第一章
また夜がやってきて、人の気配がした。
起き上がるのが嫌で無駄に真っ白な病室のベッドの上で寝返りをうつ。
すると剥き出しの窓から月明かりが瞼を刺した。
眩しいので反対側にまた寝返りをうつ。
複数の喧しい足音が徐々に近づいてくるのがわかった。
生きていた頃に一度だけ入院したことがあるが、その時のベッドの肌触りは柔らかかった。清潔で手入れの行き届いたシーツやマットは、万年床となった自分の敷布団と違って人の臭いはしなかった。
だが今となっては、地面で寝っ転がった時の押し返されるような硬さもなければ、受け止めてくれる優しさもない。まるで宙に浮いているような、なのに落下する浮遊感もないかなり奇妙な感覚だ。
正直なところ床で横になっていてもなにも変わらないのだが、そうすれば人として大事なものをなくしてしまうような気がして、死んでも俺はベッドで眠るようにしていた。
「じゃあこっから撮影はじめっか」
「うぃー」
「ちょっと待って前髪確認したい。美也子ぉどうぅ?」
「大丈夫だよ香織。変なとこなんてないから」
月明かりは誤魔化せても耳障りな声までは防げない。
夜の病院は遠くの電車の音すら聞こえるほど空気が落ち着いている。馬鹿な若者達の興奮した声や足音は、静まり返ったこの病院によく響いた。
直視したくない現実から逃れたくて、強く瞼を閉じ反抗声明として腕を組んだ。
「今日は噂の心霊スポットとなっている廃病院にやってきましたあ。メンバーはいつものぉ」
「サトちんでえす」
「カオパオですっ」
「ミヤっちです」
「そしてたっつんの四人でお送りします! チャンネル登録よろしくお願いします!」
知るか、目を瞑ったままそう吐き捨てた。
ここに閉じ込められてからもう四度目だった。
頭が空っぽのクセに承認欲求だけは人一倍の馬鹿達が考えることはどれも同じだ。誰も彼も似たような名前と声、似たようなハイテンションで騒ぎ立てる。人がせっかく寝ているというのに、何度も何度も聞かされた台詞をまた叫ぶ馬鹿は死んでしまえと思う。
だいたい、どいつもこいつもなぜあだ名でしかも四文字なんだ。しかもたっつんはこれで二人目、そんなオリジナリティの欠片もないネーミングセンスで登録者数が増えるわけもない。確認しようもないが、どうせ大学生活の暇つぶしにやっている底辺連中だろう。ネタ被りも気にしないようでは視聴者を獲得できるはずもない。同じことを繰り返すしか能のない連中は機械か動物と同じだ。
絶対にここから動かない、そんな意志を込めてまた寝返りをうつ。
聞き飽きた病院の説明と、病室の引き戸を開け閉めする音が迫ってくる。
月か馬鹿か、それが問題だった。
『……』
渋々、といったていで薄目を開ける。
予想通り懐中電灯の揺れる光が、扉のガラス張りの向こうを横切っている。
どういうわけか連中はこぞって最上階の端から探索を始める。重箱の隅をつつくように病室を一つひとつ開け閉めしていき、その度にそれらしい声色で怖い怖いと連呼する。
本当は怖いなど微塵も思っておらず、ホラー映画でも撮っている気分でそれっぽいリアクションをしているだけなのだ。
『……クソが』
隣の五〇二号室が物色される音が壁越しに響く。
やむなくベッドから降りて扉の前に向かった。
どれだけ寝ていてもつかない寝癖を手癖で整え、鳴らなくなった首の関節を癖で鳴らそうとしてしまう。
この身体になって便利な部分でもあり、不便なところでもあった。
体調は常に一定。
可もなく不可もなく、なにも感じない。
「でもやっぱ雰囲気あるよな、廃病院って」
「一階の落書きがなかったらなあ。昔のヤンキーって考えること同じだよな」
「さっきのリアクションわざとらしくなかった?」
「そんなことなかったよ。すごいぽいって感じだった」
仁王立ちで待ち構える。
気が滅入って仕方がなかった。
無理やり負わされた役割でなければ、誰がこんな馬鹿共の相手をするというのだろうか。
「撮影再開すんぞお」
録画が開始される間抜けな機械音が鳴り、連中はいよいよこの病室の前にやってきた。
懐中電灯がけたたましく揺れ動き、放置された病室番号とネームプレートを照らしている。
連中が憎いと思った。
身勝手な快楽のために死者の眠りを妨げ、娯楽のために消費する。
誰かが痛い目にあわさなければならないのだ。
馬鹿は死んでも治らないというが、動物には調教が必要だ。
「では、最上階最後の五〇一号室を探索しまぁす」
誰に向けてかわからない説明と共に、扉がゆっくりと開かれる。
差し込んでくる光と足先。
渾身の憎悪で顔を歪めて、両手を突き出しながら連中を出迎えた。
『ヴァァァァァァァァァアァアアアアアアアアアアアアアアア‼』
「ここが五〇一号室です。他の病室と同じでベッドもそのままになってます」
馬鹿はそう言いながら俺の身体を通り抜けた。
他の馬鹿も同じように病室の中に入っていく。
振り返る気にはならなかった。
「ねぇ、いまなんか肌寒くなかった?」
最後の女が背後でそう言った。
「ちょっとやめてよミヤっちぃ」
「俺はなんも感じなかったけど?」
「ヤラセはやめろよお。うちのチャンネルは真実だけを流すんだから」
ゲラゲラ笑いながら連中はそのまま病室の中をライトで照らし、室内に目ぼしいものがないか物色し始める。
「やっぱなんもないな。当たり前だけど」
「でも映画だと最初はなんもないのがのパターンじゃん。ここで出ない方がアガルっしょ」
「でもミヤっちはなんか感じたんだろ?」
「気のせいだったのかなあ」
「それ、プラシーボってやつじゃん?」
「それだわわかるぅ」
「おいおいみんな緊張感持ってくれよお。編集で怖くできなくなるだろお?」
この病室はまるまるカットするつもりなのか、連中にその緊張感など微塵もない。
さっさと出て行ってくれればいいものを、まるで今から談笑でも始めるかのような弛緩した空気が漂い始めている。いつもこうだ。なぜか連中はいつも探索をこの階の反対側の部屋から始め、最後にこの病室にやってくる。そして一息入れようとしやがるのだ。
そしてこの後に起こる事も、いつものことだった。
「……ちょっと待って」
「どうしたんだよミヤっち。まだ肌寒いわけ?」
「そうじゃなくて、なにか聞こえない?」
「またまたぁ。好きなそういう——」
黙り込む連中だが病室自体が静まり返ることはなかった。
先程までのはしゃいだ笑い声とは別種の、明らかな嘲笑がかすかに響いている。
「……うそ」
「まじ?」
振り返らずとも連中がどこを照らし、そしてナニを見ているのかわかる。
そいつはまるで初めからいたかのように、そこに立っていたに違いない。
いるはずのないモノ、いてはならないモノ、存在を示す言葉がありながら、誰一人として存在が証明できないモノがそこにはいるのだ。
窓から差す月光の影、その暗がりにそいつは立っている。
そいつは明確な悪意を持って嘲笑している。
それは大学生達を恐怖のどん底に突き落とすには十分過ぎた。
「————————」
女の悲鳴を皮切りに、連中は言葉にならない声を叫びながら、また俺の身体を通過して病室から逃げ出していく。乱れた足音はどんどんと遠ざかり、定期的にどこぞから悲鳴が上がる。。
しかし連中が出て行ったというのに嘲笑は止まない。
なぜならそいつは、初めから連中を嗤っていたわけではなかったからだ。
わざとらしくひたひたと足音を立てて、傍に近寄ってくる。
俺は歯ぎしりを堪えながら、馬鹿みたいに突き出した両手を降ろした。
『肌寒かったんだってぇ』
そいつ——月森華と名乗ったクソガキは横から俺を見上げて言った。
『……また、役に立てなくて悪かった』
一周りも年下の子供に謝らなければならない屈辱に、俺が叫び声をあげたかった。
そんな心情を知っていて、ニヤニヤしたまま正面に回り込んでくる。
半透明の人形みたいなボブカットを揺らしながら、くすくす嗤うのを止めようとはしない。
『オガタってほんと役立たずだよねぇ』
上品に口元に手を当てているが、その忌々しい口から出てくるのは嘲りの言葉。
ゆとりのある患者衣を妙に着こなし、子供らしい丸みを帯びた体格で一見するとただの可哀想な入院患者にしか見えないのだが、しかしその実態はクソったれな悪霊である。
つまりこのクソガキは、俺と同じですでに死んでいる。
『……』
生きていた頃ならば一喝して泣かせてやるのも簡単だったが、しかし今では不可能だった。
ニヤケ顔を見るのがムカつくので顔をそむける。
『いいのぉそんな顔して。タカコさんに言いつけてやるから』
この後の事を想像してかまたくすくす笑うクソガキ。
その上機嫌さとは裏腹に、俺は腸が煮えくり返りそうだった。
今すぐにでもこのクソガキを突き飛ばし、あのクソったれな連中と同じようにこの最悪な病院から逃げ出したかった。好き勝手にここに出入りするあいつらが憎らしくて仕方がない。
外で騒ぎ声と、車が発進する不細工なエンジン音が響いた。
『じゃ、あいつらも出て行ったしいくよオガタ』
ひとしきり笑って満足した華は、幽霊らしく若者達がぶつかった拍子に閉じた扉を通り抜けていった。
しかし待てど暮らせど、いっこうに扉は開く気配がない。
『……華』
扉に向かって話しかける。
向こう側にいる華が白々しい声で答える。
『なぁにぃ?』
『開けてくれ』
『なんでぇ? オガタも通り抜けたらいいじゃん』
楽しくて仕方がないようだった。
この馬鹿げた役目を強要されてから、華は飽きもせずにこのやり取りを繰り返している。
馬鹿共がこの病院にやってくるたびに華が俺のところに来るのはこの為だった。
『……知ってるだろ』
『ええ? なにがぁ?』
返事をするのに一度息を止めなければならなかった。
死んでいるのにおかしな話だが、こうしなければとても堪えることはできなかった。
『俺は通り抜けることができない。華が開けてくれないと出られないんだ』
『じゃあなんて言うのぉ?』
『……開けてください、お願いします』
『もぉ、しかたないなぁ』
扉がひとりでに開く。
扉の前に立っていた華は、その取っ手に触れてすらいない。
『早くしてよねオガタ。タカコさん待たせたらダメなんだから』
『……ああ』
『それで?』
『……開けてくれてありがとうございます』
『わかればいいのっ。ほらいくよ』
怒りに頭がどうにかなりそうだった。生きていた頃ならば赤を通りこして顔は白くなっていただろう。今はもう鏡に映ることはなくなったので、自分がどんな顔をしているのか確認しようもないが間違いなく真っ白になっているに違いない。
しかしこのまま突っ立っているわけにもいかないのも事実だった。
クソガキの言う通り、あのクソババアの機嫌を損ねたら何をされるかわからない。
機嫌よくひょこひょこ歩く華の後ろを、音もたてずに俺はついていった。
死んでも俺は、こうして地獄をみていた。
馬鹿達を追い返すたびに連中が集まるのは、四階のナースステーション前の待合室だった。
ここには病院全体に散らばった幽霊が集まってくる。
壁に向かってぶつぶつ呟き続ける霊。
点滴スタンドを杖がわりに歩き続ける霊。
席に座って蹲り啜り泣きをしている霊。
受付では虚空を見つめたままどこかのコールに対応している霊。
彼らはこの廃病院に囚われたまま、正気を失い同じ言動を繰り返すしかできない幽霊共だ。
俺はこの集会が死ぬほど嫌いだった。
『ミタカさん、いい泣き声だったよ。あいつらすごく怖がってたもん』
『……もうやめて。……もうやめて。……もうやめて』
『サトウさん、そんな感じで次もがんばってね』
『……オムライス、オムライスを食べます。……食べます』
華は律儀に一人ひとりに声をかけて回る。
ろくに返事も出来ず、同じ戯言を繰り返すしか能がない連中相手には無意味でしかない。
この病院にいる幽霊の中で、まともに会話ができるのは俺と華だけだった。理由は知らないしどうでもよかった。俺はイカれた霊能力者でもなければ専門家でもない。理性を失えばそれはもう人間などとは呼べない。あいつらのことなど知りたくもなかった。
華の関心がよそへ移ったのを確認して、どの霊からも離れた位置の壁際に立つ。
連中は確かに正気を失っているが、そのぶん何をしでかすかわからない。
生きていた頃もそうだったが、ああいった手合いは少なからずいるものだ。
俺のようなまともな人間は距離を置くのがベストだった。
『——うおっ⁉ 脅かすんじゃねえよクソガキ‼』
突然足元に青白い顔をした子供が現れた。
華と同じ歳ぐらいの男の子で、膝を抱えるように座ったまま正面を見つめている。この子供の名前は知らない。いつもこうして集会では俺の傍にすり寄ってくる忌々しいガキだ。華と同じく入院患者だったのかコイツも患者衣を着ている。前触れもなく突然でてくるので心臓に悪く、華とクソババアの次にこいつのことは嫌いだった。ただ黙って座っているだけだが、可愛げの欠片もないクソガキ二号である。
『ったく、なにがしてぇんだよこのガキ』
触れるような近さで足元にいられるのは甚だ気持ち悪いので一歩離れる。
その途端だった。
『——あっ、タカコさん‼』
華の弾んだ声とともに、待合室の空気が激変した。
ブツブツ呟いていた霊達も一斉に鳴りを潜めた。
夜の闇の中で月と外の街灯だけが照らす視界がさらに暗く濁り、感じるはずのない生臭い血と腐敗した魚の臭いが立ち込め始めた。
夏の熱気すらも逃げ去り、全身に鳥肌がたったところでその女は現れた。
足元のガキと同じように、前触れもなく突然に、女はその場所にいた。
見た目は成人女性。両腕はだらりと力なく垂れ下がり、俯いて傷みきった髪が顔を覆い隠している。生気など微塵も感じないやせ細った身体はほとんど骨と皮しかない。生前着ていたらしい白のワンピースは、腹からの大量の血でどす黒く染まっていた。
そして身に纏う邪な気配は、他の霊とは一線を画していた。
女が現れた途端に耳の奥がキリキリと痛み出し、竦み上がった全身が震えだす。
足元のガキが俺のズボンを掴んだ。
しかし今度は身動き一つとれない。
もしなにかアレの気に障るようなことをすれば、おなじ幽霊であろうと関係ない。
ここに囚われてからというもの、俺はそれを身に沁みて知っている。
『タカコさん! あいつらちゃんとおい返したよ! すっごい怖がってた!』
俺を含むすべての霊がその存在に怯える中、華は物怖じせず奴に駆け寄っていった。
まるで近所に住む親しい姉にでも懐くように、その顔に恐怖も畏怖もない。
女もそんな華に敵意を示さない。周りをちょろちょろするのを好きにさせていた。
そしてひとしきりじゃれつくと、華は俺を見て企むようにニヤリと笑った。
最悪の事態だ。
『ねえねえタカコさん。オガタのやつまたなにもできなかったんだよ。さっきの四人にもぜんぜん気づかれなかったの。肌寒いって言われただけだったんだあ』
怒鳴りつけたかったが出来るはずもなかった。
女が折れた枝のように首を傾け、傷みきった髪の隙間から俺を見たからだ。
失った血が凍りつく気がした。
残像のように女がブレたかと思うと、一瞬で俺の目の前に現れる。背丈は俺の方があっても、ガリガリの身体は何倍にも膨らんで見えた。這い寄るように胸から首へと沿わせ、死んだ魚の腹のような顔が目前を覆いつくす。
ひび割れた唇が開き、呻くような吐息が漏れ出た。
魂にまで突き刺さるような死臭に思わず顔を背けようとすると、すべての爪が剥がれた両手で鷲掴みにされた。
『——ッ‼』
途端に触れられた箇所から根を下ろすような痛みがしみ込んでくる。まるで神経を直接嬲られているような、キリキリと引き裂かれそうな痛みに絶叫しそうだった。つんざくような甲高い耳鳴りが頭の奥に響き抗いようがない。
もう済んでいるというのに、身に迫る死の恐怖に犯されるしかない。
『……なにもできずに、すいませんでした』
痛みの中でなんとか謝罪しても、女はなにも答えない。
仄暗い水の底のような眼が無感情に向けられている。
『許してくださ——』
たまらず許しを乞おうとすると、その細腕からは想像できない力で棒切れのように投げ飛ばされた。ほとんど真横に飛び待合室を横断すると、待合室とナースステーションを区切る受付台に背中から落下した。衝撃に息がつまったが、打ちつけた背中よりも女に捕まれた顔の方が深刻だった。嬲られている感覚は消えていたが、痛みは呪いのように残り続けている。
次の折檻から身を守るように縮こまるが、女は満足したのかただの気紛れか、姿を消した。
途端に死臭が失せておだやかな夜に戻ると、集まっていた霊達も姿を消していく。
『カッコわるぅい』
華はそう言い捨てると、軽やかな足取りで廊下の奥へと立ち去っていった。
痛みを少しでも和らげようと身体を丸めていると、ふと視界に足元にいたガキが入った。
ガキは俺が立っていた場所とは真反対の壁際に、同じように膝を抱えて座っていた。
『……見てんじゃねえよ』
無視された。
いつまでも蹲っていられないので、身体を引き摺りながら俺はあてがわれた五〇一号室の下へ足を動かす。
実態もなく本当の神経や筋肉があるわけでもないのに、頭はじくじくと痛み泥につっ込んだように脚は重い。タカコとかいうクソババアに触れられると、しばらくの間は全力疾走をした後のような疲労感と嘔吐感が付きまとう。階段を一歩登るだけでも気力が必要で、いつ遭遇するかもわからない他のクソったれな幽霊共がいなければあのまま待合室で眠りたかった。
『……クソが。死ねよマジで』
どいつもこいつもクソばかりだ。
生きていた時もそうだが、死んでからも同じだった。
難癖をつけることが趣味だった元上司も、我が身可愛さに助けようともせず陰で俺を馬鹿にしていた元同僚も、ここの幽霊共と同じだ。
どいつもこいつも自分の事しか考えていない。自分さえよければ誰が苦しもうと関係ないのだ。
人間という生き物は死んでもくだらない動物だった。
『俺は違う。あんなクソ共とは違う』
理由もなく他人を攻撃しなければ、むやみやたらに暴力を振るわない。
死んだからといって、壁を通り抜けたり触らずに物を動かすことだってしない。消えたり現れたりもしないし生きてる連中に見られることも呪うことだってしない。
俺だけは違う。
死んでも俺は、あんな奴らと同じにはならない。
やっとの思いで階段を登り切るころには、月は天を越えて西の空に傾き始めていた。
生きていた頃を思い出して余計にムカムカしていると、破壊された窓が目に入った。
昔、ここは不良のたまり場だったらしい。下階や外の壁面は芸術性の欠片もない落書きで一杯だ。どうせそいつらの誰かがやったのだろう。窓ガラスは内側から破壊され廊下側にはさほど破片が落ちていない。愚か者がすることは生きていても死んでいても、どの時代でもさして変わらない。
そんな窓ガラスに光の尾が出来ていた。この時間になると月の光が病室側ではなく廊下側から差し込んでくる。無事な窓とは違って雑に割られたそれには、雲の切れ間から陽の光が道を作るように、その箇所だけ月光が形作られていた。
導かれているようだった。
ふいに重さを感じなくなった足が、ふらふらとその場所へ身体を運ぶ。
割れた窓の外には鬱葱とした雑木林と、頼りない街灯が立つ道路、そして役目を失って久しい駐車場しかない。雑木林はまるで病院を覆い隠す壁のように見える。
さらに身を乗り出して下をのぞき込むと、元中庭には出入りする者達を少しでも安らげようと用意された花壇が雑草に支配されていた。手入れされることがなくなった色とりどりの花は、種を残すことなく名の知らない植物に生存圏を奪われている。
ここから飛び降りたら助かるかもしれない、そんな希望が脳裏をよぎる。
一度だけ逃げ出そうと試みたことがある。囚われた初日の朝だった。散々タカコに痛めつけられ反抗する心をへし折られる前、一階フロントの玄関から脱出しようとした。
結果は悲惨だった。
物を動かせない俺はその扉を開けることが出来なかった。
前時代的な押して開くそれは、押しても引いても蹴ってもびくともしなかった。
残ったのは蹴りつけた足の鈍痛と、折檻による絶対的な恐怖だけ。
華には馬鹿にされ、タカコには嬲られ、誰にも気づいてもらえない。
そんな、生きている頃と変わらぬ日々。
『……うんざりだ』
窓の格子に片足をかける。
身を乗り出すと病室では眩しかった月光がやけに優しかった。
ここから飛び降りれば、少なくとも病院の外には出られる。
あいつらは頑なに外に出ようとしない。地縛霊とかいうやつならば、この病院そのものに囚われている可能性がある。成功すれば追いかけてこないかもしれない。
『……簡単な話じゃねえか』
いよいよ虚空へ身を投げ出そうとしたその時、夜の闇の奥から――瓢、という風が吹いた。
音が聞こえただけだ。肌が空気に触れることはなく、突風に身体が煽られることはない。
しかしその音が、生前の記憶と感覚を呼び起こした。腰回りから太ももにかけて、痺れるような緊張がわき上がる。失った体を再現するように、魂が恐怖を再現する。
思わず格子にかけた手に力が入り、落下しようとしていた身体を繋ぎ止めた。
その際に僅かに傾いた視界が、生々しく高さとその後を想像させた。
そんな、余計な思考が脳裏を駆けめぐり続けた。
『クソっ、いけ! いけって‼』
奮い立たせるようにそう叫んでも、一度竦んだ身体は言うことを聞いてくれない。
両手はがっちりと掴んだまま離さず、半分だけつっ込んだ片足も懸命に身体を支えようとしている。出なくなった生唾を飲み込もうと勝手に喉が嚥下した。
『……クソが』
情けなくて涙が出そうだった。
窓から床に足を降ろすだけでも、俺は跳ぶのではなくのそりと戻していた。
そのままするすると背中を壁に預け、その場に座り込む。
もう病室に戻る気力すらなかった。
死んでも俺は、勇気一つ振り絞れない人間だった。
『……クソが』
意識はそのままどん底へと沈んだ。
——それは小さな、名ばかりの葬式だった。
早くに亡くなった祖父母から受継いだ父は、年収に不釣り合いな家に俺達を住まわせていた。四人で住むにはやや広すぎる古い家で、母は掃除をするのが大変だとよく愚痴をこぼしていた。だが皮肉にも、そのおかげ斎場を手配する必要はなかった。
伝統的だった祖父は家の中に小さな仏間を作り、そこに仏壇を設けていたのだ。
幼い頃、俺はこの部屋が怖かった。
取り替えないままの畳は日に焼けて変色し、古い電灯は部屋を照らすには頼りない。祖母が後生大事にしていた着物がしまわれた箪笥は巨大で物々しく、鴨居に並んだ会ったことのない曾祖父やその家族の遺影は、まるで俺を睨みつけているようだった。
父や母が俺にキレた時、最後には必ずこの部屋に閉じ込めた。
電気をつける為の紐に手が届かなかった俺は、特に夕方であれば段々と闇に飲まれていく恐怖に怯えることしかできなかった。仏壇にある焼香台に残った灰の臭いと、亡くなっていることだけはわかる遺影に見下ろされて、濃密な死の気配のようなものを感じていたのだ。俺は隅に蹲り、親の機嫌が変わるのをただ待つことしかできなかった。
そんな仏間で行われた葬式には、念仏を唱える坊主と家族しかいない。
もともと呼ぶような知人もいなかったが、父は形式的にも誰かに報せることをしなかったらしい。俺に金を使うことを犯罪かのように思っていたから、本音では坊主も呼びたくなかっただろう。窮屈になった古い喪服を何度も引っ張りながら、胡坐をかいて何度もあくびをしていた。
母は俺を嫌悪していた。父との関係が悪くなっていくにつれて、顔だけはそっくりの俺にも敵意を向けるようになっていた。大事なものは俺や父と違って優秀な姉だけ。自分の人生に不満しかない母は、手に入れられなかった素晴らしい人生とやらを姉に達成させることだけに躍起になっていた。母にとって俺の葬式は父に食事を作るよりも面倒だったらしい。いちおう喪服は着ていたが、外出するときは必ず身に着ける真珠のネックレスもなく、髪も整えず化粧すらしていなかった。
姉はそんな母から遠ざかるように父を挟んで座っていた。母の望み通り一流の大学に入学した姉は、卒業後はいの一番に家を出た。母が簡単に訪ねてこないよう遠い都会に家を借り、誰でも名前を聞いたことのある大会社に就職した。姉は家族の何もかもを軽蔑していた。低収入で家では酒ばかりの父を、理想を押し付けてくる母を、なにかと泣きついてくる弟を、自分を閉じ込めるこの家を憎んでいた。母が会いたいばかりに会社に連絡を入れなければ、戻ってくることもしなかったはずだ。泊まるつもりもないらしくスーツを着たままの姉は、葬式など意に介さずスマホで仕事の連絡を取り合っていた。
これが俺の家族だ。
彼らを後ろから見下ろしながら、別に悲しいとも思わなかった。
どうせこんなことだろうとわかっていたし、俺の死を悲しむ家族など想像も出来ない。
仏壇には遺影すらなく、さっさと燃やされ骨なった俺が入った骨壺だけがある。
檀家とはいえ祖父の死後はろくに関係を持たなかった坊主は、なにを思って弔う念仏など唱えているのだろう。家族の有様は背中越しにもわかっているだろうに、通じるはずもない言葉をつぶやき続けるのは馬鹿らしく思わないのだろうか。そもそも輪廻だの魂だの善悪だの、もっともらしい説法するこの坊主だが、俺を目の前にしても気づく様子は微塵もなかった。
やがて葬式が終わると、坊主は逃げ出すようにそそくさと家を後にした。
印象的だったのは、見送りもしなかった家族に呆れるか怒るかすると思っていた坊主が一瞬だけ家を振り返ると、まるで汚れたかのように法衣を叩いてからバイクに跨ったことだった。
遠ざかる坊主を家族の代わりに見送っていると、家の中から姉の怒鳴り声がした。
また母が姉に干渉しているのだろう。耳をすませる気にもならない。望み通り一流大学をでて大企業に就職したというのに、母の願望は留まることを知らない。
父はそんな二人をほったらかし、喪服を放り出し酒を飲んでいるはずだ。それらしい母の叫び声も聞こえてきた。続けて酒瓶の割れる耳障りな音も。
こうして家の前でだらだらしていると、姉が飛び出してくるに違いない。そしてなんとかして引き留めようと母も追いかけてきて、つまみを用意しないかと父がキレだす。
姉がまだ家にいた頃はよく聞こえた騒音だった。
死んだこちらとしてはもうどうでもいいが、わざわざ醜いモノを見る必要はない。
生きていた時は自分の部屋に籠り、イヤホンを耳に差しスマホで動画を観て外界と自分とを切り離していた。父はスマホなんて高価なものを俺に持たせるのは反対だったが、外聞を気にした母が半狂乱で説得し格安スマホでしぶしぶ折れた。バイトで稼いだ金は半分以上を家賃として盗られていたから、就職してまとまった金で初めに買ったのは最新スマホだった。
いよいよ姉が出てきそうな気配がしたので、坊主の真似をしてから俺も家から立ち去った。
もうスマホはないが、その代わりに自由を得た。
真昼の空の下、叫び声を上げた。
誰も気にせず、叫び続けた。
これが幽霊となって残り続けた俺の、死後初日だった。
目を開けるとすでに日が高く昇っていた。
破壊された窓から遮られることのない蝉の大合唱が騒音のように聴こえる。
視界がかすみ、どうにも意識もはっきりしない。
無駄に白で統一された病院の廊下は、夜とは違いウザったいほど眩しい。
嫌な夢、いや記憶を見たせいで気分は最悪だった。身体はまだ重苦しく、ひどい二日酔いのようだった。じくじくと頭の隅から痛みが響き、しかし朦朧とする意識は霞がかってはっきりしない。もう何か月も食べ物を口にしていないのに吐き気までする始末。
それもこれも全部あのクソババアのせいだ。
『——タっ——ガタ!』
それにしてもさっきから甲高い声がキンキンと響いている。
いい加減我慢の限界だったので病室に戻ろうと顔をあげると、目の前で華が両手を腰に当てて俺を見下ろしていた。唇をぎゅっと結び、眉間に御大層な皺がこんもりとできている。
おかんむりらしい。
『オガタ! 無視するな‼』
『……ああ』
『ぜんぜん返事しなんだもん。オガタもほかの人と同じになったかと思ったじゃん』
『なるわけねえだろ。あんなクソに』
『……なんて?』
さっきから続く頭痛が鬱陶しい。
この痛みの中で甲高い声は余計に神経を逆なでする。
誰かの叫び声を聞く余裕はいまの俺にはない。
『ねえ、なんて? いまなんて言ったの⁉』
『うるせえな! いいからどっか行ってろ!』
怒鳴り返されると思わなかったのか華は怯えたように後ずさる。
『……タカコさん呼ぶから』
思わずせせら笑った。
『呼べよ。好きにしろ。好きにボコればいいだろ。ほら、呼べって』
ヤケクソだ。
もうどん底にいるのだから、これ以上悪くなることはなにもない。
『……どうしたの?オガタ、具合悪いの?』
反抗的な態度に恐れをなしたのか、不満そうに膨らませていた頬が萎む。
急にしおらしい反応を見せられて、相手が子供だと再認識した。辛うじて残っている理性を総動員して静かに答える。
『……なんでもない。用がないならどっか行け』
『昨日のこと怒ってるの? でもあんなのいつものことでしょ? わかった、具合が悪いならあたしが部屋に連れてってあげるから、ほらっ』
目の前が真っ赤になった。
差し出された小さな手を、俺は振り払った。
『誰のせいでこんなことになったと思ってんだ! いいからどっか行けって!』
明確な拒絶がショックだったのか、華は振り払われた自分の手を見つめ姿を消した。一瞬見えたくしゃくしゃな顔は、落ちようのない気分にさらに。
「……クソが」
病室に戻ろうとすると、視界の端でなにかが動いたのがわかった。
『なんだ、あいつ』
駐車場と雑木林の境界に男が立っているのが見えた。
この距離では顔まではハッキリわからないが、来ている服は男物の学生服の様だ。
どうせ肝試し前の偵察かなにかだろう。
異性を連れ込むのがどんな場所なのか確認しているに違いない。
げんにスマホを取り出しなにやら撮影をし始めた。
こんな朝っぱらから精力的なことである。とりあえず中指を立てておく。どうせ見えないのだし、写真などに俺が写るはずもない。あんなものは合成か編集に決まっている。
しかし撮影してすぐ立ち去るかと思いきや、高校生は何度もスマホと病院を見比べ始めた。
『熱心なことで』
さかりのついたガキにしては念入りのような気もしたが、どうでもいいことだ。そんなことより病室のベッドに戻って横になりたい。無理やりあてがわれた場所だったが、あそこなら俺は俺のままでいられるような気がする。
二度も外に目をやることはなく、住処となった五〇一号室に戻る。
扉が昨夜から開いたままであることにほっとした。もし何かのはずみか、華の嫌がらせで閉じられていたら廊下で横になるしかなかった。それは人間のすることではない。それにあんな大人げない反抗をした後で、開けてもらうよう頼むなどできない。
大部屋に四つ設置されたベッドの中で、お気に入りにしている窓際に寝転がる。
陽射しは身を焼き尽くさんばかりの眩しさだったが、それでもこのベッドがいい。他に誰かがいるわけではないが、部屋の隅は昔から落ち着く場所だった。
太陽へのせめてもの抵抗として背を向ける。
この身体になって眠りの安らぎや目覚めの快活さはなくなったが、それでも意識を手放すことはまだできた。また記憶を思い出す可能性はあったが、それでも起きたままこの痛みや吐き気に付き合わされるよりはマシである。
目を閉じてなにも考えないようにする。
嫌な事があったときは、こうするのが一番だった。
その時にはもう高校生のことなど覚えてすらいなかった。
『……あ?』
次に意識が浮上したのは昼下がりの頃だった。
幸いなことになにも見なかった眠りを妨げたのは、廃病院には似合わない革靴の床を叩く乾いた音。
まるで死んでから観た昔の医療映画で、偉そうな医者がふんぞり歩いているようなコツコツとした音だ。肝試しに来る若者は小賢しくも歩きやすいスニーカーばかりだったから、耳馴染みのないそれはとても違和感があった。
日中に誰かがこの廃病院を訪ねてくることは今までなかった。
外の連中がやってくると必ず華が教えに来る。俺がサボらないよう監視するためと、馬鹿にするためだ。しかし足音がここまで近くに迫っているというのにその気配はない。まだ気づいていないのか、わざと教えに来ないのか。
『ったく、どうすんだよオイ』
足音の正体がどこの誰だかもわからない。
耳を澄ませてもそいつが撮影だの探索などをしている感じもなかった。
ただまっすぐにこの病室へと近づいてきている。
サボっていいのか、それともいつも通りにしなければいいのかわからない。
気配はないというが、しかし幽霊共はどこからともなく突然現れる。いまも見えないだけでどこかから監視しているかもしれない。反抗的な態度を取った俺を試しているのかもしれなかった。
さっきは痛みと吐き気でヤケクソだったが、回復した今となっては早くも後悔していた。もし華がクソババアに本当に言いつけていたら、折檻は昨日の比では済まない。
しかもサボったのならなおさらだ。
『……クソが』
結局、俺はベッドから身を起こしていた。
これは敗北ではない。誰でもする当たり前のリスクヘッジだ。サボる快楽とバレる苦難、どちらかを天秤にかけて重い方を取ったに過ぎない。印象値を落としている現状では、その回復に努めるのは必要不可欠。一度膨らんだ悪印象は雪だるま式に大きくなってしまう。
あけっぱなしの扉の前に立ち、迫る足音に備える。
精一杯おどろおどろしい顔を作る。
そして侵入者が部屋の前に来た瞬間に、怒声をあげた。
『ヴァァァァァァァァァアァアアアアアアアアアアアアアアア‼』
「出たな悪霊‼」
『——え? ってイッテェェェェエエエエエエエエエエエエエ‼』
脅かすやいなや侵入者は砂のようなものを振りまき、それが身体を通り抜けた瞬間つき刺すような痛みに襲われた。あまりの痛みにのたうち回ると、散らばったそれに今度は背中をやられる。
すぐさまその場から飛び退りバタバタ身体を叩きながら侵入者を睨みつけた。
『なにすんだ‼』
何かをぶちまけた侵入者は、しかし扉の前で膨らんだ巾着を握りしめたまま、警戒するように俺を見下ろしていた。
「……あなた、話せるんですか?」
『いま話してんだろうがわかりきったこと聞くな! クソイッてぇ! なんなんだよクソ‼』
その痛みは今までに感じたことのないものだった。
まるで焼かれているような、溶かされているような、とにかく知らない痛みだ。
眠気も吐き気もすっかり吹き飛んでいた。
そのおかげか、死んでから初めての異常事態にも気がついた。
『お前、俺が見えてんのか⁉』
「見えてるから話せてますが」
『うっせえ。——てかお前、朝の奴だろ!』
よくよく見ると、この不届き者は服装も背格好も写真を撮っていた学生そのものだった。背丈は俺と同じぐらいか少し高く、陰気そうに伸びたボサボサの髪。神経質そうな眼鏡の奥から、気難しそうな切れ目が俺を真っ直ぐに捉えている。人気が出そうな整った顔立ちであるが、目つきの悪さと身に纏った陰気さのせいで、教室の隅で本でも読んでいそうなタイプに見えた。
「ということは、あれはあなただったんですね」
『あれってなんだよ』
「中指、立ててたでしょう?」
眼鏡をかけているくせにしっかり見られていたらしい。
『うるせえ。てかお前なんで見えてんだよ。てかお前誰だよ』
「……僕は京本秋幸と言います。あなたは?」
『俺? 俺は緒方だけど。てか質問に答えろよ。なんで俺が見えてんだ。幽霊だぞ』
「誰か聞いたのはあなたですけどね。あなたが幽霊なのは知っています。スマホに写りませんでしたし、いまも若干透けてますしね。見える理由はわかりません。先天的なものです」
どうやらこのガキは本当に俺が幽霊だとわかっているらしい。
スマホを何度も確認していたのは俺が本当に幽霊かどうかはっきりさせるためだったようだ。
しかしそれにしてはやけに不遜である。
普通はビビッて逃げ出すのに、見慣れているかのような自然体で話している。
明らかに俺の方が年上であるのに偉そうなのが鼻につくが。
『……マジで見えてんのかよ』
「さっきからそう言ってます。それよりもあなたは自分が幽霊だと自覚があるんですね」
『え? ああ、まあ、そうだけど』
「そうですか。では……」
そう言って京本は巾着から手を離し、俺に向かって合掌した。
『……なにしてんだ?』
「どうかご成仏を。この世に留まっても未練は解消されません。安らかに逝ってください」
しかも目を閉じて手をこすり始めた。
『やめろそれ! あとそんなんで消えるわけねえだろ、俺はまだ生きてたいんだよ!』
「もう死んでいますが?」
『うっせえ!』
一瞬で理解した。
このいけすかないガキと俺は相性がかなり悪い。
『普通、赤の他人にお前は死んでるとか言うか?』
「あなたは悪霊みたいですし、はっきり言った方が伝わるかと思いまして」
『俺は悪霊なんかじゃねえ! あいつらと一緒にすんな!』
「いちいち怒鳴らなくても聞こえてます」
『お前が怒らせてんだろうが!』
いちいち癇に障るヤツだ。京本はあからさまに俺を見下している。現に俺は尻もちをついた体勢で、京本は立っているわけだから言葉通りなわけだが、言葉遣いというか態度そのものが馬鹿にしている。年上に対する礼儀というものを持ち合わせていない。
こんな年下のガキに馬鹿にされるのは我慢ならない。
ここはガツンと年上であることをわからせる必要がある。
立ち上がり身だしなみを整え、咳ばらいをしてから冷静に尋ねた。
『あー京本だっけ? お前いくつ?』
「十七ですが?」
『俺二十二。意味わかる?』
「享年が?」
『実年齢に決まってんだろ! 幽霊相手に不謹慎だぞ‼』
幽霊相手にどんな神経してんだこいつ。
「緒方さんがいつお亡くなりになったのか僕は知りませんから」
『死んだ死んだうるせえな、失礼だろ』
「幽霊なのをいいことに中指立てたり脅かそうとしたあなたに言われても」
『やりたくてやってるけねえだろ! やらされてんだよ‼』
「やらされてる? そう言えばさっきもあいつらとか言ってましたね。他にも幽霊が?」
『そんなことも知らねえのかよ。ここがどこか知らねえのか?』
「有名な心霊スポットですよね。本物が出るっていう。だから来たんです」
『だったらさっさと消えろ。お前らみたいな馬鹿のせいでこっちは迷惑してんだよ』
「死んでも人を襲う方が迷惑では?」
『だからやりたくてやってるわけじゃねえって言ってんだろ!』
暖簾に腕押しとはこのことだった。この馬鹿は人の話をまるで聞かない。
これだから最近の若者はとか言われるのだ。
しかしこの京本とかいうガキは、俺の苛立ちを知ってか知らずかなにやら考えこみ始め、まるで俺の怒りを気にした様子もない。本当に高校生なのか疑う肝の座り方だ。
「緒方さんはここで亡くなった地縛霊ではないんですか?」
『んなわけねぇだろ。閉じ込められてんだよこっちは』
「それは他の霊が原因なんですか?」
『当たり前だろ。なんでそんなことも知らねえんだよ』
「そちらの事情なんて知ってるわけないでしょう」
『うるせえ知るか。いいからさっさと帰れ。肝試しでもなんでも他所でやれ』
「僕は肝試しに来たわけではありません」
『あ?』
そこまで話してようやく京本は部屋の中に入ってきた。
律儀に扉を閉め、興味深そうに病室内を見渡している。
確かに肝試しの下見にしては装いが奇妙だった。
高校生が身に着けるにはダサいサイドポーチには、さっきの巾着袋の他に妙ちくりんな紙幣ぐらいの大きさの紙が詰まっており、その用途がわからない。改めてまき散らされたものを見てみると、それは砂ではなく白い粒のようなものだった。塩のようである。撒きつけられた時の感覚を思い出すに、もしかすると清めの塩みたいな、そういうやつではないだろうか。
『……何者だよお前』
「御覧の通りの高校生ですが」
『ちげえよッ、お前わかってて言ってんだろ!』
「わかりました? すみません緒方さんが律儀にツッコんでくれるものですから」
『やっぱお前、俺が年上だって思ってないだろ』
陰気そうな見た目とは裏腹に、中身は随分とふざけた奴らしい。
完全に舐められているが、話が進まないのでひとまず堪える。
俺は年齢通り忍耐強い人間なのだ。
「ありていに言えば、神職の家系に生まれました」
『シンショクって、神社とかそういうやつ?』
「御存じなんですね。意外です」
わざとらしく目を瞬かせるクソガキ三号。
顔が引き攣りそうになるが、俺は年上俺は年上と頭の中で唱え続ける。
「その通りです。他はどうか知りませんが、ウチはその手の力がありまして、厄祓いや祈祷などが専門です。僕も一応は受け継いだので、こうして緒方さんも見えるわけです」
『そういうのって全部胡散臭い詐欺じゃねえのかよ』
「そういう人もいるでしょうね」
『この塩みてえなやつは?』
「お祓いに使う清めた塩です。あなたみたいな悪霊にはよく効きます」
『悪霊じゃねえって言っただろ。一緒にすんな』
しかし自分がこうして幽霊にならなければ、絶対に信じなかっただろう。祈祷だのお祓いだのは胡散臭い詐欺か漫画の世界だけだと思っていた。しかしこいつは確かに俺と話していて、清めの塩の効力も間違いなくある。
『……じゃあお前、もしかしてここの霊共を除霊しに来たってわけ?』
「あなたも含めてですよ?」
『いいんだよ俺は』
希望のようなものが胸の内に膨らむのがわかった。
存在しない心臓が大きく脈打ったような、そんな興奮である。
こいつは本物だ。
こいつの口ぶりではすでに除霊を何度も行っているような感じがする。力を受け継いだ、ということはこいつ以外にも力を持った人間は間違いなくいる。それでも一人でこうしてのこのことやってきたわけだから、こいつ自身がすでにその道の経験者でありプロであるはずだ。
もしかするとこいつならば、あのクソったれのクソババアを消滅させられるかもしれない。
つまりこいつをうまく利用すれば、俺はまた自由になれるということだ。
『あー、京本だっけ? つまりお前は霊能力者ってことでいいんだよな?』
「まあ、おおざっぱに言えばそうですね」
『家ではお祓いのようなことをやっていて』
「まあ」
『ここには除霊で来たと』
「それもおおざっぱに言えばですが」
叫び声をあげたくなる。
口角が緩みそうになるのを懸命に堪えた。
声は震えていたかもしれない。
やっとだ。
やっとこのクソみたいな場所から解放される時が来た。
きっとこれは、ろくでもない人生が死んでも続いている俺に神様がくれたチャンスなのだ。
あとは上手く言いくるめて、俺以外のクソ幽霊共を消滅させるだけである。
『なるほどな、よくわかった』
「それは良かったです」
『ああ』
「ええ」
うんうん頷く俺達。
「では、そろそろお時間ですよ」
『あ? なにが?』
意味がわからないと睨むと、怪訝そうな目つきで睨み返された。
「だから、早く成仏してください。緒方さんもその幽霊の一人じゃないですか」
『まあ待て。そんなに急ぐな』
「急がなければならないのは緒方さんですが?」
『俺は急いでねぇんだよ。俺なんかよりよっぽど除霊しねえといけねえクソがここにはうようよいんだ。まずはそいつらからにしろ。本物の悪霊だっていんだからよ』
「うようよ? ここにはそんな多くの幽霊が?」
『え? あ、ああ……』
俺としてはちょっと危機感を持ってもらうための言葉に過ぎなかったが、京本はかなり深刻に受け止めたようだった。目つきが変わり視線は剣呑さすら帯びている。あまりの様子の変化にほんの少しだけたじろいだのは、決してビビったわけではない。太陽が眩しかったからだ。
「他の幽霊も話せるんですか?」
『話せんのは俺ともう一人のガキだけだ。他はどいつもこいつも意味わかんねえことブツブツ言ってるか、黙ってウロウロしてるかだな』
「……他は普通の霊なのか。でも他の霊に自我を持たせたまま行動を強制できるなんて——」
なにやら自分の世界に籠り始めた。考える時の癖なのか掌で口元を手で覆うようにして視線を下げている。ブツブツとわけの分からないことを呟き続け、俺のことは眼中にない。
まだるっこしくて仕方がない。さっさと塩を病院中に振りまいてあいつらを消し去れば済む話だ。
塩を踏まないように気をつけながら、視界に入るため身体の位置を移動させる。
『おい』
「——この病院の霊全体に意志が宿っている? でも外から来た霊を同調させているわけではない。取り込むのではなく囚われる。話せる幽霊が二人もいる……」
『おい、無視すんな!』
「……はい? なんです緒方さん」
『なんですじゃねえよ。呼んだら返事しろ』
「ああ、すみません」
『ああじゃねえ!』
「それよりも緒方さん。ここには大元となるような霊に心当たりはありますか?」
『……大元? んだよそれ』
「呪いの元凶のような霊です。一番強い力を持った霊と考えてください」
散々無視しておいて自分勝手な質問をされたのには腹が立ったが、しかし俺は大人で、こいつはプロの霊能力者だ。あとで仕返ししてやると決めて、気前よく答えてやる。
『いるな。タカコとかいうクソババア。そいつが元凶で間違いねえ』
元凶というならあいつがぴったりだ。映画とかでもあんな女が人を殺す。長い黒髪で白い服を着たあのクソババアは、まさに映画に出てくる悪霊そのものである。
「その霊は話しができるわけではないんですよね? 緒方さん以外には子供が一人だけということでしたけど、その子は特別な力を持っていないんですか?」
『華はただのクソガキだって。あいつがチクりやがるからいつも俺が貧乏くじ引いてんだ。他の霊がビビってんのもあのクソババアだけだ。臭ぇし馬鹿力だし、絶対あいつが元凶だって』
「どんな臭いですか?」
『血とか腐った魚みてえな臭い』
「馬鹿力というのは?」
『片手で俺を持ち上げれんだよ』
「……特徴は一致している。でもこんなことありえるのか?」
聞くだけ聞いてまた自分の世界に引き籠ろうとする京本に、俺の長い堪忍袋の緒が切れた。
『いい加減にしろ。グダグダ考えてねえでさっさと塩撒いてこいよ。それで解決だろ。グダグダしてると他の奴らに気づかれるかもしれねぇだろうが。遅いことは誰にでも出来んだよ』
年上として含蓄ある言葉を言ってやった満足感。
これぞ後進を育てる金言である。
しかし京本は反省の顔色一つ見せず、片眉を上げるだけだった。
「そんな簡単な話ではありません。ここは僕が考えていたよりもはるかに事情が複雑なようです。いったん出直すことにします」
『は? 待てよ待て待て、なんでだよ。その塩と紙でなんとかできんじゃねえのかよ!』
「そんなに単純じゃないってことですよ。それに僕は除霊しに来たわけではありません。正確には浄霊をしに来ました。その為にはあまりにも情報が少なすぎるんです」
『ジョウレイ? んだよそれ。除霊と何が違うんだよ』
「除霊はただその場所や人から幽霊を取り除くことです。あくまで一時しのぎに過ぎません。緒方さんの話を聞く限り、ここの霊はかなり強大な力を持っています。除霊では根本的な解決にはならないんですよ」
『じゃあそのジョウレイってのをやりゃあいいだろ』
「浄霊は除霊とは違います。霊と対話し、言葉を交わして未練や苦しみから解き放つ。そうして亡くなった方の魂をあるべき所へ還っていただくんです。時間はかかりますし除霊よりも困難ですが、それで初めて解決と言えます。僕がしたいのは浄霊なんです」
『……相手が悪霊でもか?』
「もちろんです」
愕然とした。
こいつはプロでもなんでもない。
ただの甘ちゃんだ。
世間知らずで、世の中には会話も出来ないクソが溢れていることを知らないガキだ。
現に真っ直ぐ向けられた瞳には何の迷いもなく、自分の言葉を疑ってすらいない。
吐き気がするような、俺とは別世界の色だった。
『ふざけんな! いいから塩でもなんでも撒いてこい! んなもんできるわけねぇだろ‼』
怒りを発散させようにも、ベッドの足一本蹴り折ることもできなかった。膨れ上がるやり場のないそれに頭がどうにかなりそうだった。
やはりろくでもない人生は終わることがなかった。
我慢に我慢をして死んで、死んでからも我慢して、挙句の果てにはこんな甘ちゃんだ。
いったい何がどうなれば、死んでも俺はこんなクソな目に合わなければならないんだ。
「でも僕に協力した方があなたの為ですよ」
『……どういうことだよ』
もう何もかもどうでもよかったが一応聞き返してやる。
しかしクソガキが口にしたのは、さらに俺をどん底に落とす言葉だった。
「視たところ緒方さんの魂はだいぶ弱まっています。この場所が良くないのかもしれませんね。かなり邪気に当てられているようです。このままだとただ消えてなくなるでしょう」
『……は?』
意味がわからなかった。
このままだと消える?
そんなわけがない。
死んでも俺は死ななかった。
未練なら山ほどあるし、生き残りたい理由も腐るほどある。
なのにそれすら叶わずにただ消える?
『嘘だ。そんなわけねぇ。俺を騙そうとしてんだろ』
「それならそう思っていただいても構いません。心当たりがないなら信じられないでしょうから」
咄嗟に恐怖がよぎったのを、京本は見逃さなかったようだ。生意気な目つきはなんでもお見通しであると言わんばかりである。なんなら口の端が僅かに上がっていやがる。
だが心当たりは確かにあった。
外の連中が来るたびに、俺はタカコに痛めつけられている。あの痛みはもしかして魂とやらが傷つけられているからではないだろうか。そのあとは決まって意識は朦朧として、嫌な記憶ばかりを思い出す。もしかしてそれもクソババアの邪気とやらに当てられているからなのか?
それに俺が意識を手放せるようになったのはこの病院に囚われてからだった。ただ生きている時と同じように眠っているだけだと思い込んでいたが、まるで電池が切れかけているように、俺の生命も消えていているのだとしたら?
「どうします? 僕に協力しますか?」
どうせ断れないだろう、そんな心情があからさまに伝わってくる。
『……断ったら?』
「その時は仕方がありません。邪魔されるのも面倒ですし、望み通りあなたを除霊します」
ダサいサイドポーチをぽんぽんと叩く京本。
ここに閉じ込められた時と同じだった。
俺に拒否権はなかった。
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