第三章

 ——遠くから運動部の活気に満ちた掛け声が聞こえる。

 いつだってそうだった。俺はいつでもそれを遠くに聞く。自分とは関係ない世界、      自分とは交わらない世界の、誰かと繋がるための掛け声。それが俺には酷く耳障りだった。

 近くで聞こえるのは、いつだって嘲笑と怒声だったからだ。

「お前それで恥ずかしくねえのかよ。何様だっての。責任とれよ!」

 そして身体を痛めつける衝撃。

 言葉と痛みはいつだって一緒だ。

 聞こえてくる言葉もだいたい同じような種類で、加わる痛みもだいたい同じ。

 世界の影に無理やり引きずり込まれて、わけのわからない暴力を浴びせかけられる。

 陽の下で汗を掻くあいつらは知っているのだろうか。自分達が光る世界の中で人生を謳歌している間に、誰かが影で苦しんでいることを。こいつらはなにを知っているのだろうか。自分達が何をして、なにを言っているのか、わかっているのだろうか。

「キメえんだよ。なんでお前みたいな奴が生きてんの? 馬鹿かよ」

 なぜ、俺なのだろう。

 俺が何をしたのだろうか。

 俺でなければならない理由はなんだ。

 影にいる時はそればかり考えていた。

 なぜなのか。

 それがどうしても俺にはわからなかった。

「チカ、泣いてただろうが‼」

 そしていつの間にか、考えるのをやめた。

 いっそ幽霊になれたらと思った。

 誰にも必要とされず、誰も必要としない。

 怪物たちが襲い掛かってくることもない。

 腹が減ってしかたがないこともない。

 そうなれば、もう嫌なことなど起こらない。

 そうなれば、きっとゆっくりと考えることも出来るだろう。



 眠りから目覚めてみれば、すでに太陽は高く昇っていた。

 それがわかったのは視界がやけに明るいからだ。眼は開いているが、どうにも焦点が合わない。何もかもがうすぼんやりとしていて、重たい瞼を何度瞬きさせても意識と同じようにスリ硝子の向こう側にあるような曖昧さのままだった。

 その代わりと言っては忌々しいが、観ていた記憶はまるでついさっきまでの出来事のようにはっきりと思い出せた。腹のあたりがグルグルとめぐるように気持ち悪いのはそのせいだろう。不快感のせいで覚醒するのは本当に気が滅入る。生きていた頃の夏の目覚めもこんな感じだった。蒸し風呂の中で寝ていると、暑苦しさのせいでよく悪夢を観た。

 いや、それは生前の話だ。

 死んでからも、似たような経験があるような——

「お目覚めみたいですね。おはようございます」

『……あ?』

 声がした方へ眼を向ける。

 京本がいた。

『うお——ッ⁉』

 あまりの驚きに勢いよく仰け反った結果。ベッドと壁の隙間に転がり込み、頭をしこたま打った。

『イッテェェェェエエエ⁉』

「……ほんと、緒方さんってコメディ好きですよね。驚かさないでくださいよ」

『急に出てきたのはオメェだろ! 入ってくる時は声ぐらいかけろ‼』

 這いあがってベッドの柵に手をかけながら怒鳴りつける。

「ちゃんと声をかけましたよ? ノックもしました。緒方さんが気づかなかっただけです」

 京本は呆れ顔で肩を竦める。

ベッドの隣に椅子を運び、姿勢正しく座っていると入院患者に面会に来たみたいだ。

学校帰りらしく制服を着ているせいか、記憶とリンクして嫌な感覚がまた蘇ってくる。

『……いま、何時だよ』

「十三時を少し過ぎたあたりです」

『お前が来てどれぐらいだ』

「三十分弱と言ったところですかね。その間、緒方さんはずっと声をかけても無反応でした」

『……寝てたんだよ』

「ベッドの上で三角座りをしながら半眼で半開きの口から呻き声を垂れ流す寝相というのは、なかなかにユニークですね」

『は? なに言ってんだよちゃんと寝てたっつうの』

「では緒方さんはいつ起き上がったんですか?」

『そりゃ起きた時だろ』

「では、この数日で何がありましたか?」

『昨日馬鹿が来たぐらいだ。華がはしゃいで色々やらかして、そのあとはいつも通り——』

 ——いつも通り? いつも通りなにがあった? 

 クソカップルを華が追い返したのまでは覚えている。あんな衝撃的な光景を忘れられるわけがない。絶対に逃げ出してやると誓って、病室を出て、それから——それからのことが思い出せない。いつも通りなら四階で集会があったはずだ。華は他の連中に声をかけたと言っていた。上機嫌にふわふわ歩く後姿も覚えている。なのにどうしてその先が思い出せない? 俺はどうやってここに戻ってきた?

『……思い出せねえ』

「やはりそうですか。さっきまでの緒方さんは普通の幽霊の様子と同じでしたから」

『……待てよ。数日って言ったか?』

「はい」

『お前が前に来たのは……昨日だよな』

 知りたくないがどうしても確かめなければならない。

 ベッドの柵を持つ手が震える。

 しかし京本は全てを知っているかのような顔で、躊躇いなくそれを口にした。

「三日前です。昨日は別件があったので来ることが出来ませんでしたから」

 柵から手が力なく滑り落ちた。

 前に京本が来た時、次の日は来られないと言っていた。次に来るのは明後日だと。それは覚えている。

 縋りつくように昨日と言ったが、そんな希望もあっさり打ち破られた。

 つまり三日前の晩から今日の午後までの間、ずっと意識を失っていたということになる。

 いつ戻ったのかもわからないベッドの上で、座り込んだまま。

 他の幽霊と同じように。

『嘘だ』

「残念ながら事実です。その様子では緒方さんにとって肝試しがあったのは昨晩、ということなんですね? そこから今まで一度も意識が戻らなかった、と」

 俺は返事をしなかった。

 京本もなにも言わなかった。

 華が閉めた窓がまた開いていて、相変わらずの蝉の大合唱がようやく耳に届いた。

 それがさらに恐ろしかった。

 一匹のミンミンゼミが声高に叫ぶ。何十といる彼らの中でそいつは押し迫った絶叫で、姿はなくとも鼻の先で、あるいは頭の奥にいるようだった。

 しかし、振り払うことは出来ない。

「……とりあえず、僕が調べてきたことと、これからのことを話しますね。状況の確認はその後にしましょう」

 そう言って京本は鞄からノートとペンを取りだす。

 学校指定らしい愛想のない鞄だ。あのダサいサイドポーチは持ってきていない。取り出す際にノートの他に綺麗に畳まれた道着が見えた。そして塩の入った巾着袋も。

 とても話す気にはなれなかったが、しかしまた意識を失ってしまいそうなので気力を振り絞り、ベッドによじ登る。

 京本はそんな俺をチラリと見てから、ノートを広げて差し出してきた。

 京本らしい、几帳面で神経質そうな文字だった。

「これが今現在わかっている幽霊の名前と基本情報です。と言ってもそのほとんどは緒方さんが月森さんから聞いたものばかりですね。僕が調べられたものはごくわずかです」

 霧の向こう側から聞こえてくるようだった。書かれたリストが目を滑っていく。

 しかしある人物の名前が視界に引っかかった。

『……佐藤のじいさん。警察だったのかよ』

 華は正確に名前を憶えてはいなかったが、京本は本名を突き止めたようだ。

 じいさんの下の名前は鉄二だった。——佐藤鉄二——推定八十二歳——元地方警察官——警察柔道大会の優勝経験あり——ほとんど残すオムライスを何度も求める——徘徊癖。

『……よくここまでわかったな』

「試しに名前を検索でかけた時に出てきたんです。有名な人だったみたいで画像もネットに残ってました。緒方さんから聞いた人相に似ていたのでこの人ではないかと。どうですか?」

 京本が制服からスマホを取り出し操作すると差し出してくる。

 画面には白黒写真で柔道着に身を包んだ男が、賞状を持って映っている。髪を短く刈り上げ、道着の上からでもわかる逞しい体格は、いまの幽霊となったじいさんからは想像もつかない。しかし確かに、顔全体の厳めしい雰囲気は面影があった。

『こんな人がオムライス連呼しながら徘徊するジジイになんだな』

「老いには誰も逃れられないですからね。では同一人物ですね?」

『間違いねえ』

「よかった。これはかなり前進ですよ。身元がわかれば関係者と接触できるかもしれません。ただこの病院が潰れたのは十年も前ですから、親類縁者は厳しいでしょう。地元の警察に知ってる人がいればいいんですけど」

『……十年前? ここが潰れたのはそんなに前なのか?』

「知らなかったんですか? このK病院は十年前に倒産しています。原因は相次ぐ医療事故によるものだと当時の新聞に書いてありました。それにかなり酷い経営をしていたみたいで、経営者によるイジメや事故の隠蔽が多数行われていたようです。それと幽霊が関係しているかは、時系列を調べる必要があるのでまだハッキリとはしませんが」

 京本は真面目にこの病院について詳しく調べてきていたようだ。ごくわずかなどと言うが、俺が華に聞いたモノよりもよほどジョウレイの手掛かりになりそうに思えた。

 しかし、むしろ希望はさらに潰えたも同然だった。

 十年前の、身元もはっきりしない人間の未練を調べるなど不可能だ。佐藤のじいさんは例外でしかない。ネットに名前や写真が残るような人間が他にもいるとは思えない。

 俺がそうだ。

 俺が死んでも、誰も気にしなかった。

 親ですらそうだったのだ。

 俺までとは言わなくとも、赤の他人が十年前の故人の未練を調べられるはずがない。

『……ホントになんとかなんのかよ。無理ゲーだろ』

「そんなことはありません。緒方さんにも出来ることはあります。むしろ緒方さんだからこそ、出来ることがあるんです」

『——あ?』

 京本はページをめくる。

 そこには階層ごとの精確な見取り図が描かれていた。病室の位置や施設の名前だけではなく、昔の馬鹿が破壊した扉や壁の場所、塩を盛った位置が記録されている。

 目を引いたのは、俺が華に連れまわされて知った幽霊共の基本的な配置が書かれていることだ。どこの部屋や廊下、階段に誰がよく出没し、華にどんな役割を与えられているかが記載されている。名前がないのは華とユウト、そしてタカコだけだ。四階ナースステーションには集会場と追記がされていて、米印が妙にムカついた。

「この病院にいる幽霊は十人。大元であるタカコさんと病院側である月森さん、あと緒方さんを除くと七人は普通の幽霊であると思われます。浄霊はまずこの七名から始めようと考えています」

『なんでだよ。タカコとか華からやった方がいいんじゃねえの?』

「ここが普通の心霊スポットならそうしていました。でもこの病院は普通ではありません。タカコさんを中心に霊全体が共同関係にあります。他ではあまり例のない事態です」

 京本が言うには、他にも心霊スポットと呼ばれる場所に複数の幽霊がいることは稀にあるらしい。

だがこの病院のように同じ行動をとる幽霊がまとまっているスポットは見たことがないそうだ。

タカコや華のような強力な悪霊が複数も同じ場所にいることなどありえないらしい。

「幽霊は基本的に凄く個人的です。この世に魂だけになっても残ってしまう未練や感情ですからね。他のことなど考えられないんです。なのにここではこれほど多くの幽霊がタカコさんの支配下にあって、月森さんの指示に従っています。尋常ではありません」

『じゃあなんでその二人からじゃねえんだよ』

「今までの行動から推測しても、真正面から浄霊を行っても攻撃されるのがオチでしょう。その時に全員から襲われるのと、一人二人から襲われるのとでは安全性が段違いですから」

 考えたくもない事態だ。

 華やクソババアにバレた時、病院中の幽霊共に取り囲まれるなんて最悪もいいところ。

 いきなり消えたり現れたりできるタカコ相手に、逃げ場などあってないようなものかもしれないが。

『順番はわかった。じゃあ俺の出来ることってなんだよ』

「タカコさんです」

 ページが戻る。

 幽霊達のリストの中で、最も空白が多いのはタカコだ。

 名前と容姿、それと能力しか書かれていない。

 正直、続きを聞きたくない。

「最終的にタカコさんと相対するのは避けられません。でもやっぱり彼女についてはまだ何一つわかっていません。五階に来るまでの間、それとなく気配を探ってみましたが全くと言っていいほど何も感じなかったんです。なにもいないみたいに」

『……んだよそれ。俺が嘘をついてるって言いてえのかよ』

「いいえ、ここは確かに心霊スポットです。休眠状態にある魂の気配は感じられました。干渉できないほど微弱なので話しかけられませんでしたが、緒方さんが教えてくれた通りです」

『じゃあなんでだよ』

「そこが問題です。他の幽霊を従えられるほどの力を持った悪霊なのに、今の病院にはその気配がまるでない。だから最初は緒方さんが嘘をついていると思っていました。もしくはそう思い込んでいただけかとも。自分にも嘘をつく人はままいますからね」

 心外だが京本も嘘をついている様子はない。

 実際に佐藤の素性をある程度調べてきたのだから、幽霊共が俺の錯覚でもないはずだ。

 だが気配だのなんだと言われても俺にはわからない。

『あいつも寝てんじゃねえの?』

「普通の幽霊ならそうです。……そうですね、例えば別に他の人と変わらないのに、やけに気になる人っていますよね。好き嫌いとかじゃなくて、なんとなく意識が引っ張られるというか、凄みのある人です。その人がいるだけで周りが注目するような人」

『……まあ、いるんじゃねえの?』

「こういう人は芸能人や政治家に多いです。あと大企業の社長なんかにも多いですね。人だけじゃなくても、とんでもない樹齢を持つ大木とか、古い神社とか、それがある山とか、まあとにかく、人間にはそうした特定のナニカがもつ濃密な気配を感じ取る機能があります。最近の研究では前頭葉とか側頭葉にそうした機能があると言われています」

『なんだそれ、オカルトかよ』

「緒方さんはそのオカルトそのものですけどね。悪霊になってしまった人は、こうした気配を意図せず周囲に放出しているものなんです。なんだか近寄りがたい場所とか、なんか嫌な気がするような場所にはそんな魂が留まっています。でもここにはそれがない」

 だからこそわからないと、京本は言う。

 だがそんなことを言われても俺にもわからない。

 でも、俺は知っている。

 タカコが現れた時の、あの濃密な死の気配。

 死んで感じることがなくなったはずの臭いや寒さを俺は知っている。

 アレが幻覚なはずがない。

「それが嘘とも思っていません。具体的ですし、悪霊の特徴と合致していますから」

『じゃあそれが何だってんだよ。俺は専門家でもなんでもねえんだよ。はっきり言え』

『いいですか緒方さん。幽霊には必ずこの世に残る理由があります。それは二つのパターンに分けられて、具体的な目的がある場合と、強い感情だけで残っている場合です。前者であればその目的を達成させるか、不可能であるかを伝えることで浄霊が出来ます。しかし後者であれば、その感情を知らなければどうしようもありません。そして悪霊は、そのほとんどが後者です。死んでもこの世に残り、さらに生者に干渉できる程の強い感情を持っています』

『それが未練だってんだろ? もう聞いたよ』

「未練とは少し違います。未練には明確な対象がありますから。誰かに想いを伝えたい、誰かにもう一度会いたい、誰かを害したい、人間の持つ未練には必ずこの誰かがいます。でも悪霊となるほどの未練なら、その誰かに憑りつけばいいとは思いませんか?」

『だからッ、なにが言いてえんだよ!』

「タカコさんについて何もわからない、それが問題なんです。タカコさんがいったいどんな霊なのか、なぜこの世に留まっているのか、なぜこの病院にいるのか、なぜ悪霊なのか、なのになぜ普段は気配もなにもないのか、なにもわかりません。これでは手の打ちようがない。さきほど月森さんが色々やらかしたと言いましたね? 肝試しの時に何があったんですか?」

『……なにって、脅かしただけだよ。ドアとか窓とか動かしたり、枕ぶん回したり』

「それだけですか?」

『男のネックレスを引っ張って壁にぶつけた』

「——ネックレス、ですか? 人の身体を持ち上げたではなく?」

『俺から見た感じじゃネックレスだった』

「……物体の強度も操れるのか。どうやら月森さんも尋常ではない力を持っているようですね。なおさらタカコさんは異常と考えるべきです」

『なんでだよ』

「これはあくまで我が家に伝わっている資料を基に説明しますけど、幽霊、もしくは魂は色のついた水のようなものだと考えられています。絵具とかでもいいですけど、とにかくとても流動的で不安定なモノなんです。真水に黒い水を落とすイメージをしてもらってもいいですか?」

『ああ』

「その時に黒い水は初め、形がありますよね。丸い水滴のような形から帯のように伸びて、混ぜなければじんわりと広がっていく、そして最後には真水の中に溶けて形を失います」

 思い出したのは学生時代の習字の授業だ。

 授業が終わって墨汁を水道で洗っていくとき、使った筆から落ちた墨が洗い場のステンレスの上で水の中を伸びていた。水道を使うときはいつも最後だった俺は、姉からのおさがりで貰ったボサボサの筆を洗いながら、その様子を眺めていた。墨汁は大量に流れる水の中で、交わり切らない川のように排水溝へと流れていた。

「生きている頃は肉体という膜に守られていますが、死んで肉体を失うとその膜もなくなります。すると魂は外界の刺激や力に直接影響を受けます。人の言葉や想いだけではなく、雨や風、日光などにもです。真水の中で混ぜられてしまうわけです。我が家では魂をそう捉えていて、死後は天国や地獄に移動するのではなく、この世に溶けてしまうと考えています。だから世の中幽霊だらけにならないわけですね。そしてこの影響は、魂同士でも受け合うんです」

『……それと華になんの関係があるんだよ』

「さっきこの病院が普通ではないと言ったのはこれが原因なんです。強大な力を持つ悪霊がいると、傍にいる他の魂は穢され形を失うものなんです。大元になる悪霊に取り込まれるか、雑念となって個人を失くしてしまう、つまり人の形を保てなくなるんです。本人が意図してようとしまいと、より濃い色の水に混ざってしまいます。なのにここではそれが起こっていない。月森さんを凌駕するタカコさんがいるにもかかわらずです」

 学者みたいに淡々と説明を続ける京本だが、その表情は切羽詰まっている。代々続く資料が残る神社の生まれで、他でもジョウレイ経験があるこいつが言うのだ。尋常ではないというのは文字通りの意味なのだろう。

『けどよ、お前の話じゃ俺はクソババアの影響を受けてるってことだろ? 話が違うじゃねえか。他の連中がどうかは知らねえけど、なんで俺だけなんだよ』

「あくまでこれも推測ですけど、緒方さんはタカコさんに直接触れられていますよね。その度に痛みや吐き気を催しているのは魂が穢されている症状だと考えていいと思います。もしかすると三日前の集会でタカコさんに触れられたのかもしれません」

 忌々しいことに合点がいく推測だった。

 俺の知る限りではタカコがいたぶるのは俺だけだ。あのクソパワハラのせいで俺が弱まっているのだとしたら、次はどうなるかわからない。今までは数時間寝るだけで済んだのが、三日も意識を失うことになった。次は一週間、一ヶ月、あるいは二度と目覚めないかもしれない。俺が考えているよりも、はるかに事態は差し迫った状況にあった。

『……クソが』

 そう吐き捨てずにはいられなかった。

 俺が汚い言葉を使う度に眉を顰める京本だったが、今度は見たことない表情だった。

「でもだからこそ、これが手掛かりにもなります。わからない事がヒントなんです。一般的な悪霊ではないからこそ、特別な理由があるはずですから。それがわかれば浄霊も行えるはずです。ある意味では、かなり幸運ですよ」

『は? どこがだよ。最悪だろ』

 どん底に押し込められたような気分だった。

 次にいつ起こるかわからない肝試し。従わざる得ない華との関係。ろくにやり取りもできないタカコ。そして俺には何の力もない。

 未練だの感情だの言われても、あのクソババアが何を考えているかなどわかるはずもない。華ですらタカコのことは知らないのだ。唯一タカコとまともなやり取りができる華がそうなら、なおさら俺には無理だ。

 人の気持ちなど、この世で最も意味不明なものなのに。

「タカコさんの行動には意図があることが明白だからです。ただこの世を恨んでいるだけの悪霊ならもっと無軌道なはずですから。そして緒方さんは唯一それを知ることが出来る立場なんですよ。緒方さんだけが、タカコさんに攻撃を受けていて、なのに形を留めることが出来ている。タカコさんが手加減する理由が緒方さんにもあるんですよ」

 幽霊が理性を残していることもかなり稀な現象です、と京本は言った。

 だがそんなものはなんの慰めにもならない。

 まともだからと言ってあんな化物の前には何の役にも立たない。

 理性に意味があるのは、相手にも同様の理性があるからだ。

 それだけは良く知っていた。

「例えばそうですね、緒方さんはどうしてこの病院にいるんですか?」

 唐突に京本は話題を変えた。

 他人にはあまり知られたくないことだったから、思わず目を逸らす。

 その仕草を見ても京本は黙ったままじっと俺の返答を待っている。

 答えを聞くまではやめないつもりらしい。

 本当に嫌な事しか言わない奴だ。

『……それとなんの関係があるんだよ』

「けっこう重要ですよ。だって緒方さんもここの入院患者じゃないんでしょう? 余所者とだけを見れば、緒方さんとタカコさんは同じじゃないですか」

『全然同じじゃねえ』

「では教えてください。タカコさんを知る手掛かりにもなりますから、嘘は言わないでくださいね。緒方さんも早く外に出たいでしょう?」

 グッと歯を喰いしばる。

 俺がここにいる事情など絶対にタカコとは関係ない。そう言いたいのは山々だったが、今までの流れでそれを言うのは無理だった。知識も経験もある京本がこの廃病院は異例だと断言したのだ。少しでも情報が必要なのは俺にでもわかる。

 それに俺にはもう時間がない。

『……』

「……」

『……肝試し』

「はい?」

 外の蝉のせいで俺の声はかき消された。

『……肝試しだよ。生きてる連中と一緒にここに来たんだ。そしたら出られなくなった』

「……」

 絶句しているようだった。

「……なる、ほど」

 再起動した京本が発したのはそんな一息つくための相槌だった。

 顔から火が出るかと思った。

「い、いやいや、待ってくださいねすみません。肝試しに交じってきたとして、ここの幽霊達に襲われたから逃げたとして、どうして緒方さんは出られなかったんです? 入ってくる時は一緒だったんですから、一緒に出て行けばよかったじゃないですか」

『出られなかったんだよ! あいつら走って逃げやがるし、ここはゴミだらけだろうが‼』

「それと何の関係があるんです」

『俺が物を通り抜けられないのは知ってるだろうが! 足元が悪くてうまく走れなかったんだよ。出口はクソ共が閉めやがったし、追いかけようとしたらすぐクソババアに掴まったんだ‼』

 思い返すのは昔の記憶だけで十分過ぎるほど胸糞悪いのに、京本のせいで余計なことまで思い出す羽目になった。俺はやはりクソガキとの相性は最悪なのだ。この病院に閉じ込められてからというもの嫌な事しか起こっていない。

「——」

『……んだよ』

「ぷっ、失礼」

『だったら笑うんじゃねえ!』

「だって、想像したらあまりにもなので……」

 いったいどんな想像したのか。このクソ失礼なクソガキのことだ。クソったれに違いない。

 重苦しい空気は一気に霧散した。本当にこいつは俺がクソ最悪な状況にいるのかわかっているのだろうか。完全に舐め腐ってやがる。

 しばらく肩を震わせていた京本は気を取り直すように咳払いをすると、僅かに口角が上がったマヌケ面を必死に取り繕いながら俺に再び向かい合った。

「本当にすみません。でもどうして緒方さんは肝試しに参加を? あまり興味があるようには思えませんが」

『うっせえな、もういいだろ。どうせなんもねえよ』

「いえいえ是非ともお聞かせください。もしかすると何かヒントがあるかもしれません」

 しつこい京本の態度に抵抗する気力すらなくなってきた。

ヤケクソ気味に答える。

『リストにあったんだよ』

「リスト? なんですかそれ」

『死んだ後にやりたいことリストだよ。映画で似たような話が合って暇つぶしに真似したんだ。生きてた頃にやったことなかったのはとりあえずやることにしてんだ』

「なるほど、それで肝試しをする人達に紛れてきたわけですか。よく見つけられましたね」

『時間だけは無駄にあんだよ。だから、俺とタカコとは何の関係もねえんだ』

「うぅん、どうでしょうね。それにしても死んだ後にやりたいことリストですか……」

『馬鹿にしてんだろ』

「いえいえとんでもない。とてもいいと思いますよ」

 とても信じられない眉の痙攣具合だぞ。

「他にはどんなものがあるんですか?」

『お前には教えねえ』

「幽霊がいるところにはもういかない方がいいですよ」

『殴られてえか』



 京本が今日の探索を終えて帰ったのち、太陽が沈み月が照らすと俺は三階の廊下に足を運んだ。

 京本からはタカコについて調べろと散々言われたが、それと同時に他の霊とも交流しろと言われたからだ。ジョウレイを行っている時に同行してほしいらしく、知っている人間がいるといないとではジョウレイの成功率がまるで違うらしい。夜の病院に京本が来られない以上、顔馴染みなるのは俺にしかできない役割だった。

 吐き出すだけの悩みならともかく、この世に残るだけの未練は赤の他人とは話す気にならないでしょう、とは京本の弁だ。

 だから俺はひとまず、また佐藤のじいさんの所にやってきていた。

 俺が一人で会うことの出来る幽霊はじいさんだけだったからだ。

『よお、じいさん。あんた警察で柔道家だったんだってな』

『……オムライスを食べます』

 相変わらず無反応なじいさんは、点滴スタンドに寄りかかりながら亀みたいに歩き続ける。

昼間に歩いたおかげでこの廊下に何があるのかはだいたい把握している。お陰でじいさんの隣を看護師みたいに並んで歩くことが出来た。本当に亀みたいにしか進まないから、後ろ向きにならなければ何の問題もない。

『けっこう凄かったらしいじゃん。優勝とかしたんだろ? いまじゃただの爺さんだけどさ』

『……オムライスを食べます』

『それ、華に聞いたけどホントは別に好きじゃねえんだろ? なんで食べたいんだよ』

『……食べます』

 壁に向かって話している方がまだ生産的な気がしてきた。

 佐藤のじいさんはいっこうに俺を見ようとしない。ただまっすぐに前だけを向いて、写真で見たグローブみたいな手ではなく、枯れ木みたいな手で点滴スタンドを押す。じれったさに思わず足を止めるも、まるで見せつけるみたいに背中を向けて歩き続ける。

 これで幽霊との絆が深まっているとはとても思えない。

 ゲーム見たく視界の左上にでもゲージが表示されれば判断もしやすいが、現実そう簡単にはいかない。今ではこんなみすぼらしい姿のじいさんだが、元気だったころはマッチョで警察だったのだ。俺なんかが話しかけたところで相手にされるはずもない。

『なー、オムライスって何の意味があんだよ。それ食ったらなんかいい事あんの?』

『……オムライスを食べます』

『嫌いだっただろ? てかもう死んでんじゃん。もうオムライスは食えないんだって』

『……食べます』

『もしかして、看護師に食ったら誰か見舞いに来てくれるって嘘つかれたとか? つかじいさんって八十二歳なんだろ? たぶん婆さんももう亡くなってるって。じいさんって子供とかいたの? つってもその子供ももう爺さんか婆さんじゃん。見舞いされる方だろ』

『……オムライスを食べます』

『もうわかったっての。もうちょっと何とか言ってくれねえとジョウレイできねえんだよ。わかる? じいさんもこのままじゃ成仏できねえの。ずっとこのままクソみてえなところにいたくねえだろ? 手伝ってやるから何とか言えって』

『……オムライス、オムライスを食べます。……食べます、から……』

『だから、なんだってんだよ! もうオムライス食ったからってなんにもなんねえんだよ! いい加減にオムライスが何のなのか教えろって——から?』

 唐突な言葉の変化に俺はじいさんの前に躍り出る。

『から? からなんなんだ? なんか言いかけてただろ⁉』

『……食べます』

『そうじゃなくて! からなんなんだって⁉』

『……オムライスを食べます』

『わかってんだよ! なんかしてほしいなら言えって!』

 かすかに見えた道筋になりふり構ってられなかった。

 じいさんの両肩を掴んで動きを止める。このまま廊下を進んで消えられたらたまったものではない。何とかしてでもじいさんの未練とやらを聞きだしたくて顔に唾かかかるような距離で尋ねる。しかし垂れそぼった瞼は動かず、俺に意識を向けている様子は微塵もなかった。

『あー‼ こんなところにいたァ‼』

 甲高い子供の声にパッと手を離す。

 振り返ると華が両手を腰に当ててふんぞり返っていた。

『病室にいないからびっくりしたじゃん! 急にいなくなんないでよねぇ!』

 ぷりぷり小さな肩を怒らせながら華が駆け寄ってくる。

 手の離れた佐藤のじいさんが、俺のことも華のことも気に留めずまた歩き出した。

『心配したんだから! どうしてかってにぬけ出したの⁉』

『……別に、歩きたかっただけだ』

『だからって——あたしを待ったっていいじゃん! 毎晩いっしょにいたのにさぁ』

『気づかなかったんだよ』

『それはわかるけどぉ』

 内心では邪魔されたことに文句でも言ってやりたかったが、だんだんとしょげ始めた華を見て口には出せなくなった。どうやら華はこの三日間、毎日あの病室に来ていたらしい。それ考えるとさすがに邪険にはできない。しかし失望が腹の底で蠢いて、無表情を取り繕わなければ余計なことを言いそうだった。

『サトウさんとなに話してたの?』

『大したことじゃねえよ。久しぶりだったから挨拶してただけだ』

『声、大きかったけど?』

『爺さんだからな。耳が遠くて聞こえてるのか心配だったんだ。ほら、そこどいとけ』

 じいさんが歩き続けるのをやめないので、邪魔になる華を手でどかす。まだ何か言いたげだった華だが、素直に俺の言うことを聞いて道を開けた。

 じいさんはそのまま俺達には目もくれず、廊下の奥まで歩いていくとそのまま消えた。

『いっちまったな』

『うん』

『じいさんがこの後どこに行くのか知ってのか?』

『知らない。消えちゃったらわかんないよ』

『……ま、だよな』

 とんでもない力を持ち、タカコから気に入られ、他の幽霊共に指示を出せる華だが、所詮は小学生で子供だ。それに華は幽霊共をまるで生きている人間と同じように扱っている。京本と違って彼らの生態に詳しいわけではない。

『……だいじょうぶ?』

『なにがだよ』

 無表情でいるのを気遣ってか、華は恐るおそるといった口調で尋ねた。

『だって、何日もああだったし。あんなの初めてだったし』

 怒りもどこかへ消えたらしい。すっかり肩は落ちてこちらを心配そうに伺い始めた。

 俺の体感では昨夜まではしゃいでいたわけが、華にとっては数日前の出来事なのだ。

 確かにベッドの上で三角座りをしながら半眼で半開きの口から呻き声を垂れ流すのが三日も続けば、誰だって不気味に思うだろう。

『大丈夫だって。もうなんともねえよ』

『ほんとに?』

『ああ、ほら見ろ』

 なんともないのを証明するために訳もなく力瘤を作ってみせる。

元気の証明が筋肉であるのは前時代的で甚だ古臭い表現だが、これ以外になにも思いつかなかった。

 大した瘤は作れなかったが、しかし子供の華には通用したらしい。

まだ信じ切ってはいないようだが、前に謝りに来た時のようにへこんだままにはならなかった。

『だったらいいけど、ほんとに心配したんだからね』

『マジで大丈夫だって。いいからその顔やめろ。病人みたいな気分になる』

『だって変な病気みたいだったし。ユウト君の好きなヒーロー番組の敵みたいだったし』

 どんな状態だよ。

『とにかくなんともねえ。それよりも華はあれから何があったのか知ってんだな?』

『あれからって?』

『華があのク——外の連中を追い払ってくれた後だよ。五〇一号室を出てから』

『……おぼえてるけど、オガタはおぼえてないの?』

『なぁんも。だから教えてくれ。記憶が飛んでるのってマジ変な感じなんだよな』

 努めて軽い調子を維持する。

 演技はひどく肩が凝るが仕方がない。このままいじけられる方が面倒だ。何も覚えていないと言ったせいで眉がハの字になったが、あれからの事を知るには華に聞くしかない。

『んー』

 ハの字がなかなか治らなかったのでなんと言葉をかけていいものかと焦り始めた時、急に華がなにやら考え込み始めた。

考えるときに身体を動かすのが癖なのか、腰がでんでん太鼓みたいに左右に触れる。

まるで子供である。

『じゃあとっておきの場所に連れてってあげる。そこでお話ししよ』

 脈絡がなさすぎて理解不能だった。

『とっておきってってどこなんだ?』

『それは行ってからのお楽しみ! オガタももう立派な仲間だからね』

 何やら自慢げに笑みを見せた後、見覚えのあるシャボン玉みたいなふわふわした足取りで歩きだす華。

何が理由で何を思いついたのかさっぱりわからないが、とにかく泣き出したり黙りこくられることはなくなったのは安心だ。

 その後姿を、また黙ってついていく。

 俺が助かるには、こいつから重要な情報を聞きださなければならい。

 それも、あまり時間は残されていないのだ。

 もうなりふり構っていられない。



 華が向かったのは二階の特別病棟だった。

 特別病棟と言っても別棟として本館と分離しているわけではなく、ただ二階にある東側の廊下のことだ。

 ここの病室は全て個室となっており、長期入院を余儀なくされた病人や特別な事情を持つ患者が入院するらしい。

 らしいとは俺が元々知っていたというわけではなく、この廃病院についてアレコレ調べた京本の地図にそう記載されていた。

 華はその中で二〇一号室の扉を開けた。

 生きてるみたいに手を使って。

『じゃあん。ここがあたしの部屋ぁ。どう?』

 自慢げに胸を張って紹介される。

 やはり中は個室だった。

 大部屋よりもやや狭い、それでも子供が一人で入院するには十分すぎるほど広かった。来客用のソファは丸テーブルを中心に二つもあり、大の大人が眠れるぐらいのスペースがある。テレビも枕元の棚ではなく天井に取り付けられており、仰向けになっても観られるようになっていた。カーテンはぴしゃりと閉め切られ外の光は遮られている。

 ご機嫌な華に招かれるように病室内に入る。

『……ここには落書きが全然ないんだな』

 気になったのはそこだった。

 被害の激しい二階にあるにも関わらず、この部屋には廊下やフロアの壁に無数にある落書きが一切ない。白い壁があれば何かを描かずにはいられない馬鹿共が見逃すとも思えない。まるでこの部屋だけが、取り残されたかのように綺麗なままだ。

『みんなが助けてくれたの。あたしあの人たち嫌い。うるさいし、ゴミだらけにするし』

『どうやって?』

『昔はみんなでここにいたんだ。そしたらあんまり近づいてこないの』

 京本が言っていた、人間にある直観の能力によるものだろうか。

 確かにここにいる幽霊全員が集まっていれば、見えないとしても感じずにはいられないかもしれない。

 華は部屋の主人のようにベッドに座った。

 俺もひとまず来客用の豪勢なソファに腰かけた。

 感触はベッドと変わらない。

『ここがとっておきの場所か?』

『うん。オガタは仲間になったからね。でもここに新しい人が来たのは初めてだよ?』

『お前が入院してた時はここに?』

『そだよ。二〇一号室の華ちゃん。みんなのアイドルだったんだから』

 カワイソウ攻撃が嫌だったと言った口で、今度はアイドルである。

 残念ながらそんなちんちくりんではアイドルにはとても見えず、精々お人形さんが関の山だ。

 言ったら怒りだしそうなのでやめておくが。

『スガワラさん、こんばんはぁ』

 おもむろに華が誰もいないはずの壁に向かって声をかけた。

 振り返ると落ち着く間もなく壁際に男が立っていた。

 レモン飴のオヤジだ。

 こちらではなく壁に向かって聞き取れない言葉をブツブツ呟き続けている。

 慣れたもので、急に連中が現れてももう驚かない。

 神出鬼没なモノにいちいち反応していては身が持たないし、クソババアでなければ害はない。

 正気を失い壁に張りついているぶんにはどうでもよくなっていた。

 今度は棚に置かれた電話が鳴りだした。

 院内のみに通じる備え付けのモノだが、電気は当然通っていない。

 しかし開院していた時と同じように、柔らかな呼び出し音が室内に鳴り響く。

 心霊現象の類だ。

『はいはーい』

 華は驚くでもなく、ベッドから降りると受話器を手に取った。

『ナベシマさん? 大丈夫だよ。身体におかしなところはなにもありませーん』

 察するに電話の向こうにいるのは、四階のナースステーションでどこかに電話をかけ続けている看護師の霊だ。まだそこまで詳しく聞いていない霊の一人だったが、鍋島は生前華の担当だったのかもしれない。かつてもこうして様子を確認するために電話をしていたのだろうか。忙しい看護師にしては手厚い対応である。あるいはもしかしたら、こいつに他の入院患者についてアレコレ言っていたのは鍋島なのかもしれない。

『はーい。ちゃんとボタンは押します。じゃあ切るからね』

 ガチャリと受話器を置き、華はベッドに戻る。

 これを霊の見えない人間が目撃すれば、立派な怪現象だっただろう。鳴るはずのない電話がひとりでになりだし、受話器が宙に浮いて誰かの話す声が聞こえる。恐怖体験としては本物である。俺には子供が過保護な連中をあしらっている日常風景にしか見えないわけだが。

『ふー、ナベシマさんも心配ショーなんだから』

『四階の看護師だろ? なんか話すのか?』

『なぁんにも。でもああ言わないと何度も電話してくるの。出るまでずっとなんだよ?』

『手馴れてるな』

『まぁね、入院患者のショセイジュツだよ』

 本当に言葉の意味を知っているのかわからないたどたどしさである。

 どうせ生前に誰かが言ったのを真似ているのだろう。

 前置きもそろそろに本題に入る。

『それで? あの後なにがあったんだ?』

『……えっとね、いつも通りみんなで集まって、そしたらタカコさんも来たの。いつもはお願いしないとやってきてくれないんだけど、みんなビックリしてた。どうしたのってあたしが聞くと、急にオガタの前までいって、その、ええと、だきついたの。あっ、あたしはなにも言ってないよ⁉ だからあたしもビックリしたっていうか……』

 思わず身を捩りそうになった。

 なんとか心を落ち着かせて先を促す。

『……それで?』

 華は気づかわしげな顔で続ける。

『えっと、その後すぐにタカコさんは消えちゃって、オガタはぼおっとしてた。痛そうにとかしないで歩いていっちゃったの。心配だったからあたしもついてったんだけど、ぜんぜん気づいてくれなくて、五〇一号室にもどってオガタのベッドにすわってそのまま。ずっと声かけてたんだけど、ブツブツ言って返事してくれなかった。今日までずっと』

『じゃあ他に変わったことは何もなかったんだな?』

『え? うん、あれからはまだ誰も来てないし』

『……そうか、わかった』

 俺の身に起こった事に目新しい発見はない。

いつも通りと言えば癪にさわるが、クソババアに嬲られたのは同じだ。

だがその手段と理由がなぜ違うのか、それがまるでわからない。

華に仲間扱いされてもなお、あいつは俺を嬲った。

佐藤のじいさんが違う言葉を発した理由は?

これまでとの違いはなんだ? 

いったいなにが違う?

『……ま、何もなかったならそれでいい。ところでさっき昔はみんなでここにいたって言ったよな。それっていつのことだ? ここが有名になる前か?』

 どうせ俺には何もわからないので話題を変える。

 華はまだ心配そうにしているが、俺が続けたくないのを察したのか乗ってくる。

『あんまり覚えてない。こわい人たちが来てた時はそうしてた。ここって有名なの?』

 小首をかしげる華。

『なんでだよ、お前らがそうしたんだろ? 外じゃ本物の幽霊が出るって話題の心霊スポットだったぜ? だからしょっちゅう来るんだろうが』

『知らない。……そっか有名なんだ。じゃあ、これからもたいくつしないでいいね』

 有名、というところが気に入ったらしい。満足気に鼻を鳴らす。

 大人二人を殺しかけたのも、こいつにとってはただの暇つぶしでしかないようだ。これが子供の残酷さというモノなのだろうか。外の連中がどうなろうと知ったことではないが、その度にタカコに嬲られかねない俺には死活問題である。それもわかっていないのだろうが。

『なんで始めたんだ?』

『ん? なにが?』

 倒れない人形みたいに身体を揺らしながら華が尋ねる。

『なんで外の連中を脅かすようになったんだ? 不良にはしなかったんだろ?』

『えっとね、さいしょはそんなつもりなかったんだ。こわい人たちが来なくなってしずかになったから、夜も外に出られるようになって。だからちょっとさんぽしてたの。みんながいるからさみしくないけど、たまには一人でいたい時ってあるでしょ?』

『そうだな。よくわかるよ』

『だよね。そしたらね、三日前みたいに男の人と女の人が来たの。歌うたってたから全然きがつかなくて、階段のところでばったり。それでね……』

 急に華が言い淀む。

 言いたくなさそうではあるが、それは嫌な思い出を語るというよりも恥ずかしい事を告白する気恥ずかしさのような感じだった。

照れくさそうにしてから、内緒とばかりに悪戯な笑みを浮かべる。

『ちょっと泣いちゃったんだ。生きてる人と会うの久しぶりだったし、あの人たちもすごくビックリしたみたいで、大声でさけんだの。だからあたしもどうしていいのかわからなくなっちゃって。そしたらタカコさんが来てくれたんだぁ』

『タカコが? そういや皆でここにいたって時もタカコはいたのか?』

『タカコさんはあんまりこの部屋に来てくれないんだ。みんなに気を使ってくれてると思う』

『……気を遣う? あのク——タカコが?』

 今度は心底嬉しそうに思い出を語る華。

 だが俺は耳を疑うような、とても信じられない話に困惑する。

 あのクソババアに、他人への気遣いなんて上等な理性があるはずがない。

 もし少しでも残っているのなら、俺をあそこまで嬲るはずがない。

『それはオガタが仲間になってなかったからだよ。でもなんでかみんなもタカコさんをこわがるんだ。あんなやさしい人なのにね。キレイだし、カッコいいし、すごいのに』

 今度こそ意味がわからなかった。

 あの化物が優しい? 綺麗だと?

 現れる度に死臭をまき散らして、虫も静まり返るような悪霊のタカコが?

 他の幽霊も黙る怪物だぞ。

 それを優しくて綺麗でカッコいい?

 もしかして華には、タカコが化物に見えていないのか?

『えっと、それでね、タカコさんがあの人たちを追い返してくれたの。あの人たちもすごく怖がってた。タカコさんを見てひっくり返ったんだよ。あわてて逃げてった。その時に思いついたんだ。今まではいなくなるまで待ってたけど、おどろかしたらすぐにいなくなるって』

 それから華は色々と工夫し始めたらしい。

 まず自分に何ができるのかを知るところから始めた。触らずとも扉を開けたり閉めたりはできたが、壁や床を通り抜けたり、消えたり現れたりはやったことがなかったらしい。それから他の連中にも協力を求めた。そして練習を繰り返して、いまの形になったそうだ。

 この廃病院が有名になったのはその試行錯誤の結果のようだ。確かにそれならば、クソ不良共が落書きを残せていたのもわかる。不良共が溜まり場にしていた時代は華達も何かしようとは考えていなかった。だがタカコが件の二人を追い払ったのを華が見たせいで、本物が出る心霊スポットが生まれたのだ。

 やはり肝試しをするような連中はクソだ。

 まさに藪蛇。同情する気にもならない。

そいつらが余計な事をしなければここの幽霊共は誰かを脅かそうとは考えなかった。

華達が幽霊として力をつけることもなく、俺がここに閉じ込められる事もなかったのだ。

 クソが、そう文句の一つでも言いたくなる。

『散々だったな』

『でもおかげでたいくつじゃなくなったよ? 最初はここから出ようかなって思ってたけど、みんなもいるし、あいつらをおどかすのも楽しいしね。オガタも仲間になったし、これからどんどん楽しくなるよ。オガタも色々できるようになるといいね』

 枕を抱きしめながら、また心底嬉しそうに言う華。

 なぜか鉛玉が喉を通ったような気がした。

『……ここから出たいと思ってたのか?』

『最初だけね。でもやっぱりいいかなって。ずっと入院してたから、外ってわかんないし』

 そう言えばこいつの身の上話をちゃんと聞いていなかったと思い出す。

 クソババアのことは気になったが、ジョウレイにはこいつの情報も必要だ。

 入院中のあれこれは嫌になるほど聞かされたが、そもそも華がなぜ入院していたのかは聞いていない。

小学生ぐらいの華も、忘れていたが死んだから幽霊となってここにいる。

俺と同じ、話せる幽霊として。

『てことは学校も行けてなかったのか』

『ちょっとだけ行ったんだけど、五年生の時に重い発作が出たからお父さんとお母さんがダメだって。だから同じ年で友達だったのはユウト君ぐらい。その時のクラスメートもお見舞いに来てくれたけど、たぶん嫌々だったと思う。笑ってたけど、笑ってなかったから』

 おそらく学校と華の親がとった対応策だったのだろう。

 ちょっとだけ、と言うからには短い退院を繰り返していたのかもしれない。友達付き合いをする余裕などなかったはずだ。それに病院にいるのは大抵が大人だ。それも病気や怪我をした連中、仕事として接する看護師や医者しかいない。社会的に孤立する華のために、少しでも外に出た時の戸惑いを減らす努力に違いない。

 無駄なことだ、と思った。

 人間は自分達とは違うモノ、それも弱いモノの存在には敏感だ。長期入院をせざる得ない華の病気の重さは嗅ぎとったはずだ。

そして一度でも弱者だと認識すれば、あとは排除と迫害である。

 華もその気配を感じ取ったのだ。

『……学校なんて別に大したとこじゃねえよ。うっせえし、うぜえし』

『そうなの? オガタは学校嫌いだった?』

『刑務所と同じだな。早く卒業したくて仕方なかった。してもあんま変わんなかったけど』

『そうなんだ。あたしはちょっと行きたかったな。ふつうの生活ってどんなのか知りたかったし。中学校にもいってみたかった。部活とか修学旅行とか、そういうの』

 枕を抱きしめたまま、今度は少しばかり寂しそうに微笑む。

 意外だった。

 華にそんな普通の感覚があるなんて思っていなかった。

 この病院にいる幽霊共は地縛霊で、この病院にいることの他に考えられない存在なのだと思い込んでいた。

外に出たいなどと、俺と同じことを華が考えていたとは思っていなかった。

『ならここから出ればいいじゃねえか。好きなとこ行ってみればいいだろ。普通の連中が行くようなとこにさ』

『……そうかもしんないけど』

 枕を腕だけでなく膝でも抱え込み、上下に揺れ出す。

 華は暫く自分の世界に引き籠ってから、しかし首を横に振った。

『でもやっぱりいいや。ここにはみんながいるし、タカコさんがいるから怖くないし、外に出てもなにしていいかよくわかんない。あたし、ここしか知らないから。それにいまさら出ても仕方ないでしょ? もう死んじゃってるんだし』

『……かもな』

『それに今はオガタが仲間だから、もうさみしくないよ? 今までゴメンね?』

 ——。

『……なんだよ急に』

『いっぱいイジワルしちゃったし、タカコさんに怒られるのって、痛いんでしょ? なのにあたし、いろいろ言いつけちゃったりしたから……』

『……怒ってねえって言ったろ』

『そうだけど、ちゃんと謝んなきゃなって、思ってたから』

 えへへと、また照れくさそうに、しかしどこか安堵したように微笑まれる。

 今度は鉄の塊が胸の底に落ちたような気がした。



『——なにしてんだよ』

 朝が来るまで何の意味もない会話をした後、瞼を擦り始めた華に寝ろと言ってから病室を出た。

最後まで名残惜しそうにされるのがうっとおしくて、さっさと扉を閉めさせて振り返るとユウトが目の前に座っていた。

 相変わらず青白い、可愛げのない無表情でこちらを見ていた。

『……安心しろよ。お前らの望み通りにしてやってる。これで満足だろ?』

 ユウトは何も答えない。

 ただ黙って、俺を見ている。

 なぜかイライラしてくる。

『なにがしてえんだよ。そんなに心配ならお前が一緒にいてやればいいだろ。俺に押し付けてくんじゃねえよ。言いたいことあるならさっさと言えよ』

 ユウトは何も答えない。

 ただ黙って、俺を見ている。

『――クソが。消えろようぜえ』

 返事は期待していなかった。



 五〇一号室に戻っても苛立ちは収まらなかった。

 お気に入りの窓際ベッドに座っても、寝転がる気にもならない。

 目を閉じるのが怖かったのもある。

 次に眠った時、俺は俺のままでいられるのかわからない。目を覚ます保証もない。だから窓の外に目をやったまま、このとぐろを巻いた苛立ちと向かい合わざる得なかった。

(——なんでだ? なんでこんなイライラすんだよクソ!)

 こんなことは初めてだった。だからどうしていいのかわからない。

 今回、華から聞き出した情報は何か手掛かりになるはずだ。

 せっせと華を可愛がる幽霊共。

 華には化け物に見えないタカコ。

 ここが心霊スポットになった原因。

 他にもっと聞きだせることは多かったはずだ。

病院が倒産した状況、幽霊共の出現時期、タカコと他の幽霊の関係、華にしか聞きだせない幽霊側からの視点を聞き出すチャンスは十分にあった。

 なのに俺は、華にそれらの事を聞けなかった。

なりふり構っていられないと自分に言い聞かせていたというのに。

 いつもの俺なら馬鹿にして終わりだった。

 華の過去、それは俺とは真反対だ。

 あいつは誰からも愛されていた。

 親にも、医者や看護師にも、社会にも、幽霊にも、誰からも愛されている。

 あいつは他人の悪意に晒されたことがない。

 だから当たり前のように他者の善意に不満を持つ。

 当たり前のように俺を信じる。

 俺の望み通りに。

『……クソが』

 考えようにも頭が上手く働かない。

 きっと魂が弱まっているせいだ。

 頭の中に穴が開いているような感覚。

考えようとすると言葉がその穴の中に落ちていき、思考が形にならない。

 俺は外に出たい。

 俺はあいつらとは違う。

 死んだ後にやりたいことはまだまだある。

 リストには、他に何があっただろうか。



「おはようございます」

 結局なにもろくに考えることも出来ず、几帳面に昇りだした太陽を眺めていると京本がやってきた。まだ昼にもなっていない。時間帯にすれば朝の後半といった時分だった。こんなに早く京本が病院にやってきたことはなかった。

 そしてその表情にはいつもよりさらに陰気で、どこか焦っているような深刻さがあった。

『……どうしたんだよ。そんなクソみてえな顔して』

「端的に言って、かなり差し迫った状況になったかもしれません」

 生意気に言い返してくるかと思いきや、京本は軽口も叩かずにそう言った。

 それが余計に事の重大さを現しているような気がして、身構えずにはいられなくなる。

 しかも京本は腰を落ち着けず、病室内を落ち着きなくいったり来たりし始めた。

『なんだよ、親にでもバレたのか?』

「その方がはるかにマシです。本当にその方がどれだけマシか……」

『はっきり言え。何があったんだよ』

 急かすと京本はピタリと立ち止まり、まるで確かめたくないような、それでも知らなければならないと自分に言い聞かせるように、俺に鋭い眼差しを向けた。

「前回ここにやってきた二人ですが、どんな容姿だったか教えてもらってもいいですか」

『なんだよそれ。どこにでもいるクソみてえな奴らだよ。脳味噌つまってなさそうな——』

「そんなことはどうでもいいんですっ。具体的にお願いします!」

 ほとんど怒鳴り声に近かった。

 京本がこんなにも取り乱すとは思っておらず、慌てて連中を思い出す。

『二人とも二十代半ばぐらいだと思う。男はクセ毛で顎髭があった。イカつい感じの顔で、鍛えてるっぽい。女は痩せてて化粧が濃い。髪は背中まであって明るい茶色に染めてた。夜だったし、顔はハッキリ覚えてねえ』

 だが京本にはそれで十分だったようだ。

 大きく息を吐き、そのまま近くにあった椅子に座った。

『……なにがあったんだよ』

「その二人ですが、昨日の晩、うちに来ました。ここに来た日から、悪霊に憑りつかれていると泣きながら父に除霊を頼んできたんです」

『まさか、タカコか?』

「そうだと思います。毎日のように怪現象に襲われるそうです。唐突に窓が割れたり、コンロの火で火事になりかけたり、悪臭や耳鳴り、悪夢がずっと続いていると」

『……それで、お前の親父さんはどうしたんだ?』

「もちろんお祓いはしましたよ。けど解決には至っていません。二人には悪霊の気配がこびりついたままでしたから」

『言わなかったのかよ』

「言っても無駄です。父は……」

 その続きを京本は口にしなかった。

 ただその顔には怒りとも悔しさとも取れる皺がくっきりと刻まれており、けっして父親との関係が良好なわけではないだろうと想像させた。

『……憑りつかれた人間は、どうなるんだ?』

「タカコさん程の力を持った悪霊なら、放置すればかなり危険です。死者が生者の魂に干渉するのは難しいことですが、タカコさんは物理現象を起こすことが出来ますから。でもその前に彼らの心の方が問題です」

『心?』

「毎日のように心霊現象に悩まされて、ありもしない臭いや音、悪夢にうなされるんですよ。しかも他の人にはわからないんです。幽霊の仕業だと訴えて、誰が信じると思いますか? 精神病を疑われるだけですよ。本人達には現実でも、他の人には幻覚です。誰だって鬱病になりますよ」

 この時代、幽霊に憑りつかれたなんて言っても誰も信じない。

 俺だって生きていた時なら、承認欲求を満たす為の嘘だと断じていただろう。特にここは有名になった心霊スポットだ。そんな話はごろごろと転がっているだろうし、それゆえに誰もまともに受け取ろうとはしない。娯楽となった恐怖は、誰もリアルだとは思わない。

『なら今までの連中も?』

「わかりません。もし呪い殺していたとしても、そう記録されるわけではありません。自殺、事故死、病死、どれもタカコさんが直接的な原因なのか証明しようもありません。オガタさん、ここには本当に緒方さん以外に外から来た幽霊はいないんですね?」

『華は全員顔見知りだった。それに華が人殺しなんかするはずねえ。あいつは、そんな奴じゃねえよ』

「それが本当だとなぜ言えるんです? 幽霊は嘘をつきます。緒方さんが騙されていないとどうして言えるんですか? そもそも、緒方さんは本当の事を言ってるんですか?」

『……俺が嘘をついてるって言いてえのかよ』

 思わず声に怒りが混じる。

 しばらく黙ったまま、俺達は睨み合った。

 先に口を開いたのは京本だった。

「……すみません。少し冷静ではありませんでした。謝ります」

黙ったままなのをどう受け取ったのかわからないが、京本はもう一息つくといつもの陰気な顔に戻った。

「とにかく、もう時間をかけている場合ではなくなりました。危険でも予定を早めようと思います」

 それは俺の望むところだったというのに、またなぜか素直に喜べなかった。

『……どうすんだ?』

「緒方さんは昨夜、何か進展はありましたか? もしあればお聞かせください」

 ここで感情に任せても意味ないとわかっていたので、何があったのかを淡々と語る。

佐藤の変化、他の幽霊達の行動、華から見たタカコ、この廃病院が心霊スポットになった経緯、そして華の過去。

 京本も余計な相槌は挟まず、静かに俺の話を聞いていた。

 それがなぜか余計に俺をささくれ立てた。

事態の緊張が高まっていることを否応もなく突き付けられているような気がして、追い詰められていると思わされた。

 華の顔がチラついてきやがるのが煩わしくて仕方がなかった。

「……なるほど、やはりタカコさんはここの地縛霊ではないようですね。そしてどうして普段は気配がないのか、それはそもそもここにいなかったからですか」

『……』

「そして月森さんには特別な関心を抱いている。自分を悪霊の姿には見せず、あくまで優しい女性だと思い込ませている。でも目的は定かではない。人を呪うことと愛することを同時に行っている。なぜ……」

 ここに来て初めの時のように、京本は自分の思考に籠り始める。俺も相槌を挟まなかった。どうせ俺が考えたところでなにもわかるわけがないし、京本も期待していないだろう。京本の関心はここにいる幽霊をどうすればジョウレイできるかでしかない。俺が何か言ったところで意味はない。

「——やっぱり順番を知らないとどうしようもないか」

 おもむろに京本が立ち上がった。

「これから一二階を探索します。タカコさんが外にいるとわかっているなら、あとは月森さんにだけ気をつけるだけでいいですし。——緒方さんはどうしますか?」

『……俺が行ってどうすんだよ』

「無理にとは言いません。お疲れでしょうし、ここに残っても構いませんよ」

 どこか投げやりな、試すような口調だった。

 普段の俺であればここぞとばかりに残っていただろうが、流石にそうも言ってられないのはわかっている。

 それに眠れず一人でいつづけるのも、これ以上は苦痛だった。

『……いくよ』

 言うが早いか京本は手早く荷物を片付けると病室を出て行った。

 足早にずんずんと進んでいく京本の後をただついて回る。

 この病院に来てから、ずっとこうしているような気がする。

 誰かの後ろを、黙ってついていく。

 ただの幽霊みたいに。

 他の連中と違うのは、俺にはそれしかできない事だ。

 それこそ本当に、ただの幽霊みたいだ。



 二階は華のような金に余裕のある病人や重病患者が利用する階層で、緊急の場合にすぐ対処できるように手術室が配置されている。

 診察をする為の各診察室は一階にあり、勤務している医者や看護師たち関係者が利用する部屋もこの階層にあるから、ある意味ではこの病院の心臓部と言っても良かった。

 だがその反面、荒らされているのは上階の比ではない。

 落書きは壁という壁に描かれ、捨て置かれた菓子袋やペットボトル、靴やマットレス、あまつさえ壊れた自転車やテレビまである。

 破壊された窓から入った雨風が泥と枯葉を持ち運び、病院の絶対条件である清潔さは失われて久しかった。

 こうして見ると、いかに華の病室が綺麗に保たれているのかがわかる。

 一番端にあるとはいえ、ここまで辱められている他の場所を前にすると異様さが浮き彫りだった。

 京本は二〇一号室には近づかなかった。

 昼間は眠っているらしい幽霊だが、その眠りが完全なものであるかどうかはわからない。それに昔はあの病室にタカコ以外の幽霊が集まっていた。現在でもスガワラやナベシマが華を気にかけているのがわかっている以上、近づかないのが賢明だった。

「なにか残っているといいけど」

 独り言をつぶやいて京本が入ったのは事務室だった。

 中は外と同じで雨風で床が泥だらけになっていた。壁際に並んだ棚からはファイルや資料が散乱しており、荒らされたせいなのか自然に落ちたものかわからない。以前は綺麗に掃除されていただろう並んだデスクは砂埃で汚れきっている。他の階のナースステーションや診察室もそうだったが、金目の物であるパソコンやモニター等は全て持ち去られていた。めんどくさかったのか配線や事務用品はそのままになっているが、どのみち使い物にはならないだろう。

 まさに廃病院と呼ぶべき荒廃ぶりだった。

「……」

 京本は部屋の有様には何も言わず、散乱した紙媒体で残された資料を一つひとつ手に取り、無関係と思われる物をすべて残ったデスクの上に山積みにしていく。

病院の仕事について何も知らないが、十年前の資料など残っているものなのだろうか。

 事実、京本は手に取ったほとんどをちらりと中を見ただけで放り出していた。

 その顔には焦りが如実に表れており、ファイルが重なる度に険しくなっていく。

 俺は物に触ることが出来ない。京本もそれをわかっているから手伝いを頼んでくる様子はない。しかし入り口で馬鹿みたいに立っているのも据わりが悪いので、京本がまだ手を付けていない棚を眺める。どれも無関係そうな物ばかりか、何を意味しているのかわからないものしかない。そもそも勤務していた者がわかるように配置していたのか、背表紙に何も書かれていないファイルも多かった。ますます俺は、この部屋でも何の役にも立てなかった。だからと言って、京本に話しかける理由も思いつかない。

 背後で京本が苛立たし気に分厚い何かを置く音が響いた。

 しばらくした沈黙ののち、またハラりと紙を捲る擦れた音が聞こえだす。

 俺は突っ立ったままだ。

——マジで幽霊じゃねえかよ、俺。

 死んだすぐ後のことを思い出す。

 あの時の俺はなにもかもから解放された喜びしかなかった。クソったれな会社に行く必要もなく、クソったれな家族と別れ、クソったれな世の中に縛り付けられないで済む喜びに満ち満ちていた。誰にも気づかれない、咎められないのは最高に気持ちがよかった。

 生前は見ることが出来なかった映画やライブ。

 関係者以外は立ち入ることが許されない舞台裏やどこぞの一室。

 俺が横にいるにもかかわらず、あけすけに秘密を語り合う有名人たち。

 死んで初めて広がった世界を前に、自分が幽霊になったことを無邪気に喜んでいた。

 なのに今は、むしろ逆だった。

 死んだせいでここに閉じ込められた。

 死んだせいで知りたくもなかった他人の過去を知った。

 そして死んでも俺は、なにも出来ることがない。

「……駄目だ。やっぱりなにもない」

 漏れ出すような呟きに振りむく。

 京本は積み上げられたデスクの前で歯がゆそうに口元に手を当てていた。

 最初こそ丁寧に積み上げられた資料は、途中から崩れなければいいと乱雑になっている。

 京本はそれらに背を向け、腰をデスクに預けていた。

『なんもか?』

「……ええ。この病院はほぼ放置されているという話でしたから、何かしら残っていると思っていたんですけど、流石にカルテや記録は処分されてしまっているようです。他はほったらかしなのに、こんなところは徹底してるんですね。そもそも、もう紙では残していないかもしれませんけど」

 言葉遣いもファイルの山のようになっていた。

 口元に当てた人差し指が貧乏ゆすりみたいに上下している。

『そんなに前後関係が大事なのか?』

「当然です。出来事には必ず因果関係があります。この病院の場合は、タカコさんがどのタイミングで悪霊として留まったのかが重要なんです」

『順番とか関係ねえんじゃねえか? そういう幽霊なだけかもしれねえだろ』

「それは——そうかもしれないですけど……」

 何か言い返そうとしてやめる京本。

 焦りで冷静さを失っているように見えた。

 だが俺もなにを言えばいいのかわからない。俺は確かに幽霊だが、幽霊が何であるかは知りもしない。因果関係などと言われても、それが浄霊のなにに必要なのかもわからない。

 専門家である京本がわからないのに、俺が何か言えるはずもなかった。

 まだ棚にはファイルが残っているが、京本は見切りをつけているようだった。その棚を眺めていた俺が何も言わないからなのか、それとも諦めてしまっているのかはわからない。

 しばらくの間、俺達は黙っていた。

 昼が近づいているからか、外から場違いな蝉の合唱が聴こえてくる。

 明かりもない暗がりの中では、窓の向こう側は何か別世界のように見えた。

「……いったん出ましょう。もしかしたら他の部屋に何か残っているかもしれません」

 あまり期待していないのは声色からわかった。

 俺は黙って頷いた。


 結論から言えば、二階には何も手がかりとなるようなものはなかった。

 手術室は完全に荒らされており、当然だが十年前の痕跡などなにもない。

 薬品保管所や医療倉庫も空になっており、医者や看護師が使っていた宿直室や待機所なんかも探したが、過去に荒らした連中が残したゴミしかなかった。

 一階も似たようなもので、診療室のどこにも手がかりとなるようなものは残されていない。

 京本は二階の事務室を出てからずっと無言だった。淡々とすべての部屋を丁寧に見て回っていく。

 だが何も出ない事は覚悟していたのだろう。

 頼みの綱だったらしい医院長室がほぼ半壊状態だった時に、ようやく口を開いた。

「……いったん戻りましょうか」

『諦めんのか』

「もともと望み薄でした。ないものは仕方ありませんしね」

『……そうかよ』

 自嘲的な笑みを浮かべる京本を前にして、そんなことしか言えなかった。



 五〇一号室に戻るまでの間、気まずい沈黙が支配していた。

 京本は必死になって考え込んでいる。険しい目つきのまま、目線は足元に固定されていた。きっと頭の中ではタカコや他の幽霊達をどうやってジョウレイするのかで一杯なのだろう。この期に及んでまだ諦めていない。

 俺はそんな京本の前を歩いていた。行き先がわかっている以上、誰かの後ろをついて回りたくなかった。クソ共が残したゴミを乗り越えながら、黙って足を動かし続けた。

 だからなのかわからないが、四階へと階段を登り終えた時に、物音に気がついたのは俺だった。

『聞こえたか?』

「……はい?」

 聞こえなかったらしい。訝し気な返事が後ろから帰ってきた。

 俺は立ち止まって、廊下の先を睨みつける。階段はコの字の両端にある。物音が聴こえたのは病室からではなくその先からだった。この階は入院患者のための病室が廊下の片側に並んでおり、内側にはナースステーション、待合室と診療室しかない。そのどこかからだ。

「どうしました?」

『……昼間は他の霊は寝てんだよな』

「基本的にはそのはずです。幽霊にとって太陽光は強すぎるので、普通は暗がりの中で休眠状態に入ります。例外は目の前にいますけど」

 考え込んでいるうちに少しばかり調子を取り戻したらしい。

 とりあえず無視して声を潜める。

『物音が聞こえた。なんかが落ちた音だと思う』

「——確かなんですか?」

 すぐさま京本の声も落ちた。

 基本的とはいえ例外は俺自身だ。

他の幽霊が昼間に動かないという保証はない。

「……月森さんですかね」

『いや、それはないと思う。あいつは生きてる連中の気配がわかるような素振りだった。もし起きてるならとっくになんかしてるはずだ』

「じゃあ他の方たち?」

『わからねえ。バレたらヤバいか?』

「……月森さんとタカコさんならかなり。他の幽霊なら五分、だと思います」

『なんで五分だよ』

「まともに話せるのは月森さんだけなんでしょう? 自分の未練や感情以外の情報伝達ができる幽霊はほぼいません。緒方さん達が特別なんですよ。でも、ここは異常ですから」

 それは華も言っていた。

 ここでまともに話せるのは俺と華だけだと。

 しょっちゅう電話をかけてくる鍋島も無言だと言っていたし、友達だと断言したユウトも口をきいていない。肝試しの後の集会でも、華から一方的に話しかけるだけで返事をした幽霊は誰一人としていなかった。

 だが五分と言うのもわかる。

 万が一を無視することはできない。

「どうしますか? もしかしたら鳥とか鼠とかかも」

『かもしれねえ。この階にいるのは鍋島だけだったよな』

「緒方さんが月森さんに聞いた話では。でも集会にも使われているんですよね?」

『ああ。でも集まるのは肝試しの後だけだ。それ以外に連中がどこにいるのか、華もはっきりしたことは知らないらしい』

「……本当に聞こえたんですか? 気のせいではなく?」

 言われてからその可能性がよぎる。階段から突き当りまでは少し距離がある上に、物音は一度きり。それも手に取れるぐらいの軽い音だった。京本が窓を開けているせいで中庭越しにでも蝉の合唱は響き続けている。この騒音の中であんな音が聞こえるとは思えない。

『いや、確かに聞こえた。間違いねえ』

 嘘だ。本当は確信などなにもない。

 だがどうにも気のせいとは思えなかった。

『……俺が見てくる。お前はここにいろ。連中なら合図する』

 その合図が何であるか決める前に、京本を階段に残して廊下の先に進む。

 太陽がてっぺんにのぼる時刻。中庭が見える窓から差し込む陽射しのおかげで視界はいい。だが突き当りを目指すにつれ、その曲がり角がどうにも不気味に見えた。近づいていけばいくほど歩みは慎重なものになり、覗ける位置に来る頃にはほとんどすり足だった。

『……』

 恐るおそる、角からナースステーション兼待合所をのぞき込む。

 待合室には誰もいない。

 並んだ椅子に座る幽霊はおらず、壁際に菅原が立っているわけでもなかった。

 隅にユウトが座り込んでいる様子もない。

俺は角から身体を出して、今度はナースステーションの中をうかがう。

 しかしやはり、そこにも誰もいなかった。

『鍋島?』

 一応、声をかけてみる。

 返事はない。

 華にすら無言電話をかけまくるだけなので、俺に返事をするわけもないのだが。

『誰もいねえな』

 やはり気のせいだったのだろうか。これといって異変があるわけでもない。幽霊が多数住みこんでいるといってもここは廃病院だ。京本が窓を開ければ鳥も蟲も入り放題である。何かしらの生き物が何某かにぶつかっただけなのかもしれない。

 京本に当てられて気が急いていたのだろうか。

 こうなると階段に残した京本に報告するのもバツが悪い。

『……あ?』

 念のためナースステーションに入って四隅を確認していると、古ぼけたノートが一冊落ちていた。こんなものあっただろうか。京本が塩撒きで歩き回っていた時にはなかったような気がする。キャビネットの引き戸が僅かに開いている。ここから落ちたらしい。

 周りを改めて見回す。

 やはり幽霊は影も形もない。

 引き戸の開き具合から、鼠が入り込んだのだろうか。餌だの寝床だのを探してここを開けた? わざわざこの階まで上がって?

確かに京本が病院内に残った資料を探したのは今日のことで、それは事務所などがある二階と一階だけだ。五階から三階まではジョウレイの下準備でしか回っていない。手つかずといえば手つかずである。

 落ち方が悪くノートは裏表紙で、それが何のノートであるかは判別できない。

 中身を確認するには京本を呼ぶしかなかった。


「これですか?」

 幽霊がいないことを伝え、再度ナースステーションに戻ってくる。

 俺の目だけでは不安だったので辺りを確認させたが、幽霊の気配はないらしい。

 だが京本は警戒するようにノートを見下ろして、なかなか触ろうとはしなかった。

『どうした。早く拾えよ』

「いえ、それはそうなんですけど……」

 その険しい視線を追うと、どうやらノートではなくキャビネットを気にしているようだった。

『なんだよ。何か感じるのか?』

「なにも感じません」

『ならなんだ』

「……それ、鼠が開けたかもしれないんですよね?」

『かもしれないってだけだ。連中はいないんだろ?』

「ええ」

『だったら早く拾えよ。何か手掛かりがあるかもしれねえだろ』

 そこまで急かしてようやく京本は踏ん切りをつけたらしい。意を決したように一息つくと、俺のすり足よりもゆっくりと腰を下ろしていく。そして恐るおそる手を伸ばし、まるで床からひったくるようにしてノートを拾い上げた。

「ふう」

『……なんで、そんなに警戒したんだよ』

「いえ、もし中から鼠が跳び出して来たらビックリするじゃないですか」

『鼠にビビってたのか?』

 幽霊は怖がらないのに?

 そんな俺の心の声は丸聞こえだったらしい。

 ふて腐れたように俺を睨むと、ノートを裏返し目を見開いた。

「これ、医療日誌ですよ。医療実習生の」

『てことはお前……いつのだ?』

「待ってください。確認します」

 声のトーンが一段階上がる。若干上ずってすらいた。破らないように丁寧にページをめくっていく。

「十年前です! かなり熱心な人だったみたいですよ。びっしりと書かれています」

 興奮している京本を横目に、実習日誌とやらをのぞき込む。

 京本の言う通りほとんどの空白を埋めるように文字が書かれていた。

 日付、目標、業務内容や反省点、研究事項や指導事項が、自己評価も含めて余すところなく書き込まれている。担当した医者だか看護師だかのコメントも呼応するように熱心で長い。何度も自分で読み返していたのか、ところどころ文字が判別できないほど掠れていた。判別できる部分を読むに、患者とのやり取りや介護について書かれているようだった。

 これを書いたのは医大生だろうから、俺とほとんど同じ年の誰かに違いない。俺がクソ上司に書かされた反省文とはまるで違った。クソ上司は提出させるくせにほとんど読みすらしなかったし、コメントなんて上等な作業をしたことがない。環境が違えば提出文もここまで反応が違うのかと苦々しく感じる。

 ようやく見つけた手掛かりに、京本はまるで宝の山でも見つけたようにして見入っている。

 だが内容に夢中になって気がついていない部分に目が留まった。

『ここ見ろ。実習先がこことは違う病院だぞ』

 ページを捲ろうとした手を止めて、日誌の一番左上を指さす。

 日付の横に書かれている実習先は、K病院ではなくT病院とあった。

「……本当ですね。でもじゃあなんでこの病院にあるんでしょう」

『知らねえよ。この病院の奴が他所に行ったんじゃねえか?』

「待ってください。確かめます」

 次々と先へ進んでいく京本。

 びっしりと書き込んでいるせいか、ノートは古いだけでは説明できないほど紙がたわんでいる。

 どんどん捲っても日誌が終わっていない所を見るに、医大生の実習はかなりの長期間にわたって行われているようだった。

 ある程度進んだところで、またも京本が興奮を隠し切れない様子で声をあげた。

「見てください! 実習先が変わっています! 医療実習はいろんな病院にいく事になっているんですよ!」

『ならここはもっと先かもな。ここにあるなら最後だろ』

「その通りかもしれません」

 雑誌で目的の漫画を探すみたいにパラパラとページをめくっていく。

 次に京本の手が止まったのは日誌も後半に差し掛かった頃だった。

「ありました! K病院です!」

 その頃には実習にも慣れてきたのか、前半と比べて空白の部分が増えていた。自己評価も高い位置で落ち着いている。業務内容や反省点も確認点の洗い出しばかりになっていて、担当者からのコメントもほとんど労いになっていた。あまりいい人間が担当しなかったらしい。前半のそれと比べても素っ気なかった。

「……」

 一変して緊張感が出始める。

 棚からぼた餅ではないが、降ってわいたようなチャンスだ。

京本は文字の一つたりとも見逃さないと言わんばかりに一文一文に目を通していく。

 俺も隣に立って過去の記録を覗き見ていく。

 ……正直、まったく意味がわからなかった。

 前半と比べて実習の内容が変わっている。介護や患者とのやり取りから病気の症状についてばかりだ。医学用語が多すぎて言葉の半分も理解できない。辛うじて知っていたのは血小板だの糖尿病だの、日常生活でも耳にする機会がある言葉ぐらい。アルファベットでの略語も多いうえに、ノートの劣化が激しく消えているところも多かった。実習が進んで熱意が治まってきたのだろうか、筆圧も軽くなっているのが読みづらさに拍車をかけている。

 患者の名前も書いていないから、これらが誰の病気なのかもわからない。患者の症状についても具体的に記述されてるが、ここの幽霊共と照らし合わせるなど不可能だ。これはあくまで生者の記録であり、死者に病気もなにもない。せいぜい糖尿病が菅原なのではと、曖昧な予想ぐらいしか判断できることがなかった。

 しかし京本に諦める様子もなく、時間をかけて読み進めていく。

 緻密に書かれていた日誌も精彩を欠き、この日誌を書いた者が実習を流し始めたのが読み取れ始める。担当も特に咎める様子もなく、コメントも似たようなものばかりだ。京本が調べた新聞によるとこの病院はかなり杜撰で悪質だったらしい。実習生もその空気に当てられたのかもしれない。華は医者や看護師、入院患者には良くしてもらったと言っていたが、現場の裏側は違っていたのだろうか。

「——」

 恐怖が京本を襲い始めたのがわかった。

 ページをどんどん捲っても、内情がわかるものは何もない。京本がこだわるタカコについての情報が何もないのだ。華や他の幽霊達のことすら書かれていないまま、二週間分が過ぎてしまう。指先に力が入り、ページの端に皺が出来た。もしかするとこの日誌にも何一つ手がかりがないのではないかという焦りが現れていた。

 そして最後の実習日が終わり、次のページからは白紙のままのそれが拡がった。

「……終わり?」

 ページをめくる。

 なにもない。

 ページをめくる。

 なにもない。

 ページをめくる。

 なにもない。

「……なんだよ、それ」

 呆然と呟く。

 期待を裏切られたからか、京本は日誌を開いたまま動かない。

 頼みの綱だと思われていた物が、結局のところなんでもなかったのだ。

 失望感は俺にも理解できた。

「……戻りましょうか。そんな都合よくはなかったようです」

『いや、待て』

 しかし俺には、どうにも引っかかるところがあった。

 それは偶然、当時の医療実習生の日誌が出てきたことではない。

 内容に幽霊達と繋がる何かを見つけたわけでもなかった。

「なんです? 緒方さんにはわかる部分があったんですか?」

 当てが外れて語気が乱れていた。

 無視して指示をする。

『最初の方にページを戻せ。K病院からじゃなくて実習の最初からだ』

「どうしてですか? 関係ないところですよ?」

『いいから』

 有無を言わせぬように伝えると、黙ってページを前半まで戻す。

 まだ実習内容が病状や診断についてではなく、実際の現場の様子がメインだった頃にさかのぼる。K病院時とは違いページすべてを埋め尽くさんばかりに書き込まれている。筆圧も強く、どちらかといえば感情的な反省点や医療従事者としての意識づけなどに文章は注力している。一目で書き手が、立派な医者の将来を志していると俺にでも読み取れる文章だ。担当のコメントもつられたように熱心である。

『次の実習先まで進めろ』

 数日分読んでから、またそう指示する。

「いったいどうしたんですか。何かあるなら教えてください」

『いいから早くしろ。次からは数日分飛ばしでめくっていい』

 京本は不承不承と言わんばかりに鼻を鳴らしてからページをパラパラめくる。

 内容には多少の変化はある。医療従事者として意識付けから具体的な現場での対応や判断が増えている。医者に同行しての診察や治療に実習が移行していた。

 次の実習先でも書いた者の熱意はあまり変わっていない。むしろ増しているようにも思えた。入院患者への対応から実際の医療に関わり始めて、本格的な医者としての一歩を踏み出した興奮が伝わってくる。日を追うごとに違う発見や学びを得ている実感のようなものがある。だからか、反省点も可能な限り重ならないようにしているのがわかった。書くのに慣れてきて読み返す作業も減っているのか、日を追うごとにページの傷み具合や文字の掠れ方がマシになってきていた。読み取れる部分が最初の方に比べてかなり多い。

『K病院に戻れ。他はもういい』

 もう京本は何の反応も見せずに従う。

『ここからは一日おきにしろ』

 実習が進んで、もう俺の理解できることはほとんどない。専門用語のオンパレード。現場研修というより研究内容の報告みたいだ。

だがそんなことはどうでもよかった。

 俺が気になったのは、書かれた文字から受けた印象だった。

 書かれている文字が、K病院に来てから明らかに変化していた。こうして比べるように意識して読んでみると、その変化が如実に伝わってくる。前半の文字に比べて筆圧がかなり弱い。専門性が上がり、実習内容が難しくなったからではない。それならただ淡々とした印象を受けるだけだろう。しかしそうとは言えない感覚があった。そしてそれはある日を境に顕著になって、そしてまた強くなっていく。

 最初に読んだ時に感じた、実習を流したような手抜き感。

 あらためて読み直すと、けっしてやる気をなくしたわけではなかったようだ。

『なあ、K病院になってから字が変になってねえか?』

「変? どのあたりですか? 最初ほど熱心ではないようですけど」

『それもそうだけどよ。変に歪んでるところが多いだろ。ほら、この辺りとか特に』

 指さしたのは反省点の箇所。

 診断の根拠についての部分だ。

 外傷を負った患者についての記述が、僅かに歪み他よりもさらに筆圧が弱い。

「……確かにそう言われればそうかもしれません。でもそれがどうしました? 見たところ裂傷についてですよね。かなり大きな怪我みたいですし、ショックだっただけかもしれません。三十四針も縫うような怪我ならかなりのものなのでは?」

『いや、大怪我なら最初の実習先でもあった。看護師が包帯を取り換えたところを見てた時があっただろ。その時は別に変じゃなかった。傷が開いてかなり出血してたのにだ』

「でもそれは処置を見てたからだけなのでは? 実際に自分で診断するのはまた別かも」

『ここの前にも似たような怪我を処置したことがあった。その時はちゃんと反省文も書いてた。でもK病院になってから明らかに字が歪みだしてる。それも十八日、ここで実習が始まって四日経ってからだ。それまでは変わってねえ。読み返してみろ』

 そう言うと京本は慌ててページを戻して読み直す。

「本当ですね。てっきり実習に慣れて適当になったか、この病院が肌に合ってなかったからだと思ってました。潰れる前からあまり評判は良くなかったそうでしたから」

 感心したように言う。

 第一印象は同じだったようだ。

『なんとなくだけどよ。これ書いた奴、なんかビビってねえか?』

「ビビってる?」

 意味がわからない、と京本は眉を顰める。

『途中までは一文一文が長かっただろ。反省点とか特にそうだ。事実と原因、反省、今後の対応策を全部書いてた。なのにここに来て四日目から明らかに短くなってるし、曖昧になってる。良かったと思うとか、できたと思うとか。ここもだ——もっと集中しなければならない、こんな感想前半にはなかった。でも妙に筆圧は強いだろ』

 心構えについては前半部分にもあった。しかし前半では、する、とか、だ、とか、断定的な語尾だけだった。なのにここに来てからは、まるで自分を鼓舞するか、戒めるような言葉遣いに変わっている。しかもその部分だけやけに強調するように、繰り返し何度も。

『それに空白のつき方も気になる。数か月以上の実習期間で反省欄に空白が多いのはここの十八日からだ。そんな急に変わるか?』

「書くことがなくなっただけかもしれませんよ?」

『それにしては書きだしは左上から詰めてるだろ。しかもそれ以前よりずっと細かくなってる。ふつう書くことなくなったら文字はデカくして空白を埋めようとしねえか? あと詰めて書くより余裕を持たせて書いた方が欄は埋まるじゃねえか。わざわざ空白が目立つようにはしねえだろ。印象が悪くなるだけだ。なのにそうしねえのは、少なくともこいつは毎回ちゃんと書こうとは思ってたってことなんじゃねえか?』

 そしてそれは日を追うごとに酷くなっていた。実習の後半なんかはやる気がないと思われてもおかしくないほどだ。誤字も増えて訂正する斜線も多くなっている。やる気と感情があべこべで、実習生が不安定になっているような印象を覚えた。

 しかし今度は京本の反応は鈍い。

 ピンと来ていないのか、首を傾げながら件の反省欄を凝視している。

『……なんだよ。間違ってるか?』

「いえ、そうやって誤魔化した事がないので、そんな発想があるのかと」

『……そうかよ』

 どこまでも憎たらしい奴だ。

「いえ、理解はできます。でもビビってるというのはどういうことでしょう」

『あ? だからなんとなくだって。医大生みてえなエリートがこんな俺でも下手だとわかる反省文を書くのかよって思っただけだ。字は乱れてるし、真面目に書こうとして失敗してるし、誤字は多い。絶対なんか変だろ』

 正直なところ、俺が日誌に感じた違和感はそれぐらいだ。

 クソ金が掛かり、クソ面倒な勉強をしてようやくなれるかどうかの医者を目指すような奴だ。それにこいつはモチベもかなり高かった。それがこんな雑な実習日誌を書くだろうか。集中できない理由はいくらでもあるだろうが、それにしては変化が急すぎるし、誤魔化しきれないのはビビってるからなのではと思っただけだった。

 京本はタカコや他の幽霊に繋がる出来事ばかりに意識を割いていたせいか、書き手の心情にまで気を配っていなかったらしい。

俺が言いたいことを言い終えると、自分でも確かめるように何度もページをめくり返し読み直していく。

「——緒方さんの言う通り自己反省がかなり多くなってる。でも病院側は何も触れてない。現場での具体的な指示ばかりで、他の病院にあった心構えの注意が一切ない。ほとんど箇条書き。この人は自分の状態を伝えてるのに無視するなんてあるのか?」

 日誌を両手で持っているせいで両手が塞がれているせいか、考え込む時にする口元に手を当てる動作が出来ない。僅かに唇が突き出ている。視線はページ内を行ったり来たりしていた。俺の感想から新たに読み取れることを探しているようだった。

「緒方さん、月森さんは何か病院に不満があるような事を言っていましたか? 看護師さんが不親切とか、お医者さんが適当だったとか」

『いや、そんなことは言ってなかった。むしろアイドル扱いだったらしい。親身過ぎってちょっとウザかったってよ』

「……現場の人達は普通だった。なら何かあったのは入院患者とは関係ないところなのか? 実習生が関わる範囲で、十七日を境にここまで変わる出来事。医療事故の隠蔽? なら受け入れなんて……これが最初だったから? いや、それなら大学か警察に報告してもおかしくない。つまりそれでも実習を続けようとしたのは、そもそもこの人にとって訴える理由ではなかったから? もしくは、病院と実習生で認識が違うから?」

 華の言葉を信じて現場の人間がまともだと考えた場合、実習生のメンタルがおかしくなっていたならフォローの一つでも入れるだろう。

俺がいたようなクソ会社なら追い打ちをかけて終わりだが、大金をかけた真面目な学生を適当に潰すとは思えない。

隠蔽をするぐらいなのだから、経営者は評判を気にしていたはずだ。

その妙なズレが違和感して大きくなる。

「タカコさんの見た目をもう一度、教えていただけますか?」

『髪は長くて傷んでる。かなり痩せてて両手の爪が割れてる。着てる服は白のワンピースで、腹の部分から血で染まって——おい、もしかして』

「はい。この人が裂傷にトラウマを抱えた理由と関係があるかもしれません。私服を着ているということは、タカコさんが入院患者ではなく緊急搬送された可能性があります。そしてそのまま亡くなった。この人はその現場に立ち会ったのかもしれません」

『……殺人か?』

「悪霊になるほどです。その可能性は高いでしょう」

『なら病院側に反応がないのはなんでなんだ? それこそメンタルケア案件だろ』

「この人が現場に立ち会った事が病院側の過失だったのかもしれません。当時の新聞ではこの病院の経営者はそれなりの権力を持っていたそうですし、隠蔽に学生が抗えるとも思えません。もしくはタカコさんの件を知っているのは病院内でも少数で、実習生の担当はその一人だったのかも。その人も隠蔽に加担していたなら、この対応も納得できます」

 京本の推理を聞いて、途端にこの日誌が実習生の悲鳴のように見えた。

もし京本の仮説が当たっていたのなら、こいつはとんだ災難に巻き込まれたことになる。

本当に隠蔽が行われ、圧力のようなものが実習生にかけられたとしたのなら、実習初めの情熱を持った文章を見るに、失望やら無力感やらで心がめちゃめちゃになったのは簡単に想像できる。

 クソは社会の底辺だけにいるわけじゃない。

 どんなところでも、クソみたいな奴らが幅を利かせやがるんだ。

『……でも待てよ。仮にそれが本当だったとしてよ。ならなんでタカコはここにいるんだ? 病院の過失なんて死ぬ寸前の人間にわかるわけねえし、自分を殺した奴の所にいけばいいだろ。お前がさんざん言ってたことじゃねえか』

 そう尋ねると、京本は病院への嫌悪感からか固く結ばれていた唇を解き、どこか憐れむように眉が垂れ下がった。

「妊娠していたのかもしれません」

『——は? 妊娠?』

 あまりにタカコと妊娠とが繋がらなくて、馬鹿みたいに口を開けてしまう。

「幽霊としてこの世に留まる女性の内、妊娠した赤ん坊を産めなかった事が未練となる方たちはいます。その方々は自分の子供を求めたり、罪悪感や謝意で満ちていることがあるそうです。僕はまだ出会ったことはありませんが、そういった——事例、があると家に伝わる資料にありました。タカコさんもその一人なのだと思います」

『でも華は十歳だぞ。自分の子供がいた方が筋が通るんじゃねえか?』

「それならその子供に憑りつくはずです。タカコさんはおそらく、妊娠中に襲われてしまった。そのせいで産むことが出来なかった。絶望と怒りで悪霊化し、同時期にこの病院で亡くなった月森さんに自分の子供を見たんだと思います。だから彼女の魂を閉じ込めた。これなら色々と納得できます。外には出るのに病院に留まるのも、月森さんには悪霊に見えないのも、この日誌を書いた人がショックを受けたのも、説明がつくんです」

『なら他の幽霊がいる理由は? 佐藤のじいさんとか看護師の鍋島は? 全然関係ねえじゃねえか。閉じ込めるなら華一人でいいはずだ』

「月森さんには優しいお姉さんでも、他の人には悪霊です。相次いだ医療事故はタカコさんが起こしたんだと思います。そして亡くなった人の魂もこの病院に閉じ込めた。家族を用意したつもりだったのかもしれません。それなら魂を穢し切らずに留めておく理由になります。だから何も感じなかったんです。月森さんが言った気を遣っているというのは、このことを指していたんですよ。他の幽霊が月森さんを気に掛ける行動をとるのも、タカコさんの影響を強く受けているからです。前に言いましたよね、魂は他の魂の影響を受けてしまうと。ある意味で、ここの幽霊はみんなタカコさんに操られているわけです」

『外から来た霊が俺だけなのはなんでだ? 外に出て誰かを殺してるなら、そいつを連れてきてもいいだろ』

「人を脅かすようになったのは華さんがきっかけです。ならタカコさんにとって外の人達は華さんをおびやかす敵でしかありません。病院にまで連れて来る道理はないんです。緒方さんが閉じ込めれたのは幽霊だからでしょう。華さんは仲間を欲している。そして幽霊にとって仲間は幽霊しかいません。なぜなら生者と死者は、まるで違うモノなんですから」

『けどな……』

 どうにも納得しきれず、しかし反論も思いつかない。

 一方で京本は、すでに自分の考えに確信を持っているようだった。



 そこからの京本の行動は迅速だった。

 まず五〇一号室に戻り置いてきた鞄を引っ掴むと、中から大量の塩の入った袋と金みたいに留められた札、そして線香を取り出した。

そしてすぐさま病室を跳び出すと、すでに配置していた盛り塩に追加でなにかを施していった。

とてもリラックス目的とは思えない真剣な表情に、なにが始まるのかがわかった。

『今日するのか?』

「いえ、浄霊は明日に執り行うことにします。もちろん今日にしたいですけど、失敗はできません。あの二人を救うためにも、絶対に成功させなければなりませんから」

 明日までバレないようにする為の工夫なのか、塩や線香はゴミの影や下に隠され札は窓の外側や椅子の下など、幽霊達には気づかれないように配置されている。

 一部のミスも許されないと、今度は自分で作った地図と準備とを照らし合わせながら京本が淡々と答える。本当に指さし確認をする人間を初めて見た。

『誰からやるんだ? やっぱりタカコからするのか?』

「そこは予定通り、他の幽霊から始めようと思います。彼らが不本意に閉じ込められているというなら、僕の言葉は伝わりやすいでしょう。少なくともタカコさんと対峙するときに邪魔されないようにはできます」

『……華はどうすんだよ。夜はアイツも起きてるだろ』

「二〇一号室には明日、簡易的な封印を施します。それで時間を稼ぐつもりです。月森さんも強力な力を持っていますが、タカコさんを浄霊できれば何とかなります」

 京本の中では明日にジョウレイを行うのは決定事項になっていた。もう頭の中ではすべての段取りが組み上げられているのだろう。あるいは以前からずっと、始まった時の事を考えていたに違いない。それほど動きに迷いがなく、返事は流暢だった。

 しかし俺は、どうにもまだもやもやとした感覚が消せないでいた。

 京本の推測は正しいように思える。

 説明されたどれにも、否定できる材料が俺にはない。甘ちゃんで高校生の京本だが、しかしこいつは曲がりにも専門家で本物の霊能力者だ。その京本が自信をもっているのなら、何者でもない俺に異を唱えることなどできない。

 それでも消化しきれないのは、他の霊がタカコに操られていると言ったところだ。

 たしかに、いくらアイドル扱いで可愛がられたとはいえ、連中にとって華はただの他人だ。死んで残る理由にはならないだろう。他人の子供を理由にするぐらいなら、自分の家族や友人の方がよほど理由になる。鍋島も看護師なら、きっと少なからず目の前で死んだ人間もいただろう。華だけが特別になどならない。それがタカコによって囚われているというのなら、こんなにも多くの霊が残っているのも理解できる。生前は仲が良かったユウトが口もきかなくなったのも、タカコのせいなのかもしれない。

 しかし俺は、華を気に掛ける幽霊達をこの目で見ている。

 あれが本当に操られている人間の姿なのだろうか。

 そして俺は、どうしてこうも考えずにはいられないのだろうか。

「——では、見送りはここで大丈夫です」

 そんな言葉に我に返ると、いつの間にか一階のロビーに来ていた。

 京本は玄関の扉を半分開けながらこちらに振り返っている。

 陽が傾き始め、駐車場に面した雑木林に隠れたからだろう。ほんのりと外は陰っており、夕方を迎えようとしている。いくら夏とは言え、ここまで外の様子が変わっているのだ。思ったより時間が経っていたらしい。

『……ああ』

「ようやく緒方さんの望み通りになりますね。お待たせしました」

『あ? なんのだよ』

 なんのことだかわからなくてそう聞き返す。

 京本も不思議そうな顔をした。

「なにって、ここから早く出たがってたじゃないですか。肝試しが次にいつあるわかりませんし、その時は完全にタカコさんに取り込まれてしまうかもしれません。でしょう?」

 そう言って京本は病院から出て行った。

 俺は暗い廃病院の中に戻った。



『おはよー。オガタおきてる?』

 なにをする気にもなれず、俺は五〇一号室に戻っていた。

外はすっかり暗くなっていて、もう寝てしまおうかと寝転がった矢先だった。

 のんきな声とノックの音とともに、華がやってきた。

 どうやら、俺達が散々院内を歩き回ったことには気がついていないようだ。

えらく上機嫌で、違和感を覚えている様子はない。

『……起きてる』

 億劫だったので寝転がったまま、片手を上げる。

 それをどう受け取ったのかは知らないが、華はなぜだか嬉しそうに笑った。

シャボン玉みたいに揺れながら入ってくると、ご丁寧に扉は手を使って閉めた。

そのまま寄ってくる。

『いま起きたの?』

『……まあ、そんなとこだな』

 チョイとベッドに跳び上がり、俺のすぐ隣に腰を下ろす。

半回転しながら座ったから、小さな背中がこっちを向いた。

『あたしもさっき起きたんだけどね。なんか今日ちょっといい日って感じしない?』

『んだそれ』

『うーん、なんて言ったらいいんだろ。夜に雨がふった後の朝みたいな? すずしくて、ねむくて、おきたい感じ』

 やたらとご機嫌な正体はそれか。

『なんだそれ』

『わかんない? 草とか土のニオイがして、めいいっぱいすうと元気よくねむれるんだよ』

『どっちだよ。起きてぇのか寝てぇのか』

『どっちもなんだってば。オガタはなにも感じない?』

『臭いなんて、死んでから一度も感じたことねえよ』

 タカコの死臭を除けばだが。

『そっか、じゃあ気のせいなのかな』

 それがどうであろうと、別にどちらでもいいらしい。

俺の返事をあっさり華は受け入れた。

まだ愉しげに脚でリズムを取っている。

拍子抜けといえば拍子抜けだが、どうでもいいのでその話題を続けることはしない。

 もしかすると、京本の仕掛けが効いているのかもしれなかった。

だとすればなおさら、意識が外れるのは好都合だった。

『ふんふーん、ふんふふーん……』

 挨拶もそこそこに、聴いたこともない鼻歌を奏で始めた。

なにか話しだすわけでもなく、背を向けたままだ。

『……なんか用があるんじゃねえのか?』

『え? うぅん? べつにないよ?』

 正体不明のリズムにノっていた首が止まる。

『じゃあなんで来たんだよ』

『なんでって、なんとなく? ダメだった?』

『……別に、駄目じゃねえよ』

『ほんと? ならよかった!』

 また首が鼻歌と共に揺れ出す。

 本当に何もないらしい。

 意味がわからない。

 だが用がないなら好都合だ。

 目を瞑り暗闇の中に身を浸す。

『……』

『ふふふーん。ふんふん、ふんふーん』

『……』

『ふんふーん。ふんふーん。ふんふふふんふーん』

『なあ』

『ふんふ——え? なに?』

『それ、なんの曲だよ』

『なんだっけ、忘れちゃった。よく聴いてたんだけどなーなんだっけー……』

 腕を組んでうんうん唸り始める。

 これで多少は静かになるだろう。

 思い出したら思い出したで、意味なくダラダラされることもない。

 思い出さなければほっとくだけだ。

『ねーオガター』

『もう思い出したのか?』

『オガタはさー死んじゃってよかった?』

 まるで天気予報で雨が降ると言われた日に、傘を持ってきたのか尋ねるようだった。

 しかし唐突に訊かれたのは、とても子供の口から発せられるとは思えないモノ。

 思わず目を開けて様子を伺う。

 首は揺れてはいなかった。

『なんだよ急に。曲を思い出してたんじゃねえのかよ』

『そうしてたんだけど、そしたらお父さんとお母さんのこと思い出しちゃって。いまなにしてんのかなーって。だから聞きたくなったの』

『……まあ、マシにはなったな』

 どう答えるべきかわからず、都合の良さそうな返事をした。

『そっか、だよね』

『それを聞きに来たのか?』

『うぅうん? それはほんとになんとなく。思い出しちゃっただけ』

 声色には特におかしな様子はない。。

 本当に何の気なく口にしただけなのだろう。

 あるいは京本の仕掛けが本当に効いて、未練だの感情だのが引き出されているのかもしれない。

あいつがやっているのはまともに会話が出来なくなった幽霊と話すための準備だ。

理性が残っている華には他の連中以上の効果があるのかもしれない。

 なんとかなると言っていたのは嘘ではなかったのか。

『あたしのお父さんとお母さんってさ、まだあたしのこと覚えてるかな』

『……自分の子供のことを忘れる親なんていねえんじゃねえの?』

『まだ悲しんでると思う? まだ泣いてるのかな』

『見てたのか?』

『うん。お医者さんに連れてかれるまでずっと。ごめんねって、ずっとあやまってた』

 まただ。

 また鉛玉が喉の奥を落ちていく。

 だが今回は少し違う。

 それは酷く冷たかった。

『お前、死んだときのこと覚えてるか?』

 だからだろう。

相手が子供であるにもかかわらず、そんなことが簡単に聞けた。

『……あんまりその話はしたくない』

 声が一気に硬くなる。

 構わず続けた。

『教えろよ。俺は交通事故で死んだ。死んですぐに幽霊だった。お前はどうなんだ?』

 華はそれにすぐには答えなかった。

 ただ黙って前を見つめている。

 俺もなぜこんなことを聞いているのかわからない。

 だがこの冷たさから逃れるためには必要な事だと思ったのだ。

 こいつはただの敵だと、そう思い出せるように。

『……最初はよくわかんなかった。大きな手術が決まって、絶対に治るからってお医者さんが言ってた』

 しばらく経ってから、ポツリと呟くように華は話し始めた。

『お父さんとお母さんもそう。必死に笑ってた。絶対治るって、修学旅行にも行けるし、中学校にだって行ける。これからは好きなところにいって、好きなことが出来るようになるって、もう大丈夫だって、そう言ってた』

 もう鼻歌を歌っていた時のような弾んだ声ではなかった。

『でも、そうじゃなかった。失敗したってお医者さんがお父さんたちに言ってた。泣いてるお父さんたちをナベシマさんがなぐさめてた。あたしはお父さんたちの目の前にいたのに、ぜんぜん気づいてくれなかった。どれだけ泣いても、大声で呼んでも、ぜんぜん……』

 声は震えていても泣きはしなかった。

 もう涙も枯れ果てているのだろう。

 幾度となく思い出していたに違いない。

『ほんとにこわかった。だれもあたしに気づいてくれない。あんなに仲良くしてたユウト君も、毎日アメをくれたスガワラさんも、色んな話をしてくれたナベシマさんも、みんなあたしに気づいてくれなかった。その時にわかったの。あたしは幽霊になったんだって、ひとりぼっちになったんだって』

 前を向いているから、顔は見えない。

 だがいつかの、手を振り払った時のくしゃくしゃな顔を思い出した。

『そしたらタカコさんがやってきてくれたの。最初は同じだって気づかなかったけど、みんなタカコさんに気づかなかったからわかった。手を取ってあの部屋にあたしを連れて帰ってくれた。ずっと頭をなでてくれた』

 華の声に喜びが宿る。

 その出会いは華にとってはなによりも救いだったのだ。

『でもやっぱりさみしくて、ずっと泣いてた。タカコさんは一緒にいてくれたけど、やっぱりみんなに気づいてもらえないのはさみしかった。どれぐらい泣いてたのかは忘れちゃった。ずっと泣いて泣いて、泣くのにもつかれちゃったときに、みんなが戻ってきてくれてたの。いつの間にかひとりぼっちじゃなくなってた。仲間がいっぱいいたんだ』

 それからは俺の知っている華の過去だった。

 病院は倒産し廃棄された。

 誰もいなくなった廃病院に華達は残り続け、若者たちのたまり場になってから、有名心霊スポットへと変わった。

 そして俺が、この廃病院にやってきた。

『生きてた時はほんとに苦しかった。心臓の病気だってお医者さんが言ってた。だから運動もできなかったし、遊びに行くこともあんまりできなかった。学校の同じ年のみんなが出来るふつうの生活ができなくて、あたしはその時もひとりぼっちだったの。でも今はそうじゃない。タカコさんもいるし、みんなもいる。もう発作は起きないし、色んなことが出来るようになった』

 そこでようやく華は振り返った。

 それはやはり俺の知らない顔で、なぜかわからないが笑顔だった。

『でもね、それでも一番うれしかったのは、オガタが来てくれたことなんだよ?』

『……なんでだよ』

『だって、オガタは死んじゃってから話せるたった一人の人だから。どうしてかわかんないけど、幽霊になるとみんなふつうに話せなくなるし、一緒にはいてくれるけど、みんなとは違うんだって思ってた。でもオガタはこうして話せるでしょ? 同じなのはやっぱり嬉しいよ』

 だからずっといようね、そう言って華はまた前を向いた。

 俺はそれに返す言葉を見つけられなかった。

 聞かなければよかったと後悔していた。

 考えてみれば誰にでもわかる話だ。

 年端もいかない少女が幽霊となって残り続けている、それがどんなことなのか。

 病院が潰れたのは今から十年前。

 俺が来るまでの十年間、華がどんな時間を過ごしたのか、考えなくてもわかるはずだった。

 だが本人の口から直接聞いてしまったら、言葉だけではない重みまで受け取ってしまう。

 それをいま、俺は初めて知った。

 誰かの想いを知る、それがどんなものなのか、俺は死んで初めて知った。

 知らなければ良かったと、そこまで考えてまた後悔した。

 死んでも俺は、それにどうすればいいのかわからなかった。



『……なに勝手に入ってきてんだよ』

 しばらくまた鼻歌を歌っていた華が、眠たくなってきたと二〇一号室に帰った後だった。

 反対側のベッドにユウトが座っていた。

 相変わらずの青白い無表情の顔で、真っ直ぐ俺を見ている。

『お前、なんで死んだんだよ。病気か?』

『……』

『タカコにやられたのか? お前もあいつに閉じ込められてんのか?』

『……』

『なんで華と話してやらねえんだよ。友達だったんだろ?』

『……』

『マジで何がしてえんだよ。嫌がらせかよ』

 実家の仏間にある遺影を思い出す。

 なにも言わず、しかし視線だけはずっと合う。

 俺はあの遺影が死ぬほど嫌いだった。

 どうして睨んでいる写真を残したのか。真面目な表情で良かったはずだ。

子供の頃は今にも動きだしそうで、泣いている俺をさらに叱責しそうで嫌だった。

 ユウトもそうだ。

 身動き一つせず子供らしくない無表情。

 膝を抱えて座り顔がやや俯いているから、文句の一つでもありそうにしか見えない。

『もう話す脳味噌も残ってねえってか。あ? それが本物の幽霊ってか? そうやって人様を逆撫でするのがお前の未練だってのかよ。だったら一生そうやってろ!』

 咄嗟に枕を引っ掴んで投げつけてやろうとしたが、ピタリと張りついて動かなかった。

 舌打ちをして視線を外す。

 まだ柔らかさを保った腕枕に頭を預けて寝転がる。

 それでも寝心地は最悪だった。

『……クソが』

 そう吐きだそうが気分がすぐれることはなかった。

 むしろ余計に悪くなる一方だった。

 こいつらなんてどうでもいいはずだ。

 未練だの感情だの、それはこいつらの問題だ。

 華の想いなど、俺には無関係のはずなんだ。

 京本がジョウレイできるというならそれでいいはずだ。

 それでなにも問題ない。

 こいつらは消えて、俺は出て行く。

 それが正しいことだ。正しい道理だ。

 世の中から見れば邪悪な悪霊が消えて、人を驚かす幽霊共が消える。

 本物が出る心霊スポットは、ただの廃墟となる。

 それだけのこと。

 そして死んだ後にやりたいことリストの続きを満喫する。

 リストの項目はまだ山ほどある。

 海だ。

 俺は海を見にいかなければならない。

 あの映画で印象に残ったのはリストだけではない。

 彼らの最終目的地。

 死ぬ前にどうしてもみたいと言って病院から抜け出した。

 マフィアの金と車を盗んで、警察にもマフィアにも追われて、残された家族がいるにもかかわらず彼らは海を目指した。

 そして海を前にした彼らの、あの顔が心に焼き付いた。

 死んでも見たいと思っていた海。

 死ぬことすら恐れず見に行った海。

 俺も海を見れば何かわかるのだろうか。

 それが知りたくてリストを真似した。

 なんとなく後回しにしていたが、もうやめだ。

 ジョウレイが済めばいの一番に見に行こう。

 もう回り道はしない。

 そうすれば俺にも何かわかるはずだ。

 それが何かわからないが、とにかくわかるはずなんだ。

 こいつらはその前にできた障害でしかない。

 家族だの学校だの会社だのの連中と同じだ。

 俺はもう散々な目に遭った。

 地獄という地獄に突き落とされた。

 あの地獄に比べればこいつらの不幸がなんだ。

 俺の味合わされた地獄に比べたらなんでもない。

 だからもう、考える必要なんかどこにもない。

 なぜ俺が海を見たいのかも、考える必要はないのだ。



「完了です。これで月森さんはこの部屋から出られません」

 翌日、たいそうな荷物を背負ってきた京本は二〇一号室の扉に札を貼りつけて言った。

 札にはやはり奇怪な文字が描かれていて、なんと書かれているのかわからない。

 だがどうでもよかった。

 俺は封じ込められた二〇一号室には見向きもしなかった。

 時刻はすでに夕方。

 日が沈み始めたと同時に京本はやってきた。

 ジョウレイは夜、幽霊共が動き始めてから行う。

 ついにこの時がやってきたというのに、俺の喉には冷たさがへばり付いたままだった。

『どいつからやるんだ?』

「まずは佐藤さんから始めましょう。一番情報が多く緒方さんと接点が多い。可能性が高い順番です」

『……あれを接点って呼べればいいけどな』

 俺達はそのまま三階へと向かう。

 京本の背負うリュックサックはかなり重たそうだったが、俺は中に何が入っているのか聞かなかった。

 それが何であれ、京本が必要だと思ったから持ってきたのだ。

 なら素人の俺が知る必要などどこにもない。京本もわざわざそれを説明しなかった。

 三階に辿り着くと、佐藤がよく出没する廊下に京本はリュックサックを降ろした。

 チャックを開き、中から多数の巾着袋に入った塩と札束を取り出すと、迷いなく床になにか陣らしきものを描いていく。

 俺はそれを後ろで黙ったまま見つめていた。

 辺りにタカコや他の幽霊らしい気配はない。

 まだタカコは前のカップルに憑りついているのだろうか。

 しかしそれもどうでもいいことだ。

 時間が稼げるならばそれでいい。

 あの二人がどうなろうと俺には関係ない。

 俺はただ、京本がジョウレイを終えるのを待つだけでいい。

 ここにいるのも京本がどうしても必要だと言ったからだ。

 本当は五〇一号室で全てが終わるのを待っていたかった。

 京本の言うジョウレイは幽霊の未練だの感情だのを引きだし、対話をしなければならない。

 つまり昨日の、華のような話を何度も聞かなければならないのだ。

 あんな思いはもうしたくないのが本音だった。

「よし、これでもう大丈夫です。佐藤さんが現れるのを待ちましょう」

 もう大丈夫、という言葉に我に返る。

 京本は廊下の中心に陣を描き終えていた。

 それは見ただけで本物だとわかる代物だった。

 なにか腹の裏から引っ張られるような、溶けだすような感覚が見ているだけでする。

 今までの準備でもそれらしい感覚はあったが、これはただ窓を開けたり塩を盛ったりするのとは次元が違う。

 ある目的のために組み上げられた、意味のあるものだった。

『どうやんだ?』

「まず佐藤さんにこの陣の中に入ってもらいます。すると陣の効果で幽霊達に僕の言葉が届きやすくなります。普段は内側にだけ向けられている幽霊の想いを、強制的に外に向けさせるものなんです。それでようやく対話ができるようになります」

『……意味わかんねえよ』

「ある種の電話のようなものだと思ってください。それも持ち主に無理やり出てもらえる電話です。こういうと聞こえは悪いですけどね」

 そう言うと京本は手についた塩をぱんぱんと叩いた。

 もう話すことがなくなると、窓の外で沈む夕日を眺めるぐらいしかやることがなくなる。

 ゆっくりと、しかし確実に世界からまた光が失われていく。

 生前はこの光景が好きだった。

 日が沈めば、敵は世界から少なくなる。

 ただ眠りにつくだけの時間が、俺には唯一の安らぎの時間だった。

 だが死んでからは変わった。

 ただ繰り返される世界の仕組み、それ以外に価値を失って、眺めることに何も思わなくなった。

 そしていまは、忌々しい時間の始まりとなった。

 俺達幽霊の時間は、世界が闇に閉ざされてから始まる。

「現れました。佐藤さんですね?」

 尋ねられたのはどちらだったのか、とにかく俺は廊下の奥に視線を戻す。

 まだ夜が始まって間もなく、月が辺りを照らし出す前に佐藤は現れた。

 京本が手に持ったハンドライトに照らされて、半透明な身体が暗がりの中で浮かび上がる。

 相変わらず点滴スタンドで身を支え、亀よりも遅い足取りで真っ直ぐにこちらに歩いてくる。

 一歩、また一歩と陣に近づき、ついにその片足が陣に触れた。

「始めます」

 その掛け声と同時に、どこからともなく風が吹きこんでくる。

 しかしなぜか塩や札は舞い上がらず、へばりついたように床から離れない。

 そこで俺はこれが本当の風なのではないのだとわかった。

 俺に風は感じることが出来ないからだ。

「佐藤さん、佐藤鉄二さん。聞こえていますか? 僕は京本秋幸といいます。緒方さんの友人です」

 流石にこの場において友人ではないと咎めるような事はしなかった。

 意識を失った怪我人を相手にするように、京本は佐藤に話しかける。

「僕は佐藤さんのことを存じております。元警察だったこと、柔道をされていたこと、奥様のお名前は佳代子さんですね? 息子さんのお名前は隆司、娘さんのお名前は綾子さんです。聞こえてらっしゃいますか?」

 難しいと言いつつも、京本は佐藤の家族の事を調べることに成功していたようだ。

 この短期間でどうやったのかは知らないが、成功への期待感が高まってくるのがわかった。

『……オムライス、オムライスを食べます』

 佐藤はまた歩みを進める。

 陣の中に折れ曲がった上半身は完全に入っており、点滴スタンドは中心にまで進んでいる。

「オムライスの事は聞いております。あまりお好きではなかったとか。失礼を承知で緒方さんに伺いました。佐藤さん、佐藤さんにとってオムライスはどのような意味があるのでしょう。教えていただけますか?」

 普段の不遜さは鳴りを潜め、とても高校生とは思えない丁寧さで話しかけ続ける京本。

 しかし俺は、どこかこの儀式に違和感を覚え始めていた。

『食べます……オムライスを食べます……』

「お願いします。佐藤さんのお話をお聞かせください。僕は佐藤さんの想いを知りに来たんです。そのために緒方さんにこの場を用意して頂きました。佐藤さん、オムライスはもう食べ終わりました。佐藤さんの望むことを教えてください!」

『オムライスを食べます……』

「……おかしい」

 京本は呆然としていた。

 浄霊は失敗したのだ。

『どうなってやがる。なにも効き目がねえじゃねえか』

 京本の作った陣、塩だの札だのが意味のあるらしい配列に従いまき散らされたその中心に佐藤は確かにいる。

 だが佐藤に何の変化も反応もなかった。

 今までとは何一つ変わらない。

 ぶつぶつ呟きながら歩き続けている。

「わかりません。こんなこと、今まで一度も——」

『わからねえじゃねえよ! お前がどうしてもって言うからリスク覚悟でこの状況を作ったんだぞ。なんでなにもわからねぇんだよ』

『僕にもわからないことぐらいあります! 必要な手順は全て踏みました。でもこれは、そもそも前提から間違っていたとしか……』

『前提ってなんだ!』

「佐藤さんがこの世に留まっている理由です。僕達はここの幽霊達がタカコさんの怨念に囚われていると思っていました。その影響は確かにあります。だから陣でタカコさんの陰の気と佐藤さんを切り離した。でも佐藤さんは、そもそもタカコさんとは関係なくここにいる」

『関係ない? あのクソババアが元凶じゃねえのかよ⁉』

「そう思っていましたよ! でも違った。ではなぜ? 佐藤さんが生前と同じ行動を繰り返している意味は? 浄霊の効果——いやこれは発動すらしていない?」

 途中から京本は自分の思考に潜り始めていた。ブツブツと独り言をつぶやきながら、この現状を考察している。俺のことも意識から外れたようで、聞き馴染みのない専門用語のせいでなにを言っているのかわからなくなった。

『……オムライスを食べます』

 佐藤は俺達の混乱などおかまいなしに、普段と何も変わらぬ妄言を繰り返す。

 あまりに反応がない。

一見、閉じ込められているように見えるが、このまま歩み続け廊下の奥に消え去りそうだった。

「——緒方さん、撤収しましょう」

 そう言った京本の眼差しは真剣どころか、焦っているようだった。

 佐藤のをつぶさに観察している。

その間も頭の中で何かが噛み合っていくのか、よからぬ事態に転がっているのを止められない焦燥感がにじみ出ている。

 だがはいそうですかとは頷けない。

 このままではいずれこいつらと同じように本当の霊になってしまう。

 もはや一秒たりとも無駄にはできない。

 それでは何のために今までやってきたのかわからない。

 もうこんなところにはいたくない。

『なんでだよ、やり方変えても駄目なのか?』

「無理です。僕はかける言葉を間違えました。このまま無暗に語りかけたら機嫌を損ねてしまう。そうなれば浄霊は完全に失敗します」

『……どういうことだよ。まさか、初めからやり直しって言うんじゃないだろうな⁉』

「その通りです。申し訳ありません。これは僕の責任です。この廃病院について読み間違えました。他と同じだと思い込んでた。もっと考えるべきでした」

 悔しさが顔に出ている。

 そんなものどうでもいい。

 こいつの後悔など俺には関係ない。

『ざけんな! 謝って済む問題かよ。お前と違って俺は時間がねぇんだよ‼』

 言い返す気力もないのか押し黙る京本。

 それが余計に癪に障った。

 溜まりに溜まっていた何かが噴き出して、抑えがきかなくなっていた。

『クソがッ‼』

『……オムライスを食べます』

『——あ?』

 それはいつもの独り言ではなかった。

『オムライスを食べます』

 佐藤は明らかに俺を見ていた。

 いままで一度もこんな反応はなかった。

 虚空に向かって繰り返してばかりいたのに、俺に向かって話しかけていた。

 しかし俺には、その変化に対処する余裕などなかった。

『オムライス——』

『うるせえクソジジイ! オムライスなんかどうでもいいんだよ‼』

 相手が老人であるなど関係なく、怒り任せに突き飛ばす。

 点滴スタンドを巻き込むようにして佐藤は倒れ、京本が叫んだ。

「緒方さん! なにしてるんですか⁉ 亡くなってもお年寄りですよ!」

『うっせえ‼ んなもん知るか! どうでもいいんだよお前らの事なんて! なにがオムライスだ、なにが仲間だ! 俺はお前らなんかの仲間じゃねえ‼ 俺は——』

 その続きは言えなかった。

『——オガタ?』

 振り返ると、いるはずのない華が立っていた。

 その手には半分に千切られた札の束が、ただの紙クズのように握りしめられている。

 だが俺は、それよりも見覚えのあるその顔から目が離せなかった。

 信じられないモノを見て、それでもまだ認められなくて、しかしどうしようもない現実に打ちのめされているような、よく知っている顔をしていた。

 華は佐藤を見て、京本を見て、俺を見て、陣を見て、また佐藤を見てから、そして最後には俺を見つめた。

『オガタがやったの?』

 わかっていても尋ねずにはいられないようだった。

——その人は?

——仲間じゃなかったの?

 ——どうして?

 続けざまに向けられる感情を前に、俺は何も言えなかった。

 それがトドメとなった。

『……ひどい』

 目に涙があふれていく。

 いつか差し伸べられた手を振り払った時のように、小さな顔がくしゃくしゃになっていく。

『は——』

『——タカコさぁん』

 震える声を引き金に、夜が闇に犯された。

 虫の音は途絶え、生臭い血と腐った魚のような臭いが立ち込める。

 壁の落書きが黒い染みに塗り潰されていく。

 夏の熱気さえも逃げ去った。

「……こんなの、みたことない」

 京本の声は恐怖に震えていた。

 そしてあの、キリキリとした耳鳴りが頭の奥をつんざいた。

『オムライスを食べます』

 佐藤の声だった。

 思わず声の方を向く。

 目の前にタカコの顔があった。

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