33 帰還 - 植原尚寿

 いつの間にか昔、住んでいた家のダイニングキッチンにいた。

 椅子に座った状態で裸の腹を触る。穴は開いていなかったが、左胸に手を当てても鼓動を感じない。つまり、そういうこと。別れた妻と娘を呼び出してのニース暮らしも露と消えたわけだ。

 水が流れて、飛び散る音がした。

 テーブルを隔てた先の台所には、こちらに背を向けて洗い物をするまだ若い頃の母がいた。ブランドロゴが入った薄いピンクのトレーナーとデニムのパンツ。休みの日の服装だ。今日は土曜か日曜日か。

 包丁を片手にいきなり振り向いて、また「人でなし」と言われたらどうしよう。でも、それほど険悪な雰囲気でもなさそうだ。


 いつの間にかテーブルの向かいに小さな女の子が座っている。おかっぱ頭に白いブラウス姿。透き通った感じの愛らしい顔。

「あの、誰ですか? 」


 あめつちくくるみかほしの

   いつのみたまのとよたまよりてあまさかり

     あまちかるみずたぎりたぎつるいつくしまの 

           いわながにこのはなさかすははきひめ


 ながっ。しかもやけに仰々しいな。ホントにこの子の名? 漢字でどう書くんだろ。そもそも漢字に換えられるのか。

 でも、何となくこの不思議な子供がこの場を上手く取りなしてくれそうな気がする。


 しつるや


「えっ? 」


 あがめづるこや しつるや



【完結】

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贄街 黒沢淳介 @kurosawajunsuke

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