのは首だけであろう。

 それでも。

 ――我が君、それでも儂は動きます。我が君は、どうなさる?

 関羽の軍勢が、旋風のごとくに動いた。

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