終章

 男が女を蹴っていた。

 場所はどこかのダイニング。古臭く雑然としていて、生活に必要な最低限の家電とそれを置く棚、そして夕食らしいナポリタンが散乱したテーブルだけで窮屈になる広さだ。僅かばかりの壁には何かを打ち付けたらしい凹みがそこかしこにあって、男の言葉にならない獣のような叫びが籠って響いている。

 男が女を蹴る理由はわからない。ただ激昂して顔が真っ赤になっている。何度も何度も躊躇いなく蹴り降ろす様子から、この暴力は日常化しているらしい。ただ男が格闘技や武道を修めているわけではないのは、その無様で滑稽な動きからわかった。

 女はひたすら謝りながら耐えていた。しかしそれが本心でないのは、衝撃に揺れる髪から、ときおり垣間見るギラついた目つきでわかった。憎悪に凍りつき、明確な殺意がその瞳には漲っていた。言葉を発していない時、口は別の言葉を形作っていた。

男はそれに気がついていない。あるいは知っていて、その恐怖を紛らわすために精一杯の暴力を振るっているのかもしれない。こうしていればきっと自分は助かると、祈りのような衝動に身を任せようとしているのかもしれなかった。

 足を振り上げるのに力尽きたのか、歯の隙間から噴き出すような呼吸をしながら男が止まった。その表情は爽快さとは無縁で、とても一方的な蹂躙をしていた側には見えない。まだ何か必死に理由を探しているようだった。血走った瞳をあちこちに向けて、やがて部屋の隅に逃れていた少女を発見する。男の目に別の情念が宿るのがわかった。

 少女は美しかった。

 制服を着ているからまだ学生だとわかるが、めかし込めば成人した立派な女性に見えただろう。完全に花開く前であるというのに、すでに異性を惑わす魅力を異様に備えていた。母親譲りの物憂げな目つきは、男のような膨らんだ臆病さを持つ人間には格好の餌食だった。

 少女はこれから起こる出来事を理解しているようだった。

 男が少女に迫る。

 女は止めなかった。

 見向きもしなかった。


 少女は学校でも悪意に晒される側だった。

 クラスメートの大半は少女をいない者として扱う。他の生徒が友人達と歓談に耽っている中、一人で席に座り物憂げに正面を見据えている。机にはまるで弔っているような花が一輪だけおいてあり、捨てても意味がないことを知っているのか放置していた。

 だが少女は完全に無視されているわけではない。花を置いた張本人は横目で少女を見ながら、含み笑いを堪えきれずにいられないようだった。あからさまに少女の話題を友人達としながら、今日も休みなのかと心配するていを披露していた。

 滾る欲望を向けている者達もいた。他の生徒の手前、同様の態度を維持しているがその熱を隠そうともしていない。少女のそそられる部位にかきたてられ、放課後の予定を立てていた。何度も繰り返したように、流暢に淀みなく。

 まともな者は目を背けていた。誰も危険を顧みず少女を助けようとはしない。安全に生き抜くためにはどうするのが合理的なのか、教室の誰もがわかっていた。無力な彼らに出来ることは、その災いが自分に降りかからないよう身を隠すしかない。

 担任らしい教師が入ってくる。教師はすぐに少女の机の上の花に気がつく。しかしそ知らぬ顔で、誰もに好かれる教師像を演じていた。親し気な言葉遣い、小気味の良いつまらない挨拶。生徒に弄られると好青年のような困り顔でふて腐れたふりをする。その度に教室には笑いが起こった。とてもさわやかで、誰もがうらやむ学級運営である。

 そしてついに教師が少女に触れる。他の生徒に慮った、センスの欠片もないジョーク。途端に教室は静まり返った。突き刺すような沈黙に教師の顔が引き攣り始めた瞬間、ある女生徒が噴き出した。要求されて伝播する笑い。教師は笑いながらその目に恐怖を宿して、少女に放課後残るように言った。まるで原因は少女であるかのように。

 少女はその間も表情一つ変えなかった。

 家と同じだ。

 それが当たり前だったからだ。


 少女は家に帰った。

 制服はよれて、酷くくたびれていた、

 遅くなったから男の怒鳴り声が飛んでくると思っていた。男は少女に品行方正を求めていたからだ。しかし家はやけに静かで、物音ひとつしていなかった。

 少女はそれを不思議に思いつつ、ダイニングに向かう。

 入った瞬間に目に入ったのは、男が女に覆いかぶさっている様子だった。だが二人ともピクリとも動かず、聞き馴染みのある激しい物音はしない。すぐさま蒸れた鉄臭さが鼻の奥を突いた。よくよく見ると、重なった二人の下に血の海が広がっていた。女の服は同じ赤に染まり、血を流しているのは男だとわかった。女が動かないのは、男がその首を絞めていたからだろう。男の下で女は何かを握りしめているが、それがなんであるかは見えない。

 どうやら二人とも死んでいるらしい。

 少女はそれをぼんやりと眺めしばらく立ち尽くした後、二人を跨いで台所へと向かった。炊飯器には炊けたご飯があった。少女は冷蔵庫から卵と葱、ソーセージを取り出すと炒飯を作り始めた。換気扇を付けようと手を伸ばしたが、臭いが洩れると思ったのかやめた。

 そして湯気の立つ炒飯を皿によそうと、テーブルに座って食べ始めた。

 その間もどんどん臭いは酷くなり、どこかから嗅ぎつけた蟲が早くも集まりだしていたが少女は気にしなかった。それよりも久しぶりに満腹感を味わいたかったからだ。初めての料理は散々な出来だったが、今まで食べた何よりも美味しいと少女は微笑んだ。

 やがてそれも終えると、少女は立ち上がった。

 少女は二人の寝室に向かうと女の箪笥を開き、中から自分に似合うものを探した。男は女の外聞を気にしていたので種類だけは豊富だった。少しばかり窮屈な部分もあったが、動きやすいモノを選んだ。そして見よう見まねで化粧をすると、少女は女へと様変わりした。割れた鏡でそれを確認すると、女が隠していた現金を手に取った。

 家を出る前、換気扇を付けたのは最後の義理ではなく、この後に家へとやってくる人達のためだった。

掃除は汚れが染みつく前にしなければならないと、少女は知っていた。


 少女は街に出た。

 とにかく新たな寝床と収入源を探さなければならなかった。

 稼ぎ方は熟知していた。似たような境遇の者達が集まるところに赴くと、少女はたちまち人気者になった。文句も言わず、望むモノを与え、なにより美しい少女は都合がよすぎた。中には事後に説教を始める者もいたが、少女はそれらしい顔で受け入れた。そうすればまたすぐ戻ってくると知っていたからだ。少女はその界隈では有名な、街角の天使と呼ばれた。

人が自分に何を望むのか、少女は今までの人生で学んでいた。

 あるいは、それしか学ばなかったと言うべきかもしれない。

甘い闇ほど心地の良いモノはない。淵の仄暗さを恐れていても、瀬で遊ぶことはやめられない。少女の奥に淀みがあるのを知っていて、しかしだからこそ少女を天使と呼んだ。

 とにかく少女はそうやって生き延び続けた。

 なぜ生き延びようとしているのか、少女は考えもしていなかった。

 少女は明るい電灯の下で、しかし仄暗い水の底のような世界でただ生き延びた。


 少女がやがて女と呼べる歳になる頃に、飼い主が見つかった。

 飼い主は少女だった頃の収入源の一人だ。説教を好み、時には泣き叫び、少女を最も利用していた気の弱そうな男だ。最後に事を済ませた後、男は少女に家に来ないかと告げた。一世一代の告白かのように、それでも自信なさげで弱弱しい声色で。

 女はなにも聞かず、やはりそれらしい顔で受け入れた。

 男はまた泣いて喜び、まるでこの世の全てを手に入れたかのような顔をした。少女を救う権利を得たと、自分を物語の主人公のように感じていたようだ。意気揚々と女を自宅へと招き、女にホテルではない寝床を与えた。温かい食事を与え、着る物を与え、人並みの生活と呼ばれる全てを女に与えた。

 女が変わりに差し出したのは、その他の全て。

 飼い主の言葉に従い、飼い主の求めに応え、飼い主のためだけに息をした。

女の境遇は飼い主にとって好都合だった。社会に交じるために必要な要素を持たない女は、独占を容易いものにした。親類縁者はおらず、友人もおらず、誰もその存在を心配する者がいない女は死者も同然だった。自信のない飼い主には女が弱者でいなければならなかった。

女もそれに反発しなかった。

 その方がより合理的で、よりよい生存方法だと思ったからだ。

 こうして女は新たな寝床を手に入れた。


 時が経つと、飼い主は次第に自信を身に着け始めた。

 女が家にいることに慣れ、女に与えることに慣れ、支配者であることに慣れた。

 徐々に行為はエスカレートし、暴力を伴うようになった。初めての時は狼狽しすぐさま泣いて謝ったが、女が受け入れると病みつきになる。

比例するように独占欲も強まっていった。迎え入れた頃は外出する許可も与え、むしろ積極的に女を連れ出してたりもしていた。美しい女が横にいると、自分が女に相応しい人間であると周囲に誇示できると感じていたからだ。しかしそれも反転し、女を家に閉じ込めるようになった。女の個室を作り、外からでなければ開けられぬ鍵を付けた。仕事に行くときは最低限の水と食事を残し、鍵をかけてからでなければ安心して家を出られなくなった。

 それでも女は受け入れた。

 窓のない部屋で何時間も閉じ込められても、その間は寝ているかなにも考えずにぼうっとしていた。時間が経ったと把握できるのは、飼い主が毎度のように鍵をガチャガチャ鳴らし荒い呼吸で部屋に入ってくる時だ。その度に飼い主は血走った眼をしていた。

 飼い主の顔がだんだん父親だった男と同じようになっていた。


 女が突然吐いたのは、そんな生活がしばらく続いてからだった。

 飼い主は激しく動揺した。女が体調を崩したのは初めてだったからだ。根掘り葉掘り女に詰問し外出した後、戻ってきた飼い主が恐るおそる手渡したのはとある検査薬だった。

 反応は陽性。

 この時、飼い主は女の見たことのない表情を目にする。

 女は信じられないような、理解できないような顔をしていた。下腹部を撫で、眉を顰め、ほぅ、と息を吐く。それは男の望んだ表情ではなかった。

 堕せ、飼い主は言った。

 女はしばらくの間、男を見つめていた。物憂げな眼差しで、じいっと飼い主の歪んだ瞳を逸らすことなく捉え続けた。これも初めての事だった。飼い主は不安に駆られ、かつての自信のない怯えた客だった頃と同じ目に戻った。

 わかりました、女は言った。

 飼い主は安堵の溜息をつく。

 飼い主は女に料理を望む。二人でリビングに行き、男はテーブルに座りテレビをつけた。女は台所に立ちなにを食べたいのか尋ねる。君の好きなモノが食べたいと飼い主は言った。女は逡巡したのち、冷蔵庫から卵と葱、ソーセージを取り出すと、フライパンで飼い主を殴った。

 鐘の音。

 動かなくなった飼い主に意識がないことを確認すると、女は下ごしらえをしながらご飯が炊きあがるのを待った。そして二人前の炒飯を作ると、一つは飼い主の前に置き、普段と同じように正面に座るとテレビを観ながら食べ始めた。テレビではニュース番組が流れており、悲惨な事件をなぜ未然に防ぐことが出来なかったのかと、女とは別世界に生きているタレントがキャスターと共にそれらしい顔で言っている。女は格段に上手くなった炒飯を口に入れる度に顔を顰めた。それでも手を止めることはなかった。

 食べ終えると、女は飼い主の財布からカードを抜き取り身支度を始める。以前はよく使っていたキャリーケースに飼い主が集めた服を詰め込み、換気扇をつけて家を出た。

 半年ぶりの外は、女がかつていた明るく静かな夜だった。


 女はホテルの一室で膨らんだ腹を撫でていた。

 まるで普通の人間のように、穏やかで優しい笑みだった。それが女の本心であるのかはわからない。女は少女の頃からそれらしい顔しかしなかった。その場に相応しい表情で見る者を安堵させる術に長けていた。物憂げな眼差しで弱弱しく微笑んで見せれば、誰も女を邪険に扱わないと学んでいた。いつしかそれは仮面のように女の顔に張り付いていた。

 誰も女に事情を尋ねようとはしなかった。

 金さえ支払われれば不用意に詮索はしない。美しい腹の出た女性が一人でホテルに泊まるなど、なにか事情があるに決まっている。しかし笑顔で取り繕い、女の望む空間を与える。他者に干渉しない事が正しいことと教えられた人々は、都合の良い選択肢を取り続けた。女が外に出るのを見送る度に、好奇心を隠そうともせず仲間内で囁き合っていた。

 女は日がな一日中、自分の腹を撫で続けていた。

 女は濃密な時間を過ごしていた。

 女の人生において最も充実し、満ち足りた時間だった。

 ノックの音がした。

 女はソファから立ち上がり、ドアへと向かう。ルームサービスは頼んでいない。しかし時折こういうことがあった。興味を抑えきれない者や下心のある者が訪ねてくるのは少なくなかった。善意を笠にして差し入れをする者達、その一人であろうと女はドアを開けた。

 目の前には元飼い主が立っていた。


 夜の街を女は這いずっていた。

 地面に腹を押し当てぬように、横ばいになって進み続けた。

 白いゆとりのあるワンピースは、下半身に向かってどす黒い赤に染まっていた。女は穴の開いた部分を片手で抑えてはいるがいまだにそれは流れ続け、ピタリと蠱惑的な脚に張り付いている。アスファルトを掴む細長い指は、力を込め過ぎて爪が割れていた。

 誰も女に近づこうとしない。

 遠目に眺め、きょろきょろと辺りを見回す。そして他の者が血相を変えないので、また美しい女に目を向ける。ありえないそれは何かの撮影だと思ったのだろう。中にはスマホを取り出しカメラを向ける者までいた。あるいは顔を顰め、首を横に振る者もいる。説明もなく鼻を突く臭いに晒され迷惑に感じているのだ。何の冗談だと悪態をついて家に帰っていく。

 女はひたすらにホテルから逃げていた。

 目は霞み意識が朦朧としている。白く絹のように美しかった肌は、今では魚の腹のような色へと変わっていた。それでも前に進み続ける。腹を庇いながら。

 ついに誰かが女に駆け寄っていった。

 周りに救急車と叫びながら女の肩をゆする。

 辺りの者達は顔を見合わせ、これが現実ではないかと疑い始める。しかし大勢いるので、誰かが対応するだろうと行動する者はいなかった。記録に残さなければとスマホを構えたまま動かない者がいた。その連れがヤバいんじゃないかと心配気に言い、ヤバいよこれと返事をして撮影を続ける。通報しろよと誰かが叫んだ。早くしてと悲鳴をあげた。

 女は腹を庇うために身体を丸めた。

 男に女が蹴られていた時と同じように。

 揺さぶっているのは飼い主だと思い込んでいた。

 なにを聞かれても、なにがあったと言われても、女は返事をしなかった。もう言葉を聞き取れるだけの力は残っていなかったからだ。その音が元飼い主に似ていたから、ただひたすらに腹を守り続けていた。元飼い主をめった刺しにしたことを女は忘れていた。

 ついにサイレンの音が遠くから近づいてくる。

 通報したのは、取り乱し泣き叫び続けるホテルの従業員にクレームを入れようとした、失踪した生徒への淫行が発覚し職も家族も失った元教師だった。

 女は元教師とすれ違っていたが、お互いに顔は忘れていた。


 次に女が見たものは、花の形をした眩しい光だった。

 口に呼吸器を当てられ、聞く者を不安にさせる短い呼吸を繰り返している。いくつもの機材が取り付けられ、その先にある心電図では危険を示すアラートが鳴り続けている。

 女はその場所がどこであるか知らない。女の人生には最後まで無縁な場所だったからだ。

 周囲では慌ただしく見知らぬ誰かが準備をしている。女の覚醒に気がついた誰かが呼びかけるが、女には何を言っているのかわからなかった。わかるのは凍えるような寒さと、つんざくような耳鳴りだけだ。

 とりあえず女は腹を庇うため腕を持ち上げようとした。しかし腕はまったく動かない。心電図がさらに悲鳴をあげる。誰かがまた叫ぶ。しかし女には何も聞こえない。

女がその部屋に運ばれてからかなりの時間が経過したが、なにも始まらなかった。常駐している外科医のうち、一人は別の手術にかかりきり、一人は仮病を訴え続ける患者に引き留められ、最後の一人は経営者に疎まれ壮絶な虐めにあい退職したばかりだった。震える若者が一人、部屋の隅で恐怖に目を見開きながら立っていた。

 だが女にそんなことを知る余地などない。

 女にわかるのは、このままでは良くないというだけだった。

 もう寒くなくなっていた。

 光の花が闇に飲まれていく。

 馴染みのある暗く静かな世界にまた落ちていく。

 薄らいだ意識に今までの出来事が次々に張りついては消えていった。

 様々な者達の顔が、女に向けられたあらゆる顔がまたのぞき込んだ。

 女の眼に、初めて感情が宿った。

 造り物ではない本物の感情。

 女の口が僅かに動く。

 誰も女が何を言ったのかわからない。

 だが女にだけはわかる。

 少女だった頃、よく見たからだ。

 自然と出たのはその言葉だった。

 そして世界は閉ざされる。

 最後に声が聞こえた。

 なぜかはっきりと、まるですぐそばで。

 すすり泣く、女の子の声。

『いやだよぉ』

 ——殺してやる。



 もう何度この悪夢を見せられ続けただろう。

 タカコという女の人生、それはどん底そのもの。まるで映画のようにその光景を眺めているというのに、彼女の感情が自分のことのように流れ込んでくる。重油に浸り続けたみたいに俺の心に沁み込み、細胞の一つひとつを汚染しているようだった。俺という意識は挽き潰され、俺を俺だと認識できる記憶や感情がタカコのそれに塗り替えられていく。

必死に抵抗しようとした。

 明るい闇の中で、腕なのか脚なのか、それとも意識なのかわからないが、動かせるものは全て使いもがき続けた。痛みに溺れながらも、なんとか息をしようと抗った。

しかしそれは絶え間なく凌辱し続けてくる。

耳から、鼻から、口、瞼、、爪、肌、そして心、タカコの憎悪があらゆる中へと入り込んでくる。とめどなく俺を冒していく。泣き叫びながらやめてくれと頼み続けたが、それにもはや意思など存在していない。溢れ出る水に言葉で訴えかけても無駄なように。

 タカコはただの現象へと変わり果てていた。

 抗いようのない怨嗟そのもの。

『——ゆるしてください』

 最後の懇願を嘲笑うように、また世界が切り替わる。



 父が母を怒鳴っていた。

 場所は俺の実家。祖父から受継ぎ無駄に広い家の居間だ。

理由は知っている。

仕事から帰って父がいの一番にすることは、酒を伸びながら母を怒鳴ることだ。やれ酒の数が少ないとか、なぜ夕食がまだできていないのかとか、とにかく母を詰る理由を探しては怒鳴り続けた。なにもない時は、なぜそれがいつも出来ていないのかとまた怒鳴った。

母はそれを無視する。

まるでいない者かのように、頑なに返事をしない。ただ父が怒鳴る度に眉間の皺が鋭くなり、野菜を切る包丁の音は大きくなった。母は父と自分たちの料理を分け、父のモノを粗末に作っていることを知っていた。野菜は洗わず、洗剤を残したままの器具で調理し、たまに傷んだ肉を使っていることを俺は知っていた。父は酔っぱらってそれに気がつかなかったが、俺にはわかっていた。母は父と同じフライパンから、俺の分もよそっているのを見たからだ。母は父と同じ顔をした、出来損ないの俺も憎んでいた。

姉は全てを知っていたけど、なにも言わなかった。

姉にとって家は恥ずべき人生の汚点だからだ。高校生になってアルバイトを始め、寝る時以外はほとんど家にいなかった。それでも優秀な成績を修めていたのは、飲んだくれ父と、愚かな母、そして無能な弟と自分は違うと証明したかったからだろう。

生まれてからずっと、俺は家族に愛されなかった。


 学校でも俺は一人だった。

 ろくに飯にもありつけず、やせ細り金をかけられなかった俺は、他の生徒から見れば完全な異分子だった。子供は自分達と違うものを見つける力に長けている。それが優秀なものであれば問題もなかったかもしれないが、下であれば容赦はない。幼少期に虫や小動物を簡単に殺すのと同じだ。対象が人間になり、やり方が変わるだけ。

 週に三回は下履きがゴミ箱にあった。

 教科書は切り裂かれていた。

 グループを作れば、透明人間になった。

 目の前を歩く女子が落としたモノを拾えば、汚物に落としたように泣かれた。

 たまに男子から声がかかると、暗い場所へと連れていかれた。

 教師は俺を助けなかった。勘違いとか、お前にも原因があるとか、あれこれ理由を付けて俺を窘めた。その教師は学校でも人気の熱血教師で、卒業式に生徒から感謝の言葉を受け取って涙ぐんでいた。それを廊下の外から見ていた。教師は俺に気づいていた。

 俺は徹底的に排除されていた。


 就職してもなにも変わらない。

 出来損ないの俺に居場所はない。

 説教好きな上司に差し出され、クレーム案件を押し付けられ、その責任も取らされて、おかげで皆が安心して生きていられる。誰も俺を助けようとはしない。

 本社からお偉いさんがやってきた。

 営業成績の悪いこの支所へ査察、激励、説教の為だった。

 威張り散らす上司が縮こまって頭を下げている。お偉いさんは理由を尋ねる。何が原因で業績は落ちる一方なのか、どうして改善する見込みがないのか、誰が責任を取るのか。

 上司は冷房が真逆に効いているように滝汗をかく。必死に言い訳を探し、お偉方の気を引くようなナニカを探す。そして窓際でその週丸々超長時間働いても終わる兆しのない仕事に忙殺されている俺に目を付けた。

 俺はその事に気がつかなかった。

 寝不足が続き、縮こまった胃のせいで満足に食事もとれず、ひっきりなしに押し付けられたクレーム対応のせいで意識は朦朧としていた。ただでさえ苦手な書類整理は、モニターの字が乱れて見えてなかなか進まない。パソコンを触ったのは就職してからだったのでタイピングもおぼつかない始末。人差し指だけでキーボードを押す俺を、同僚は馬鹿にしていた。

 それでも俺が仕事を辞めなかったのは、行く場所がなかったからだ。まともな学歴もない、技能もない俺をその会社以外が拾うと思っていなかった。

 だから俺は生贄にされた事にも気がつかなかった。

 上司は俺の失敗を全て記録していたのだ。それ以外のまで俺個人の成績にされていた。中には上司のものもあった。出社する前に外回りをしろと言われていたものは、遅刻扱いになっていた。病欠はただの休みになっていた。残業は記録されていなかった。

 次の日、俺の机には何もなかった。

 誰も俺に目を合わせなかった。



 土砂降りの雨の中を歩いていた。

 安物の傘はとうに折れ、手に持っていても仕方がないのでゴミ箱に捨てた。

 丈の合っていないスーツが雨を吸って身体に張り付く。重く、硬くなってひどく歩きにくい。眼は満足に開けられず、街灯だけを頼りに進み続けた。

 でもどこに向かって歩いている?

 屋根や地面を打ちつける雨が騒がしくて、考えることもおぼつかない。

 明るいのか、暗いのか、それすらもわからない。

 今いる場所がどこなのかもわからない。

 それでも止まらずに前へと足を動かす。

 俺が何をしたのだというのだろう。

 俺が何だというのだろう。

 タカコと俺は同じだ。

 誰にも本当の意味で求められず、自分ではない何かとしてしか見られなかった。

 誰かのはけ口となって、自身はいないものとして扱われた。

 それでもはただ生きた。

 理由もわからずこの世に産み落とされて、理由もわからずただ生き続けようとした。

 でもそれは誰しもが同じなのではないのか?

 とあいつらの違いはなんだ?

 なぜあいつらは普通に生きて、俺にはそれが許されない?

 私は望むモノを与えたのに。

 まだから奪うのか?

 この暗闇が俺は嫌いだ。

 私を閉じ込めるこの暗闇が嫌いだ。

 もしこの命が、本当に生きてもよい命なのだというのなら、お前達と同じように呪うことも許されるはずだ。

お前達と同じ権利が、この命にもあるはずだ。

 まばゆい光が視界を覆いつくした。

 この光を知っている。

 最後に俺を殺した、車のヘッドライト。

 濡れた世界の中で、それは眩い星のように見えた。

その光の向こう側に老人が焦った顔をしている。

 明らかな暴走車、右へ左へ、コントロールは失われている。

 俺はそれを避けられなかった。

 道の端に寄っていた俺を引き潰し、そのままどこかへと走り去った。

 身体はそのまま放置され、雨のせいで血は固まらず出血多量で死んだ。

 また、俺を殺そうとしている。

 身勝手な思い込みのせいで、俺はまた誰かに殺される。

 ——憎い。

 だからこの光に身を委ねて、私と一緒になろう。

 あの光の中で、泣き続けるあの子を守ろう。

 私達は仕返しをするだけ。

 いや、仕返しですらない。

 同じことをするだけだ。

 あいつらと同じように、己の願いの為に誰かを犯そう。

 それこそが人間。

 それこそが生きている人間の証明。


『だからほら、一緒にいきましょう?』


 かつて美しかった頃のタカコが隣に立っていた。

 初めて向けられた優しい微笑みは甘く蕩けるようで、すべてを委ねたくなる。

 俺の手を取る指は柔らかく、その親指がそっと手の甲をなぞると自然と涙が零れた。凍てつく雨の中で彼女の指はなによりも温かい。その熱はじんわりとしみ込んでいった。

 どん底のような世界の中で、彼女だけが俺を認めてくれる。

 心からそう思えた。

 俺は彼女の絶望を知っている。彼女は俺の失望を知っている。

 よく似た人生を送った俺達は、誰よりも互いの怒りを理解しあえる。

 身勝手な者達の欲望に凌辱され、救いのない終わりを迎えた憎しみを共有できる。

 俺が選ばれたのはそういう理由なのだ。

 あの廃病院で、俺だけがタカコに嬲られたのはそれが理由だった。

 タカコにとって愛とは犯すこと。

 ずっとそう教えられてきた彼女は、そうやって俺を取り込もうとしていた。

 俺は愛されている。

 家族にも、同級生にも、誰にも愛されなかった俺は、初めて他者に愛されていた。

 喜びで心を満たしていく。

 誘うようなその手に導かれ、俺は光の中へと進んだ。

 車はどんどん近づいてくる。

 だがもうどうでもいい。

 俺は愛を見つけた。

 誰かからの愛を、ようやく見つけることが出来たのだ。

 あとはほんのひと時を、目を閉じてただ待っているだけでいい。

 それだけでいい。

 俺はそれをすでに知っている。

 それは寒くはない。

 むしろその眠りを受け入れるのは、この指のように心地がよかった。

 何にも苦しめられることはない夢の中で、俺は愛を手に入れるのだ。

『だめ』

 誰かが俺の足を引っ張った。

 鬱陶しくて足を払う。

 振り払われたそれはすぐにまた俺を捕まえた。

『だめ』

『……なんでだよ。これで俺は本当にお前らの仲間になるんだぜ?』

 もう俺にこいつらを拒絶する理由はない。

 あの廃病院で、俺もこいつらと同じように夢の中で過ごす。

 痛みも苦しみもないタカコの愛に包まれて、静かに眠っていたい。

『ないてる』

『だから、これでいいんだって。あいつもそれを望んでただろ』

 華はずっと仲間を欲しがっていた。

 俺が嘘をついた時の、あいつの笑顔は本物だった。

 罪悪感がわきあがってくる。

 申し訳ないことをした。

 あんな小さな子供を、俺は自分の為だけに利用したのだ。

 嫌いだったはずのあいつらと同じように。

 謝ろう。

 そして本当の仲間になるのだ。

『たすけて』

 その言葉に身体が固まった。

 次に俺を捕まえたのは一人ではなかった。

 次々と誰かが俺を闇の中へと引き戻す。

 タカコの怒声が光の中で響いた。



『おきて』

 また声が聞こえた。

 俺の隣から、記憶の中でも聞いた囁くような男の子の声。

 しかし俺は目を開ける気にはならなかった。

『おきて』

『うるせえ。邪魔すんな』

『ないてる』

『だからこうしてんだろ』

『まけないで』

『またかよ。意味わかんねぇよ』

『まけないで』

『これでいいんだって。これが勝ちなんだ。だから静かにしてくれ』

『まけないで』

『うるせえって言ってんだろ!』

 隣に座るユウトに向かって怒鳴った。

 そのせいで見てしまう。

 隣に座って、俺を見つめるユウトの黒い瞳。

 目が合っているのに、なにも写さないどこまでも黒い瞳の奥。

『見てんじゃねえ!』

 どれだけ凄んでもユウトは諦めない。

 タカコの憎悪に晒されても逃げなかったこいつを、俺がどうにかできるはずもなかった。

 ただじっと、俺を見つめ続けている。

『……俺にはなにもできねえよ』

 俺だってこのままが良くない事はわかっている。

 本当は愛などまやかしだとわかっている。

 タカコにそんな感情や想いなどない。

なぜならあいつは生きている頃に人を殺して、そのことを何も思っていなかった。

両親が目の前で死んでいても、平気で飯を食って笑うような人間だった。

 それが生まれつきなのか、そう育ったのかなんて関係ない。

 でももう嫌だった。

 愛も共感も、自分を諦めさせるためだけについた嘘。

 ただあの苦しみから逃れたい一心で、理由を作っていただけに過ぎない。

 もう痛いのは嫌だ。

 もう苦しいのは嫌だ。

 もうこれ以上、自分が無力だと思い知らされるのが嫌だった。

 だからもう、なにも考えられないようになりたかった。

『俺はクソだ。クソなんだよ。だからもういいだろ』

 家族も学校も、会社でも何もできなかった俺に、タカコをどうにかできるわけがない。

 俺が最悪だと思っていた地獄の底には、まだ下があったのだ。

 アレに比べれば俺の地獄など地獄ですらなかった。

 タカコは本物だ。

 本物相手に俺が出来ることなどなにもない。

 生まれてから死んでも、なにもしなかった俺には。

『まけないで』

 それでもユウトは続けた。

 なにも写さない瞳を逸らさずに。

『たすけて』

 いつの間にか病室には他の幽霊が集まっていた。

 佐藤も、菅原も、看護師も、華とタカコ以外の全ての幽霊達が俺を見ていた。

 理性を失い人間らしさを亡くしたと思っていた連中が、ユウトと同じような目をしている。

 皆がなにを言いたいのかは嫌でもわかった。

『……なんで俺なんだよ。京本に言えよ。俺よりよっぽど適任だろ』

 しかし幽霊共は答えない。

 ただ黙って、俺を見ている。

 だがわかってしまう。

 こいつらがどうしてここに残り続けているのか。

 なぜ京本の浄霊が失敗したのか。

『無理だ。俺には無理なんだよ』

 華みたいに泣いてくれ。

『俺にはできねえよ』

 タカコみたいに犯してくれ。

『なんで俺なんだよ』

 他の人達みたいに、なにも求めないでくれ。

『……怖いんだよ』

 死んでも俺は、臆病なままだ。

 憎みあう家族に、愛してくれと俺は言えなかった。

 虐めてくる学校に、やめてくれと言えなかった。

 見捨てた会社に、助けてくれと言えなかった。

 結局、俺はそんなことも満足にできなかった。

 拒絶されるのが怖くて、俺は孤独にいることに抗わなかった。

 仮に手を伸ばして、なにもかもに否定されるのが怖かった。

 俺が俺自身を、本当に無価値だと知ってしまうのが怖かったのだ。

 窓にも鏡にも、彼らの眼に俺が写らないのは当然だ。

 他の幽霊みたいに、生きている人達に気づかれないのは当然だった。

 なによりも俺自身が、俺を見てしまうのが怖くて仕方がなかったのだ。

 なにかが残ってくれと自分自身を消し続けた俺には、写るものすらなくなっていた。

 なのに彼らは、それでも俺を見ている。

 俺がここにいるかのように。

 俺が存在しているかのように。

 俺が何かをなせる人間であるかのように。

『俺じゃなきゃ駄目なのか?』

 彼らは何も言わない。

『俺ならできるのか?』

 彼らは黙ったままだ。

『俺がやってもいいのか?』

 彼らはただ見ている。

『……わかったよ』

 俺はベッドから降りた。



 この無駄に広い廃病院の中で、京本とタカコをあっさり見つけることが出来たのは京本の間抜けな言葉が響いていたからだった。

「タカコさん! そうやっていてもなにも解決しません! 貴女の憎しみに誰も応えないんです! ですのでひとまず僕の話を聞いていただけませんか⁉」

 二人がいたのは三階と二階を繋ぐ階段。

 すでに何回も上り下りを繰り返しているのかそれとも先回りをされたのか、京本は踊り場から下階にいるタカコに向かって呼びかけていた。タカコは京本を嬲り殺すつもりなのか、一瞬で接近せずのっそりと歩み寄っている。

つんざくような耳鳴りが聞こえだした。

『京本!』

「え? 緒方さん?」

 こいつは命の危機をなんだと思っているのか、道端でばったり出くわしたような驚き方をした。

タカコも足を止め、ゆっくりと顔をあげる。

 記憶の中と違い傷んだ髪の隙間から、憎悪に満ち満ちた眼がのぞいた。

 身体が竦みそうになるが、そうも言ってられない。

『いったん逃げんぞ!』

 返事を待たずに背を向けて走り出す。

 京本が追いかけてくるのは足音でわかった。

 走りながら話せるように少しだけスピードを落とし、並んで走る。

『タカコは⁉』

「——まだ後ろにいます!」

『走ってるか⁉』

「立ってるだけです。でも意味ないですよ!」

『あいつが近づけないように出来るか⁉』

「そのための札は使い切りました! それよりもどうして緒方さんが?」

『んなもんどうでもいいだろ! とりあえず走んぞ!』

 ひとまず闇雲に走り続ける。

 どこもかしこもタカコが現れた時の黒い染みが壁や床の全てを覆っていた。

生臭い血と腐った魚の臭いは立ち込めて、夏だというのに酷く寒い。

この寒さはタカコの怨念のせいだろう。

 華達を消さないために外に出ていたのがよくわかった。

 こんな濃密な念に晒され続ければ、一日だって正気を保てない。

『タカコは⁉』

「姿は見えません!」

『気配は⁉』

「少なくとも近くにはいないようです!」

『なら少し止まんぞ!』

 走っているうちに辿り着いた三階の待合室で足を止める。

 かなり全力で走り続けたが、京本の息は完全に上がってはいなかった。

 俺もそうだ。

 幽霊でなければ今頃は動けなくなっていただろう。

『大丈夫か?』

「鍛えていて、本当によかったと思います。やっぱり身体は資本ですよね」

『軽口叩けんなら大丈夫だな。さっさと作戦立てんぞ』

 息とともに色々飲み込んだらしい京本だったが、まだジョウレイを諦めてきれてはいないようだった。

 躊躇いがちに腰に付けたサイドポーチを撫でている。

 その中にはきっと、どうしようもなくなった時の何かがあるのだろう。

 努めて冷静に、京本に語り掛ける。

『もう話し合いでどうにかできる相手じゃないのはわかってるんだろ?』

「ですけど……」

『いいか京本』

 京本の言葉を遮る。

『俺はタカコの怨念を浴びた。あいつの人生を見たんだ。正直言って、俺達にどうにかできるもんじゃねえ』

 かいつまんでタカコの人生を説明する。

 思わず耳を塞ぎたくなるような過去だったが、京本は黙って聞いていた。

 しかしその悲惨さをどう感じたのかは、歪んだ顔を見ればよくわかった。

「……最悪ですね、本当に」

 吐き捨てるように零した言葉には全てが詰まっていた。

 まだ高校生の京本には、タカコの人生はとても受け止めきれるものではなかっただろう。

 いや、そんなことは誰にも出来ない。

 どんな聖人にだって、タカコが受けてきた仕打ちに耐えられるわけないのだ。

「よく無事でいられましたね」

『他の連中に助けられた。戻ってこれたのはアイツらのおかげなんだ』

 それが誰を差しているのかは説明せずともわかったようだ。

 まだ口で呼吸しながら必死に何かを考えている。

 それもほんのわずかな間だけだった。

「……わかりました。タカコさんの浄霊は諦めます」

『悪いな』

「正直に言うと手詰まりでしたからね」

 それがわかっていて、京本は懸命にタカコにむかって言葉を投げかけていた。

 踊り場で対峙している時の声は本気だった。

自分が命の危険にさらされているにもかかわらず、その声に嘘偽りはなかった。

たいしたやつだと思う。

少なくとも俺にはできない。

『それで、その中に入ってるものでなんとかなるか?』

「おそらくとしか」

『可能性があるならいい。どうやんだ?』

 京本はサイドポーチを開ける。

 中にはまだ残っていたらしい塩の入った巾着袋と、今まで見せたことのなかった紙人形の束があった。

 一目見ただけでそれにどんな効果があるのかわかった。

「これは魂を閉じ込めるものです。魂は水だと前に言いましたよね。その原理に基づいています」

『説明しなくてもいい。見てわかった』

「なんだかスポンジみたいですよね」

『お前は冗談を言わなきゃ死ぬのかよ! 追われてんだぞこっちは!』

「やっぱりツッコミがいるのは大事ですよね」

『死にてえのか! さっさと説明しろ‼』

 そうは言いつつ、これが京本なりの平静の取り戻し方なのだとわかっていた。

 逃げている間からずっと引き攣っていた口元が少しだけ緩んだからだ。

 どれだけ勇気があったとしても、本気になったタカコを前にして怯えないはずがない。

「これを描いた陣の中心に置いてタカコさんを封印します。これだけの怨念はとても除霊できるものではないので、もうこれしかありません。でも少し問題がありまして」

『なんだ?』

「陣を描くのに十五分ほどかかります」

『マジかよ』

 十五分?

 京本にしか陣を描けない以上、俺がその時間を稼ぐしかない。

仮にタカコが俺を狙って追いかけてきてくれるとして、十五分間この廃病院を駆け回らなければならないことになる。

もしタカコがじわじわ迫ってくるのをやめて仕留めに来ればそれで終わりだ。

途中で京本にターゲットを変えても終わり。

あいつは俺と違って物を動かすことが出来るから、陣を吹き飛ばしてもそれで終わりになる。

あまりにも問題が山積みだった。

「それにまだ問題があります」

『まだあるのかよ』

「封印が完了するまでの間、タカコさんを陣の中に閉じ込める必要があります」

『閉じ込める? どうやって?』

「僕に憑依させるか、緒方さんが掴んで」

『……マジ?』

 いや、無理だろ。

「それでも可能性は五分だと思います。あれほど強力な霊は初めてなので、そもそも封印すること自体が可能かわかりません。それまで僕達が耐えられるかも」

『いちおう聞くけど、痛い?』

「幽霊の身体の痛みは知りませんが、その陣はかなり効果があります」

『それをタカコと一緒に?』

「ええ」

『どれぐらいかかるかもわからない間ずっと?』

「ええ」

『いや無理だろ』

 マジで無理。

「僕も出来ればやりたくありません。自分の身体に他の魂を憑依させるのはかなりキツいので」

『やったことあんの?』

「訓練で一度だけ」

『どうだった?』

「一週間は寝込みました。タカコさんよりはるかに力のない猫の霊で」

 憑依がどんなものか俺にはわからない。

 だがもし仮に俺がタカコにされたのと同じなら、とても京本に耐えられるとは思えなかった。

「どうします?」

『他に方法はねえんだな?』

「はい」

『場所は?』

「玄関前ロビーで」

『十五分だな?』

「お願いします。出来れば四階から順番に降りてきていただけますか? 僕も廻る必要がありまして、ルートも決めてあります」

『なんでだよ』

「階ごとにタカコさんの力を少しでも弱める仕掛けがあります。作動させるには触れる僕にしかできません」

『それなら安心しろ。言われれば俺にも出来る。手、出してみろ』

「はい?」

 京本はわけがわからないといった顔で右手を差し出す。

 俺はそれを思いっきり叩いた。

『タカコにやられたせいかもな。触れるようになった』

 五〇一号室の扉は閉まっていた。

 なのに誰も開けてくれず、ヤケクソ気味に取っ手を掴んだら動かせたのだ。

 死んでから初めて、身体を取り戻したような気分だった。

「……なるほど、では十分でお願いします。仕掛けは——」

 

「——来ました」

 仕掛けについて説明し終わるや否や、京本が振り返る。

 ナースステーションの中からタカコがゆっくりと出てきた。

その道は俺が止まらなければ選んでいたルートで、どうやら先回りされていたらしい。

もう一度、頭の中で京本から説明された間抜けた仕掛けをおさらいする。

そして気合を入れる為に頬を叩いた。

『逃げんなよ』

「緒方さんこそ」

『うっせえ。——オイ! クソババア‼』

 タカコの眼が俺に向けられる。

 途端にさらなる耳鳴りと寒気が全身を襲う。

 死ぬほど恐ろしいが、それでも精一杯の憎まれ口をたたく。

『なにが一緒にいきましょうだ! キメえんだよ猫なで声しやがって、誰がお前なんかと一緒にいくかブ——』

 最後まで言い切る前に俺は横に落ちていた。

 そのままタカコの反対側の壁まで吹き飛び、背中をしこたま打ち付ける。

 どうやら見えない何かで振り飛ばされたらしい。

 好都合だった。

「緒方さん‼」

 タカコの向こう側で京本が叫んだ。

『行け‼』

 気を引くのは成功したようだ。

 タカコは京本に背中を向けている。

耳鳴りはさらに大きくなり、掴まれたらしい腕には手形のような黒い染みがくっきりと浮かんでいた。

しかし痛みに身を縮こまらせている場合ではない。

『こいよクソババア! 捕まえてみろ! ほら! やってみろ‼』

 言うが早いか全力で駆け出す。

 振り返る余裕もなかった。


 この廃病院が心霊スポットとなる前、暇を持て余した若者達のたまり場だった頃に残されたのは壁の落書きだけではない。

数多のゴミが部屋にも廊下にも散乱し、走るには障害物が多すぎた。

月光だけの仄暗い視界の中では、走るだけでも神経をすり減らす。

それでもスピードを落とさないように進み続けなければならなかった。

『クソが! 死ねよマジでッ‼』

 時間を稼ぐために俺はまず二階へと駆け下りることにした。

 いくらこの病院が広いとはいえ、走り続ければ五分とかからず回り切ってしまう。

 京本の時間を稼ぐためにも、いったん下に降りるしかなかった。

 しかも物に触れられるようになったせいで、踏み越えるには足を取られかねないものばかりだ。

 詰まったゴミ袋を飛び越える。

 捨てられたサンダルを飛び越える。

 それでも悪いことばかりではないのは、一方通行なこの建造物に走り回れるだけの破壊を残している事だった。

溢れる活力が迸ったおかげで、袋小路に掴まらず走り続けることが可能になっていた。

どこの誰が言い出したのかわからないが、二階の浴室とその後ろにある階段との壁を破壊してくれたのは正直なところかなり助かっている。馬鹿の考えることはさっぱり理解できないが、病室の壁を破壊し階層を一周できるようにした連中には感謝した。

『ずりいんだよそれ‼』

 一方でタカコに壁や床の概念はない。

 俺が必死に破壊された場所を思い出しながら、不安定で視界の効かない廊下を駆けているというのに、自由自在に姿を現すことが出来る。二階の東側通路を抜け、二〇五号室からぶち破られた壁を使い再び三階へと逃げようとしていたところ、おもむろに床から這い出してきた。

 急停止し踵を返す。

 目の前にタカコの顔があった。

『フザケ——ッ⁉』

 顔に向かって伸ばされた手をのけ反ってよける。

 そのまままた反対側に走ろうとしたが、勢い余って足を滑らせてしまう。

脇腹を刺したパンプスに悶えるよりも早く転がる。

俺が倒れたその場所にタカコが覆いかぶさった。

『キメぇことしてくんじゃねえ‼』

 挑発するのを忘れずすぐ立ちあがる。

 状況を確認したいところだが足元に気をつけるだけで精一杯だ。

タカコがその怒りを表現しているのか、廊下に並んだ病室の扉が激しく開閉を繰り返す。

だがそんなもの、種も仕掛けも知れている幽霊の俺には何の意味はない。

無視して通り過ぎ階段に駆け込むと、苛立っているのかバンッと激しい音が背後でした。

 そもそも、タカコはどうやって俺の位置を把握しているというのか。足音もなければ呼吸音もない。声を出さなければ俺は世界にいないも同然だ。それがどうして目の前に現れることが出来る? 死んで幽霊になったからといって、物理をガン無視できるなんて変態にもほどがある。何を考えていれば壁が通り抜けられると信じられるのだろうか。

 華といいタカコといい、つくづく幽霊というモノはやりたい放題だ。


『——これか』

 二階を駆け抜けた後、一気に四階まで駆け上がる。

 病室からタカコが飛び出てきても対処できるよう窓際を走り、ナースステーション前の待合室まで出る。

 いつもは肝試し後の集会場だったこの場所に、京本が残しておいたそれがあった。

 幽霊達に見つからないよう一番端の椅子の下に隠してあったのは、小豆と塩の詰まったデカめのタッパー。

 普段は巾着袋に入れているのだから、それらしく風呂敷にでも包めばいいのにどうしてこうも生活感ある物にしたのか謎だ。

 とにかくそれを引っ掴み、京本が探索初日に念入りに確認していたトイレに直行する。

 そして甚だ変態的ではあるが、女子トイレに入り手洗い場の排水管を蹴り折った。

 留め具は予め京本が緩めていたので、俺の力でも簡単に管が外れる。

『マジで、本当にするんだろうな……?』

 排水される全てにタッパーから小豆と塩を流し込む。

 ここは四階で下の階と違い、壁が破壊されていることはないので袋小路だ。

 焦りながらもタッパーの底を叩きまくり、塩という塩を落としたところで噎せ返る血の臭いが濃くなった。

 慌てて顔をあげると、鏡越しにタカコが立っていた。

 突如として溢れ出る水。

 それは小豆と塩を通して一気に床を拡がり、足に触れた途端まるで大きな静電気でも起きたような痛みが奔った。

『イッテェッ‼』

 打ち上げられた魚みたいに跳ねながら女子トイレを出る。

 腕を伸ばされていないかすぐに身を翻すも、タカコはまだトイレの中にいた。

『ハア、ハア、どうだよチクショー』

 あまりにも地味で性格が悪すぎる京本の仕掛けはちゃんと効いていた。

 タカコは拡がり続ける水の上で、静電気どころではなく電流でも浴びているかのように身を捩っている。

 京本曰く、幽霊の起こす心霊現象には水が関係するものが多い。

 その理由は魂と水の親和性が高いからで、力を発揮するのに最適だからだそうだ。

 だから水場に誘い込んだ場合、タカコが水を溢れさせる可能性が高いと踏んだ。

 それを逆手に取り水に幽霊を浄化させる効力のある物を混ぜさせたのだ。

ついでに俺も浄化されかけたが、賭けには勝ったようだ。

『アブねッ——‼』

 だがそれもタカコを抑えるには不十分だったらしい。

 タカコを中心に水が弾け、外まで飛び散ってくる。

 しかもまだ水は溢れ続け、ものすごい勢いで廊下に流れ込んでいく。

 タカコがどうなったかを見届けずに俺はまた走り出した。

 これは京本の作戦にはなかったことだが、ついでに至る所に盛られた塩も蹴飛ばしながら進む。

 少しでもタカコを弱めることが出来るなら御の字である。

 次は三階だ。


 誰もいなくなった三階に戻り、今度は踊り場に置いてあった点火棒を手に取る。

 これもやたら大きいタイプで、試しに点けてみるとライターどころではない火が噴き出した。

 幽霊の見えない者には点火棒がひとりでに浮き上がり着火したように見えるのだろうか。

 そんな馬鹿な想像はすぐかき消し一番近くにある病室に入り、まだ残っているカーテンをレールから引き千切った。

『後は札だ——』

 あれほどジョウレイにこだわっていたクセに、京本はこの状況を見越していたに違いない。

 カーテンと一緒に燃やせと言われていた札は、コの字の廊下を真っ直ぐ走っているだけで簡単に回収できるように配置されていた。

 それをカーテンで挟みながら包むように剥していく。

 直接触るなとは言われていたが、カーテン越しでも火にあぶられているかのような熱さだ。

 なんとか我慢し、すべての札を回収しようと階の半分を終えたところでタカコが天井から降ってきた。

『クソッ——』

 避けきれないと判断しカーテンで身を庇う。

 なんとか顔を掴まれる事は回避したが、そのまま床に押し付けられる。

 もがこうにも骨と皮だけとは思えない力で抑え込まれ、白のカーテンが急激に黒い染みで埋め尽くされていく。

 たまらず点火棒のスイッチを押した。

カーテンは一気に燃え拡がり、プレス機みたいな圧が消える。

生きて肉体があれば俺も巻き添えになって燃え死んでいただろうが、俺も幽霊の端くれである。

炎自体に痛みはなく、タカコが離れたおかげで這い出すことが出来た。

『これ、どう見ても火事だろ』

 勢いよく燃え上がるカーテンはおびただしい煙を巻き上げていく。

 札に発煙性の何かが含まれていたのだろうか、とてもカーテンだけとは思えない煙の量である。

タカコはその煙の向こう側で立ち尽くし、煙を突き抜けられないのか忌々し気にこちらを睨んでいた。

 まるで蚊取り線香である。

 あいつは幽霊をなんだと思っているのか。

『あ? どうした? こっち来いよ! そんなに俺を抱きしめたいんだろ⁉』

 これはあくまで時間稼ぎだ。

 京本が陣を描き終える十分間、タカコの気を引き続けなければならない。

 だからこうして煙越しに対峙したまま、挑発するのを忘れない。

 しかし今回はすぐに逃げ出すべきだった。

 タカコの視線が窓へと向かう。

『うおッ!』

 廊下に並んだ窓という窓が一気に割れる。

 破片が飛び散り激しい破壊音に思わず身を守るが、ガラス片は俺の身体を突き抜けていった。

 そして風が院内に吹き込んでくる。

『うっ、オェェェエエェエ‼』

 立ち上る煙が風に巻き込まれ一気に俺を貫く。

 激しい吐き気が腹からこみ上げてくるが、実際に吐瀉物が口から出ることはない。

 何とか意識を保ちながら正面を睨みつけると、タカコも同じようにもだえ苦しんでいた。

 京本の仕掛けその二である。

 煙で身を守った場合、タカコほどの力があれば簡単に突破されるのは目に見えていた。

 しかしいくら幽霊が超常的な力を持っているとはいえ、起こせるのはこの世にある物でしかない。

 燃えて起こった煙をどうにかするには、水と風しかない。

 四階で水を使った仕掛けを使われたのなら、次に使うのは風だった。

 京本はそれすら見越して仕掛けをこの順番にしたのだ。

 おかげでタカコはまんまと策に嵌り、浄化の力を浴びている。

 とても霊能力者とは思えない地味さと性格の悪さだが、効果はてきめんだった。

 俺まで消えそうになるぐらいダメージを負っているのは、流石に計算外だと思いたい。

『京本の野郎。マジで成功させろよな』

 タカコが煙をどうにかする前に踵を返す。

 最後は二階だ。

 そして仕掛けはもうない。


 追い詰められた、それに気がついた時にはもう遅かった。

 二階はこれまでと違ってその大半がリハビリテーションや事務室など、出入り口が二つある広い部屋が多い。

 手術室や医院長室は袋小路だ。万が一閉じ込められたらどうにもならないので避けるしかなかった。

 華がいるかもしれない特別病室に近寄るのは気が引けて、なんとか広めの部屋で何とかしようとしたのが失敗だった。

リハビリテーションから別の廊下に出ようとし、蹴り壊されたような扉を抜けようとしたところで室内のリハビリ器具が宙を飛んだ。

自転車みたいなトレーニングマシンが出口を塞ぎ、平行棒が俺目がけて吹き飛んできたのだ。

すんでのところで身をひるがえし、元来た道に戻ろうとしたところでタカコが現れた。

『……なんであんなもん置きっぱなしなんだよ。売るか処分しろよクソ』

 拾う馬鹿もいれば捨てる馬鹿もいる。

 壁に落書きしたり破壊した馬鹿には助けられたが、この病院を廃棄した馬鹿には追いつめられることになった。

ここの経営者連中の杜撰さには呪うしかない。

 広いフロアを支える柱を使って回り込もうしたが、タカコはそもそも走らない。

部屋を支える柱の右から顔を出せばそちらに、左に顔を出せば最初からそこにいたように立っていた。

 そしてゆっくりと、こちらに向かって近づいてくる。

『……だるまさんが転んだかよ』

 憎まれ口は虚しく響くだけだった。

 思い切って走りだそうとすれば、すぐさまリハビリ器具が飛んできた。

 直接ぶつけてこないのは自分の手で仕留めるつもりだからだろう。

傷んだ髪の隙間から、射殺すような眼光がずっと向けられている。

挑発しすぎた。

 怒りは頂点を超え、夏だというのにかじかむような寒気がする。

 徐々にゆっくりと、しかし確実に俺は壁際に追い詰められていった。

 一歩も動けなくなったのは、歩行訓練用の小さな階段の上だった。

 身体を支える為のスロープ越しに向かい合う。

 右か左か、どちらかを選ぶ余地もない。タカコはその気になれば一瞬で目の前に現れる。スロープを乗り越えたりする必要もない。こいつには壁もへったくれもないのだ。

『……クソ』

 どうする。

 タカコはどうやって俺を仕留めるつもりなのか。

 飛び掛かってくるのか、瞬間移動をするのか、それとも消えて後ろの壁から出てくるのか。床から? 天井から? 物を投げつけてくるのか? 選択肢が無数にあり過ぎて的を絞れない。余裕をかましているつもりなのか五歩分の距離を保ったままで立ち止まった。

 死臭と耳鳴りはますますひどくなっていく。

 本当に浄化はうまくいっているのだろうか。

 これではただ怒りを煽っただけのような気がしてならない。

 たとえここから逃げ出せたとして、まだ逃げ続けられる自信はなかった。

集中力は限界で、今度こそゴミに足を取られて転ぶ気しかしない。

物陰から唐突に現れるタカコを躱すのも限界だった。

『どうすんだ? またアレを見せんのか?』

 返事はない。

 幽霊のタカコは言葉を発さない。

 死んだときの姿のまま、腹から血を流し憎悪に満ちた眼差しを向け続ける。

生前にコンクリートを這ったせいで爪は剥がれ、露出した肌は擦り傷だらけだ。

 記憶の中と違うのは、その腹に子供がいないことだけ。

『  』

 殺気が膨れ上がる。

 来る。

 身構えていつでも跳び出せるようにする。

 タカコが消える。

 いちかばちか、右に跳ぶ。

 伸びるタカコの手。

 避けきれない。

『——じいさん?』

 点滴スタンドを使わずに、いつの間にか佐藤が俺とタカコの間に立っていた。

 いつもの呆けたボケ老人ではない。折れた背筋は伸びきり、生前の、病に侵される前の壮健さを取り戻していた。姿は変わらないが目つきも違えば、漂う雰囲気も生気に満ちている。

 佐藤は俺の顔を掴もうとしていたタカコの腕を、寸でのところで抑え込んでいた。

 タカコが驚愕しているのがわかった。

 必死に振り払おうとしていた。手の甲は筋立ち小刻みに揺れ、肌に触れる佐藤の枯れ果てた手に黒い根が張っていく。濃密な瘴気がタカコから漏れ出していく。アレはきっと俺を犯していたモノだろう。あの心の髄まで犯しつくす呪いが佐藤を襲っていた。

 しかし佐藤は微動だにしない。

 鋭い眼差しでタカコと対峙し、魂を穢す呪いに耐えている。

『いきなさい』

 呪いに取り込まれる前に聞いた、ハッキリとした佐藤の声。

 かつて警察官だった男の芯のある声だった。

 その言葉と共に病室で俺を囲んでいた幽霊達が現れる。半透明な彼らはタカコを覆いつくすようにして囲み、呪いが佐藤だけに集まらないように助け合う。今までの理性を失った姿が嘘のようだ。誰もが明確な意志を持ってタカコに反抗していた。

 しかしそれが時間の問題であることは間違いない。

 呪いに晒された彼らの顔に苦悶の表情が浮かんでいたからだ。

『……ありがとうございます』

 誰に向けたものでもなく言い残して、京本がいる一階へと走った。



 一階はこの病院で最もひどく荒らされている。

二階以降はまだ残っているソファや椅子は悉く持っていかれ、壁には所狭しとくだらない落書きが呪いのように覆いつくしている。

受付窓口には壁にデカデカと経営者の名前を使った病院名のプレートが埋め込まれており、矢印を向けられマヌケとか金欲デブとか俺の病院とか、馬鹿げたイタズラ書きがされていた。

 階段から降りると、京本はロビーの中心から少し離れたところに立っていた。

 その前には佐藤の時とはまた別の、幾何学的な塩の陣と中心に紙人形の束が置かれていた。

落書き以上の密度で、塩で描くには緻密過ぎる模様はとても十分で完成させられるようには見えなかった。

「よく無事でしたね。あ、陣には入らないでくださいね」

『入るわけねえだろ』

 見ただけでそれが幽霊に取って劇薬であるとわかった。

タカコの呪いとはまた違う、肌がピリピリとするような、傷口に消毒液をかけられた後の感触がすでにしていた。

 大周りで陣を迂回する。

『よく逃げなかったな』

「試しましたけど無理でした。扉も窓も全然開かないんです。壊せもしませんでした」

『ザケんな、俺が必死こいてるときに。あとお前、俺まで消すつもりだっただろ。性格悪すぎだぞ』

「最善を尽くした結果です。あれ以外に方法はありませんでした」

 先程までの狂騒とはうって変わって、ロビーは嫌に静かだった。

 上ではまだ彼らがタカコを抑え込んでいるのだろうか。早く逃げていればいいが。

『……』

「……」

 いよいよその時が近づくと、互いに黙ってしまう。

 京本も話さなければならないとわかっている。

 タカコを留める役目を、どちらがしなければならないのか。

「タカコを抑える役目はぼ——」

『なあ、なんでお前はこんなことやってんだ?』

 めんどくさいことを言い出す前に遮って尋ねる。

 この底なしの甘ちゃんがどう決断をするかなど、俺でも手に取るようにわかっていた。

「……なんです急に」

『いいから。なんでなんだよ。これ、仕事でもねぇんだろ? 金も貰えねえのに高校生が命懸けでやるような事かよ。親とか、師匠とか、そいつらにやらせればいいじゃねぇか』

 どうせ助からないのだ。自分でもらしくはないと思うが、最後にこれだけ聞いておきたかった。

死ぬにせよ正気を失うにせよ、二度と口がきけなくなってからでは遅い。

『ここをジョウレイしろって誰かに頼まれたのか? それとも修行とか、そんなんの一環か?』

「……いえ、誰も関係ありません。ここには僕が勝手に来ただけです」

『ならなんでだよ。もしこの先だれかがタカコに殺されたとして、それはそいつの自己責任だろ。いちいちどうでもいい他人の面倒見る必要なんかねえじゃねえか。誰に感謝されるわけでもねえし金にもならねえことに命を懸けるなんて、馬鹿のする事だろ』

 なんとなく顔が見れず降りてきた階段の暗がりに目をやる。隣で京本が思案気にこちらを見ているのがわかるが無視した。

こういった時、どんな立ち振る舞いをしていいのか知らない。

「……そうですね。緒方さんの言う通りです」

 少しの間沈黙したのち、京本は話し始めた。

「僕の家が神社だと言いましたよね。代々特別な力を持ってるって」

『ああ』

「でも本当の除霊を生業にしているわけでも、普段からこういった事態に対処しているわけではありません。むしろ避けてすらいます。実際に仕事として幽霊を相手にしたことは、少なくとも父や祖父はありません。僕みたいに個人的にしたこともないそうです」

 家族の話をしているのに、京本の口調はやけに硬かった。

「理由は簡単で、わりに合わないからだそうです。だから家族は誰も本当の除霊のやり方を知りません。この陣も、清めの塩も、埃塗れの書物から僕が勝手に学びました。修行も自己流です。父には何度もやめろと言われましたけどね」

『……なんで親父さんに従わなかったんだ?』

「言葉にすると難しいですね。ただの反抗期かもしれません。もしかしたら明日には飽きてやめるかもしれません。今までうまくいっていたから続けられただけで、これに懲りて二度と幽霊にはかかわらないかもですね。こんな怖い思いをしたのは初めてですから」

 どことなく皮肉めいた言い方だった。

 もしかすると、彼の父や祖父は似た体験をしたのかもしれない。

「お祓いのほとんどは心理カウンセリングです。人間は不安に支配された生き物ですから家庭内の不和とか、事業の失敗とか、悪夢に悩まされるとかも幽霊のせいにしたりします。現代の神職や住職はそんな人たちを安心させるのが仕事です。昔の偉い人が残した言葉をそれっぽく繰り返すだけで食べていけるんですから、誰も本物を相手にする必要なんかありませんよね。悪霊もほとんどいませんし」

『いねえの? ここ以外に』

「いませんね。そもそも幽霊になってこの世に残り続ける魂の方がかなりのレアケースです。原因は解明されていません。どんな無念や未練があっても、普通、人は死ねば消えてしまいます。でないと世の中、悪霊だらけになってしまいますから。緒方さんもここ以外に悪霊って見たことありますか? 生きている間に心霊体験をしたことは?」

『……ないな』

「でしょう? こう言ってはなんですけど、憎しみとか怨みとか、生きていれば誰だって感じるものです。感情を数値化してこのラインを超えれば悪霊になる、なんてありません」

 そんなゲームみたいなものはこの世に存在しない。

 当たり前と言えば当たり前のことだ。

「かなり前にホラー映画が流行りましたよね。テレビから出てきたり布団の中にいたりするやつ。あれの影響でますます幽霊はフィクションなものになりました。怖くて不安だからお祓いを求めておきながら、幽霊が本当にいては困るんです。お祓いはあくまで娯楽か、アロマキャンドルぐらいでなければなりません。本物の幽霊なんていう、自分ではどうしようもなくて、存在を確認できない恐怖に人間は耐えられないんです。だから好きな人は何度もお祓いを求めてやってきます。ほとんど中毒みたいに」

 おかげで儲かるわけですけどと、あからさまな軽蔑を込めて京本は言い捨てた。

 まだ年若いこいつはそんな客や家族に青い怒りを覚えていたらしい。

 陰気な顔つきやわざとらしい丁寧な態度は、そこから端を発しているのだろう。

「話が脱線しましたね。すみません、自分ことを話すのに慣れてなくて」

 でもあえて言葉にするなら、そうポツリと続ける。

「だからどうした、と思ったんでしょうね」

 関係ないと京本はきっぱり言い切った。

 賢くない生き方を親に反対され、周囲には理解されない。

きっと学校の友人にも自分の力を教えてはいないだろう。

言ったところで不気味がられイタいヤツ扱いされるのがオチだ。

幽霊も京本に感謝しない。

まるで虚空に向かって話しかけているみたいに手ごたえのない作業。

むしろ他人の不幸や怨念に共感するのは苦痛でしかないはずだ。

浄霊という手段を取るならなおさら。

 でも京本はやめなかった。

ある種の孤独を抱えていながら、それでも幽霊とかかわり続ける。

 だからどうした、そう皮肉気に呟いて。

『すげぇな』

「信じるんですか? 緒方さんを浄霊するための嘘かもしれませんよ?」

『そうなのか?』

「……なんだか気持ち悪いですね」

『少なくとも、俺にはできねえって思っただけだよ』

「緒方さんもタカコさんを引き付けたじゃないですか。緒方さんがいなければ、僕はもう死んでいたかもしれません。こうしていられるのは奇跡ですよ」

 俺は京本の顔を見た。

 京本は相変わらずの陰気な顔で、相変わらずの皮肉めいた笑みを浮かべ俺を見ていた。

『マジ? 俺も少しは役にたったか?』

「少しどころではありません。助かりました」

『……そうか。ならよかったよ』

「お礼に死んだ後にやりたいことリスト、手伝いましょうか? 生き残ったらですけど」

『頼むわ』

 だからお前は生きてろ、そう言って京本の後ろにいたタカコを掴んで陣へ飛び込んだ。


「緒方さん——‼」

 叫ぶ京本に返事をする余裕はなかった。

 タカコを紙人形に押し付けるように組み伏せながら、気が狂いそうになる痛みに耐えるので精いっぱいだった。

陣の中に入った途端に、タカコの呪いと除霊の力の両方が襲い掛かってきた。

暴れ馬のように跳ねようとするタカコの腹の上に乗り、両腕を掴みほとんど額を突き合わせるような体勢で抑え込む。幽霊になっては体重も腕力もないが、こうするのが一番力を発揮できるような気がしたのだ。おかげで両手が呪いに蝕まれ始め、憤怒に燃え滾る瞳を直視しなければならなかった。

『————ッ‼』

 言葉にならない悲鳴をあげたのはどちらだろう。

 血液が沸騰し全身から噴き出しそうな感覚。吐き気がするようなタカコの呪いと同時に、欠陥が内側から破裂するような苦痛が襲いかかる。歯を喰いしばり全力で身体を緊張させていなければ今にも吹き飛びそうだった。

「効いています! もう少しだけ耐えてください‼」

 焦燥にかられたような誰かの声がどこかから届く。

 俺はなにをしている?

 痛いのは嫌なのになぜ我慢しているのだろう。

 目の前の女の人は誰だ?

 なにも考えられない。

 怖い。

 今にも死んでしまいそうだ。

 それなのにどうして僕は頑張っているんだ?

 頑張るなんて、もう諦めていたというのに。

 女の人が力の抜けたぼくの右手を振り払う。

 そしてぼくの頭を掴んだ。


「いい加減にしなさいよ‼ 父親そっくり! ほんと愚図なんだから‼」

 仏間に放り込まれ、開いた襖の外からお母さんが罵倒する。

「私に恥ばかりかかせて、一体なんのつもりなの⁉」

 これは三者面談から帰った日のこと。

 成績が振るわない原因を、担任から家庭にも問題があるのではと言われた日。

 外行きの格好をしたお母さんが心底軽蔑した顔でぼくを見下していた。

「お姉ちゃんは完璧にこなしたのに。どうしてお前はできないわけ⁉」

 お母さんが完全にぼくを無視する前、まだ怒りをぶつけてきていた頃によく言われた。

 ぼくは泣いて謝ったけど、お母さんは意に介すことはなかった。

「お前なんか私の子じゃない! お前みたいな出来損ない、私の子なわけがない‼」

 そして襖が閉められる。

 開けてと叫んでも、つっかえをして次の日まで母は放置した。

 晩御飯を抜かれ、泣くことさえも疲れ果てできなくなって、暗闇の中で蹲った。

 線香の臭いと締め上げるような静けさ、時折聞こえるお父さんの怒号。

 なにより今にも動き出しそうな曾祖父や曾祖母の遺影が、ぼくは怖くて仕方がなかった。

 まるで早く来いと言っているみたいで、強烈な死の気配が怖かった。

世界が明転する。


「お前チカのハンカチに触ったらしいな」

 そう言ったのはクラスでも中心にいる男子だった。

 その顔は義憤に燃え、泣きはらした彼女の仇を取るとでも言わんばかり。

 まだ教室に多くの生徒が残る、終礼すぐ後の放課後だった。

「お前何様なわけ? していいことと悪いことの区別もつかねえのかよ」

 僕はそいつの取り巻きに囲まれる。

 明らかな異常、問題行動が起こるとわかり切っているのに、先生は一瞥だけして出て行く。他のクラスメートもそ知らぬふりをする。

「ちょっと来いや」

 突き飛ばされるように連れていかれる。

 教室を出る前、落としたハンカチを渡そうとした女子生徒が笑っているのが見えた。

 そして学校裏で殴られた。

 何度謝っても、サンドバッグでも殴るみたいに何度も何度も。

「お前みたいなゴミが人間みたいなことしてんじゃねえよ!」

 頭を踏みつけながら言う。

 僕は学校でも人間じゃなかった。

 彼らの社会では、なにをしても許されるゴミ同然として扱われた。

 世界が明転する。


「またミスしやがって、お前は何ができるんだ?」

 上司が俺を嘲る。

 取引先のクソジジイがクレームの電話を上司にかけた後の事だ。

 そのジジイは何かにつけて細かい条件や指示を出してくるくせに、言ったことをすべて忘れるような奴だった。注文通りに対処すれば、勝手な事をするなと怒鳴り込んでくる。

 それをわかっているのに上司は俺をひたすら罵った。

 ジジイも上司も一緒だ。立場の弱い人間を虐める理由を犬のように探していた。

「たまにいるんだよな。生まれつきどうしようもない人間ってさ」

 俺の倍以上生きているのに、子供のような喋り方をしていた。

 わざわざ俺をデスクの前に呼び出して、みんなに聞こえるように怒鳴り続ける。

 でも誰も助けてはくれない。

 自分が助かるなら、喜んで生贄を差し出すような連中だった。

「お前みたいなクズはうち以外どこも拾ってくれないんだぞ。少しは感謝ぐらいしろ!」

 そして書類を俺に向かってぶちまける。

 徹夜で必死に書いた反省文だ。

 ろくに読まないくせに何ページも書くよう強要した。

 紙にみっちりと文字がなければ怒鳴り、それで他の業務が遅れるとまた怒鳴る。

 なにも出来ない俺に抵抗する術はなかった。

『うるせえ。こんなもん、いまさら関係あるか』

 俺はそう言って、クソみたいな世界から目を覚ます。


 我に返ってまず見たのは限界まで見開かれた瞳だった。

 続けざまに押し寄せる尋常ではない痛みの数々。

 しかしもう怖くはなかった。

 再び腕を掴んで陣に押し付ける。

 抵抗はますます激しくなり、憎悪が心に入り込んでくる。

 それでも俺は手を離さなかった。

 より強く、より確かに意識を保ってタカコを抑え込んだ。

 男の怒鳴り声が聞こえる。

 女の叫び声が聞こえる。

 呪う声が、憎む声が聞こえる。

 それが誰の声なのかわからない。

 俺の親なのか、タカコの親なのか。

 それともそれ以外の、私達を虐げてきた誰かなのか。

 痛みも薄らいできた。

 視界もはっきりしない。

 俺は誰で、私は誰だったのか。

 それでもなにも写さない、その瞳をのぞき込んだ。

 黒が白に染まっていく。

 瞳がほんのわずかに歪む。

 最後に少しだけ、それを申し訳なく思った。



 静まり返った玄関ロビーで、緊張感のない鳥の囀りが聞こえた。

 うつ伏せになって意識を失っていたらしい。

 眼を開けると京本が準備した陣は丸ごと吹き飛んでおり、床のあちこちに塩が散らばっていた。

 夏の朝の、影に隠れたフローリングの床はひんやりとして気持ちがよかっただろうに、いまとなってはなにも感じない。

 腹の下にある何かがなければ、まるで空気に触れているような気がした。

『……生き残れたのか』

「死んでますよ。理由はわかりません」

 いつもの皮肉めいた口調はなりを潜め、むしろ呆れているような、驚いているような声色が降ってきた。

 寝転がって仰向けになると、陰気な顔がそこにはあった。

 腹の下にあったのは、真っ黒に染まりきった紙人形だった。

『タカコは?』

「封印できました。本当に、よく無事でしたね」

『死んでんだろ。無事じゃねえっての』

 文句を言いつつ身体を起こす。

 そのままでいると意識が飛んでしまいそうで、今度こそ死ぬかもしれないと思ったからだ。

 どうやら肉体を失っても、魂は存在していたいらしい。

 我ながら中庭の雑草よりもしぶとい。

「ゴキブリ並みにしぶといですね。どうすれば成仏するんです?」

『ここまでやってゴキブリはねえだろ。せめて雑草にしろ』

「すみません、動揺が隠せなくて。感動していいのか、気まずく思えばいいのか」

『普通にねぎらえ。俺だってハズいんだよ』

 現実は映画みたいに終わらないらしい。エンドロールは流れず、感動的な主題歌が聴こえてくるわけでもない。

 ただ今が続いて、どうしたものかと首をひねるしかない。

「では、お疲れさまでした」

 そう言って京本は手を差し伸べた。

『おう』

 しかし掴もうとした手はすり抜ける。

 まるで風を掴もうとしたみたいだった。

 当人の俺よりもむしろ、京本の方が驚いているようだった。

『どうやら期間限定だったみてえだな』

「……もしかすると、タカコさんと一緒に封印されたのかもしれません。それか僕の仕掛けのせいなのかも」

『そうか、まあ仕方ねえよ』

「申し訳ありません。僕にもう少し力があればよかったんですけど……」

『いいって。ただもとに戻っただけだ。気にしてねえよ』

 年上としての気遣いを見せてから、一人で立ち上がり改めて周囲を見渡す。

 タカコが封印されたというのは本当のようだ。

 壁や床を覆いつくしていた黒い染みは綺麗さっぱりに消え去り、残ったのはたいそうな落書きだけ。

 飲み込まれるような影には、限りなく透明な光が差し込んでいた。

 鼻をひん曲げる臭いも、つんざくような耳鳴りもない。

 どこにでもある普通の朝がやってきていた。

『やったな』

「ええ」

『俺ら、凄くね?』

「そうですね」

『親に自慢しろよ』

「怒られるだけですよ。二度と危ないことするなって」

『それがいいんだよ。死んだら言われねえだろ?』

 今度は腰を叩こうとしてみる。

 しかしやはり、手はただすり抜けるだけだった。

 京本はまだ気まずそうにしながら、タカコが封印された紙人形を大事そうに拾い上げる。

 それを丁寧に別の紙で包むと、用意していたらしい木箱にしまい込んだ。

『どうすんだ? お焚き上げとかすんの?』

「それだと封印が解けてしまいます。まだ僕には対処法がわからないので、帰って調べますよ」

『勝手に出てこねえか?』

「これも多分ですけど、自力では無理だと思います。並みの悪霊十人分の紙人形を使ったので」

『浄霊できそうか?』

「……頑張ります。頑張るしかありません」

『なら、ひとまず安心だな』

 タカコの方に問題がないのならそれでいい。

 散々挑発し、どうしようもないと言ってきたがタカコだって被害者だ。

 それに最後に見たアレが、嘘だとはどうしても思えなかった。

 京本が頑張ると言うのなら、まあ何とかなるだろう。

 俺以上どころではない地獄を生きた彼女が救われて欲しいと、いまでは心から思う。

 そうでなければ、それも俺の未練になりそうだった。

「これからどうするんですか? 死んだ後にやりたいことリストの続きですか?」

『それはこの後に考える』

「この後?」

 首をかしげる京本を無視して振り返る。

 ロビーの奥、まだ光が届いていない暗がりに彼らはいた。

「結局、なにが理由なんでしょう。どんな未練があの人達にはあるんでしょうか」

『あいつらは自分で残ってたんだよ。だからまだ成仏してないんだ』

「自分の意志で? まだってどういうことです?」

『理由は上にいる。いくぞ』

 そしてまた俺達は、暗闇の中へ戻っていった。



『あいつらは別にタカコの呪いのせいでここにいたわけじゃねえんだ』

 まだ夜と変わらない階段を上りながら、京本に説明する。

『外の連中を脅かしてたのもタカコの命令じゃない。あいつは俺以外には何もしなかった。理由はいまになっちゃわかんねえけど、興味も関心もなかったって感じだな』

 東側の廊下には朝日は差し込まない。

 壁の落書きや床に散らばったゴミが徐々に少なくなってく。

『浄霊が失敗したのもそのせいだ。あいつらは別に、自分の人生に無念とか未練があったわけじゃない。あるにはあったかもしれねえけど、残った理由は死んでからできたんだ』

 二〇一号室は病院が廃棄された当初のまま、綺麗に残っていた。

『これでいいんだろ?』

 扉の前に立っていたユウトが頷く。

 またいつの間にか、病院に残っていたすべての幽霊が病室の前に集まっていた。

 京本が息を呑む。

『おかげで助かりました。やれるだけやってみます』

 タカコの呪いを一番近くで浴びていた佐藤は、また点滴スタンドで身を支えながら立っていた。先程まで見せていた壮健だった頃の姿はどこにもなく、垂れ下がった瞼の間から弱弱しい眼差しをこちらに向けてる。その身体は今にも消えそうで、限界が来ていることを嫌でもわからせた。他の幽霊もみな似たような状態だった。

『京本、開けてくれ』

「どうしてです?」

『知ってるだろ。もう動かせねえんだよ』

「あ、ああ、そうでしたね。あんなに凄いことをしたのでつい」

 失礼なことを言いながら京本が病室の扉を開ける。

 中に入ると締め切られたカーテンのせいで中は仄暗く、まだタカコが残っているような暗闇に包まれていた。五〇一号室とは違い金のかかった個室は腹立たしいほど快適そうで、訪問客が多くても困らないように柔らかそうなソファが残されたまま。生まれが違えばこうも住む世界が違うものなのかと呆れるばかりだ。

 しかしその真ん中のベッドで膝を抱えた少女は、俺がそうだったように一人だった。

「え? ちょ——」

 慌てた声に振り返ると、京本の鼻先でぴしゃりと扉が閉まり、骨を打ちつけたような鈍い音と呻き声が外から聞こえた。

 なにやら文句を言っているらしいが、それもすぐに静かになった。

 どうやらユウトの仕業らしい。クソガキ二号はませたことをしたようだ。

『大丈夫か?』

「……僕は入っちゃ駄目みたいです。ずっとガン見されてます」

『適当に相手してやってくれ。特撮ヒーローが好きらしいぞ』

「子供は苦手なんですよ。なに考えてるのかわから——ちょっと! どこに連れていくの⁉」

 一人分の足音がバタバタと遠ざかっていく。

 ユウトは別に悪霊でもないし、京本ならばなんとかするだろうと放置しておく。

 どうせ俺はひとりでは出られないのだ。心配するだけ無駄である。

 それよりも任された事を果たさなければならない。

『華』

 返事はない。

 顔がよりいっそう腕の中に沈む。

『タカコは消えた。俺と京本でやった』

『……え?』

 出てきた顔はひどい有様だった。

 胸に鉛が落ちてくる。

 こんな顔にしたのは俺だ。

 自分を殴りたくなるがここで黙るわけにはいかない。

 意を決して一歩踏み出すと、びくりと小さな手が強張った。

『みんなが助けてくれた。その事について謝るつもりはない』

 人形のような瞳にまた溢れてきた涙を、なんとか零さないように歯を喰いしばっている。

 俺が嘘をついていないとわかっているのだろう。

 病院全体を覆いつくしていたタカコの怨念に気がつかないはずがない。

 しかしそれはとうに消えて、穏やかな朝がやってきたのだ。

 俺がそうしたように、華も起きる時がやってきたのだ。

『ここに来たのはみんなに頼まれたからだ。佐藤のじいさんにも菅原にも鍋島にも、ユウトにもだ。みんなに華を助けるように言われた。だから俺は助けられた』

 いやいやと首を振る。

 また一歩近づくと隠れるように腕に顔を埋めた。

 中からしゃくりあげる華の泣き声が聞こえる。

 俺はベッドに腰掛け、小さな少女を見つめた。

『みんな、お前が心配で残ってたんだと』

 俺も京本も、タカコがすべての原因だと思っていた。

 絵に描いたような悪霊の姿しているタカコは、確かにここにいる幽霊全員に恐れられていた。死んで魂となった俺達ですら耐えがたい怨念と強大な力を持つ彼女だったが、しかし彼女もある意味でここに囚われていたのだ。

 人が幽霊となってこの世に残り続ける原因は解明されていないと京本は言った。

 憎しみや恨みは誰もが持っている。それでも誰もが幽霊になるわけじゃない。

 誰にも求められず、ただ轢かれて死んだ俺が幽霊になって残っているのも、誰もが持っている普通の日常を失い、最後の希望に縋って死んだ華が残ったのも、それが幽霊になった原因なのかはわからない。

 でも、少なくとも他の連中が残った理由はわかった。

『気になるらしいからな。死んでも泣き続ける子供がいたら』

 子供は嫌いだ。

 自分一人では生きていけなくて、なにも出来ない自分を見ているようだから。

 なのに他の連中と俺は違った。

 昔、小学校からの帰り道にある公園で、転んで泣いている子供を母親が笑顔をであやしていた。泣き声を聞きつけた赤の他人の婆さんが、マズそうな飴を子供にあげようと近寄っていった。母親は困っていたが、子供は嬉しそうにそれを受け取って口に放り込む。母親は礼を言って、婆さんは笑顔で子供に話しかけていた。

 俺とあいつの違いはなんだと、その時に思った。

 才能がなかったからか?

 努力が足りなかったから?

 運がなかったから?

 助けてくれと言えなかったから?

 クソみたいな奴らに愛されないのは、俺がそれ以上のクソだからなのか?

『でも俺はお前を成仏させようとは思ってねえ。他の連中がどう思ってるのか知らねえけど』

 華はずっと誰かに愛されていた。

 俺と華はなにもかもが違うように見える。

 かたや誰にも愛されず、かたや誰もに愛された。

『そういうことじゃねえよな。俺達が本当に欲しかったのはさ』

 死んだ後にやりたいことリストを思いついたのは、無賃観賞したリバイバル映画からだった。不治の病に侵された二人が、死ぬ前に見たことがない海を見に行く映画。別に笑えるわけでも泣けるわけでもない退屈な映画だったけど、その道中で二人が作った死ぬ前にやりたいことリストが印象に残った。そのリストの中に、片方の母親が憧れた車をプレゼントするというのがあった。警察やマフィアに追われながらもそれを達成し、雨の中で泣き続ける母親を抱きしめてもなお、二人は海を目指した。

 二人は正しかったのか?

 世の中の正しさに従えば、彼らは海を目指すべきじゃなかった。大人しく病院で治療を受け、僅かな可能性に賭けながら家族や友人達と過ごすべきだった。二人は別に往年の友人というわけでもない。ただ病室が一緒なだけの他人で、共通しているのはもうすぐ死ぬかもしれないというだけ。まっとうな人生をおくっていれば、出会うことのなかった二人だ。

 でも彼らは海を目指した。

 金を盗み車を盗み、警察やマフィアも追われ、大勢に迷惑をかけても二人で海を目指した。

 そんな二人は、果たして間違っているのだろうか。

 そしてあの二人は、最後に何を知ったのだろう。

 なぜ彼らは、二人で海を目指したのだろう。

『華は海を見たことあるか? 俺はない。遊園地も行ったことねえし、旅行も行ったことねえんだ。親が最悪でさ、他の連中が知ってるような普通を俺は知らない。そんで、そのまま死んだ』

 返事はない。

 それでも俺は、慣れない自分語りを続けた。

『死んでけっこう経つけど、なんでか見にいかなかった。死んだ後にやりたいことリストなんてのも作って、その中にも入れたんだけどな。くだらないことはなんでもやったけど、どうしてか海は見にいかなかったんだ。他にもそういうがけっこうある』

 リストは思いつくかぎり増やした。

 進んで達成したこともあれば、気が乗らず後回しにしたものをある。

 それがどうしてなのか、他の幽霊に助けられて初めて気がついた。

 京本にされたように、そして華にされたように、俺は手を差し伸べた。

 それが何を意味しているのか、まだ俺にはわからない。

 あの映画の二人が友人だったのか、それとも仲間だったのかもわからない。

 俺はそれを知らないからだ。

 死んでも俺は、それを知ろうとはしなかった。

 ただ蹲って、文句ばかり言っていた。

 すべてを何かのせいにしていないと怖くて仕方なくて、なにもかもから逃げ続けた。

『一緒に見にいかないか?』

 つんざくような静けさが続く。

 こうして初めて誰かに手を差し伸べてみると、京本も華も、よくこんなことが簡単にできたなと感心する。あの公園の婆さんにしてもそうだ。誰かに自分を繋げようとする行為は恐ろしいほど緊張するものだった。ただ言葉を交わそうとするだけでタカコと対峙するよりも勇気が必要だった。

 生きてた頃の俺にはできなかったことだ。

 初めての相手が、自分よりも一周りも年下の幽霊少女だとは思ってもみなかった。

『……ウソついてたくせに』

 どれぐらいの時間が経ったのか。タカコから逃げ回るよりも長く感じた沈黙ののち、そんな返事が返ってきた。

『仲間じゃないって言ったくせに。サトウさんイジメたくせに』

『悪かった』

『しらない! オガタが海見たことないなんてしらない‼』

『だよな』

『なんであたしがオガタをゆるすの⁉ だましてたのに‼』

『そうだな』

『タカコさんが消えたってなに⁉ みんなが助けてくれたってなに⁉ みんなといたかっただけなのに‼ みんなウソばっかり‼』

『ごめんな。自分のことしか考えてなかった。華のことを考えてなかった』

『うるさい! オガタなんて大っ嫌い‼』

 瓢、という音だけ聞こえて、見えない力が俺を突き飛ばした。

 壁まで飛んだ俺は背中をしこたま打ちつける。

 すぐに立ち上がる。

 こんなものは大した痛みじゃない。

『出てって! オガタなんて見たくない‼』

『そうはいかない』

『みんな大っ嫌い! 良くなるって言ったのに‼ ふつうになれるって言ったのに‼』

『それに華を誘うのはあいつらに頼まれたからだけじゃないんだ』

『しらない! みんなしらない! もうほっといて‼』

 まるで暴風のようだった。

 蹲る華を中心に、部屋中の物が吹き飛ばされた。子供が持ち上げられないような大きなのソファが宙に舞い、天井のテレビが折れて床に叩きつけられる。何も残っていない花瓶が砕け散って、とても華のような子供が起こしているとは思えない心霊現象だ。

 タカコの呪いと陣の効果で消耗しきっていた俺にはどれも致命傷のように感じた。なにか存在ごとふき消されてしまうような超常的な力。それを華はやみくもに起こし続ける。幽霊というのは年齢など関係ないらしい。

 いや、人の想いに幽霊も年齢も関係ないのだ。

『華』

 それでも俺はまた手を差し伸べた。

『いやッ‼』

 小さな手に払いのけられる。

 僅かな痺れが華の怒りを教えてくれる。

 少し笑いそうになったのは、思ったよりもショックを受けたからだ。もしかしたら俺は、こうやって誰かが差し出してくれた手を拒否し続けていたのかもしれない。自分の感情に引き籠っていた俺は他人の想いを推し量ることをしなかった。別に感謝をしてほしいわけではないが、繋がりを絶たれるというのは苦痛のようだ。

 それを俺は華にしていたのだ。

『悪かった。だから償わせてくれ。もし本当にここにいたいなら、俺も残り続ける。みんなとまた外の連中を脅かしながら楽しくやろう』

 だからまた俺は手を差し伸べる。

『でもそうじゃないなら、俺にチャンスをくれ』

 どんな風が吹こうと関係ない。

『最高らしいぜ? だから見にいかないか? 俺は、華と一緒に知りたいんだ』

 俺はなにも知らない。

 本当なのかも、どうしてなのかも、それがなんなのかも。

 でも京本の言う通りだ。

 だからどうした?

 その通りだと思う。

 そう言いたかったと思う。



 玄関ホールに降りると奇怪なものがあった。

 京本が打ち上げられた魚のように倒れており、ユウトがその前で決めポーズ取っている。

 まるでヒーローが悪者を倒したかのようだった。

『マジで遊んでたのかよ』

「……これで七回目です。子供の体力って恐ろしいですね。幽霊ですけど」

 京本の不謹慎はガキ相手でも関係ないらしい。顔の半分を床に張り付けたまま、むっつりと不満をこぼす。子供が苦手というのは本当のようだ。陰気な顔はそれを通り越して、不機嫌な仏像のようになっていた。まさに仏頂面である。

『こっちは終わったぞ』

「こちらは終わりません。もう幽霊とかかわるのはやめようと思います」

『親に言えよ』

「そうします。これでハッピーエンドですね。ちゃんちゃん」

 皮肉気な口調は表情もあいまって、ふざけていても本気で言っているように見えた。

 俺は溜息をついてからユウトへ目をやった。

『ユウト、そろそろ解放してやってくれ』

『もっと』

 京本の目が死んだ。

『十分楽しんだろ? もう勘弁してやってくれ』

 遊び足りないらしい。口がへの字になる。タカコがいなくなった途端にこれだ。能面みたいな無表情はどこぞへ消えて、子供らしさがむき出しになっていた。生前はこんなふうに友達と遊んでいたのだろう。こいつぐらいの年頃がどんな遊びをするのか知らないが。

『だってよ。疲れるまで付き合ってやれ』

「……それっていつまでです?」

『ガキが遊ぶのやめるのは腹がへるか親が止めるかじゃねえの?』

「どっちも幽霊には関係ないじゃないですか」

『だな』

「僕は死ぬことにしました。お父さんお母さんサヨウナラ」

 そう言って動かなくなった。

 極限の緊張が解けてみんなおかしくなっているらしい。まともなのはこの中で唯一成人した大人である俺だけだ。これだから子供の相手は面倒なのだ。無邪気な彼らと違って大人は考えることが多くてひどく疲れる。駄々をこねる子供など一日にそう何度も相手にしたくない。

『華、頼む』

 だから背中にへばりついていた華を使うことにした。二〇一号室からずっと掴まれていた服から手を離させ、そっと前に押しやる。するとユウトはようやく京本の背中に置いていた片足を降ろした。

 解放された京本は猫よりも俊敏に立ち上がり、子供二人から距離を取った。

『情けねえな』

「緒方さんもやってみればいいですよ。知らない悪役をやらされて、何度も違うってやり直しさせられたんですよ? なんでこんなことも知らないのかって顔されて」

『んなメンドイことは絶対やらねえ』

「なら言わないでくださいよ」

 ぶつくさ文句を言いながら服についた埃やゴミを落とす京本は無視して、再開した二人に目をやる。

 華は気まずそうに俯いており、そんな華をユウトは真っ直ぐ見つめていた。

『へいき?』

『うん』

『もうこわくない?』

『うん』

『あの人は?』

『たぶん大丈夫』

 おい。

「他の皆さんはどうしました?」

『逝った』

「……そうですか。安心しました」

 華を連れて病室を出た俺に対する彼らの評価は様々だった。菅原は呆れたように首を横に振っていたし、疑わしいと言わんばかりに腕を組んでいた奴もいた。鍋島だけは嬉しそうに華の頭を撫でた。他の連中も似たようなもので、全員がそれぞれに思うところがあったらしい。華が泣き止んでいたから文句を言わないでいるようだった。

 そして佐藤は、俺の肩を叩いてから最初に消えた。成仏というのは映画とかであるような、光の中に溶けていったり天に昇ったりはしないらしい。まるで最初からいなかったみたいに、この世から消え去っていた。他の幽霊も次々と続いて逝って、まだ残りたそうにしていた菅原の尻を蹴飛ばした看護師が最後だった。そのあと華はまた少しだけ泣いた。

『結局、オムライスがなんだったのか聞けなかったな』

「案外、意味はなかったのかもしれませんよ」

『あ?』

「幽霊の言葉の全てに意図があるわけではありません。なんとなく口にしていることもよくあります。重要なことは隠す人もいますからね」

『専門家みたいだな』

「緒方さんよりは素人かもしれませんけどね」

『お前はいちいち不謹慎に言い返さないと気が済まないのかよ』

「育ちが悪かったもので」

 どうやらユウトに差し出した事をよほど恨んでいるらしい。まるで子供みたいに唇を尖らせ、わずかに顎を突き出した。不平不満を現すポーズのようだ。面倒くさいので無視する。

 しかし京本はそう言うが、本当に意味はなかったのだろうか。

 タカコから庇ってくれた時のじいさんを思い返すと、どうにもそうは思えない。

 今となっては、もう知る術はないのだけれど。

『……オガタ』

 話し終えたらしい華が近寄ってきた。

 ユウトはその場に立ったまま、じっとこちらを見ている。

「緒方さん達はどうするんです? 僕にはさっぱり事情がわからないんですけど」

『死んだ後にやりたいことリストはこいつとやることにした。だからもう少し残る』

「大丈夫なんですか?」

『封印するか? 俺達は悪霊だろ?』

「……まあ、手伝うって言いましたからね。お二人に必要な浄霊だと思うことにします」

 そう言って京本は律儀に華の目線まで腰を落とした。

「はじめまして、京本秋幸と言います。お名前は?」

 話しかけられた華は逃げ隠れるように俺の後ろに回った。

 そして警戒するように顔の半分だけだして京本を睨みつける。

「……嫌われているようです」

『人見知りなんだろ』

「やっぱり子供は苦手です」

『俺からすればお前もガキだっての』

 二人の間を取り持つなどという邪魔くさいことはせず、再びユウトに顔を向ける。

『お前もいかないか? 別にガキがあと一人増えたぐらいなんでもねえぞ』

 隣でクソガキ三号がまた呻き始めたが無視した。

 しかしユウトは首を横に振った。

『華が好きなんだろ?』

 後ろでクソガキ一号が文句を言いたげに背中を叩き始めたが無視した。

『うん。でも、いい』

 背中の抗議が激しくなる。

 華と違ってまだ素直らしい。

 しかしクソガキ二号の意志は変わらないようだった。

『たくさん遊べてよかったな』

『うん』

『楽しかったか?』

『うん』

『お前に助けられた。ユウトは華のヒーローだな』

 自慢げに胸を逸らすクソガキ二号。

 いつの間にか抗議が止んで、代わりに鼻をすする音がした。

『別れの挨拶はしたのか?』

『……してない』

『しとけ。これで最後なんだからな』

 もう一度まえに出そうとしたが今度はへばりついたまま動かなかった。

 顔を背中に埋めていっこうに動こうとしない。

 俺の服を握りしめた両手はなにがなんでも離さないようだった。

『おい』

『いや』

『そういうわけにはいかないだろ?』

『やっぱりいや!』

『……いまさら駄々こねるなよ』

 どうしたものかと京本に助けを求める。

 しかしクソガキ三号はすぐさま目を閉じ、両手で耳を塞いで唇を結んだ。

 幽霊のこと以外はまるで役立たずである。

 いや、ここには京本以外は幽霊しかいないのだが。

『ハナちゃん』

 そう優しく声をかけられて、背中がびくりする。

『またね』

 その顔には寂しさなどなかった。

 ただ遊び終わった友達と、また明日と言い合って別れるみたいに。

 でもユウトは知っている。

 まだほんの小さな子供だというのに、自分の運命を受け入れていた。

『華、お前もちゃんと言っとけ』

 もう抵抗はなかった。

 だがそれが精一杯だったのか、それとも勇気を振り絞るために必要だったのかわからないが、華は俺の服を掴んで離さないまま顔を出す。

『……またね』

 辛うじて出せた消え入りそうな声は震えていた。

 それでもユウトには満足だったらしい。

 満面の笑みを浮かべた後、バイバイと手を振り彼方へと走っていった。

 その姿が見えなくなっても華は泣かなかった。

 ただじっと、小さな背中を見送った。

 誰よりも立派だったあの背中を。

『いったな』

『うん』

『頑張ったな』

『うん』

 なんとなく頭を撫でてやる。

 華は黙ってそれを受け入れた。

 しかし力加減を間違えたらしく、やがて鬱陶しそうに俺の手を振り払った。

 そして残った涙を拭い俺を見上げる。

 真っ赤になったくりくりの目が俺を見ている。

 俺はどんな顔をしているのだろう。

 やはりそれはわからなかった。

『おい、いつまで耳塞いでんだ。終わったぞ』

 声をかけるとようやく京本は両手を離した。

「すみません。泣かれるかと思いまして」

『どんだけ子供が苦手なんだよ』

「子供の泣き声が気にならない人はいないと思います」

『……かもな』

 ここにいた連中はみんなそれで残っていた。

 だがそれも終わった。

 病院はいつまでもいるところじゃない。

 傷ついたものが癒えたなら、さっさと日常に帰るべきなのだ。

『この後どうすんだ?』

「これから部活です。死ぬほど眠いですけど」

『サボれよ』

「病気でもないのにサボれませんよ」

 外はもう完全に明るくなっており、蝉たちが一斉に騒ぎ始めていた。

 元気なものだ。

 眩しいほどの、普通の朝である。

『それじゃ、俺達もいくか』

「あの世に?」

『死んでも逝くか』

 死んで俺は、初めてそう思えた。

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死んでも俺は 本田千秋 @rurupopo123

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