Ⅵ
歯を磨き、シャワーを浴びてから新しい修道服に着替えた。服装の指定はなかったけど、大掛かりな『何か』をやるからにはそれらしい格好の方が良いと判断してパジャマを選ばなかった。
常夜灯で視界を確保、ベッドに寝転ぶ。修道服に皺が付くのを気にしていられない。うっかり眠ってしまいそう……。
それなら……と、スマートフォンを起動するも気になる通知はなく、何も趣味を持たない自分自身がつまらなくて大きく欠伸をした。
貰った星の十字架を目に焼き付けて、それからゆっくりと目蓋を閉じた。
時刻は……最後に確認した時は日付が変わる二十分前だったはず。
やることがないと長く感じる。屋根を打つ雨音を聞いていると、当然のように睡魔は脅威を増してくる。必死で目を見開き抵抗するも、段々と「寝てしまっても誰かが起こしに来てくれるでしょ」と、家族しかいないこの場所ではシスターを演じる必要がなくて甘えた考えが芽生える。
コン。コン。コン。
その考えに見落としがあるのに気付く寸前で、扉ではなく窓が外側からノックされていることに気付いて飛び上がった。
「ちょっ……はい⁉」
窓ガラスの下部に誰かの指が引っ掛かっていた……!
絶叫しかけるも、それが誰のものか分かれば驚愕だけで耐えられた。心臓がドクドク鳴っているけど……。
彼を落とさないよう慎重に窓を開く。彼も上手く躱して顔を覗かせた。
「一華、約束の時間だ!」
キヅナさんは外からやってきた。あの、この人やっぱり不審者では……。
「なんでそっち⁉ 普通に内側から来てください!」
「文化の違いだねぇ。俺としては窓から現れた方がかっこいいと思ったんだけど、全然開かなくて参っていたよ。君が起きてくれなかったら無様に落下してご両親にも笑われていた。ほら、俺って天使の中ではフィジカル弱い方だからさ」
「知りません! もう、何でそんないい加減な……って、え?」
時計を見ると、日付が変わって五分の時が過ぎていた。キヅナさんのデタラメさに思うところがあるも、私にも落ち度があるため正当に怒ることができなくなってしまった……。
キヅナさんは聖堂に現れた時と同じく、嫉妬するほど綺麗な相貌を今も濡らしていない。
珍しい。それでもよく知っている衣を纏い、白い服装を覆っていた。
「それって……」
「うん。ご両親にお借りした。教会特注のレインコートだってね。着心地抜群! 君のも持ってきたよ。ちょっと細工をさせてもらったけどね」
キヅナさんは懐から私の分のレインコートを取り出した。片手で全身を支える状態になり、徐々に余裕を無くしていく様がこれまでと違い過ぎてつい苦笑してしまう。
「普通に行きますから、下で待っていてください」
「はーい」
修道服より少し明るい紺色の、全身を覆えるレインコート。それに身を包んで未知の世界へ飛び込むんだ。
私だけでなく両親も普段なら眠っている時間帯だから、待たせてしまったことへの罪悪感が余計に増す。
キヅナさんに手渡されたレインコートのおかげで私の両手は空いているけど、両親はビニール傘を差して私を待ち構えていた。
不意にネガティブが押し寄せる。きっと私は今に限らず、気付かないところで沢山の迷惑を掛けてきた。二人が私を叱ることはなかったけど、言葉にならない鬱憤か何かが溜まっているのは間違いない……はずだから。
そう思い込むと両親の視線が怖ろしくなって目を逸らした。空も地面も真っ暗で、八方塞がり……。
結局私は何をすればいいんだろう?
レインコートのフードを被って屋外に出たところで立ち止まると、キヅナさんが「こっち」と言って私の手を取り導いてくれた。
雨に濡れた彼の手は、失態を洗い流してくれるように温かかった。この胸の十字架と同じように。
連れられた地点は教会の頂点が見える敷地の中央。「あっ!」と声が漏れる。共通点を見つけた。
キヅナさんに貰った十字架のネックレスと『デネブ教会』の頂点にある十字架は同じ黄金色。気付いただけで理由までは分からず、キヅナさんの顔を窺うと、彼は何も言わずに不敵な笑みを浮かべた。
それから「一華、十字架を握って祈りを捧げて」と言った。
私はつい「はい?」と首を傾げてしまい、怖いと感じた両親の表情まで窺ってしまった。
お父さんは微笑み、ゆっくりと頷く。予想通り。
お母さんは心配そうに眉を困らせていた。……意外だった。
祈りを捧げて、雨が止んだとして……それで何が変わるの?
何も分からない。僅かな期待も曖昧なもので、具体的なことは考えられない。
それでも、一つだけ確かなことがある。
最初にキヅナさんを信じたのは私だということ。
その『責任』は、この私にある。
「一華、祈り、だよ」
彼の囁く声にハッとして、それから目を閉じて祈りを捧げた。
主への敬意、みんなの安寧、平和。もうこれ以上の惨劇に見舞われることがないように……。
そういった願いも確かにある。
でも、それよりも私は……。
元の『自由な世界』さえ知らない私は、この生活から抜け出すきっかけと『お母さん』という後ろめたさをどうにかしたくて……でもどうすることもできないから、祈りを捧げることにした。
すると、胸の十字架が再び夜空の星みたく瞬いた。
目蓋を閉じていても分かるけど、反射的に自分の目で確かめたくなった。
離れた両親は眩しくて目を庇っていたけど、私と傍のキヅナさんは間近でも直視できる。
キヅナさんと目が合うと、自然と彼のようにほころんでしまう。
教会の頂点にある十字架も私のと同じように輝きを放っていた。
しかし……。
ガアアアアアアアアアア!
「な……に、これ⁉」
不意に雨が嵐に変わり、強風に吹き飛ばされそうになった!
両親の姿が見えなくなるほどの雨量。まるで滝に打たれているような、竜巻の中にいるような……。
ジメジメしていても生活を送ることは可能だった私たちの世界が大惨事に……。
身の危険を肌で感じて、震える目蓋をどうにか閉じる。十字架を握る力は自然に強まり、つい折ってしまいそうなほど。
正しく祈りの姿勢だけど、神さまとか責任とか考えている余裕は流石にない。生きて悩むためには、まず……。
喉が痛むほど叫んでも嵐の轟音にかき消される。自分がちっぽけな存在だと思い知らされて怯える。……何故かレインコートのフードがめくれない上、寒気も感じないけど。
このまま流されて、終わってしまうのかと思った。
何も残せないまま。何も変えられないまま。
「そんなの……嫌だ……」
実体のない『理不尽』という敵に対して怒りが込み上げてくる。
このまま終わりたくない想いは、物心がついた時から抱え続けてきたものだから手放すわけにはいかなかった。
十字架が手の中にあるから丁度良い。たとえ神さまが憶病な泣き虫だとしても、私は諦めずに祈り続けてやるんだ!
私の未来にも光はあると……!
「なるほど、大体分かった。成功だ」
隣の彼も平等に嵐に見舞われているはずなのに、平然と謎の言葉を発していた。
「へ?」と情けない声を漏らすと、次の瞬間、目蓋を閉じても無駄なほどの輝きに呑み込まれ、それは教会どころか都市全体にまで広がっていったのを目視ではなく感覚で理解した。
彼のおかげで散々な目に遭ったけど、彼のおかげで私の生きる世界が変わってしまったのです。
十字架から輝きが消えた。胸元も教会の頂点も。
それでもまだ眩しいのはどうして?
「一華!」
お母さんが傘を放り捨てて駆け付けてきた。
それじゃあ風邪を引くよって、そう思った時……。
心配なんて無用で、夜が眩しいと感じる理由もまとめて明らかになった。
「お母さん……」
「一華、大丈夫なの⁉」
「お母さん、ごめん。私ずっと暗くて……でもこれからは――」
「何言ってるのよ。あなた、いつも人一倍頑張って――」
何かを言いかけたところでお母さんは糸が切れたように倒れた。
私は「お母さん!」と叫ぶことしかできず、早足で追ってきたお父さんがお母さんを受け止めた。
私とお父さんはパニックになりかけたけど、キヅナさんが「大丈夫。変化の反動が堪えただけだ。目を覚ました頃には元に戻っているよ」と言うから落ち着けた。
「どういうことですか? 元って……?」
「終わらない降雨が始まる前の、健康なお母さんに戻るということさ」
情報量にパンクして驚くこともできなかったけど、お母さんは私なんて初めて見るほど健やかな寝顔でいびきを立てていたから安心した。
お父さんは震える声で「ありがとうございます」と、深々と頭を下げた。キヅナさんはリビングの時と違って謙遜せず、救われた者を慈愛の眼差しで見下ろした。
「キヅナさん、これって……」
「ああ、一華はこういう景色を見るのが初めてなんだね。夜が眩しいなんて珍しい。それも君だけの体験だから大切にね」
「大切ですよ。鳥肌立ってるし、こんなに感動したのも初めてかも……」
細めた目をゆっくりと開いて空を見上げた。雨が止んだから躊躇うこともなかった。
すると、胸の十字架さえちっぽけになってしまうほどの星々が夜空を明るくしていた。どうやら世界が元に戻ったらしい。
十年前からずっとこの世界は雨に打たれ続けてきた。その前の時代を知らない私にはお母さんを抱えて見上げるお父さんほどの感慨はないかもしれないけど、それでも星空は率直に綺麗で、荘厳で、世界は私が思っていたよりずっと美しかったのだと、期待を蘇らせることが叶った。
「キヅナさん、本当にありがとうございました。あなたのおかげで私、少しだけ前向きになれそう」
「礼はいいよ。教会は他に四つあるんでしょ? これね、まだプロローグなんだ」
「あっ」
キヅナさんの指差す方を追うと、遠くの空にはまだ暗雲が広がっていた。
雨が止み、晴天を取り戻したのはこの都市だけ。世界を変えるなんて、まだまだ先の話みたい。
それは何て……冒険心をくすぐられる現実だろう。
「残り全ての教会でも同じように祈りを捧げてもらう。しかも、他の教会はより困難で複雑なものと予想できる。今回のように一筋縄ではいかないだろうね。しかし、君は絶対にそれをやらなければならない。そうでなくては君が救われないからね」
「そんな、私もう充実してますよ?」
「初めて自分が世界に影響を与えることができたからそう感じるだけで、全然まだまだだよ。事実として今回救われたのは君のお母さんや信徒になるしかなかった都市の人たちだ。この雨には呪いがあった。そのせいでお母さんは弱い体になり、皆の心もすり減っていったのだけど、これでもう大丈夫だね」
「呪いって……じゃあ、お母さんも雨も、私が原因じゃない?」
「勿論。君がそう思い込めば、そうなってしまうけどね」
キヅナさんはレインコートを脱いで私に渡した。「また明日! お疲れでーす!」と言ってどこかへ去ろうとするので、慌ててその手を引いた。
「あ、あの! どうして私を選んでくれたのですか⁉」
頭が爆発するような錯覚を覚えた。
真っ赤な私の顔を見つめる彼は、相変わらず不敵な笑みを浮かべていた。
「君が敬虔な聖職者で、健全な女の子だからだよ」
「聖職者や女の子なんて他に沢山いるもん……」
溶けてしまいそうなほど頭が熱いけど、そこを問い質さずにはいられなかった。
だって、私がこれだけ積極的になれたのだって、あなたが私の前に現れたおかげなのですから……その『責任』を取ってもらわないと!
「あなたは本当に天使で、神さまのような存在なのですか?」
「正体なんてどうでもいいことだよ。俺はただ、君の人生にも希望が沢山待っていることを証明するために来たのさ」
黄金の瞳は星々を凌ぐほどキラキラで、それを独占し続けることが忍びなくて手を離した。
彼は最後に、一つだけ、ウヤムヤながらもそれだけは本質に違いないと思える言葉を残した。
「世界とは、自分の心を映す鏡なんだよ。君の世界は少しだけ陽射しを取り戻したけど、夜明けはまだ遠く、未だ暗雲が立ち込めている。だから、俺が青空を見せてあげる。ずっと悩んできた一華には悪いけど、俺としてはチャンスだった。他の男子が君の魅力に気付く前に立候補しなくちゃいけなかったからね」
「そ、それこそ、私は聖職者ですから……」
「景色なんて今までと違う方向へ一歩進んだだけで変わっていくものなのさ。要は勇気だよ。頑張れ一華!」
彼は私の『変化』が面白かったようで、フフッと鼻で笑い、ポケットに手を入れて立ち去った。
白い姿は夜間でも浮き彫りになっていた。初めて見る星空よりも大切に思えて、見えなくなるまでその背中を追った。
いつから、どうしてそこにいたのかなんて私には分からない。教会の屋根より、白い鳥の群れが眩しさを取り戻した空へ羽ばたいていった。
シスター・レインコート 壬生諦 @mibu_akira
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