第二章

 夏の色濃い青空の下では、窓から見える駐車場のアスファルトは営業で駆け回った暗黒の会社員時代を思い出させる。移動を快適にさせるための舗装は、結局のところ車移動が可能な上級国民にのみ恩恵を与える。足で稼げとかいう前時代的な根性論を語っていた元上司が、接待で出かける時に逃げ込むよう車内へ避難していた姿はいまだに覚えていた。

 そんな外と比べると、電気も通わなくなった廃病院は幽霊とゴミと落書きさえなければ居心地がいい。

いまが夏であると証明するのは、雑木林から鳴り響く蝉のがなり声だけだ。

しかし肉体は失っても魂があの蒸し風呂のような暑さを覚えているのか、日の出ている時間に他の霊を見たことは一度もない。まるで夜行性の虫みたいに、昼間は気配を消している。

 だから動くのは夜しかななかった。

『クソが。どこにいんだよあいつら』

 普段いる五〇一号室から離れ、俺は三階の廊下を一人歩いていた。

 真夜中の廃病院は一気に闇に溶けていく。今晩のように月が雲から出たり消えたりすれば、前も後ろもわからなくなる。ホラーを題材にした映画やゲームは全て嘘だ。現実にはあのように廊下の真ん中をスイスイ進むことなどできない。

 やむなく俺は、触れているだけで馬鹿が移りそうな落書きだらけの壁に触れながら歩かなければならなかった。

『ああ、クソッ。待てよ待て待て』

 光がまるで幕が閉まっていくようにゆっくりと消えていく。

 俺の言葉虚しく、月は完全に覆われてしまった。壊れたテレビのような虫の音。廊下はただまっすぐ続いているとわかっているのに、途端に足は僅かずつしか動かせなくなる。

 闇に消える前、俺の足元には何があっただろうか。外のクソったれ共が放置したゴミが辺りに散らばっている映像は頭に残っている。生きていれば蹴り飛ばし、他の幽霊であれば通り抜けられるのだろうが、俺はそのどちらでもない。物を押すこともできない。外にいた時に落ちていた缶コーヒーを蹴飛ばそうとしたが、まるで地面に生えているように動かなかった。なのにつま先の鈍い痛みだけはなぜか感じるのが余計に腹立たしかった。

 理屈がわからないが、この身体は通り抜けるものを分けている。人や風、京本にぶちまけられた塩など動くモノは通り抜けるくせに、動かないモノは床や壁のように俺の邪魔をした。

 幽霊なんて不便でしかない。

『クソが。なんで俺がこんなことしねぇといけねえんだよ』

 つま先に全意識を集中させて、すり足で進んでいく。

 一人では五〇一号室から絶対に離れない俺がこうして院内を徘徊していれば、少なくとも華は姿を現すと思っていた。ここぞとばかりに慎重な俺を馬鹿にし、得意気に壁や床から出たり消えたりするとばかり。しかしその気配は数日たってもまるでない。

 あの日から華は一度も姿を見せていない。

 まだクソババアに折檻されていないことから、あの反抗的な態度を言いつけもしていないようだった。

 以前であれば願ったりかなったりの状況だというのに、皮肉なことに今は顔も見たくなかった連中を探すハメになっていた。外に出る為だと自分に言い聞かせても、気持ちは萎えるばかりだ。京本のやつがあんな甘ちゃんでなければ、こんなことをせずに済んだというのに。

『……やっと見つけたぞクソジジイ』

 しばらく警戒しながら歩いていると、月がようやく顔を出し始めたのと同時にお目当ての一人が姿を現した。

月の薄暗い銀の光の中で、その身体は月光と同じぐらいに頼りなく半透明。

そいつは三階担当の老人の霊である。

 他の霊と違いなぜかジジイは点滴スタンドを持っていた。

 スタンドもジジイの一部なのか衣服のように身に着けている。死後にはこの世の物理法則は通用しないらしい。ジジイも入院患者だったらしく白い患者衣を着ていて、禿げあがった頭の重さに腰は曲がり、スタンドに掴まるようにして歩いていた。

 名前は何だったか、華が口にしていたような気がするが覚えていない。

『……オムライス。オムライスを食べます。……食べます』

『おい、ジジイ。話があんだよ。言葉が理解できる脳味噌は残ってんだろ?』

 ジジイに合わせて並び歩く。ちんたらとしたペースに合わせるのははなはだじれったくはあったが、俺は大人なのでボケ老人に気を使ってやることにする。

 ジジイは俺に目もくれず、どこを見ているのかわからない垂れ切ったまぶたを正面に向けながら、いつも通りブツブツ呟いていた。

『……オムライス。オムライスを食べます。……食べます』

『ジジイ、お前はここで死んだ霊なのか? イエスなら頷け』

『……オムライス、食べます』

『オムライスなんてどうでもいいんだって。どっちでもいいから頷くか首降るかしろ』

『……食べます』

『……いま一番食べたくないのは?』

『……オムライス』

 駄目だ、まるで話にならない。

『ジジイ、あのクソガキの命令は聞けんだから俺の言葉もわかんだろ?』

『……オムライス。オムライスを食べます。……食べます』

『だからオムライスはいいっての。おぉい、見えてんのかぁ?』

 正面に回り込んで顔の前で手を振ってやる。

 しかしまるで反応らしい反応は見せず、お構いなしに進み続けて来る。

『おじいちゃぁん、オムライスはもう食べたでしょー』

『……オムライス。オムライスを食べます。……食べます』

『いい加減にしろクソジジイ! んなもんどうでもいいからさっさとこたえ――うおッ⁉』

 ジジイに合わせて後ろ歩きをしていたのが悪かった。どっかの馬鹿が放置した炭酸ジュースの空き缶に引っ掛かって倒れてしまう。

床に頭をしたたか打ちつけ、目から星が出るような痛みにのたうち回った。そのせいで空っぽの菓子袋が背中に突き刺さり、さらなる痛みが俺を襲う。

『イッテェ! ジジイ! お前のせいだぞ‼』

『……オムライス。オムライスを食べます。……食べます』

 しかしジジイは俺を無視して、やがて廊下の奥に姿を消していった。

 もう追いかける気にはならなかった。

 腹立ちまぎれに缶を蹴ろうとしたが、どうせ痛い目に合うだけだからやめた。

『もういい。飽きた』

 僅かばかりにあったやる気も失せた。

こんなことは時間の無駄である。

床に生えたゴミに足を取られないように気をつけて、俺の五階へ帰った。



 俺が連中を探していたのは、京本に頼まれたからだ。

 あいつの言っていたジョウレイとやらを行うには、その幽霊の未練を知るのが必要不可欠らしい。よく聞くような話だが、とにかく奴らの事情を知らなければ達成は困難だという。普段は京本自身が何度も足を運び、仕草や言動から情報を集めていくのだが、ここにはあのクソババアがいる。生きている京本では危険である以上、その役回りを押し付けられてしまったわけだ。

 開けたままにしている五〇一号室に戻ると、ちょうどカーテンがふわりと揺れていた。

これも京本の置き土産だ。

新鮮な空気は魂にもいいとか言って、頼んでもいないのに窓を開け放ったのだ。扉も近くの廊下の窓も開いているからか、完全に風の通り道になっている。なにも感じはしないので、風が吹いたかはカーテンが揺れなければわからないが。

『よっと』

 お気に入りのベッドに身体を預ける。

 揺れるカーテンの向こう側にある星でも眺めようと思ったが、遠くの駅前が光っているせいで大した数は見えない。小学生の理科の授業で、太陽の反射で見えている火星だか木星だかが一等星並みに輝いていると習ったけど、どれがそうかなどわかるはずもなかった。火星は赤いと得意げに語っていたが、全部同じ星にしか見えない。

『京本のヤツ、まだるっこしいことしてないでさっさと除霊しろよな』

 ろくに情報も集まらなければジョウレイも出来ないはずだ。

いくら探しても見つからなかったとかなんとか言えば誤魔化されてくれるだろう。

事実オムライスジジイを探し出したのだから、義理は果たしたと言える。

 そんなことよりもせっかくなので考えたいのは、外に出てからのことである。

 死んで自由の身となった俺がまずしたのは、映画館での無賃鑑賞だった。

 生前は一度も行ったことがなかったので、小さなスマホではなくスクリーンの大画面、大音量で映画が見たかった。人の少ない時間に特等席で鑑賞できるのは幽霊の特権だ。はしごしても怒られず、気に入った映画は字幕版と吹き替え版の両方で観た。つまらなかった場合はトイレに出る客に紛れて出た。

 そんな映画館のイベントで、昔の映画のリバイバル上映があった。名作の再上映だけあって観客はオッサンやウザそうなマニア面ばかりだったが、その中で印象に残った映画がある。不治の病に罹った二人の男が、死ぬ前に見たことがない海を目指すという話だ。マフィアの金と車を盗み、道中で贅沢したり警察や殺し屋に追われるドタバタアクションで、それ自体は別に面白みもない退屈な映画だった。

 しかしなぜか印象に残ったのは、その二人が死ぬ前にやりたいことのリストを作ったことと、最後の海のシーン。

 どうせ死ぬからと、普段であれば叶えようもない願いを彼らはリストした。俺は既に死んでいるが、せっかくなので真似しようと思った。生きることに必要な煩わしさから解放されて、今までの分を取り戻したいと考えたのだ。

 俺は何もできない幽霊だが、それでも色々なところを見に行った。

 アリーナを埋める人気アーティストのライブを文字通り目の前で見た。

 有名芸能人をつけ、絶対に入れない家の中を見た。

 動画投稿者の撮影現場を見た。

 高速道路のど真ん中を歩いたりもした。

 金や才能、特別な人間にしか立ち入ることの許されない場所を見て回った。

 あんなに楽しかったことは人生にはなかった。

 生きていた頃は、狭苦しい路地裏のような所にしかいなかった。

 世界はこんなにも広かったのだと、死んでから初めて知った。

 それが今ではこのざま。

 死んでも俺は、また生きていた頃と同じ目に合っている。

 早く出たくて仕方がない。

 見たいモノや、行きたい場所がまだまだあるのだ。

クソ幽霊共なんかよりも、知りたいことは山とある。

 そういえばリストで一番に決めたのは映画の二人みたいに海を見に行くことだったが、なぜだか後回しにしていた。

どうせならコバルトブルーの美しい海とやらを見てみたい。濁って臭いらしいそれではなく、本物の自然を味わってみたいものだ。

 その為にも、さっさと京本には除霊を行ってもらわなければ。

『……なんだ?』

 ふと視線を感じたので寝返りを打つ。

 すると扉の影から華が半分だけ顔を出しており、目が合うとすぐに隠れた。そして恐るおそるまた顔を半分だけだして、俺が見ているとわかるとまたすぐ引っ込む。

 意味がわからず警戒して様子を伺うが、しかし出たり隠れたりをただ繰り返すだけだった。

 面倒になって背を向けても、背中にそれこそ矢のような視線が突き刺さってきた。

不意打ち気味に勢いよく振り返ると、小さな悲鳴とともにまた扉の影に身を潜めた。

 うぜえ。

『……なんだよ、用があるなら言え。また外の連中がきたのか?』

 放置するとこのまま一晩中続きそうだったので、いい加減に声をかけてやる。

 次は顔の半分どころか片目しか出なかった。

『……』

『……』

 そのまま続く沈黙。

 なんだこれは。新手の嫌がらせか何かなのか?

『……もう怒ってない?』

 追っ払おうかと思い始めたその時、華の見えない口から聞こえたのはそんな言葉だった。

 どうやら手を払って拒絶したのが相当に効いていたらしい。いつもの小馬鹿にしたような声色ではなく、年相応の、怯えた少女の弱弱しいものだった。それがあの時のくしゃくしゃな顔を思い起こさせて、さすがの俺にも罪悪感が芽生える。

『怒ってねえよ』

『ほんとに?』

『ああ』

『……ほんと?』

『怒ってねえって』

 怒っているのかと何度も尋ねられれば本当にイライラしだすと誰かが言っていたが、その気持ちはよくわかった。これが京本であれば怒鳴っていただろう。しかし自分の半分のガキにそれは大人げなさすぎるので我慢してやった。

 三度も同じ質問をしてから、ようやく華は病室内に入ってきた。

 おずおずと近寄ってくるのを眺めながら、華がちゃんと扉から入ってくるのは初めてだったと気づく。いつも部屋の陰からふいに現れるか、壁や床を通り抜けてくる。当たり前のことなのだが妙に人間臭く感じられた。

 そんな仕草に感化されたわけではないが、上体を起こして華が座れるスペースを作ってやる。

いつもの生意気さはどこへやら、華はちょんと人形みたくベッドに尻をのせた。

『……』

『……』

 気まずい。

 場の空気に流されて出迎えてしまったが、黙られるとこっちも困る。

こっそり顔をうかがうと眉も口もへの字だった。

いまにも泣き出しそうに見えて、慌てて話題を探す。

『あー、なんだ、その、久しぶりだな』

 あほか、自分でも思った。

『うん』

『元気だったか?』

『うん』

『ずっとどっかの病室にいたのか?』

『うん』

 口を開けば開くほど墓穴を掘っているような気がした。

 そもそもこんな子供と話したことなどない。学生時代は部活に所属していなかったから、後輩と接する機会はないかった。会社では俺が一番下だったし、取引先の若手には頭を下げたことしかない。一周りも歳が違えば、もはや宇宙人と同じだった。

『……』

『……』

 そして数少ない話題も尽きると、再び沈黙が場を支配した。

 下手な笛のような風も吹きやみ、なにかに襲われたのか蝉が情けない悲鳴をあげた。

 段々と腹が立ってくる。そもそもなぜ俺がこのガキに気を遣わなければならないのか。散々タカコに傷めつけられているのはこいつがチクるせいだ。肝試しの度に馬鹿にされ、クソ家族を思い出すハメになったのもこいつが原因である。本来はこうして迎え入れる道理すらない。

 しかしその時、天才的なひらめきが降りてきた。

 京本に頼まれた聞き取り調査だが、こいつに聞けば解決なのではないだろうか。俺と違って華は他の霊共にいうことを聞かせられる。集会でもせっせと世話焼いてるし、幽霊共はこの廃病院に元々いたのかこいつと同じく入院患者の格好をしている奴ばかりだ。多少なりとも連中の個人情報を知っているのではないだろうか。

『なあ、オムライス食べますって、ずっと言ってる爺さんいるだろ?』

『……サトウさん?』

 そんな普通の名前だったのか。

『そうそう佐藤さん。その佐藤さんだけどさ、生きてた頃もこの病院にいたのか?』

『うん。あたしが最後に入院した時にはいた』

『他の幽霊も?』

『うん』

 よしよし。

『じゃあ佐藤さんってよ。その頃もオムライスオムライス言ってたのか?』

『ごはん食べてもすぐに欲しがるって看護師さんが言ってた。ひどい日は一日中って』

『なんでオムライスか知ってるか?』

『知らない。でもあんまり好きじゃなかったみたい。用意してもほとんど残すんだって』

 浮足立つちそうになるのをなんとか抑えた。

やはりここにいる連中は、生前から入院していて、華はその様子を知っている。

 これはかなり使える状況なのではないだろうか。

『……どうしてサトウさんのことが知りたいの? オガタ、みんなのこと嫌いなのに』

『あ? いや、ここに来てからけっこう経つだろ? なのにあいつらのことなんも知らねえなった思ってさ』

『嫌いなのに?』

『いい加減、俺も腹くくろうと思ったんだよ。どうせここから出られないなら、連中と仲良くなってもいいかなって。なのに名前も知らないのは困るだろ?』

『ほんとっ⁉ オガタもちゃんと仲間になってくれるの⁉』

 くりくりの目が輝いた。

 思わずちょっと引いた。

『あ、ああ。お前とも仲良くしたいなってさ』

『……うそじゃない?』

『嘘じゃねえよ』

『やった! これでオガタも仲間なんだ!』

 嬉しさが爆発しているらしい。足を犬の尻尾みたいにバタバタさせる。初めの緊張や気まずそうなしおらしさは影も形もない。全身で喜びを表現していた。

 ちょろいもんだ。所詮ガキはガキである。仲間になるつもりなどさらさらないが、ちょっと都合のいい言葉をかけてやるだけでこれである。こましゃくれたことばかり言う京本とはえらく違う、子供らしい単純さだった。

『他にはなんかあるか?』

『え?』

 ビー玉みたいな目が不思議そうに瞬きをする。

『じいさんのことだよ。例えば下の名前は?』

『えっと、エイサク? テツジだったっけ』

 全然違う名前だろ。

『なるほどな。それから?』

『それから……よく点滴スタンドを忘れる!』

『なるほどなるほど、それで?』

 ハの字になっていた眉がだんだん下がっていった。

 慌てて手を振る。

『いや、悪かった。いきなり色んなこと聞かれても困るよな。無理に思い出そうとしなくていいし、知らないなら知らないでいい。名前だけでも助かる』

 慰めの言葉のつもりだったが、華としては役に立てず悔しかったらしい。むむむと腕を組み考え込み始めた。恐ろしく似合わないがその努力は買ってやる。思春期も迎えず他人を見下すクソガキだと思っていたが、なかなかどうして可愛いところもあるじゃないか。

『じゃあもう一人のガ——子供は? 華と同じ年ぐらいの霊もいるだろ?』

 パッとまた顔が輝いた。

『ユウト君だよね。ユウト君ならけっこう知ってる。待合室でよく話してたから』

『ユウトってのか。仲良かったのか?』

『そうだよ。年が近いのはあたし達だけだったし。仮面のヒーローが好きなんだって』

『くわしいな』

『まあね』

 得意気に胸を張る。

『もしかして好き同士だったとか?』

『は? そんなわけないじゃん。なに子供みたいなこと言ってんの?』

 前言撤回、やはりこいつはクソガキだ。



「……驚きました。正直、まったく期待していなかったので」

 久方ぶりに現れたと思えば、俺の報告を聞いて京本は目を丸くして言った。

 京本がやってきたのは前回と同じく昼下がり、太陽が燦燦と降り注いでいる時間だった。俺はベッドに胡坐をかいて座り、京本は隣のベッドで背筋をピンと伸ばしている。膝の上にノートとペンを置いているから、まるで就活の面接官のようで相変わらず偉そうである。

『失礼な奴だな。俺だってやればできる』

「そうですね、それについては謝ります。何年も前に潰れた病院の患者を調べるのはさすがにご時世的にも難しいですから。名前を知れたのはかなりの収穫ですよ。どうやってここまで調べたんですか?」

『華に仲間になるとか適当こいたら簡単だったな。ガキは単純で助かるよ』

「……月森さんを騙したんですか? あまりいい手段とは思えないですけど」

『じゃあ他にいい方法があるのかよ。あ? 話もロクにできねえ連中だぞ』

「まあ、確かにそうかもしれませんけど」

 京本はせっせとメモを取っていたノートを見て言う。そこには俺が華から仕入れた幽霊の個人情報が余さず記入されている。一人ひとりをあまりに細かく尋ねられたものだから、話していた俺の方がクタクタだった。

 仲間になると宣言して以降、華には毎晩のように病院中を連れまわされた。すると連中は今まで姿を見せなかったのが嘘のように現れたのだ。何度も通り過ぎた待合室で、華が一声かけただけで三人も出てきた時はイラっとするよりも呆れた。奴らは物言わぬ幽霊だが、華の呼びかけに答える様子はまるで餌やりに集まる鯉か鳩にしか思えなかった。

 華はそうして幽霊を次々と召喚すると、一人ひとり丁寧に誰であるか説明した。よくもまあそんな細々としたものを知っているなと感心するほど、華は連中のことを知っていた。

 本当に細々とし過ぎてて、個人情報に繋がるのは名前ぐらいしかなかったが。

『で? これでジョウレイってやつはできんの?』

「まだ未練はつかめていないので無理ですね。もう少し調べ物と準備をしてからです」

『は? なんでだよ、もう十分だろ。てかならお前は今まで何やってたんだよ』

「もちろん勉強ですよ。さっきまで期末テストでしたから」

『……期末テスト?』

 なんだそれ。

「学校で定期的に行われる学習査定のことです。その成績で進路を選択します」

『テストが何かぐらい知ってるっての』

 呆気にとられたのはその言葉があまりに場違いだったからだ。

幽霊がどうのジョウレイがどうのと話していたから、そういった日常的なものと京本が無縁だと思っていた。

『お前、ちゃんとテスト勉強とかするタイプなわけ?』

「学生の本分は学業でしょう。緒方さんは見た目通り勉強しなかったんですか?」

『うるせえ。必要なかっただけだっての。大学にも行く気なかったし』

 父親の収入では姉の学費を出すだけで死活問題だった。それも姉が奨学金を勝ち取り、授業料を免除してもらってもだ。俺の成績表など小学三年生以来尋ねもしなかった母親が進学を求めるわけもなく、俺自身も大学に行ってまで馬鹿共に囲まれたくはなかった。定期テストなど赤点さえ取らなければ問題にならないのだから、周りの連中と違って気楽なものだった。

『じゃあなに? お前明日から夏休みかよ』

「そうですね。部活もありますから、浄霊は空いた時間に取り組むことになります」

 まるで片手間に事を済ませるかのような言い方にカチンとくる。

 こいつにとっては趣味かもしれないが、俺にとっては死活問題なのだ。適当にされては困る。必死こいて情報を集めてやったのに、悠長に待ってなどいられない。

『ザケんな。犠牲者が出たらどうすんだ。責任取れんのかよ』

「それもそうですが、すべてに対応できるわけではありません。中途半端に浄霊を始めて事態が悪化する方が問題です。失敗して取り返しがつかなくなるのは緒方さんも困るでしょう?」

『待ってられねえって言ってんだよ。いつクソババアにバレるかもわかんねぇんだぞ』

「一番の問題はそこです」

『あ?』

「そのタカコという女性が大元である以上、対話は避けられません。でもタカコさんの情報だけがまったくない。わかっているのは名前と姿形だけ。強大な力を持っている以上、下手すればこちらが呪われます。慎重にならなければならないのはそのためです」

 こればかりはさすがに納得するしかなかった。

 俺もあのクソババアは重要だとわかっていたから、華には一番詳しく尋ねようとした。しかしクソババアについてだけはあまり知らなかった。わかったのはアイツが最古参なことと、もともと入院患者ではなかったことだけ。あんな化物は生きていた頃もロクな人間ではなかっただろうし、そんな奴が入院していたら看護師の中でも話題になっていただろう。子供の華に聞かせないよう注意していただけかもしれないが、それでも何も知らないことには変わりない。

 タカコのヤバさは身をもって知っている。

 もしキレて暴れ出したらどうなるかわからない。

 あいつに触れられるのはもう二度とごめんだ。

『でもよぉ、いつ華にバレてチクられるかわからないんだぜ? 外の連中が来ないからあいつも大人しくしてるけど、それもいつまでかわかんねぇんだからさ』

「そればかりはどうしようもありませんね。祈るしかありません」

 京本曰く、前回の連中はネットに動画を投稿していないらしい。ビビッて削除したか、なにも撮れておらず使い物にならなかったかのどちらかなのだろう。ここはすでに心霊スポットとしてはそれなりの知名度なので、本物を見たと言っても流されるのがオチなのだそうだ。おかげで話題が再燃することにはなっていない。

『そんな悠長で大丈夫なのかよ。マジでジョウレイとかできんの?』

「全力は尽くします。それに今日はただ話を聞きに来ただけではありません」

 京本はノートを閉じ、あのダサいサイドポーチではなく学生鞄にしまい込むと、代わりに前に持ってきていた巾着袋を取り出した。件の清めの塩がたっぷり入ったものだ。

 念のため警戒して、そいつから少しでも距離を取る。

『……前の塩か?』

「この塩には悪い気を清める力があります。これを院内に配置して気の流れを良くします」

『それに何の意味があんの?』

「空気が悪いと話す気にもなれないでしょう? わかりやすく言うとリラックス効果のあるアロマのようなものです。空気が良いだけで魂は多少なりとも癒されるんですよ。その方が浄霊の助けになります。本当は線香の方が効果的なんですけどね」

『……人によるだろ』

 途端に塩がそれまで以上に忌々しいものに思えた。

 線香と同じ効果など、俺には最悪以外の何物でもない。

「それは緒方さんが悪霊だからでしょうね。清めの塩が痛かったのも、魂が邪気にまみれているからですよ。悪いモノを取り除くには苦痛が伴うものです」

『ザケんな。俺はあいつらとは違うっての』

 京本は俺の抗議を無視してベッドから降りた。

 つくづく生意気な奴である。

「じゃあさっそく行きましょうか」

『あ? 俺も? なんで』

 俺がついていく理由がわからない。

「実際ここに囚われている緒方さんの意見が聞きたいからですよ。案内もお願いしたいですし、塩を配置した後の感想なんかも教えてください」

 まるで商品サンプルの市場調査みたいで、本当にこれから幽霊を相手にするのかわからない生々しさだった。塩を撒くというのはそれっぽいが、もっと念仏とか儀式とかそんなことを想像していた。念仏が効かないのは自分の葬式で知っているけど。

『一緒に歩き回って他の連中にバレねぇか? 華とか』

「緒方さんの話を聞く限り、月森さんは夜しか出てこないんですよね? そこは一般的な霊と同じです。普通の幽霊は太陽の下には出られません。なぜか緒方さんは大丈夫みたいですが」

 どうやらいくら渋っても同伴は避けられないらしい。

 俺としてもジョウレイが済むのは助かるわけだから、やむなく手伝ってやることにする。

「では、お先にどうぞ」

 なぜか京本は、閉めた扉の前で道を譲るみたいにどいた。

『……なんだよ急に』

「いえ、一応は歳上ですし」

『そんなの気にしてなかっただろ』

「緒方さんが気にしているようでしたので、せっかくですからお望み通りと」

『いいっていまさら。お前が先行けよ』

「まあそう言わず。ああ、扉は別に開けなくてもいいですよ。自分で開けますから」

 一度決めたら頑として曲げない性格なのか、京本は何が何でも俺を先に行かせようとする。

 何を言っても無駄な目をしていた。

 苦虫を噛み潰すとは、このような場合を言うのだろう。

『……できねえんだよ』

「はい?」

『だからッ、お前が開けねえと出れないんだ』

「……幽霊ですよね?」

『知るか! 死んだからって壁だの床だの通り抜けられるわけねぇだろ! 他の連中と同じにすんじゃねえ! 俺はあんな変態じゃねぇんだよ‼』

 京本は信じられないモノでも見たかのように口をポカンと開け、しばらくフリーズしていたかと思うと我に返り顔を背けて肩を震わす。

そして、こらえきれずに噴き出した。

「失礼」

『歳上に気を遣うとか言ったばかりだろうが!』

 決めた、クソババアにバレてもこいつは見捨ててやる。



 京本はまず俺に五階を案内させた。病室だけじゃなくナースステーションや診療室、あげくは浴室やトイレも余すところなくすべての部屋を開けて回った。この病院はコの字の設計になっていて、病室は外側に、その他は内側に集まっている。なぜか京本はそのことにいたく感心したようで、特にほとんどの廊下に日が差すのを褒めた。病院側、看護師としてはいちいち大回りで病室に向かわなければならないのは大変だが、スピリチュアル的には良いらしい。なにがそんなにいいのか尋ねると、人間の身体は太陽を浴びることを前提に設計されているとか、太陽と電灯では光の成分が違うとか、まるでテレビで解説する専門家みたいなドヤ顔であれこれ語った。用語が多くて半分以上は聞き流した。

 それよりも腹立たしいのは、いちいち扉を開け閉めするときに思い出し笑いをすることだ。こいつには年上を敬うという精神は欠けている。他人をイジるような連中は、相手がどう思っているかなどまるで考えられない。誰かを傷つけて笑いを取るなど、前時代の悪しき風習だ。

 女性用トイレを開ける時に我慢できず言ってやると、

「僕は神社の生まれですからね。古いのは仕方ありません」

 などと反省のはの字もない捨て台詞と共に入っていった。

『そんなところで何すんだよ。変態かよ』

「誰も使わないのに変態もなにもないでしょう。いるのは幽霊だけですし」

『……そういう問題かよ』

 しげしげと女性用トイレを見回すのは変態にしか見えない。

 俺にはただのトイレだが、京本には別のものが見えているらしい。薄汚れた鏡を見てはうぅんと呻き、個室のドアを全て開け閉めしては考え込んでいる。なにやらそういうゲームをしているみたいで、外から眺めているとやはり変態的だった。

「ここは終わりました。次に行きましょう」

『女もんのトイレになにがあんだよ』

「特にありませんでした」

『ねえのかよ。やっぱ変態じゃねえか』

「なにもないことも大切なんですよ」

 そう言って満足気に男性用トイレに入っていく。

 幽霊が見えるといい、ジョウレイにこだわることといい、かなり頭のネジも緩んでいるようだ。あれでは学校でも浮いているのは間違いない。部活に入っているというが、どうせネクラなオタクばかりの文化系だろう。それか卓球部だ。俺が通ってた高校でも線が細くてなに考えているのかわからないような奴らが好んで入部していた。

『どうした? なんかあったのか?』

 しばらくして出てきた京本は、さっきとは違い小難しそうな顔をしていた。

「……別にたいしたことではないんですけど」

『んな顔じゃねえだろ。早く言え』

 どの部屋も穴が開くほど観察していたのだ。急に小難しい顔をされれば誰だって気になる。それにここは五階だ。自分が住んでいる階に何かあるのは生理的にも気持ち悪い。

 それでも京本は言うか言うまいか悩んでいるようだったが、やがて重い口を開いた。

「病院のトイレってやっぱり清潔ですよね。放置されて何年も経つのに他とは全然違います」

 本当にたいした話ではなかった。

『……当たり前だろ。病院は病院なんだし』

「そうですけど、幽霊の出る建物ってトイレがかなり汚いことが多いので」

『なんだそれ。もしかしてお前、他でも女もんのトイレとか覗いてるわけ?』

「女性用は男性用よりも注意をはらわなければなりませんから」

『なんでだよ』

「血です」

『……あ?』

「血ってけっこう良くないんですよね。陰の気が溜まりやすいんです」

 したり顔で言ってのける京本。

 やはり幽霊と関わる連中はろくでもないらしい。


「ひとまずこの階はこれでいいでしょう」

 散々歩き回ったあげく、廊下の隅という俺でも想像できる場所に塩を盛って京本は言った。

 まるで近所に住んでた信心深い婆さんが月の初めに、家の外壁の四方に白い盃で盛ってたみたいだ。風水やらスピリチャルだかを信じている連中は馬鹿だと思っていたが、こうして幽霊となり本物を体験するとあながち間違いではないらしい。

 塩を盛って窓を開けた途端、車酔いにも似た不快感が胸の奥にわき上がる。

「どうです? なにか感じますか?」

『……なんか、気持ち悪い』

「ならあってますね」

『俺は気持ち悪いって言ったぞ リラックスはどうした』

「緒方さんは悪霊ですからね。問題ありません」

『悪霊悪霊うるせえよ』

 盛った場所が日陰になっていたから、京本が身体を起こすとまるで幽霊が現れたみたいだった。痩せて陰気な顔つきをしているせいで余計にそれらしい。なにがリラックス効果のあるアロマだ。こんな陰気な顔をされて誰がリラックスして話せるというのか。

『それ、あとどんだけ必要なんだ?』

「まだ五階だけじゃないですか。もちろんすべての階ですよ。でも今日はこれぐらいにしておきましょう。日も落ちてきました」

 神社のお参りみたいに手をぱんぱん叩くと、京本はそう言った。

『てことはまだ続くのかよ』

「思ったより気が悪いみたいですからね。可能な限り準備はしておきたいです」

 これではいつジョウレイが始まるのかわかったモノじゃない。

だいたい未練や苦痛から解き放つというが、こんな塩が何かの足しになるとは思えない。

『……』

 生きている人間と並んで歩く、そんなことは久しぶりだったからか、窓に映る京本の姿を見てぞっとした。

 窓に反射しているのは京本だけで、俺はどこにもいなかった。

 死んでから自分の顔を見てないない。手や腹、脚なんかは首を下に向けると確認できるが、顔ばかりはどうやっても見ることができない。もちろん自分の顔は覚えている。だが幽霊となったいま、生前と同じ顔なのかわからない。華も佐藤のジジイも他の霊達も、みな青白い魚の腹みたいな色をしている。俺もそうなのだろうか。クソババアみたいに、生気の欠片もない水の底のような目をしているのだろうか。

 このままここに閉じ込められ続ければ、本当にあいつらみたいになるのだろうか。

「どうしました?」

『なんでもねえ。早くいくぞ』

 京本に聞けば簡単に済む話だったが、俺はしなかった。

 別に信じているわけじゃない。俺はあいつらとは違う。でもそれを言葉にされてしまうと、否応なく受け入れなければならなくなる。なら、知る必要なんかない。

「そうですか。それより本当に一緒に外に出なくていいんですか? 今ならバレないのでは? 月森さんも他の幽霊も姿を見せていませんよ?」

『前にも試したんだよ。でもすぐクソババアが出てきたんだ。今回もそうかもしれないだろ。余計なリスクは回避すんのが一番だ』

「あれだけ急かしておいてよく言いますね」

『うるせえ』

 最後に塩を盛ったのが五〇一号室から離れていたため、別れる場所まで二人で歩く。

 もちろん一階まで見送るつもりはさらさらない。このまま病室に戻って寝るつもりだ。日が落ちると華がやってくる。いないと怪しまれるし、一階から五階まで降り登りするのは幽霊になっても気分的に疲れるのだ。昼は京本に連れまわされ、夜は華に連れまわされるなど過重労働である。生前勤めていた会社も労働基準法などという気の利いたものは適応外だった。死んでまで労働に苦しみたくなどない。

『明日も塩撒きか?』

 うんざり気味に訪ねると、意外にも京本は首を横に振った。

「明日は神社の手伝いが朝から、昼は部活なので来られません。それに急激に気が変化すれば他の幽霊にも気づかれるかもしれませんしね」

『よかった。てっきり毎日これが続くかと思ってた』

「早く出たいのでは?」

『疲れてんだよ。お前と違って夜は連中の相手してるんだぞ』

「ならできるだけ手早く済ませることにしましょう。この階でだいたいの気の流れは把握しましたから、次は効率よく回れると思います」

『そう願うね』

「緒方さんは引き続き情報収集をお願いしますね」

 皮肉はまるで響いていないようだった。

 コの字の内側にあるナースステーション兼待合所の前に来て、京本と別れる。

「ではまた」

『ああ。ところでお前さ、何部?』

「どうしてそんなこと聞くんです?」

『いいから』

「弓道部です。それがどうかしましたか?」

 別に、とだけ言って俺は五〇一号室に戻った。



 死んでからは毎日が楽しかった。

 死んだ後にやりたいことリストのお陰で、退屈とは無縁の日々を過ごしていた。仕事からも、他人からも解放され、法も道徳もなくなってしまえば、無限の自由が待っていた。スマホがなくなったのは痛手だったが、物は考えようである。深夜でも関係なく鳴る元上司の電話にストレスを感じることもないし、追われるようにゲームアプリのログインボーナスを受け取る必要はなくなった。配信の切り抜き動画のチェックも、SNSで発信される最新の情報を仕入れる必要もない。情報化社会などと呼ばれて久しい昨今だが、いざそこから解き放たれると、別になんてことはないゴミばかりを摂取していたと気づく。時間に囚われることなく好きな場所に行き、見たいモノだけをみる生活。死んでいればこそのボーナスだ。

 しかし、やはり現実は無情だった。

『——でね、スガワラさんは毎日アメをくれるんだけど、いつもレモン味だったんだ。看護師さんも笑ってよかったねって言ってくれるんだけど、あたしはあんまり好きじゃなかったな』

 いつの間にかお気に入りのベッドは華に占領され、ゴミみたいな情報を食わされていた。

ご機嫌にうつ伏せになりメトロノームの針みたく足をふらふらさせながら、華は生前の苦労話を語って聞かせる。

 しかしこのガキ、どうして当たり前の顔で俺のベッドを占拠しているのだろうか。入室するやいなや、とうっ、などとどこぞのスーパーヒーローみたいな掛け声とともにダイブされ、向かい側のベッドに避難しなければならなかった俺には謝罪の一つもない。

『そうか、大変だったんだな』

『病院の人ってみんな子供が好きだよね。若いのに大変だねって。ニコニコしてないとなにかあったのって言われちゃうし、してるとカワイソウ攻撃だもん。逆につかれちゃうよ』

『そうか、大変だったんだな』

『……ちゃんと聞いてるの? オガタが聞きたいって言うから話してるんだけど?』

『菅原さんがレモン味の飴を毎日よこすんだろ?』

『そのあとは?』

『カワイソウ攻撃がだるかったって話。ちゃんと聞いてるって』

 陰鬱とした社会人経験だったが、こんなところで獲得した技能が役に立つとは思わなかった。立場が上である人間の言葉だけを耳に残し、頭の中では別のことを考える。いまはお気に入りだった配信者の初回配信のことだ。緊張を演出し造り物であると丸わかりの高いトーンが笑えた。彼女はいまどんな配信をしているだろう。地下王国の姫とかいう設定はまだ維持されているのだろうか。彼女の中身を探すのもリストに加えておこう。

『……だったらいいんだけど』

 不満なのか唇を尖らせる華。

 ちゃんと返事をしているというのに我儘なやつだ。

『でもさ、オガタも嫌じゃない? いろんな人にカワイソウカワイソウ言われるのって』

『そうだな、俺でも嫌だと思う。うんざりするよな』

『でしょぉ? そんなの全然ほしくないのにさ。やんなっちゃう』

『——それよりほかの話をしようぜ。例えば菅原さんっていつも壁に向かってブツブツ言ってるだろ? なんでそんなことしてると思う? 生きてた頃もそうだったのか?』

『そんなことない。……幽霊になるとみんなあんなかんじになっちゃうのかな。なんでオガタとあたしだけがふつうに話せるんだろ。ユウト君もぜんぜん口きいてくれないし』

 生前は仲が良かったと言っていたが、確かにあのクソガキ二号が華の近くにいるところを見たことがない。ここ数日華に病院内を連れまわされたが、姿を見せる気配はいっこうになかった。どうせ出てきたところで膝を抱えて座り込んでいるだけだろうし、あいつの身の上話は華から十二分に聞かされているのでいてもいなくても問題ないのだが。

『さあな。実は俺達みたいに話せるほうが特別で、あいつらが普通の幽霊なのかもな』

『それ、なんかヤだ』

『なんでだよ』

『なんかヤなの。わかんない』

 そう言ってつまらなさそうに腕に顔を乗せる。

 会話も出来ない化け物に成り下がる方が断然嫌だろうに、ガキの考えることはさっぱりわからない。

メトロノームの針もすっかりしおれて、今度は蔦のように絡みついていた。

 俺もだんだん飽きてきて、胡坐を解きそのまま後ろに倒れ込み、なんの柔らかさも感じない枕に頭を乗せた。

 もう一時間以上は愚痴を聞かされている。

 せっかく物思いモードに入ったのだ。

 一息つかせてもらおう。

『……あれ?』

『今度はなんだよ』

『ここの窓って開いてたっけ?』

 思わず息がつまり、目を見開いた。

 下を覗き見ると、華はこちらには気がつかず窓に注目している。

 白いカーテンが風にふわりと揺れていた。

『——開いてたぞ?』

『こんなに風が入るまで開いてたっけ』

『たまたま気づかなかったんじゃないか?』

『そんなことあるかなぁ』

 声色的にまだ俺を疑うまでは至っていないらしい。カーテンを眺めながらぼんやりとしている。気取られないように天井を見つめながら、必死になくなった頭を巡らせる。

 この反応から、華はやはり京本の出入りに気がついていない。だがこいつは俺よりもはるかに幽霊としての能力を持っている。漫画みたいに気配だか命の残り香だかを感じ取る可能性を否定できない。ここで動かせるようになったと嘘をつくのは簡単だが、なら見せろと言われたらそれまでだ。窓がひとりでに開くなどはありえないし、小鳥さんが開けました、など言ったものなら馬鹿にされるのは目に見えている。

 つまり、かなりヤバい。

『——あ』

『今度はなんだっ』

 ガバリと身体を跳ね上げる。

 華はまるで猫のように身体を起こし、窓ではなく床を見つめていた。

 もしかして京本が撒いた清めの塩がまだ残っていたのか?

 あれはバレないため舐めるように拭き取らせたはずだ。

 それとも一粒でも残っていればこいつらには気づかれるのか?

『来た』

『なにが⁉』

『外の人』

『誰だ!』

 京本か? 忘れ物なのか?

『だから、外の人だよ』

 への字になっていた唇が、今度は弧を描いていた。

 華が静かにすると、開いた窓から遠くに車の走行音が聞こえた。

 耳をそばたたせると、それは間違いなくこの病院の駐車場で停まり、二人分の男女の声がした。

 京本じゃない。あいつの声はもっと深く落ち着いている。

『やっぱり夏になると多いよね』

『……なんだよ。外の人ってあいつらかよ』

 なくなった心臓がまた止まるかと思った。

 俺はまた力なくベッドに倒れこんだ。

『なんだと思ったの?』

『なんでもねえよ。じゃ、終わるまで俺は寝てるから』

 そうとなれば今日の聞き取り調査は終わりだ。

昼間から働きづめで、眠りたくて仕方がなかったので助かった。

『なに言ってんの? オガタも脅かすんだよ?』

『俺に何もできないのは知ってるだろ? 時間の無駄だから俺は寝る。頑張ってくれ』

 手をひらひらさせてから、目を閉じて意識を手放そうと思考も放棄する。

 仲間扱いの唯一の利点だろう。

 もうパワハラに悩まされることもなく、クソババアにいびられることもない。

 ならとる道は一つ。

 サボタージュである。

『だめだよ。みんなちゃんとしてるんだから、オガタもやらないと』

 やけに声が近くなったので目を開けると、華が腕組みをしながら見下ろしていた。動いたような気配はなかった。瞬間移動もできるのかこいつは。マジで幽霊過ぎる。

『ならどうしろって言うんだよ。お前に馬鹿にされるのはもうゴメンだっての』

『仲間をバカにするわけないじゃん。でもなにごともやってみろって言うでしょ?』

『散々やったろ』

『こんどはできるかもしれないじゃん』

『できねえって。ホラ見ろ』

 俺はペチペチとベッドの柵を叩く。

 音は鳴らないし、通り抜けることも揺らすこともできない。

『な? 時間の無駄だって』

『……でも、生きてる人にはわからないし。今度は見えるかもしれないでしょ。声は聞こえるかも』

 めんどくせえ。

『わかったわかった。なら声ぐらいはかけてやるよ。それならいいだろ? 毎回馬鹿みたいにアホ面作んのも面倒なんだ』

『うーん』

 まだ不満らしい。

 腕組みをしながら俺を見下ろす。

 だが俺が徹底抗戦の構えを解かないと諦めたのか、溜息をついて腕を降ろした。

『じゃあ声だけでもちゃんとやってね。ぜったいだから』

『ああ』

『ぜったいだからねっ。ちゃんと見に来るんだから』

 ビシっと指をさしてから華はかき消えた。

 他の霊共に指示を出しに行ったのだろう。

 勝利にほくそ笑むのを隠し切れなかった。

 やはりガキは扱いが簡単で助かる。

『さてと』

 身を起こして華がいなくなったマイベッドに戻る。幽霊になった利点は、体温を感じないことだ。シワもできず、人肌も感じなければいなかったのと同じ。俺は電車でも誰かが座った様子が残っている席には座れない。尻の形が残り、生暖かさが伝わるのは身の毛がよだつ。

 病室を横断し、ベッドに飛び乗る。

 カーテンもうまい具合に誤魔化せてよかった。

 もう華の関心事から消えているだろう。

 京本が来たときに強く言っておかなければならない。

 やはりジョウレイなどまだるっこしいやり方では連中に遅かれ早かれバレて失敗する。

さっさと除霊して、消し去るだの追い払うだのするのが一番だ。

リラックス効果だの気の流れだの、そんなくだらないことは余計なリスクを負うだけだと諭してやらなければならない。

『あ』

 次に間抜けた声を出したのは俺だった。

『——ヤベェ!』

 眠気は一瞬で吹き飛んだ。

 慌ててベッドから飛び降りる。

 五階の廊下には京本の塩が残っているのを完全に忘れていた。この部屋の前にもある。廊下の隅に小さくあるだけだから華は気がつかなかったようだが、肝試しに来るような連中は重箱の隅をつつくように物色して回る。発見され騒がれたらかなりマズい。

とにかく連中を早くに追い返さなければならない。この病室に来る前、少なくとも四階以下で脅かそうと試みれば、華は様子を見にやってくるかもしれない。五階まで登らせるわけにはいかない。

『……嘘だろ?』

 扉は普通に締まっていた。

 華が閉めたのだ。

 仲間扱いが始まってから、華は扉から入ってくるようになった。この部屋が俺のものであるかのように、律儀にノックをしてから入り、そして丁寧に閉めるようになった。

 そして華はさっき、扉からではなく瞬間移動でこの部屋から消えた。

 つまり扉には入室以降、触っていない。

 つまり俺は、ここから出られない。

『クソ! クソクソクソ‼』

 取っ手を掴み力いっぱい引く。

 まるで巨大な岩でも動かそうとしているみたいで、うんともすんともしない。

『開け! おい開けって! クソが‼』

 扉を蹴りつける。

 音もなく鈍い痛みだけが拡がった。

 なんとか和らげようと蹴った足を振りながら病室内を跳ねる。

『ヤベェ。マジでヤベェ。どうすんだよクソ!』

 やはりもっと強く反対するべきだった。

 よくよく考えると、あいつのジョウレイでリスクがあるのは俺だけじゃないか。

京本はバレても失敗で済み、諦めるか除霊に切り替えれば問題ない。

しかし俺はそうではない。

昼間の誰も気づかない間にあいつらからすれば敵をである霊能力者を招き入れ、あまつさえ消し去る準備をしていたとバレたら折檻どころではない。

窓の件も華はすぐつなげて考えるだろう。

俺が関係しているのは明白だ。

なぜなら俺に、物を動かす力などない。

『クソが。京本のクソ野郎、余計な事しやがって』

 白いカーテンがまるで煽っているかのように、穏やかに揺れた。


 死んでから最も時間がゆっくり流れた気がした。

 一秒一秒が無限のように感じ、足音が近づいてくるなと祈りに祈る。

 扉にぴったりと耳を付け、外の様子を懸命に伺う。言葉まではわからないが、女の奇声と男の笑い声がわずかに響いてくる。だがそれがどこの階の、どこで発しているのかまではわからない。楽しげなそれは本当に苛立たしかった。

『帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ』

 言霊でもスピリチャルでも神でも悪霊でもなんでもいい。とにかくこの言葉を聞き遂げてほしい。俺は散々働いた。十分苦しんだ。いい加減に少しは俺の願いを聞け。なぜこんな理不尽に見舞われ続ける必要がある。俺はなにもしていない。誰にも迷惑をかけていない。

『帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ』

 頼むから帰ってくれ。

 そう祈り続ける。

 しかしやはり、現実は無情だった。

「上の階はまだきれいなんだなー」

「でも逆にこっちの方が雰囲気あるくない? なんかこわーい」

「それさっきからずっと言ってんじゃん」

「だって怖いんだもーん」

 死んでくれ。

 馬鹿丸出しの会話に頭が痛くなる。

 怖いじゃねえよクソが。だったら来るんじゃねえよ。

 しかし待て、ここまでアホな会話をしているような奴らだ。もしかしたら塩の存在に気がつかないかもしれない。盛り塩は隅に置いてある。ライトで照らさなければこの夜の闇の中では発見できない。これがどこぞの心霊系の動画投稿者ならば、目を皿のようにしてネタ探しをするだろうがこいつらはただのクソカップルだ。適当に歩き回り喚き散らかすしか能のないクソったれ共の可能性は非常に高いのではないだろうか。

「なあ」

「なぁに?」

 なんだ。

「この階ってけっこう綺麗だよな」

「それがぁ?」

 それがなんだ!

「いや、だからさあ」

「えー、なにー?」

 足音が止まった。

 なにやらゴソゴソと蠢く音がする。

『やめてよこんなところでさー。幽霊に見られたらどうすんのー』

「いるわけねえじゃん幽霊なんて。いいだろ別に、雰囲気あんじゃん」

「やだぁ。ちゃんとしたところがいぃい」

 男の求めるような声。

 女のわかっていて試す声。

『……嘘だろ? マジで言ってんのか?』

 まさかとは思うが、まだ自分の勘違いである可能性に賭ける。

「な? たまにはこういうところもいいだろ?」

「えぇ、でもぉ」

 俺は思わず扉から耳を離した。

『ふざけんなクソ‼ 変態なんてお呼びじゃねえんだよ‼ 猿は猿山に帰れよ‼』

 衝動に身を任せて扉をまた蹴る。何度も何度も。音が鳴るはずもなく、叫びが奴らに届くわけもない。だが痛みも感じなかった。

いったいなにを食べていれば、あんな発想ができるというのか。

これだから下半身でモノを考えているような連中は嫌いなんだ。

「じゃあどっかに入ろうぜ。ベッドがあればいいんだろ?」

「そういう問題じゃなくてさぁ。お化け病院のベッドなんて絶対なんかついてるじゃん」

「幽霊とか?」

「ばぁか」

 足音が近づいてくる。

 窓越しに、スマホの拡散する光が上下に激しく揺れているのが見えた。

 受難は続く。

 あいつら、この部屋を目指している。

 まるでホテル感覚だ。

この病室までには三つも大部屋があるというのに、それらに手をかける様子もない。

 わざわざ廃病院の、最上階の一番端にまでやってきて、おっぱじめる?

 宇宙人どころじゃない。もはや外宇宙から来た怪物だろあいつら。どこまでふざけてやがんだ!

「んじゃ、あの部屋にすっか」

「えー、ほんとにするのぉ?」

 光は五〇一号室の扉に固定される。

 間違いなく、奴らはここにやってくる。

 俺の安息の地を冒しにやってくる。

 だが俺には何もできない。

 このままでは、為すすべなく心の平穏が蹂躙されてしまう。

『オガタぁ、ちゃんとやってるー?』

 気の抜けた声に振り返ると、床から華が顔を出していた。

 なかば飛び掛かるようにして華の目の前に跪いた。

『華‼』

『えっ? え? なに?』

 目を白黒させて戸惑う華。

 生前ならば唾が飛んでいただろう勢いで続ける。

『作戦変更だ。あいつらすぐに追っぱらうぞ!』

『なんで? まだタカコさんには声かけてないよ?』

『あいつら最悪だ! ここで――』

『ここで?』

 生首みたいになった顔をかしげる華。

 しかし俺の口は餌を求める鯉みたいになった。

 目の前にいるのは中学生にもなっていない少女。

 これから起こる尋常ではない事態を説明できるわけがなかった。

 死んでも俺は、そんなことはできない。

『どうしたの? ここでなんなの?』

 どうする? このままでは間違いなく良くない。何が良くないと問われれば答えに窮するが、それだけは間違いない。あとほんの数十秒で奴らは扉を開けてしまう。そして俺がうだうだやっているうちに美しき俺のベッドにもぐりこむだろう。その間、華が何もしなければ事が起こってしまう。

良くない。

極めて良くない。

情操教育的に良くない——というか気まずい。

 足音が近づく。

 華の視線が扉に向かい、俺は遮るように身体をずらした。

『——ここで一夜を共にするらしい』

『……どういうこと? もういっしょにいるよ?』

 なぜそんな表現にしたのか、俺にもわからなかった。

 口が立つ華もさすがに理解できなかったようだ。きょとんとして人形みたいなくりくりの目をぱちぱちさせる。むしろほっとした。これでもし伝わってしまえばその方が問題だった。

『あー、なんだ、その、あれだ、ここに泊まるってことだ』

『とまる? 寝るってこと? なんで?』

 なんでこんな時だけ察しは悪いんだ!

 いや、ある意味で間違いではないんだが。

「お、けっこう綺麗じゃん」

 いよいよクソカップルが扉を開けた。スマホのライトが俺達を照らす。華に気がつかないということはまだ姿を現していないのだろう。

恐ろしいほど馬鹿げたことをしそうな見た目だった。女は軽薄そうなダラダラとした衣服に身を包み、心霊スポットを探索するには不便でしかない歩きにくそうなヒールを履いている。男は男でパツパツの黒いズボンは脚の可動域を狭めているようにしか見えない。じゃらじゃらとした金のネックレスは、こんな真夜中ではくすんでいた。

「どれでする?」

「一番きれいなとこぉ」

 先程までの抵抗は何だったのか、女は四つあるベッドを物色する。

 もう手段は選んではいられなかった。

『ヴァァァァァアアアアアアアア‼』

『わッ⁉ びっくりしたぁ』

 俺は跪いた体勢のまま、クソカップルに向かって叫んだ。

「んじゃ一番奥のやつにするか」

「もー今回だけだからねえ?」

 当たり前だが奴らには聞こえない。

 ずんずんと進み、俺のベッドへと迫っていく。足取りは軽く、異常な空間での異常事態を楽しんでいる。俺の足を踏んだことにも気がつかない。ふざけるな。そこは俺の安息の地だ。

『な⁉ 俺じゃ無理なんだよ。頼む! あいつらを追っ払ってくれ‼』

『……そんなにいやなの?』

『吐きそうなほど嫌だ‼』

『そんなにあたしにやってほしいの?』

『華にしか頼めねぇ‼』

『……もーしかたないなー。約束は守ったし、オガタのたのみを聞いてあげる!』

 得意げに鼻を膨らませると、華はひょいと床から飛び出した。

『むんっ』

 そしていまいち気合の入らない掛け声とともに、華が指を振る。

 すると開けっ放しにした扉がひとりでに締り、窓ががしゃりと音をたてた。

「……え?」

「なに⁉」

 動揺するクソカップル。

 華の心霊現象は続く。

『はいっ』

 まず天井の蛍光灯が落ちた。砕けちる硝子が弾ける。続けざまにベッドを仕切っていたカーテンレールが外れてだらりとぶら下がり、重たいベッドがガタガタと揺れ出した。

クソカップルはそのどれもに反応して悲鳴をあげた。

 律儀に一つひとつにライトを向けていくのは滑稽だったが、恐怖に歪む表情は本物だ。俺には全てが見えているので馬鹿らしい悪戯にしか思えないが、彼らには常軌を逸した心霊体験だろう。散々怖い怖いと口にしていながら、存在は微塵も信じていなかったのだ。

正気を疑うぐらいにおののいていた。

『いいぞ華!』

『でしょお? オガタもこれぐらいできるようにならなきゃダメだよ』

 いつもであれば死んだからといって心霊現象を起こせるなど変態だと口にしていただろうが、今はただただありがたかった。

「ヤバいヤバいヤバい!」

「逃げよ‼」

 クソカップルが俺を通り抜けながら扉へと駆け出す。

 完璧だ。

 これで俺の平穏は保たれた。

「なにしてんの⁉ 早くしてよ‼」

「開かねえんだよ‼」

 女が怒鳴り、男が扉の取っ手を掴み暴れる。

 扉はガチャガチャと音を立てるが、しかし抑えつけられたように動かない。

『……華? 脅かせとは言ったけど閉じ込めろとは言ってねえぞ?』

『どうせなら念入りにしなくちゃ。せっかくオガタにたのまれたしねっ』

 ヤバい、完全に調子に乗っている。

『いや、俺は別に——』

『これでどうだ!』

 枕が宙を舞う。女の悲鳴はいよいよ絶叫となり、病院全体にまで響き渡るほどになっていた。男が黙れよと連呼しながらも取っ手を引っ張る。病室中のあらゆるものが物音をたて、二人の絶叫を相まって狂乱状態となっていた。耳を塞いでも音は聞こえ、あまりの五月蠅さに安寧などなくなっている。

『華っ! もういい!』

『えー、せっかくいいところなのにー』

『十分だって! いいからやめろ!』

『もー、しかたないなー。じゃあこれでおわりっ!』

 尋常ではない恐怖体験は終わらなかった。

 華がトドメと言わんばかりに何かを引く動作をすると、男のネックレスが勢いよく男の首を絞め、とても支え切れるとは思えないその身体を病室の奥まで飛ばしたのだ。

 女の絶叫。男はもう華が何もしていないのにジタバタと転がる。扉が壊れんばかりに開かれると、女は男を見捨てて逃げ去った。男ももつれる足で何とか立ち上がり、転がるようにして女の名前を叫びながら病室から出て行く。

他の幽霊と遭遇したのか悲鳴はまだ続き、やがて外から唸り声をあげてエンジンをふかす車がもうスピードで遠ざかっていった。

『あー面白かった!』

 まるで好きなテレビ番組を観終えたような気軽い感想だった。

 前に来た心霊系投稿者と同じ末路を辿ったクソカップル共だが、なぜか今回はざまあみろと思えなかった。

『どう? オガタ。すごいでしょ』

 振り返って胸を張る華。

『……ああ、さすがだな』

 もう五〇一号室は平穏な夜の静けさを取り戻している。

 だがまだ、耳の奥では彼らの悲鳴が残り続けていた。

『じゃ、いこっか』

『……どこにだよ?』

『どこって、四階。みんなももう集まってるだろうし』

『ああ、そうだったな……』

『あ、おかたづけはしてあげる。オガタもちらかった部屋にいるのはイヤでしょ?』

 手を振るだけで床に落ちていた枕がふわりと浮き上がり、元の場所へと戻っていく。散らばった蛍光灯の破片は窓から外へと捨てられ、折れたカーテンレースは繋がりはしないものの真っ直ぐになった。ベッドは几帳面に微調整され、引き摺られた埃の跡が床に残る。

 五〇一号室は心霊現象が起こった部屋とは思えないほど綺麗になった。

 誰もここで二人の人間が寿命を縮める思いをしたとはわからないだろう。

 まるで魔法だ。昔に観た映画で、こんなシーンがあった。違いは髭がたっぷり伸びた老人が杖を振るのではなく、幽霊の少女が現実に起こしているということ。

『よしっ。これでカンペキっ』

 パンパンと手を叩き病室から出て行く華。

 俺は黙ったまま、その後ろをついていく。

 上機嫌な華とは裏腹に、俺は改めて非情な現実に打ちのめされていた。

 こんな奴らを相手に、ジョウレイを行わなければならない。

 こんなイカれた連中の仲間になどなれるわけがない。それは対等だから成り立つのだ。絶対的な強者と弱者の間に繋がりなど生まれない。弱者はただ強者の顔色をうかがいながら、機嫌を損ねないように鼠のように這いまわらなければ生きてはいけない。

 それは死んでも変わらない。

 シャボン玉みたいにふわふわ歩く華に続きながら、決意を新たにする。

 俺も華もその後ろ、廊下の隅に座るユウトには気がつかなかった。

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